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高所恐怖症です。
異常に高い所に行くのが苦手です。
歩道橋を渡る事が出来ず渋谷宮下パーク中央の階段も上がれませんし
高い橋も渡れませんし東京スカイツリーももちろん恐怖でした。
人に運転してもらっているのは怖くはないんですが自分で運転して高い橋は渡れません。
飛行機は大丈夫でした。
そんな人いませんか。

A 回答 (2件)

若い頃は登山やってたんだけど、岩登り、沢登りは平気だったんだけど、中年になってから急に高所恐怖症になっちゃったね。

横断歩道橋、高い橋の運転が出来ません。囲まれてる所は大丈夫(スカイツリー、飛行機等)外を見ると怖いけど、bs1で登山家の岸壁登頂等視聴してるけど膝がスースー、手に汗をかくんです、厳しい場面は見てられない、何でこうなったのか分からない。
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この回答へのお礼

同じですね

お礼日時:2024/02/20 11:51

神経症の中の一つの症状です。

神経症には沢山の症状が存在していて、それらの症状同士の繋がりは余り無いようです。

貴方には興味が無いかも知れませんが、吃音とか書痙とか不安障害とかも同じ範疇に入っています。

処が神経症を治すために学ぶ事には、共通点が在ります、又神経症になる人にも共通点があります。神経症になる人の共通点は『神経質な性格と、人並み以上の敏感な感受性』と云ったものを兼ね備えている点です。

又神経症に共通する点としては、如何なる医学的な検査を施したところで、自律神経失調症と同じで、全ての点に関して異常が見付けられない点です。

全てが異常無しの場合に、神経症とか自律神経失調症が確定するようです。

神経症の治りを説明しますので参考にして下さい。

神経症の発症の原因は、意識に上がった事柄を異物として考えてしまって、更なる意識をしてしまって、意識地獄に入ってしまう事が原因で発症しています。

その意識した内容が症状名になっている事ですが、吃音を意識した時に吃音、書痙を意識した時にが書痙と云った具合です。貴方の場合では高いと云った情報を自分が感じた時です。

人によっては、ある種の音を聞いた時から、その音に対して嫌悪感を抱いてしまって違和感として排除しようとする事に拠って『意識上に挙げてしまって、意識地獄に入る様です。』

そう云った意識地獄から抜け出すやり方には幾つかの方法がある様です。一つは森田療法と云ったものです。

森田療法は神経症から抜け出すためには、最も一般的で、しかもオーソドックで、完治に至る率が高いやり方と思います。

時間の関係から森田療法を説明しますので、聞きたい事がある様なら質問を下さい、答える用意があります。

森田療法の神髄を書いてみますので、自分から森田療法を学ぶ事がお勧めです。

森田療法のやり方は至って簡単です、それは『不問療法』と云った一面です。その前提となるものは『症状は治らないものとして諦める事が有効です。』

幾ら一生懸命になって森田療法をやったところで治る事は無いと云った諦めから入るなら、森田療法によって完治する率が大変に高くなるという意味です。

不問療法の意味は、症状が出たから悪いとか、症状として感じなくなったから良かった、と云った感想などを一切口にしない方法です。是が不問療法の全てです。

治る理由を書いてみます、誰の心の中にも『高い処に上がった時には、高いと云った情報を伝えている者が存在しています。』その者の情報を遮る事は死なない限り不可能です。

これが神経症の症状が無くならない理由です。処が不問療法が確実の成果を上げる時、高いと云った感覚があったところで、無くなったところで本人の意識には『高いと云った感覚が本人を苦しめる事が無くなっています。』つまり症状としての高いと云った感覚が『意識に上がる事が無くなっています。』

症状としての違和感が、只の普通の感覚になってしまう事によって、『意識上に挙がって苦しむ事が無くなっています。』これが完治したという意味になります。

森田療法を学ぶなら鈴木知準先生の書いたものをお薦めしたいと思います。

又もう一つのお勧めが在ります、それは鈴木知準先生が言っていた言葉の中に在ります。先生は生前『ノイローゼ(神経症)は悟りを開かないと治らないと云っていた事です。

仏教では釈迦が『一切衆生悉有仏性』と云っていましたが、高いと云った情報を送る者が、その仏性と云った者だからです。

その者と脳内で出会う事を『見性とか悟りを開く』と表現します。

その為にはもう一つの分野を学ぶ事を勧めしたいと思います。

それは『禅』と云った分野です、その為には鈴木大拙博士の著作集を読む事をお薦めしたいと思います。

禅に対しては世界的にも名が通っている人ですが、その言葉には自らが禅を体験していて、その言葉には無駄がないからです。

禅の目的は『如何して人間は苦しまなくてはいけないのか?』がテーマになっています。釈迦の一切皆苦が原点になっていて、そう云った疑問の完全解決として、禅が残ってきた歴史があるかからです。

禅の教えは何もない、また禅には教えと云った経典などは何も無いと云いながらも、人間に沸き上がる疑問は、その疑門が湧き挙がるその時、答えそのものがその疑問の中に既に用意されている。と云った事を釈迦が禅の中に『悟るための仕掛けを仕組んでいます。』それがお経に拠らない教え、つまり教外別伝と云った人間の心の中の宝物を掘り起こす仕掛けです。
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