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世界史について質問です
テオドシウス帝によってキリスト教が国教化されてから東ローマと西ローマに別れましたが、それは宗教的に別れたのか政治的に別れたのかどちらですか?
そのあとの皇帝ってどうやってきまるんですか?
テオドシウス帝の子孫なのか
東ローマが最初ユスティニアヌス帝なのはわかりましたが、西ローマは教皇もいて東ローマとの違いや宗教と政治がどのようになってるのかはっきりわかりません
なるべくわかりやすく早めに教えてください

A 回答 (4件)

宗教は無視していいです. 純粋に政治 (および軍事) 的な理由.



あと, 実は東ローマにも「教皇」という称号で呼ばれる人は存在するらしい.
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うろ覚えですが、西とか東とか言っているのは後世の私たちで、当時の人たちは(元々ローマ帝国が分割統治されているものだったので)分かれているという認識はなかった、という話を聞いたことがあります。

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追記



こうした流れは宗教ではなく蛮族の侵入と密接な関係がありました。

皇帝の最重要任務はいくつもありますが、その一つがローマ軍の最高司令官です。
蛮族の侵入が激しくなりもはやアントニヌス=ピウスまでの時代のように一人の最高司令官では対応できなくなった。
これが皇帝が兄弟2人になったり東西の正副帝4人になったりした背景です。
東西の分裂も、こうした複数皇帝の流れの中で起こったものです。
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この段階ではもはやローマの版図を一人の皇帝が治めることが不可能になっていた。


それが根源的な原因です。
最後の五賢帝マルクス=アウレリウスの時にすでに共同統治の芽が出ていますし、
(この時は弟が早死にしたために本格的な制度にはならなかった)
コンスタンティヌス1世もローマの西の副帝からスタートし正帝へ、
そして帝国を再統一して唯一の皇帝に就任しています。
それまでは4人の皇帝(東の正帝・副帝、西の正帝・副帝)が治める形態でした。
たまたま強烈なカリスマを持つ人物が現れた時に統一されるという状態でした。

テオドシウス自身は一人で帝国を治められるとして、その子供にはまだその力量がなかった。
そうした判断の上にテオドシウスは、それまでの慣例通り、帝国を西と東に線引きし、そのそれぞれを兄弟に任せます。
それはあくまでローマ帝国の行政上の線引きにすぎず、2人の統治能力に見合った広さの統治領域を与えただけでした。
いままで2人、4人の皇帝が即位するたびしてきたことです。
ところがなぜかこの時に限って、行政上の線引きにおさまらなかった。
事の成り行きで東西はお互いの領域に無関心になり、同じ国としての有機的な行動をとらなくなった。
そして最後には国そのものが分裂してしまった。
そういういきさつです。

もしカトリックが国を分裂させた元凶なら、国を分裂させる目的とか、何らかの痕跡が残っているはずです。
ローマ側にも、カトリック側にも。
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