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「財閥」の形成というのは、国がこのように国内で積極的に産業に介入し「自由競争排除」の手助けをしていた為、生まれたのですか?
財閥解体というと、いかにも財閥一族が富(資本)や力を掌握していたかのように言われますが、資本や力の集中を望んでいたのは財閥系一族ではなく、その名前や箱を利用して資本力を掌握したかった、雇われていた社長だったのですか?

もともと大阪麦酒、日本麦酒、札幌麦酒は、別々のビール会社だったのに、三井財閥系の日本麦酒が市場競争で危機に陥りかけたため、三井系の雇われ社長が内閣に働きかけ「国内の競争排除と輸出の促進、 資本の集中化」合併勧告を引き出した。大阪麦酒、札幌麦酒を吸収していったようです。

戦後、GHQが指示した「過度経済力集中排除法(財閥解体)」により、大阪麦酒(朝日)と札幌麦酒会社(サッポロ)に分割。

質問者からの補足コメント

  • 昔の政府は自由放任主義だったので、色々な産業が生まれ活気付いていたんですけどね。

      補足日時:2023/03/30 08:53

A 回答 (4件)

>名前はね。


名前だけではないですよ、系列として企業間で助け合っています。
東芝が死体状態なのに倒産しないのは、三井系列だからなのです。
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{「財閥」の形成というのは、国がこのように国内で積極的に産業に介入し「自由競争排除」の手助けをしていた為、生まれたのですか?}



NOでしょう。 国力増強、富国強兵、殖産興業、輸出事業育成などのために、経済競争力のある事業者の育成に肩入れしたのでしょう。
https://www5.cao.go.jp/j-j/wp/wp-je00/wp-je00-00 …
(明治政府の殖産興業政策)
欧米諸国へのキャッチアップ過程は政府主導で行われた。
いわゆる殖産興業政策は、工部省(1870年設置)及び内務省を中心に進められた。富国強兵をキャッチフレーズとして、特に軍事工業に重点が置かれ、旧幕府直営鉱山であった佐渡や生野鉱山の官営化や横須賀などで官営の軍事工場の経営が進められた。また、官営の模範工場が設立されたが、そのうち富岡製糸場(1872年設立)や新町紡績所(1877年設立)などが名高い。これは、当時生糸が輸出の中心的存在だったため、生糸の生産に力を入れていたことによるものである。1890年代に、繊維産業の輸出に占める割合は50%強、製造工業生産額に占める割合は40%強となっており、産業の担い手の役割を務めていた。
殖産興業政策の進展する中、特定の民間事業家が特権的地位を与えられ、政商と呼ばれた。これらは後の財閥の芽生えとなった。
   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
http://mahoroba.t11.jp/detail_j.php?offset=46&ro …
https://www.archives.go.jp/exhibition/digital/mo …
https://www.sapporobeer.jp/company/history/1906. …
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>内閣に働きかけ「国内の競争排除と輸出の促進、 資本の集中化」合併勧告を引き出した。


このようなことは日本では「自由放任主義」とは言いませんね。

日本語に御不自由な方ですか?それともア○マがご不自由なのですか?
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財閥がのさばってると庶民は貧しい。

財閥が復活してきてるから庶民は苦しいんです。
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この回答へのお礼

そう感じますか?何が起きているのですか?外国勢力(財閥)との市場戦争が始まってるのでしょうかね?

お礼日時:2023/03/30 08:41

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