【穴埋めお題】恐竜の新説

古代の女性達の地位について、いくつか読みましたが、いくつかの説では女性は男性より腕力では敵わないために、押し込めらていた。 半分奴隷に近いような扱いであったとか。

一方で、他の説では、弥生時代や縄文時代の女性達は、新しい命を産んでくれる存在として大切に扱われていた。 古代の女性たちの地位は、決して現代人がイメージするような低いものばかりではなく、むしろずっと高かっただろうと。

どうなのでしょう、古代の女性達の地位は低かったのでしょうか? それとも、意外と高かったのですかね?
あるいは古代と言っても、時代や地域ごとによって大きく異なるんでしょうか? 日本は緩い方なのかな。

古代の女性の地位に興味ある人など、皆さんからのいろんな回答を待っていますね。

A 回答 (8件)

1,縄文時代


縄文時代の土偶は女性を象徴するものが多く、
特に妊娠や出産に関連する形態が見られることから、
女性が生命の象徴として重要視されていた
と思われます。


2,弥生時代
狩猟時代から農耕時代に入ると、土地が価値を持ち
富が蓄積されます。
そうなると、部族間の争いが多くなります。
そういう時代は、腕力の強い男優位の
社会になりがちです。

弥生時代の墓では、男性が武器などの権力
を象徴する副葬品とともに埋葬される一方、
女性の副葬品は装飾品などに限られます。


3,余談
戦国時代のような時期は
女性の地位は低くなります。

平和な時代は高くなります。


江戸時代になり、天下太平の世になると
女性の地位が上昇します。
そのため、女性の不倫が増え
それを取り締まる為、不倫は死罪にしたり
(実際は売春として扱い、死罪にはしなかった)
既婚者と判るよう
お歯黒などの風習を流行らせました。

マルクス史観てのがあります。
過去に遡るほど、人々の暮らしは悲惨で
あったに違いない、という観念論に立つ
考え方です。

これは実証研究が進むにつれ
間違っていたことが明らかになって来ました。

実証研究が進むと、江戸時代の農民などは
かなり裕福であったこと、女性の地位が高かったことなどが
判ってきました。
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この回答へのお礼

助かりました

ふむふむ、女性の地位は戦争が少ないと高く保てるけれども、戦争が多いほど地位は低下してしまうんですね。 腕力は弱いために。
マルクス史観は間違っていたんですね、江戸時代農民は女性の地位が高かったり、裕福であったようです。
ベストアンサー差し上げますね。

お礼日時:2024/12/12 18:14

古代の女性の地位は高かったか低かったか、縄文、弥生ですね。



私もその時代を生きたわけじゃ無いので見聞きした事なのですが、地域と時期に左右されてるのです、縄文~弥生時代、特に弥生時代に話を絞ると紀元前10世紀頃から1000年続いた時代です、その頃農耕が始まりまた確定した時代です、実は想像されるのに縄文時代の方が女性は大事にされていたのではと想像します、この農耕の発展が、急速に労働者を必要にした時代なのです、ですから女性は神聖な者から労働者へ移行したのではないでしょうか。

時期と地域:弥生時代と言っても日本中よーいドンで始まったのでは無いです、歴史的発見で、この地位域この時代を弥生時代と言おうとするもので、北九州を発祥とするものです、それまでの縄文土器などで、物事を神聖視する文化があったと想像されています、当然地母信仰があったと考えます、弥生式土器は実用的な物に変わりました、農耕の蓄積に便利なのですね。

早くから弥生に突入した地域は縄文期から安定した気候で恵も多かった、女性神聖から巫女統一社会に移行、一部の女性は大事にされていた、多くは労働力と見られた。

物としての女性:貢物の記録に女性が有りますが、実は男性の方が多く貢物として送られています。

九州、中国、近畿は徐々に弥生化して多くの労働力が必要でした、部族の略奪で戦闘に不向きな女性は物に変わっていった、一部の地域、時期で女性は大事にされていた同時に虐げられていたと考えます。

東北が弥生化するのは弥生時代中期です、それまでは縄文文化でした、部族間の争いも多かったでしょう。

ですから古代、とか弥生時代とくくっても、場所、時期で女性の立場は奴隷で有り神であったのですね。
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この回答へのお礼

解決しました

場所や時期によって、女性は神であったり奴隷であったりしたんですね、一概に語れないようです。 部族間の争いの多さも重要な判断要素であるようです、回答ありがとです。

お礼日時:2024/12/12 18:00

いつの時代でも、妻を自分の所有物と勘違いしている男は、一定数存在


します、そんな馬鹿男はカウント外とします。
縄文、弥生、古墳時代の中頃までは、文字での記録が無かったので、
詳細は不明ですが、土偶は女ばかりで男のは極少ですので、子供を
産む女を大事にしていたと思います。
古墳時代の中頃から、飛鳥、奈良時代までは、万葉集で様子が
解ります。
詠み人知らず、防人、山上憶良、山部赤人の詠は、妻を想う和歌が
圧倒的に多いです。
この時代は結婚をする相手の決定権は女に有り、男は通い婚でした。
平安時代の藤原道長も妻の源倫子の屋敷に住んでいました。

縄文、弥生、古墳、飛鳥、奈良の古代日本は、男女が対等の関係に
有ったと思います。
鎌倉時代の武家式目では、女に相続権が有りと明記されてます。
夫が亡くなった後に、家を守り、後家と称された逞しい女は、
北条政子以外にも多数いたようです。
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この回答へのお礼

ありがとう

縄文、弥生、古墳、飛鳥、奈良の古代日本は、男女は対等の関係であったようですね。
たくましい女性も多かったようです、回答ありがとです。

お礼日時:2024/12/12 18:01

縄文時代の遺物としては勾玉や土器、土偶などがありますが、デザイン性の優れた女性の土偶も数多く出土しています。

縄文時代の人口は最大でも30万人程度と少なく、戦争の痕跡も見られないことから、あまり男性が優位過ぎる社会とは考えにくく、子供を産み育てることのできる女性が大事にされていたことは間違いないでしょう。

時代が進み、日本最古の歌集が編纂されましたが、一般庶民男女の歌も多数収録されています。このこと自体が男女に格差が無かったことの一つの証拠でしょう。
平安貴族の恋愛は歌のやり取りから始まっていますが、万葉集における一般人の歌の上手さからすれば、貴族だけではなく一般の男女も歌のやり取りで自由に相手を選んでいた可能性は大きいでしょう。
中国の少数民族の中には、今でも近隣の集落の若い男女が集まって歌を披露しあって付き合う相手を決める風習を残している事例もありますが、古代日本でもそういう風景があったのかもしれません。

そうであれば、男女の役割の区別はあったにしても、男女間の格差は比較的小さく、女性の意志も尊重されていたのではないでしょうか。
そうでなければ平安時代に女流文学が花開くことも無かったでしょうし、推古天皇を始めとして、奈良時代に持統天皇など数多くの女性天皇が誕生した理由も分からなくなってしまいます。
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この回答へのお礼

Thank you

古代の日本は当時の世界と比べて、部族間での争いは少ない方だったみたいですね。 女性が虐げられることは少なかったようです、女性の意思も尊重されていたと。
女性天皇も誕生していましたしね、回答ありがとです。

お礼日時:2024/12/12 18:02

縄文時代までは程遠いですが、西暦200年前後に存在した権力者、ご存じ卑弥呼は女性だったので、少なくともこの時代が「半分奴隷」ではないことは確かでしょう。



あと「押し込められた」という表現が非常に視野の狭い現代人視点の考え方で、何も整備されていない野生的な時代の危険な外仕事は男性が行い、安全な場所に一日中女性はいたのだとしたら、男性の方がまさしく奴隷ってことになりますよね。この辺も主張してる学者の言いぶんをもっと具体的に聞かないとなんとも言えないです。
歴史学者って当然知識はあるのでしょうけどいまいち「読み」が鈍いと感じる人も多いですし、学者によって大きく主張が変わったりしますし、そういうこともあり時代によっても大きく見解が変わったりします。話半分くらいで聞くのがベストです。
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この回答へのお礼

解決しました

奴隷の解釈も違ったりするんですね、男性が奴隷だったりするかもしれないようです。
回答ありがとです。

お礼日時:2024/12/12 18:03

原始、女性は太陽だった。

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この回答へのお礼

ありがとう

お礼日時:2024/12/12 17:58

卑弥呼の例もありますし


天照大御神の例もありますし
歴代の女性天皇も近代よりも古代の方が事例多いですし

また、鎌倉期の御家人の財産相続でも女性は一定の権利が認められていたようです

女性は男性に付き従うべきものという概念が広まったのは
儒教の影響が強くなった結果であり
それは将軍権威の絶対化とともに儒教思想が統治機構に組み入れられた
江戸期以降の話だと考えます

ですから時代が古いほど男性と女性の力関係は違いがなかったと考えて良いんじゃないかと思われます
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この回答へのお礼

Thank you

古代の方が女性天皇も多かったし、卑弥呼や天照大神の事例もあるようです。
江戸期以降に女性は男性に付き従うべきというのが広まったようです、古代はむしろ男性と女性の力関係は、さほど変わらなかったようです。
回答ありがとです。

お礼日時:2024/12/12 18:05

日本においては、古代からずっと「それなりに地位が高かった」ですが、それ以外の地域では「原始時代はともかく古代以降になると地位を失い、近代まで非常に地位が低く、今でも女性の地位が低い国(地域)がたくさんある」です。



まず世界前提の傾向として、質問者様が書くように「新しい命を産んでくれる存在として大切に扱われていた。」ので、むしろ男性よりも地位が高かった文化も存在し、日本もその一つです。

「古代」というのは一般的に《農耕文化が始まり、権力構造ができて、国家社会が成立した時代》を言います。特に「古代文明」は明確な国家構造があり、君主を中心とした階層構造がありました。

そして(日本を除いて)この階層構造に女性達が入れなかったので、女性達の地位が男性に比べて低くなってしまったのです。

この階層構造とは、わかりやすく言えば君主・貴族(文官・武官)・平民・奴隷で、それなりの人口をもつ社会構造維持するためには警察力・軍事力という「暴力装置」を必要としました。

暴力装置の担い手は当然に男性だったので、階層構造の中で女性達が権力を持つことができなくなったのです。

そして、社会が国家レベルに達すると、周辺の国家同士の戦争が起きるようになります。古代の戦争の目的は「自分達の民族国家を大きくするために、農耕に適した土地を増やすこと」だったので、負けると皆殺しになるのが基本でした。

ただ、男女全員皆殺しにしてしまうと、大きな土地を継続的に耕す人口が足りなくなる恐れがあります。なので「負けた側の民族の男は殺して、女は買った側の男の子供を産ませる」ようになっていきます。

この時点で「女性は戦争の戦利品であり、女性の地位は奴隷とほぼ同等」ということになっていくのです。

その結果、ユーラシア大陸のほとんどすべての場所で「女性の地位は非常に低い」という事になっていったわけです。ただし、時代によっては「直接戦争しないでいい社会になると、女性の地位は向上する」という特徴がありました。

特に現在の女性解放から男女平等につながる動きは16世紀の啓蒙思想にありますが、これはヨーロッパが植民地政策でだんだん豊かになったことで、戦争から解放される時期があったからで、フランス革命前後には女性解放運動も盛んになりましたが、革命以後周辺との戦争が激化したので女性解放は制限されてしまいます。
 その結果18世紀の産業革命以降まで女性解放は進まなかったのです。

日本はちょっと違います。日本は原始的な時代からかなり「母性的」な社会構造があり、平安時代までそれをうまく取り込んでいました。たとえば当時の婚姻形態は通い婚で「女性が財産と地位を保持し、その影響力を使って婿が権力を得る」という形です。
 つまり日本の女性には財産権・相続権があり、それを利用できる法律もちゃんとありました。

鎌倉幕府が成立し武家の時代になると、世界と同様に「女性の権利は制限される」ようになるのですが、平安時代までの500年間に男女の地位をバランスさせる社会的機能が成立していたため、他の地域と違って、女性が権利を失うことはありませんでした。
 ただし「社会的な権力は得られない」状態ではあったといえます。

それでも戦国時代までは女武者も女大名もいましたので《女性だから全く権力を得られない》というわけでもなかったのです。

江戸時代になると、男女の役割分担が進み現在のような《男は外・女は内》という日本的な文化になっていきましたが、他の地域と違って女性が財産権・相続権を失うことはありませんでした。

したがって、現代でも「欧米女性と日本女性の社会的地位の位置づけは全く違う」のです。
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この回答へのお礼

助かりました

ふむふむ、日本の古代では女性の地位はそれなりに高かったんですね。
でもユーラシア大陸の大半の地域では、武力抗争が起こりすぎて女性は戦利品扱いだったんですね、奴隷の一歩手前ぐらいでしたか・・・。

現代でも古代でも、欧米女性と日本女性の社会的地位の位置づけは全く違うようです、回答ありがとです。

お礼日時:2024/12/12 18:11

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