餃子を食べるとき、何をつけますか?

60歳ごろにいくつか大事な事に気づきました。
そのひとつが「人は他人の経験から学べない。」でした。
これは正しいと思いますか?

私のつたない経験から帰納法により導いた法則ですので、
正しくないと思う方は、実際の経験事例を添えていただけると助かります。

質問者からの補足コメント

  • №14まで回答していただいた方の集計です。

    二つは再回答で、一つは質問みたいなものだったので。この三つを除外すると11ですので、
    正しいと思うは2つで、正しいと思わないは9で、圧倒的に正しいと思わない方が多いです。

    実は、
    正しいと思うと回答していただいた方の回答内容は、正直なところ理解できていません。
    むしろ、正しいと思わないと回答していただいた方の回答内容の方が理解できるのは、何故なのだろう?
    と思ってしまいました。

      補足日時:2024/01/07 20:18
  • ホンダ自動車の創業者 本田宗一郎は
    「体験して 知っていることのみ知っていることだ」
    と言っています。

    若いころから本田宗一郎に傾倒していたため、彼の多くのエピソードや名言に感銘を受けていましたが、この言葉の本当の意味がわかったのは60歳になったころでした。
    これを突き詰めると、「人は他人の経験から学べない」になるのではないかと思います。

    これに気づくと、「人は失敗からのみ学ぶことができる」ということにも気づきます。

    本田宗一郎は、「失敗した時は反省するが、成功した時は反省しない」とも言っています。

      補足日時:2024/01/08 06:18
  • 今回の質問では、「学び」に対するイメージが私と回答者で大きく乖離していることが多く、うまく説明できないもどかしさも感じました。

    「親にならないと親の気持ちがわからない。」という言葉は、親になって初めて実感する人が多いと思いますが、これこそ「他人の経験から学べない」最も身近な例ではないかと思います。

    回答していただいた皆様、ありがとうございました。

      補足日時:2024/01/08 18:10

A 回答 (23件中1~10件)

パソコンの電源がわからなかった、あるいはエクセルのショートカットキーがわからなかった、教えてもらったらわかった、それは学べてるとい

うことではないの?
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

お礼日時:2024/01/08 16:12

「経験前の解釈」と「体験したあとの解釈」の違いを「学びと捉えている」と言うのならば正しく思えます。

しかし私は「学び」は他者が自分を見て思う評価の一つであり、体験後の自分の行動により証明されるモノだと思っています。

「自分で体験しても学ばない人もいる」

以下は長いのでお暇なときにでもどうぞ。

「そして体験後の解釈が間違っている可能性もある」

こう言う場合は学んでいないと言われます。他人の経験から助言をいただき、自分の体験と比較し、当人が折り合いをつける。この作業について一定のカタルシスを得て「学んだ」と当人が満足しているだけだと思います。「受け取り方に問題があり何も進歩していない」という事の方が多いのではないでしょうか。

「他人から見れば当たり前の失敗であるのに、本人は原因が
 他にあると主張をし続ける場合も多いだろう」

なので「他人の体験を羨むことは学びではない」という話には賛同します。しかし自分が経験をして学んだと思い込んでも、それは学んだことに成らないと思います。

「学べない人。またはその様な心の在り方があり、その状態
 を続けている場合は知識も経験も意味が無いのだ」

「この気持ちは誰にも分からない」と自分の発見に酔ってしまう人は「同じ経験をした人」について認めませんし、ショックを受けても学んでいないと思います。

私が高ストレス状態からうつ病になった経験で語ります。当時は多くの人が「(私を助けようと)適切な助言」をしていました。しかしその時の私は「私と同じ状況の人ではない」のだから「分かって居ない」と逆に馬鹿にしていたのです。また体に変調があり医師の診察を受けた時も医師の診断に対してイチャモンを付けて受け入れませんでした。そのため死にかかった事があります。

こうした状態では「自分での体験や経験すら学びに結び付かない」と思います。私が「この状態」を脱出できたのは会社の研修で数日間職場を離れたことがあったからです。

研修での私は別人でした。理想通りの行動を行い、理想通りの気遣いが出来て、周囲の人達の心を癒していました。そんな自分の行動に驚きつつ自分に感動し「こんな自分でいられるのならば何もいらない」と感じました。泣くほど「このままでいたい」と思ったのです。

「しかし明日には元に戻るだろう」

こう言う確信もありました。この時には「職場が原因」「ストレスが原因」「体調を気遣わないのが原因」と原因も分かって居たんです。

「その原因についても明日になれば君は軽視し出すだろう。
 だから多くを覚えていようとしてもだめだ。ストレスを抜
 く事。この一つだけ覚えておけばまた私に成れるよ」

と当時の私が私に助言をしたのをよく覚えています。

実際にその通りに成りました。

しかし「環境を変える事で効果がある」と言う話は良く知られているのです。そして「私は経験するまで信じて無かった」のは確かです。ここだけ見れば質問者さんの言う通りでしょう。しかし事前にその様な知識が無ければ「体験しても結論が違った」と思います。

「ではどうして私にその様な知識があったのか?」

「凄く大事だと思って一生懸命伝えようとした人がいた。
 だから君は何となく覚えていたんだよ」

つまり世の中で語られる情報の中には「体験してみないと分からない」内容であっても「事前に知って置くと結果が変わる」と信じて伝えられている物が沢山あるという事です。

「勝手な解釈をして軽視するというのは折り込み済みだ」

本当に学んだというのはどういう状態なのか? 体験前の想像と実体験での「感覚の差に驚く事」では無いのです。それだけでは何も学んでいない事に成ります。「(自分で)間違った解釈をしていた」と気づき「正しく利用をして自分を救った」という成功体験も必要です。

「体験をして学べるかは本人の生きて来た経験の差による」

「自分が間違っているのではないか?」と思う習慣。それがあるかないかでも違ってくるはずです。また他人が間違っている事を許せるか否かも大事だと思います。

「学ぶことのできない状態とは他人が間違っている事を許
 す気持ちが無い心の状態でもある」

また「他人の経験や情報により自分を救えた」と言う成功体験なしでは学べないとも言えます。

これらの事を考えると、

私たちが学ぶためには「他人の経験」は必要条件ですが十分条件では無いとわかります。また自分だけの体験も必要でしかなく十分ではありません。その上で自分の力で自分を救った成功体験も必要条件となっており、この3つは少なくとも必要でしょう。

その後で「他の人も同じようにして助かったらしい。なので確からしい」「その情報(他人の経験)が無い人は殆ど失敗したらしい」「大事だと伝えても過去の自分と同じように軽視されるみたいだ」「そうであっても何かできないか?」等と発展していかなければ行けないのです。

この様に多様な心の動きに派生して本人の行動が変わる。これらを見て「以前と違う発想をしている」と他者が思う分けです。

「彼はあの体験から何か学んだようだ」

となります。「本人が分かった」と感じる話と「他者があの人は学んだ」と感じる話は別なのです。

「自分の経験を活かして貰いたい」という衝動を持った人を私たちは「学んだ」と称賛するのであり、その当人にそういう衝動が湧いていない場合は「学んでいない」とするんです。そういう意味ではこの社会は「学んだ人」で溢れています。

私はこのサイトで10年以上回答者を続けています。この衝動も「自分で自分を制御できなくなる怖い状態がある」と知り、これに苦しんでいる人が沢山いるだろうと思うからです。殆どの人は「何の話か分からない」と思って聞くでしょう。それも折り込み済みですよ。しかし「運悪く同じ状態になったとき」そう言えば「そんな話を聞いていた」と思い出す人が確実に増えると思っています。

こうした経験から、

「私は他人の経験が自分の学びに必須であると学んだ」

のです。

上手に伝わらないと知りつつも行動せざる負えない。この情熱こそが学びの正体であり、その情熱が生じなかった人は学んでいないと思います。

・自分が分かったという事と他人が学んだと評価してくれることは別
・「学び」の正体は「活かしたいという情熱」を指す
・「学ぶ」ためには他者の経験情報、自らの体験感覚、成功体験が必
 要である
・その上で「成功体験を活かしたい」という衝動が湧かなかった場合
 は学びに失敗したと捉える。

他者の経験、自分の体験、どちらが良いという話ではなく双方必要であり、その上で足りません。また成功体験を得たとしても「誰かに活かして貰いたい」と言う情熱を持たない人は「学んでいない」とするのが正しいのだと思いますよ。

そして現実の社会では「学んだ」人が沢山いるという事です。そうでなければこれほど皆が伝えようとしていないでしょう。

以上、ご参考になれば。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

ご指摘のとおり、学んだ人の多くが大事なことを伝えようとしているのは事実だと思います。
しかし、災害などの経験談の場合、伝えようとしていることが自分が受けた心の衝撃の大きさに重点がおかれるため、経験していない人が知っておくべき大事なことは、あまり伝わっていないような気がします。

今から20年前ぐらい前に、小さなビルの年に一度の消防訓練で消防士さんが話してくれたことは今でも覚えています。
・消火器を使う時は出口を背にして使い、
・炎が天井に達したら消火はあきらめてただちに避難してください。
・ビル火災で怖いのは、炎ではなく一酸化炭素などの有毒ガスです。
・一酸化炭素が一定濃度以上になると、深呼吸3回で動けなくなります。

経験者が伝えなければならないことは、こういうことではないかと思います。

お礼日時:2024/01/08 16:09

他人の経験から学べるなら、現在、戦争は起きていない。


罪のない人の命を奪うことがどれだけ大罪なのかわかっていない。

もっと身近なところで言えばいじめ。
いじめを苦にして自ら命を絶つような人がいるのに、
いじめはなくならない。

自分がやられなければ、わからない。
愚かな生き物だと思っています。自分もそのひとりですけど。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

今から30年ぐらい前ですが、私の転勤で、娘が新しい学校でいじめを受けていたことを、後から知ったことがあります。
 4月ぐらいからいじめを受け、秋には立場が逆転して、いじめていた子が娘に、逆に仲間にいれて欲しい、と言った時に、
娘は、「いいよ、でも、もういじめないでね。」と言ったそうです。

「いじめないでね」に込められている、娘のとてつもなく深く大きい傷に衝撃
を受けた記憶があります。

お礼日時:2024/01/08 15:53

そうだと思いますよ。

犯罪だって、わかっててするんですから。知ってなかった人はいないと思います。すべて回避できるわけではないですわ。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

申し訳ありません、内容が理解できませんでした。

お礼日時:2024/01/08 15:37

出る杭は打たれる・・打たれた事を見てしまうと、同じ事をやりませんよね・・

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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

内容が理解できませんでした。

お礼日時:2024/01/08 15:36

「体験して 知っていることのみ知っていることだ」


→それはその通りで、№6での回答はそれを言いたくて回答したものです。知識が知識であり、実際に自分で追体験しなければ自分のモノにはならない。

「人は他人の経験から学べない」vs「人は失敗からのみ学ぶことができる」→これは矛盾した対句ではないでしょうか。失敗も成功も知識としてだけではダメですが、自分が追体験することで、成功するために注意すべきことや失敗しないために注意すべきことを詳細かつ具体的なノウハウとして学べるということかと思います。

「失敗した時は反省するが、成功した時は反省しない」
→これは状況が変化したにも関わらず、過去の成功があったがゆえにそれに拘り続ける硬直性を産み、成功が却って失敗に繋がってしまうというお話ですね。
確かにこれはよくある。
将棋の話ですが、将棋界の主要8タイトルを全制覇した藤井八冠は、負け将棋を反省するのは勿論、勝ち将棋でも喜ぶことなく「課題が見つかった」と反省するので有名です。彼のこの姿勢はおそらく一生続くのではないかと思います。であればいずれタイトルを失う日が来るにしても、将棋界の王者として君臨し続けるのではないかと思われます。
こんな人は滅多にいませんわね。
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この回答へのお礼

補足コメントに対して追加で回答していただき、ありがとうございます。

お礼日時:2024/01/08 15:32

No15です。



その絶望からの復帰のために宗教や心理学療法などが考案されたりしたものかと思います。また、当事者やそれに共感する人がその不幸を阻止するための法律を作ったり団体を立ち上げたり医療技術を向上させたりそこに出資したりしているものかと思います。私自身はips細胞へ寄付などもしています。臓器が異常となり人は死ぬわけですがそれが簡単に交換できればもう少し良い正解が来るのではないかと思っています。ただ、共感や学習する能力は個人差があったり、そもそも考え方が違い同じように感じないこともありますけどね。日本だと生き方の価値観には憲法がありそうですが、国によっては憲法よりも信仰の方が遥かに重視される国もありますし。なんのために生きているのかという人生の軸、価値観が全く異なる人々もたくさんいそうです。

逆説的ですが、仮に、他人の経験から学ぶ事ができないと仮定すれば、上記のように不幸を減らす手立ては有史以来作られることがないように思うのです。
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この回答へのお礼

お礼のコメントに回答していただき、ありがとうございます。

お礼日時:2024/01/08 15:26

学べるでしょう。



犯罪を犯した人は、お巡りさんに
逮捕される。

それを見て
俺は、犯罪を犯さない

学ことになるんじゃないですか。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

う~~ん。
犯罪にはいろんな犯罪がありますので、死ぬまで逮捕されない人もいれば、逮捕されても無罪になる人もいますし、誰かを守るため等やむを得ない事情で犯罪を犯す人もいるのではないかと思います。

tanzou2さんを含めて、一般論的な回答が多いようですので、できれば、もう一度質問を見なおしていただいて、ご自分の経験をもとに回答していただけるとありがたいです。

お礼日時:2024/01/08 05:56

No11です。

そういったことが嫌だから日本では交通ルールなども整備され守る人が多いものかと思います。他人の経験からたくさん学ぶのが日本人かと。
ただ、体験しないとわからないことはあると思います。
真に理解するには本人が体験するしか無いでしょう。このときの理解が100%とするなら、それ以外の理解はトラウマができるくらい徹底して学習すれば別でしょうが普通の方法では100%には及ばないと思います。ただ、最近のVRなどはかなりすごいですしこういったものを駆使すれば100%をすぎる学習も可能かもしれません。他人の経験を再現するシミュレーターで自分が再度追体験するわけですので、学習なのか自身の体験なのかもうよくわからない世界ではありますが・・・座学でもそこまで頭で再現できれば理論上は同じくらい学ぶことはできるかと思います。ただ、現実問題としては他人事であって他人の経験から100%学び取ることは難しいかもしれませんね。
ただ、最近は戦争や災害のテレビを見ているだけでもPTSDみたいになることもあるようで、実際にかなり学べている人もいるような気もします。まぁ全員が学べれば戦争など無くなるのでしょうが。
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この回答へのお礼

再度の回答ありがとうございます。

他人の経験から学ぶことによって、自分の身に降りかかる不幸を未然に防ぐことはできると思います。
しかし問題は、どんなにリスク回避の努力をしても防ぐことができず、その不幸に遭遇した時ではないかと思っています。

お礼日時:2024/01/08 05:45

その通りです、何故なら自分と他人とは


宿命が違い過ぎますから
ただ他人の経験でも客観的な事柄ならば
それは参考に成りますが
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

それぞれの人生を結果論から言えば、「宿命」はみんな違うと思いますが、未来の結果がわからない時点で「宿命」というのが、私には理解できませんでした。

お礼日時:2024/01/08 05:49

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