プロが教える店舗&オフィスのセキュリティ対策術

1. 《空(シューニャター)》を 神と見立てればよいものを あくまで人間の境地だと言い張った。

2. 《目覚めた(ブッダ)》状態としてであり 《神として》ではなく 《神の場に行き来できるような存在》として にんげんなる《われ》にその境地があるのだと言い張った。

3. ブッダ状態としての《さとり》とは ここで あくまで《確率》として存在するというものである。その存在についても状態についても ついぞ人が確定して認識しえず言葉によって表現することすら成しえない場なのだと。

4. ブッダよ あんたのさとりを示せという疑いや要求に対しては あくまでシラを切る。《表現しえず》と。
 
5. さとったのなら 人びとに分かるように説明せよと言われても 沈黙をまもる。
 
6. 人びとが それはこれこれの状態を言うのではないか? と尋ねた場合には いやいや さとりとは そんな生ぬるい境地などではないと答える。
 
7. では どうなのか? という問い返しには だんまりを決め込む。



8. ゴータマ・ブッダのさとりは 表現の問題におさまるかと考えられる。
 
9. 人びとに分かるように説明しえないならば そのさとりは インチキではないか? という問いに対しては いやいや われははるか昔からはるかこの先までブッダである。と言って聞かない。
 
10. 説明が出来ていないではないか? という問いに対して いやいや われは その現場を取り押さえられても姦淫はしていないとどこまでも言い張るごとく ブッダなりと答える。ブッダはブッダなんだよおーんと。

11. 《表現およびやり取りの問題》にすべてをおさめようというおそろしく決意の固い宗教家なのではないか?

12. 一方で 人びとの求道の心を引き出し ただし他方では そのさとりの過程にあることでいいんだと――あたかも おれはさとりを得たと言ったもん勝ちだと言わんばかりに あるいは証明にかんしては ブッダになってみなければ・ブッダどうしでなければ分からんのぢゃわいとどこまでも逃げ しかも――ブッダ論をぶちつづける。

13. 元祖カルト教祖。


☆ まちがいを正してください。

質問者からの補足コメント

  • №4

    《慈悲》の問題とも言えますね。


    ◆ (BA bonbonnier さん) ~~~
    「比丘たちよ、遍歴せよ。多くの人々の利益のため、多くの人々の安楽のため、世間に対する哀れみのために、神々と人間の福祉、利益、安楽のために。・・・」

    釈尊の開経宣言ですが、釈尊の慈悲も「清浄であって最高にして無上な空性」の境地から生まれたものです。
    ~~~
    ☆ この種の話を聞いて 求道心を起こしたものです。・・・と懐古の情をしたためまして 明日に延ばさせてもらえればと思います。

    眠いのか疲れているのか 考えがめぐりません。明日をたのしみにします。おゆるしあれ。

    No.4の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2023/04/21 00:33
  • №4 お礼欄つづき

    ただし わたしは この時点で《信仰》に逃れます。ざんねんながら または 正当にも(?)。

    例の《自灯明・法灯明》説に触れてです。《ひかり または 水》のタトヘです。

    【Q:やっぱしゴータマ・ブッダは 阿呆である。】 ~~~
    https://oshiete.goo.ne.jp/qa/13429095.html

    12. 問題は――信仰の問題になるが―― 《みづからの心の燈心を灯す》ことなのではないか? 

    13. みづからが 泉のごとく水の湧き出るチカラとなるのが ブッダなのではないか? 

    14. 《わが心の燈心をともす――あるいはむしろ 灯されることを得る――》ことと《人間の能力や愛情によって一隅を照らす》こととは 微妙に違うのではないか? 後者は 一時的・暫定的であり無常にしたがう。前者は あたかもこの無常から自由である夢(まぼろし)に臨んでいる。
    ~~~

      補足日時:2023/04/21 05:22

A 回答 (10件)

代行者は必要ではなくて、空として遍く人々に宿っているその無縁慈悲に気がつくかどうか、と言うことのように思います。


つまり、火は既に灯っている。
風はすでに吹いている。
と言うのが本当なのではないでしょうか。

無明はすでに明けていて、別に暗闇など存在しないと言うことに気がつくか気が付かないかではないのか?
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この回答へのお礼

★ 代行者は必要ではなくて、空として遍く人々に宿っているその無縁慈悲に気がつくかどうか、と言うことのように思います。
つまり、火は既に灯っている。
風はすでに吹いている。
と言うのが本当なのではないでしょうか。
☆ むつかしい。

というのは おそらく《空》の視点から見れば そういった図柄が描かれ得るのではないかと。

けれども そういったことを思ったりまして意図したりすることは あまり建設的ではなくまた不可能のように思われます。

じっさいの振る舞いとして出来るものではないと思えます。

ハカラヒが入るかも知れない。



★ 無明はすでに明けていて、別に暗闇など存在しないと言うことに気がつくか気が付かないかではないのか?
☆ この場合は おそらく重要な点でしょうね。

すなわち もしたとえ暗闇の中にあるのだとしても 心は 《心の明け》を持つということを知ってよいのだと思います。

窓はひらいている。心が閉じられていないということ。

このことは おのづと現われてくると言ってよいかと。仏性をやどすゆえに。

お礼日時:2023/04/23 17:02

無縁の慈悲が、あまねく人々に注がれているならば、中継地点としての我は存在する必要もなくなると思うのですが、その点はどうでしょう?

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この回答へのお礼

★ 中継地点としての我
☆ むつかしいですね。

個人にとって 自由意志による主体的な思考と行動。これは なくならないはずです。

ただ 無縁慈悲のチカラのもとに そのハタラキを表現するかたちになるといった場合には  個人の自己表現が社会共同性や公共性を帯びた行為になるかと思われます。

あたかも何ものかの声や意志を代理しているかのようになるかも知れない。

・・・といったところまで 考え得るかも知れません。



ただ それでも・そしていつの場合でも 個人たるわれといった存在は 存続しつづけるというように わたしには思われています。直観的な見通しですが。

お礼日時:2023/04/22 16:46

そうですね。


言ってしまえば菩薩だと言う事です。bragelloneさんは、みんなブッダだというご主張を今は置いておくとするなら、菩薩の立場に立つこと、あるいはそれを望む事は別に問題ないのですか?
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この回答へのお礼

基本命題:わたしたちは 一人ひとりそれぞれが ブッダである。

その実践:例の十界説を借りるなら ブッダであることと 六道輪廻する状態であったり声聞・縁覚・菩薩であったりすることとは 広い視野にて両立するはずです。


それは 言いかえると 《無住処涅槃》の実践だと見るのが よいのでは?

言いかえると すでに還相の段階を一般的に扱っていてもよいのでは?

そうすると 個人個人の業を 共業として捉える視点がおのおの個人の中に成り立つかも。

ならば 他己実現といった主題が出てくる。

アース役なる主題もです。




しかも 普遍神なる命題をもってすれば 宗教・宗派の別がむなしいとなるのはおろか いかなる個人の信仰にしてもみな 同じ梵我一如=仏仏一如=霊霊一如といった同じひとつの類型において把握することが出来てくる。

おそらく その上で 活発な多様性が世界にはあふれ出してくるのではないかと。

お礼日時:2023/04/22 15:31

そうですね、もし私の気が早っていたり、bragelloneさんの問い求めの主題と異なった方向に行った場合は仰ってください。



覚ろうとするときには、常に衆生を観じる立場、つまり仏の立場を仮にでも取らなければならないと思います。現実では自らも苦を免れ切らない衆生であるのですが、困窮する衆生を見る立場に立って、如何にすれば苦しみを取り除けるのかを考えないとダメな理由は、もし衆生の立場に立ってしまえば、無力感に陥って何もできないからでしょう。

引用:見捨てられたことで 見捨てられていなかった。

おそらくbragelloneさんが横超や絶対他力の方に赴くのは、衆生の立場に立たれていて、仏の立場に立たれていないからだと思われます。
方向性としては、浄土門的に言う「還相」であることが覚りの主題だと思われます。未完成でも良いので、先ずは仏の立場に立つと言う事がポイントなのだと私は思います。

引用:無縁慈悲をめぐっては 人間の能動・受動を超えたところの場でありチカラのことだと思っています。

ここは重要な点だと思いますが、一挙に語ってしまうと重量オーバーになりそうなので、要点であると言うにとどめて後に送りたいと思います。話がちゃんと進めば、必ず話すタイミングがあると思います。それとも、ここの点、つまり覚りの瞬間のポイントにフォーカスしてお話をする方がよろしいでしょうか?

追伸:
ここら辺の会話を、なんとか仏語を使わずに、自然な母語でお話しできると一番良いのですが。。
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この回答へのお礼

★ そうですね、もし私の気が早っていたり、bragelloneさんの問い求めの主題と異なった方向に行った場合は仰ってください。
☆ だいじょうぶです。そして わたしにかんしては 図々しくできていますので 何でも言ってしまうほうを心配すべき状態ではあります。

★ 覚ろうとするときには、常に衆生を観じる立場、つまり仏の立場を仮にでも取らなければならないと思います。現実では自らも苦を免れ切らない衆生であるのですが、困窮する衆生を見る立場に立って、如何にすれば苦しみを取り除けるのかを考えないとダメな理由は、もし衆生の立場に立ってしまえば、無力感に陥って何もできないからでしょう。
☆ たとえば こうでしょうか:
・自未得度 先度他 
・大道は無門なり
・無住処涅槃
 

☆☆ 引用:見捨てられたことで 見捨てられていなかった。

★ おそらくbragelloneさんが横超や絶対他力の方に赴くのは、衆生の立場に立たれていて、仏の立場に立たれていないからだと思われます。方向性としては、浄土門的に言う「還相」・・・
△ (『岩波 仏教辞典』1989年版:無住処涅槃) ~~~
・・・生死の世界にとどまることなく かといって涅槃の世界にも入らない状態 すなわち生死煩悩の迷いの世界にもさとりの世界にもとどまらない涅槃のことをいう。
  
〔・・・この〕思想の背景には あらゆる人びとを救うためには 自らがさとりの境地に入っていては救うことができない といって煩悩に捉われていても救うことができない 自らはさとりの境地を体験しつつもその世界にとどまらず 悩み多い人びとの住む生死界にあって活動することこそ菩薩の行である という大乗仏教思想の展開が見られる。
~~~


☆☆ 引用:無縁慈悲をめぐっては 人間の能動・受動を超えたところの場でありチカラのことだと思っています。

★ ここは重要な点だと思いますが、一挙に語ってしまうと重量オーバーになりそうなので、要点であると言うにとどめて後に送りたいと思います。・・・
★ 追伸:
ここら辺の会話を、なんとか仏語を使わずに、自然な母語でお話しできると一番良いのですが。
☆ だいじょうぶだと思います。けっきょく他の主題をあつかっても 無縁慈悲の問題に直接間接にかかわっているかと。追い追いすすめて行きましょう。

お礼日時:2023/04/22 03:58

外出するのでまた夜に来ますね。


私も本質を見失わないように注意して話したいと思います。
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この回答へのお礼

ゆっくり・じっくり また ぼちぼち まいりましょう。

お礼日時:2023/04/21 14:44

本質論とはこの場合、この無縁慈悲が、能動性によらなければ発動し得ず、かと言って人智の境地では成らない。

そこで仏智が想定され、それは不生不滅や無生、空性なるところからの働きかけであると分かっている。それをいかに実現するか?と言うことだと思います。
絶対他力では、この慈悲を起こす能動性が存在しない。自ら為そうという決心の無いところに、覚りは無いと考えています。

この能動性を実現するのが難しいのは、無縁慈悲の対象が、普遍の衆生だと言う点だと思います。
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この回答へのお礼

★ 本質論とはこの場合、この無縁慈悲が、能動性によらなければ発動し得ず、
☆ 《無縁》ですよ。つまり 縁の有る無しを超えた絶対性としての《無縁》です。そのつてでは 《有縁》と言っても同じこと。

つまり 極論で言えば 《わが神 わが神 なにゆえわれを見捨てたのか》というところまで行って 人間の目には無縁の関係にまでなってしまった。そのとき ハタラキカケが来る。

見捨てられたことで 見捨てられていなかった。

――信仰の立ち場からは そう捉えられます。能動・受動を超えていますが 現象として起きることは 受動です。また それゆえ 人間としての――へんな言い方をすれば このときやっとハカラヒのない――主体的な自由な能動が 可能になる。


★ かと言って人智の境地では成らない。そこで仏智が想定され、それは不生不滅や無生、空性なるところからの働きかけであると分かっている。それをいかに実現するか?と言うことだと思います。
☆ 《横超》から行けば 仏智なる無縁慈悲のチカラを人知・人力が手にするのは 無理だとなっています。

★ 絶対他力では、この慈悲を起こす能動性が存在しない。自ら為そうという決心の無いところに、覚りは無いと考えています。
☆ そういった竪超ないし聖道門の立ち場についてなお煮詰めていかねばなりませんが 問題は無縁慈悲をめぐっては 人間の能動・受動を超えたところの場でありチカラのことだと思っています。


★ この能動性を実現するのが難しいのは、無縁慈悲の対象が、普遍の衆生だと言う点だと思います。
☆ 能動性は 還相にあるなら 相対的な有限の無常をまぬかれない人間の能動的な意思行為をおこなうことが出来るとは見ています。相手をえらびません。

横超・竪超 浄土門・聖道門 他力と自力の問題が でーんと横たわっているようです。


げんみつに言うと 《絶対他力およびそのチカラによる人間の相対的・有限の自力》と《絶対他力=無い神として普遍神を信じる場合の 人間の経験的な自力のみ》との対比ではないかと思います。

お礼日時:2023/04/21 14:43

引用:眠いのか疲れているのか 考えがめぐりません。

明日をたのしみにします。おゆるしあれ。

はい、ゆっくり行きましょう。

この教えが池に見えて落ちそうであったと言うのはどういう事でしょう。飲まれそうになったという事でしょうか?確かにそれは気をつけなければならないですね。平静を保って、教えと向き合うべきかと思います。

引用:☆ この種の話を聞いて 求道心を起こしたものです

私もその類かもしれません。何で求道心を起したのか、思い起こせば機会は度々ありましたが、その一つはこの種の話を聴いて、と言うのもあるでしょう。

引用:12. 問題は――信仰の問題になるが―― 《みづからの心の燈心を灯す》ことなのではないか? 

13. みづからが 泉のごとく水の湧き出るチカラとなるのが ブッダなのではないか? 

ブッダの境地とは、人々あってのブッダの境地なのだと思います。人々が居なければ、慈悲心は宙に浮いて意味を為さないし、慈悲心が起こる動機もありません。つまりブッダは、自らの苦を滅したけれど、その仕組みは、衆生たる自身の苦を滅したのだと思います。それでブッダになったと言う事ではないでしょうか。なので、泉の如く水の湧き出る力となるのがブッダと言うのは、人々の世にある限り、無縁の衆生を観じる限り、そのように無尽蔵の慈悲を行っている存在、思念している存在と言う事になると思います。しかもそれが、当たり前の状態で、何の力みもないのでしょうね。

この無縁の衆生を観じるというところが、難しく、またポイントになるのかと思います。

引用:問題は あちらでアガペーを持ち出すのと同じように(あるいは よきサマリア人のタトヘのごとき愛のように) 無縁慈悲が ひとに実践可能か? だと思います。

おそらく無縁慈悲とは、無縁の衆生、即ち「衆生のイデア」というものを想起できなければ発動しないのではないかと思います。
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この回答へのお礼

★ この教えが池に見えて落ちそうであったと言うのはどういう事でしょう。
☆ 精確には 《このオシへに――かなり理知的に――したがうならば あたかも池に落ちてしまうかのような感覚を持った》です。

自分の知性と努力とでは オシへを扱い切れないと思えたわけです。聖道門では 無理だと。


☆☆ 引用: この種の話を聞いて 求道心を起こした
☆ 求道心が起こったがゆえに よりいっそう自力でオシへを推し進め得るとは思えなかった。

★ 私もその類かもしれません。何で求道心を起したのか、思い起こせば機会は度々ありましたが、その一つはこの種の話を聴いて、と言うのもあるでしょう。
☆ ええ。この場合は 単純なきっかけとしてでよいかと思います。


☆☆ 引用: ~~~
12. 問題は――信仰の問題になるが―― 《みづからの心の燈心を灯す》ことなのではないか? 

13. みづからが 泉のごとく水の湧き出るチカラとなるのが ブッダなのではないか? 
~~~

★ ブッダの境地とは、人々あってのブッダの境地なのだと思います。人々が居なければ、慈悲心は宙に浮いて意味を為さないし、慈悲心が起こる動機もありません。
☆ 人の存在をとうとんでくれることと 人の存在がなければブッダは要らないという見方とは びみょうに別なような気がしますが。

★ つまりブッダは、自らの苦を滅したけれど、その仕組みは、衆生たる自身の苦を滅したのだと思います。それでブッダになったと言う事ではないでしょうか。なので、泉の如く水の湧き出る力となるのがブッダと言うのは、人々の世にある限り、無縁の衆生を観じる限り、そのように無尽蔵の慈悲を行っている存在、思念している存在と言う事になると思います。しかもそれが、当たり前の状態で、何の力みもないのでしょうね。
☆ ううーん。《忖度。つまり よいしょ》が交じっているように感じます。《感じ》ですみません。

★ この無縁の衆生を観じるというところが、難しく、またポイントになるのかと思います。
☆ 絶対他力による相対存在へのハタラキカケは 自由自在だと思いますよ。

☆☆ 引用:問題は アガペー
★ おそらく無縁慈悲とは、無縁の衆生、即ち「衆生のイデア」というものを想起できなければ発動しないのではないかと思います。
☆ これは むつかしい。イデアは 神ないしブッダのほうでは?

お礼日時:2023/04/21 13:28

【Q:《我れ》はある?ない? どちらですか(仏教)】


https://oshiete.goo.ne.jp/qa/3454478.html?from=m …
↑こちらの、ベストアンサーのご回答を拝読させていただきました。とても良かったです。また折を見て、他のご回答も拝読させていただくかもしれません。私が良いなと思った箇所は幾つかありますが、次の箇所を挙げておきます。

引用:空性の境地によるあらゆる言語活動が如来蔵となるのです。それは、また如来の慈悲を体現するものでもあるのです。

と言う事だと私も思います。
「わたし」とは、自他の隔てのある私ではなく、一なる存在としての、比べる者のない「わたし」で在り、それは内的に実現されている。つまり、内的に満ちていると言う形で実現されている。それを自己の統一というのでしょう。
勿論内的な実現であるから、その人が自己統一したからと言って、他の人に何か影響が直接的に出るわけではありません。

私流にいうなら、この境地は「光(ひかり)」だと言う事です。光であって、照らすと言う作用がある。

空であってその人よりもその人に近く、いうなれば真実にやさしいと言う事だろうと思います。

問題は、自己統一し、空であってしかも慈悲心を起せるのか?というところです。御釈迦さんが実際に出来ていたかどうかの検証が重要なのではなく、自分が出来るかどうか、出来ているかが最重要な事柄だと思います。何に対して慈悲心を起すのか、も大事ですし、如何に自己統一が為されるかと言うのも大事です。

これがご引用のQAを読んでの私の思うところです。

因みに、私はこれらを自然な母語で話し合いたいと思っています。

が、勿論最も大事なのは、bragelloneさんが最も知りたいことを、できるなら自身の言葉でご質問なさることだと思います。ここでは誰しもがそうだからです。

自身の言葉、それも自然な母語を使えば、専門用語を咀嚼する際に出る齟齬が生まれにくいという利点があるし、誰でも読めると言う利点もあります。
なにより、自分自身素直な言葉を述べられる。
この回答への補足あり
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この回答へのお礼

◆ (bonbonnier 氏) 龍樹は大智度論において慈悲に「衆生を縁とする慈悲」、「法を縁とする慈悲」、諸法実相である空を観じて行なう「無縁の慈悲」の三種があることを明かしています。
☆ 衆生縁の慈悲とは 《友だちや日常生活でふつうに知った人に対していだく思いやり》。

法縁のは あやまち得るスサノヲ人間語から抽象した思考や行為の要素を整序した理論としてのアマテラス科学語を基礎として さらにそこに人間にとっての感覚的および論理的な《よしあし》を捉えてなおも整序したアマテラス人格語(倫理規範)を しばしば理知的に 実践する場合。

無縁慈悲とは?


◆ 「いわゆる法性は空にして、乃至実相も亦空なり。これを無縁の大悲と名づく。菩薩は深く実相に入り、しかる後に衆生を悲念す。」
「無縁の慈悲」にあっては、私たちが他人と対立している場合は、空観による有無の対立をはじめ一切の対立を離れた境地から他人を見ることになります。この時、他人の憎悪されるべき存在が空観によって否定され、今まで見ることのできなかったその人の本来の人格が現れるとすれば、もはや対立もなく、如来の慈悲が顕現されることになります。

★ 問題は、自己統一し、空であってしかも慈悲心を起せるのか?というところです。御釈迦さんが実際に出来ていたかどうかの検証が重要なのではなく、自分が出来るかどうか、出来ているかが最重要な事柄だと思います。何に対して慈悲心を起すのか、も大事ですし、如何に自己統一が為されるかと言うのも大事です。

☆ わたくしは 言うなれば〔当時把握したかぎりでの〕このオシへが《池》に見えてしまい落ちそうに思えてしまう状態であった。

★ 自分が出来るかどうか
☆ です。衆生縁と法縁とには 特別にブディズムもオシへも要らない。

問題は あちらでアガペーを持ち出すのと同じように(あるいは よきサマリア人のタトヘのごとき愛のように) 無縁慈悲が ひとに実践可能か? だと思います。




★ 私流にいうなら、この境地は「光(ひかり)」だと言う事です。光であって、照らすと言う作用がある。
☆ いいですね。その方向でわたしも考えました。

ただし わたしは この時点で《信仰》に逃れます。ざんねんながら または 正当にも(?)。

つづく。

お礼日時:2023/04/21 05:18

真剣な眼差しを忘れておられないようで安心いたしました。



引用:本質論に見合うようなわたしの批判点を できれば問うようにしましょうか

そのようにしてください。私もそこで研鑽精進させていただきます。おそらく、仏教云々、神学云々よりも、貴方のお言葉で語った方が、本質をよく表せると思います。そこに、次いで自然な母語での議論と言うのも又、実現してくるものと思います。
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この回答へのお礼

わたしの先達は 次の方々です。(期せずして みな b- 始まりです)。(ほかの方々にもよき回答を寄せてもらっています)。

bonbonnier
bakahage
bonnnou3


受けたその薫陶を少しでも生かすことができれば・・・という問い求めを質問として掲げました。よろしかったらどうぞ。

お礼日時:2023/04/20 22:16

☆ まちがいを正してください。



戯論をしている時間は我々には無いはずでは?
貴方とは出来れば本質論で語り合いたいものです。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。


そうですね。
すでにもう十年以上前になりましたが:

【Q:《我れ》はある?ない? どちらですか(仏教)】
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/3454478.html?from=m …

なる質問で ブディズムについてわたしは Q&Aの場にデビューしました。

かつて勉強の途中で 聖書のほうに行きましたので ブディズムにもどって一から始めるかたちでした。つまり 《本質論》を知っておきたかった。

さいわいにも 親鸞と空海をそれぞれ専門とするおふたりとそして中道の方おひとりの先達を得て 教えを乞いました。

その後ゴータマ・ブッダ批判の道を徐々に自分の中では確かなものにするようになりました。




教理の問題と いまこの質問で問うている《戯論》とは――結論から言えば―― どちらも重要だと思っています。

[12]に触れていますが 要するに《唯仏与仏うんぬん》といった議論の仕方が 戯論であると――わたしからは――言いたいわけです。

しかもおそらく それが 教理の本質ないしいわゆる方法の問題 にかかわっているのではないかと睨んでいます。

言いかえると 《成道》が 《この上なくとうとい智慧のさとり(あのくたらさんみゃくさんぼだい)を得た》という宣言で始まり けっきょくその主観の表明だけでゴータマ・シッダールタの一生を終えたということ。



そうですね。さとりを成就しこれを伝えるという務めをめぐって ゴータマ氏がおこなったことは その務めとしての家を建てるのに 設計図とまでも行かずに言わば膨大な《足場》を築いたことであり 肝心の家は建てていないと思われるのです。




でも 《本質論》は――とうぜん わたしに必要なことですから(なぜなら 膨大な文献・研究をまなびのこしているのは だれにも当てはまることですから)――のぞむところです。



trigger_note さんは しばらく間をおいて 論点をしぼってわたしの持説を批判なさるかなと思っていました。


本質論に見合うようなわたしの批判点を できれば問うようにしましょうか。(戯論に陥らずに教理を批判しえた論考があったかなぁ)。

お礼日時:2023/04/20 20:22

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