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後醍醐天皇って、建武新政失敗後、隠岐に流されましたが、その後フツーに二条富小路に帰って仕事してたらしいですが、そうなんですか?
周りの目も冷ややかなんでは?
「あれ後醍醐じゃね?」みたいな。

A 回答 (4件)

> 後醍醐天皇って、建武新政失敗後、隠岐に流されましたが



隠岐から戻ってから、建武の親政(建武の新政)をするのです。

> その後フツーに二条富小路に帰って仕事してたらしいですが

普通の内裏の政治スタイルとは違うので、新政とよばれます。

> 周りの目も冷ややかなんでは?

朝廷でそれなりの地位と役割を担っていた大物たちは、活躍の場がなくなったので、冷ややかになったようです。
もっと下の人は、always命令がでてきりきり舞いさせられるので、迷惑に思ってたらしいです。
https://ameblo.jp/kyo-angya/entry-12692393313.html
でも、足利尊氏や有名な人々の一部からは、とても高い評価を受けていたようです。 なんせ、文化的な才能には恵まれていた方で、それはすごかったらしいです。

> 「あれ後醍醐じゃね?」みたいな。

後醍醐という名は、彼が死んでからつけられたものあので、存命中にはあり得ないでしょう。
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後醍醐天皇は隠岐脱出後は足利高氏が六波羅を討ち、新田義貞が鎌倉襲撃で


鎌倉幕府崩壊。以後、建武新政。
足利尊氏と名前を高氏に与えるが、鎌倉で北條の残党が蜂起。
鎮圧に向かう尊氏に
護良親王殺しとか謀叛とか汚名着せて
京都から討伐軍送り、
九州に退かせるが、足利軍は反撃。
北朝立てて南北朝の動乱となる。
以後、後醍醐死んだ後も南朝は負け戦の連続。
ただ、後醍醐はしたたかで3種の神器を北朝に
偽物渡して偽朝に代え、南朝を正統と主張。
しかし、南朝負け続きで遂に
後亀山が交替即位を目的に
神器を北朝に渡すが、
室町幕府と北朝は皇位を渡す気なく、
皇位独占。宣旨で良泰が即位。
しかし、病死。その子が
業を煮やして南朝残党が
北朝御所襲撃。
鏡と剣は戦いの中で逃走経路に
置いて逃げ、勾玉だけ持って逃走。
以後は4代続くが、赤松党が襲撃して
勾玉取り返す。
以後は闇に隠れるが、応仁文明の
大乱時に山名宗全が南朝残党を奉じる。
しかし、東軍・西軍大将死去で
南朝再興できず、闇に隠れ、
明治に熊沢・天内・坂本などが
名乗り上げるが、これは偽物で本物は不明。
今も闇で続くという説あるが、真偽未詳。
もはや北朝の天下。
二度と南朝に皇位戻らず。
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混乱されていますね。


後醍醐天皇が隠岐に流されたのは、鎌倉幕府倒幕計画が漏れて謀反人として処罰されたときです。
その後、反鎌倉勢力の助力で隠岐を脱出して挙兵し、主に西日本の反鎌倉勢力を糾合して戦っていたが、最終的には坂東の足利高氏と新田義貞を味方に付けて倒幕に成功し、建武新政となった。
後醍醐天皇が即位したときから、二条富小路の内裏で仕事をしておりましたが、建武新政でも後醍醐天皇は二条富小路内裏で親政を行っています。フツーと云えば至ってフツーの話かと思われます。

その後、足利尊氏との戦いとなるが湊川の戦に敗北し、後醍醐は尊氏に降伏して左京一条四坊三町の花山院に幽閉された。
その後、後醍醐天皇は花山院を脱出して吉野に落ち延びて朝廷を開設した。これからが南北朝の動乱となります。
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名和一族の手引きで倒幕の為に隠岐島を脱出したのです。


脱出後、直ぐに挙兵したので、多忙を極めたと思いますよ、
幕府の命令で天皇の討伐に来た、足利高氏が天皇の味方になったので、
六波羅探題を攻略に成功、坂東で挙兵した新田義貞と共に倒幕を成し
遂げたので、後醍醐天皇は休む暇が無かったと想像します。

建武新政を行ったのは倒幕後です。

元弘の変で倒幕に失敗して、捕えられ、廃位となり隠岐島に流罪に
なったのです。
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