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関東大震災の時に起きた虐殺事件のひとつたる倉賀野事件は朝鮮人が虐殺されたとする説と、朝鮮人と誤認された日本人が虐殺されたとする説の二通りあるみたいですが、どっちが正しいのでしょうか?

質問者からの補足コメント

  • うーん・・・

    記録では朝鮮人が日本人の自警団に虐殺されたとのことです。
    当時の裁判記録があります。動かぬ証拠です。

    https://crd.ndl.go.jp/reference/entry/index.php? …

    虐殺現場になった九品寺(くほんじ 倉賀野町)に町民が建立した慰霊碑もあります。

      補足日時:2024/04/10 09:51

A 回答 (6件)

歴史は時にシンプルな視点で見ることも必要だと思います。



1.この問題で、後世の私たちがやってはいけないことは
・関東大震災での朝鮮人虐殺はデマだと否定すること
その逆に、
・日韓の歴史問題に利用する目的で、犠牲者の数を水増しして伝えることもダメ

 歴史は事実を後世に語り継ぐもので、歴史を歪曲して伝えることは許されない

2.当時の混乱のさなかに記録されて現代までに見つかった資料や証人は僅かで、質問者さんのご質問を特定することはできない。
 もちろん探せば新たな記録も見つかる可能性はある。

現在の所、明確な事実としては
・朝鮮半島出身者や中国人などの虐殺があった
・言葉の訛りの関係で、青森や四国などの地方出身者が朝鮮半島出身者だと疑われて殺害された事件もある。
と言うことだと思います。
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「青森の人」というのは、一人のもうろくジジイの妄想ですよ。

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たぶん両方の事案が起こった。

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倉賀野事件は1924年3月10日付前橋地裁高崎支部判決書によると自警団が駐在所に保護されていた朝鮮人男性を連れ出して暴行し殺害したとしてされています。

ですから、これが公的に残る資料ですね。

青森の人が殺害されたとの説もあるようですが、古老の言葉だけであり少なくとも、それを裏付ける客観的資料ではありません。

ただこの判決書については公開をしないのが政府の立場です。これは「朝鮮人虐殺などなかった」という自民党右派の人々を配慮しているのでしょう。
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在日コリアンが主催しているブログ「日刊イオ」2023年8月2日に、「殺されたのは朝鮮の人ではなく、青森県人らしい/群馬の虐殺現場を歩いて」と題する、以下の紀行文が掲載されています。

 

これによると、殺されたのは朝鮮人ではなくて、青森県人だった可能性もあるとのことですが、立証されているわけではありません。 

倉賀野事件は、一般的には朝鮮人の青年が殺されたことになっており、容疑者4人には有罪判決が出ています。 倉賀野事件については、昨日(4月9日)に参議院内閣委員会でも取り上げられましたが、法務省の担当者は、判決原本が前橋地検高崎支部に保管されていることを認めたものの、内容については「裁判所の事実認定が正しいかどうか評価する立場にはない」と答弁しており、林芳正官房長官も同様に答えました。 すなわち、本当に朝鮮人青年が殺されたのか、青森県人が殺されたのかは藪の中なのです。

以下、引用。

月刊イオでは、4月号から「関東大震災100年 虐殺現場を歩く」と題して、これまで実際に編集部が関東各地の虐殺現場に足を運び、紹介をしてきた。

筆者は、群馬県での虐殺(8月号掲載)を調べるため、6月某日群馬へ向かった。

藤岡事件の現場

県下で特に被害の大きかった「藤岡事件」では、9月5日から6日にかけて藤岡警察署に「保護」されていた朝鮮人17人が、自警団をはじめ日本人群衆によって虐殺された。5日には2000人、6日には1000人の群衆が警察署に集まったとされる。

「藤岡事件を語り継ぐ移民の会」の秋山博さん(71)の案内で、藤岡事件に関連する現場を歩いたのちに、現在判明しているもうひとつの虐殺現場へと足を運ぶ。


九品寺(現在の高崎市倉賀野町、当時の群馬郡倉賀野町)

たどりついたのは、高崎市倉賀野町にある九品寺。この墓地では自警団によって朝鮮人青年一人が虐殺された。それらの事実は、『上毛新聞』の記事、1924年3月10日付前橋地裁高崎支部判決書によって明らかにされている(山田昭次編『関東大震災虐殺裁判資料2 群馬県関係』より)。

1925年、倉賀野町民によって九品寺に建てられた碑の前についたところ、一人の老人が声をかけてきた。実際に現場を歩くことで、いわゆる「生の声」を聞くことができると少し前のめりになったが、次に発せられた言葉が、現場を歩いてきた体に重くのしかかってきた。

「この人はねぇ、朝鮮の人じゃねぇ。青森の人らしいよ」

朝鮮人青年を追悼した九品寺にたたずむ「地蔵尊像」

話を聞き進めてみると、「関東大震災が起きた当時は、倉賀野に外国人すらいなかった」という。かれは「殺されたのは朝鮮の人ではなく、青森県人らしいんよ。言葉に訛りが強いから間違われたのではないかな。中には日本人や中国人でも殺された人が多くいるんよな。(中略)元々倉賀野には外国人はいなかったと子どもの時からそれを言われているんよ」と話すのだった。

前述した山田昭次さんの本に示されているように、倉賀野町で起きた事件は判決書が残っており(最高で「懲役1年6月」と非常に軽いが)、「朝鮮人ではなかった」と結論づけるには、相当の根拠がいる。

さらに、猪上輝雄著『関東大震災(1923)藤岡での朝鮮人虐殺』(同人発行、1995)には「わが家に朝鮮人をかくまった」と題し、「倉賀野の朝鮮人」に関わる証言が残っている。一部抜粋する。

「…震災直後、社会主義者に対する弾圧が加えられ、獄中死をする小野村(現藤岡市)出身の高津渡の実家でも朝鮮人の逃亡を助けている。 高津家を継い高津渡の甥高津清の妻に当たる高津和子さん(八五才)は語る。『私は、義父の亮さん(高津渡の妹の夫)から、関東大震災の時、朝鮮人をかくまった話をよく聞かされました。新町方面から逃げて来た二、三人の朝鮮人を正面の門から屋敷の中に入れ、家の中にかくまい、群衆に気づかれないよう裏門から倉賀野方面に逃がしたとのことです。』 …」

震災の状況下で被害の大きかった東京などから埼玉、群馬へと羅災民が流れてくるなか、こうして県下でも大勢が「人災」から逃れようと移動していた状況で、倉賀野町に朝鮮人が住んでいなかったとしても、殺されたのが朝鮮人ではないという証拠にはならないだろう。

現場を歩き、改めて、日本社会全体で100年前の出来事についていかに語り継がれず、行政によって真相解明が行われていなかったのか、また市民レベルでも関東大震災朝鮮人虐殺の真相に蓋をする動きがあったことを思い知らされた。

群馬県では現在、戦時下に群馬鉱山などの鉱山や軍需工場で働かされ犠牲となった朝鮮半島出身者を追悼する県立「群馬の森」公園(高崎市)の朝鮮人強制連行犠牲者追悼碑が撤去されようとしている。

歴史修正主義がはびこるなか、いかに歴史的事実を語り継ぎ、日本政府や行政に対して真相解明や責任追及を求めていくべきか。

最近は100年に際し、メディアでも追悼する市民らの動きが取り上げられるが、決して「過去の出来事」「『震災』という極限の状態で起こった出来事」ではないということを強調したい。植民地支配の下、朝鮮人への蔑視感情や差別意識が増幅され、官民が一体となり行われた虐殺を、「デマに踊らされた人びと」だけでは説明できない。

「二度と繰り返してはならない」ということが言われるが、まずもって植民地主義が克服されていない日本において、100年前の状況が連綿と続いており、在日朝鮮人に対するヘイトクライム・ヘイトスピーチが繰り返されている。

いかにこの状況を打破すべきか、考えを巡らす日々だ。(哲)
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群馬県で起きた倉賀野事件は、青森県の人が殺害されたのが史実。


当時のこの地方には、外国人は居ない。
青森から来た人と酷い訛から意思疎通が出来ずに誤解をを生み、
朝日新聞の誤報を鵜呑みにした民衆による犯罪でした。

当時から朝日を始め多くの新聞が誤報をし、暴動を誘発させていた。
被害者は善良な民間人です。
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