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中国共産党の毛沢東が監禁して便や悪口を壁に書かれた人は誰ですか?具体的にどのような事をされたのですか?
餓死する人が大量に出て人間を食べる自体になった中国の事件は何というのですか?

A 回答 (2件)

中国共産党の毛沢東が監禁して便や悪口を壁に書かれた人は、劉少奇という人物です。

 劉少奇は、中国共産党の副主席であり、毛沢東の後継者と目されていました。 しかし、文化大革命の際に、毛沢東によって「走資派」として批判され、紅衛兵による暴力的な迫害を受けました。 1968年にその地位を追われ、軟禁状態に置かれた劉少奇は、病気や飢餓に苦しみながら、壁に便や悪口を書いて自分の不満を表現しました。 1969年に事実上、獄死しましたが、1980年に名誉が回復されました。

このように、劉少奇は、毛沢東の権力闘争の犠牲者となった悲劇的な人物です。

中国を社会的に大混乱に追い込んだ文化大革命(1966~1976年)は、1950年代の大躍進をめぐる路線の対立がその胎動期とされ、絶対に階級と階級闘争を忘れてはならないという、1962年の毛沢東指示が出発点と言われています。 修正主義・市場解放勢力の反動に対する修正運動となっていますが、
実体は大躍進政策の大失敗により2000万人以上(2000万~4300万と言われる)の餓死者を出し、国家主席を辞任せざるを得なかった毛沢東が権力回復の為に起こした政治闘争です。

この間、中国は混乱と混迷を極め、内戦状態の様相を呈しました。 地方でも多くの人間が反動分子として処刑され、その犠牲者は最も控えめな説でも2000万人といわれていますが、実際の数ははっきりしていません。

大躍進政策での失敗による犠牲者も含むと、総計7000万人に達するという推計もあります。 文化大革命の狂乱のさなかに恐ろしい人肉宴席の犠牲となった人々がいました。 調査結果を収めた内部の機密資料は非正常な死を遂げた人の数は約8.6万~15万人、人食いされた被害者は名前が分かるだけで302人に上ると記述していました。 いっぽう、各方面の証言によれば、実際の被害者は遥かに多いようです。 当時の党中央調査チームのメンバー、晏楽斌氏はのちに文章で、同26の県・市以外の3つの県でも人食いが起きたと告発しました。

「10年間の惨劇の中、広西チワン族自治区では無数の人々が命を落としたのみならず、ぞっとするような残酷行為と悪意が吹き荒れた」

この調査団の元メンバーは未公表のままの報告書草案にこう書いています。

「首切りや殴打、生き埋め、石打ち、水責め、釜ゆで、集団虐殺、内臓の抜き出し、心臓や肝臓、性器の切り取り、肉のそぎ落とし、ダイナマイトでの爆破など、あらゆる方法が使われた」とありました。

被害者のほとんどは党の敵対分子とされる知識人や地主でした。 公開処刑で内臓や肉が切り分けられました。 傍観者・食人者の大半は一般市民でした。 前出の鄭儀氏は万人食人運動だと形容しました。

当時、町中に血の付いた棍棒や石が散乱し、バラバラにされた遺体は随所に横たわっていました。

全ては「革命」という名のもとで行われていました。 中国の共産主義政権は世界で計1億人の命を100年足らずで葬ったのです。 共産主義政権は丸腰の市民の血と白骨によって築き上げられたと言っても過言ではありません。 

1958~61年、毛沢東国家主席の大躍進政策の失敗により全土で大飢饉が発生しました。 もっとも貧困な地域・安徽省では400万人が餓死しました。

同省公安庁元副庁長・尹曙生氏の証言では、政権内部の極秘統計資料によると、省内では59~61年の3年間に1289人が食べられたとのことです。 主な被害者は餓死した人、5~8%は飢餓の為瀕死状態の人でした。 安徽省亳県地名録(1984年8月出版)にこの歴史が書き残されました。

「城関公社のある村民は兄夫婦が餓死後、姪を育てることにした。 姪も1960年の春に餓死したため、姪を食べた」

「魏岡公社の馬という村民は父親を食べた後、残った肉を1斤15元で近隣住民に売った」

「城父公社の韓という青年は1960年春、親が餓死した後、一緒に生活していた弟を殺し食べた」
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大躍進運動

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