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殷の紂王の伝説について教えてください。どんなことでもかまいません。

A 回答 (5件)

暴君の代名詞ともなってしまった王ですね。


ただこの暴君ぶりというのは、実は疑われ始めてます。殷を滅ぼした周の時代、あるいはそれ以降にねつ造されたエピソードでは無いかという説が出てきていて、実際はわりと優秀な人物だったようです。
また、紂王というのは俗称みたいなもので、本名は子と言ったそうです。殷の王は子、甲などの名前が繰り返し使われていました。彼もその例に漏れなかったというわけです。
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紂王は、紀元前11世紀ごろの人とされています。


また、紂王には様々な伝説があり、
頭脳明快で体力もあり、素晴らしい王だったとされる時もあれば、
女好きで、暴力をふるうこともある王だったとされる時もあります。

漫画「封神演技」にも、紂王が登場しています。
本当の「封神演技」からは改造されてはいるものの、
殷や周など当時の舞台や人物も登場し、わかり易いと思います。
参考にしてみてはいかがでしょうか。

 このアドバイスが参考になれば幸いです^-^
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殷は自分たちの国の名前を「商」と言っていました。

交易が得意だったことから、「商売」「商人」の語源となっています。

「商」の神様は「帝」と言って太陽神でした。太陽が衰えないようにと、定期的に人身御供を行っいて、「炮格之刑」も刑罰ではなく神事の一環だったわけです。
また、お酒やお肉、美しい裸の女性たちは、神降ろしの為に必要なもので、これも神事に不可欠のものでした。
それを大々的に行ったのが、のちに「酒池肉林」と呼ばれる大祭事です。

紂王の正式名は「帝辛」で商の太陽神が名前に冠されています。帝がつくのは父親と彼だけで、父親の時に一種の中央集権的な宗教改革があったのではないかと思われています。
その反動で、中央政府と商帝国内の東方の実力者比干の間に亀裂が入り紛争が起こった隙に、周が西方から乗り込んできたのが実情のようです。

後に悪逆非道の王の代表とされますが、基本的には当時の「商」の道徳から見れば、神事に熱心で優秀であったけれども、外交の拙さから滅びた王であったと言えると思います。
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これは『史記』の殷本紀を読むに如くはないと思いますが、いくつか。


・頭が良かった。「知は以って諫を拒むに足り、言は以って非を飾るに足る」つまり、悪いことをしても配下の諫言を言い負かしてしまうくらい頭が良く、自分の非をごまかせるくらい口が上手い、と言われた。
・力が強かった。素手で猛獣を撃ち殺すことが出来るほどだった。
・「酒池肉林」酒の池を作り、木の枝々に肉を懸けて、裸の男女を放して楽しんだ。
・妲己という女性を愛していて、彼女の言うことに従った。
・「炮格之刑」青銅の柱を下から熱して、罪人にその上を歩かせ、熱い炭の中に落とす。妲己が名づけ親で、それを見て笑っていたという。
・比干という人が諫言すると、「聖人には心臓に七つの穴があるそうだな」と言って解剖した。
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この回答へのお礼

いっぱい伝説のある人なんですね。全く知らなかったのでとても参考になりました。ありがとうございます!

お礼日時:2005/05/17 21:19

フェイチェンだったとか?


封神演技の舞台になった時代で神話との境目が紂王の時代だったといわれている。
巨漢で頭脳明晰だった紂王だったが女鍋の宮殿でふしだらな詩を書いたため女鍋を怒らせてダッキが送り込まれるそして紂王はフェイチェンと化した。
そして周に倒されて殷王朝の時代は終わった。
紂王は武術もつよく当時右に出るものはいないとされていた。
ちなみにその後の(だったかな?)幽王の時代にもダッキのような女が現れ国を荒廃させていったのですよね?
名前忘れてしまいましたけど
まぁこんな感じじゃないでしょうか?役に立ちましたか?
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