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出エジプト記 34章14節に、主はねたむ神であると書かれています。
「あなたは他の神を拝んではならない。主はその名を『ねたみ』と言って、
ねたむ神だからである。」(共同訳)


一方、アダムとイブがエデンの東に追放され、そこで彼らの子カインとアベルが
主なる神に供物をささげましたが、神はアベルの供物だけ顧みてカインの供物は
顧みませんでした。
でカインは憤慨して顔を伏せました。
(創世記4:6)そこで主はカインに言われた、「なぜあなたは憤るのですか、
 なぜ顔を伏せるのですか。
(創世記4:7)正しい事をしているのでしたら、顔をあげたらよいでしょう。
でもこの後カインはアベルを殺してしまいます。
アベルへの嫉妬が動機だと思います。

出エジプト記の「主はねたむ神である」という設定は、ここと整合性を取るために
そういう設定にした可能性はないんでしょうか?
・神は自分の姿に似せて人を造った
・人は嫉妬してしまう存在である。
・理論的に神は嫉妬する存在であることになる。で「妬む神」と設定した。
こういう可能性はないんでしょうか?             ←質問


尚私は、カインが供物を顧みられずその挙句弟を殺してしまった逸話は
「嫉妬に煽られるとこうなってしまう、という反面教師のお話である。
 嫉妬に煽られてはいけませんよ」という教訓なのではないか、
と思うのです。
つまり、「神は嫉妬の神なので我々も嫉妬に駆られなければならない」と
思う必要はないのではと思います。

質問者からの補足コメント

  • アダムとイブがたべたリンゴですが「善悪を知る木の実」とあります。
    これを食べて裸でいることに気づき、イチジクの葉で隠しました。

    アダムとイブが知ったのは「恥ずかしいことをしてはいけない」という
    知識ではないのでしょうか?

    であればイチジクの葉で隠したことも、咎められて言い訳をしたのも
    エデンの東でカインが嫉妬に駆られ弟を殺害したことも、
    全て説明がつきそうに思います。

    話が飛びますが日ユ同祖論があります。日本は恥の文化でもあります。
    ここにも繋がってしまいます。

      補足日時:2025/06/22 22:09
  • 茶番の神学によると、神のねたみは「情熱」のような意味らしい
    で、神は自分に似せて人間を作ったとあるのに、
    人間の嫉妬は神のねたみとは違うということです。
    ユダヤ教もキリスト教も幾度も辻褄合わせが行われています。

    イソップ寓話のおおかみ少年では、普段から嘘つきの少年が
    本当におおかみが出て「狼が出た」と叫んでも村人は相手にせず
    うそつき少年は狼に食い殺されました。
    キリスト教徒で666の一つの獣に食い殺されるのは誰でしょうかね?
    免罪符なんか作った過去のカトリック司教なんか相当ヤバそうですね?

    とりあえず
    ・主なる神は自分に似せて人を造った。
    ・人が言い訳をして追放されたし、その後で嫉妬に駆られて殺人を犯した。
    ・三段論法的に主なる神も嫉妬深いという話にならざるを得ない。
    ・整合性を取るために「その名を妬みと言い嫉妬する神である」と設定した。
    この考えを覆す事はできませんでした。

      補足日時:2025/06/26 01:06
  • 主なる神はアダムを創りしあと、生命の木と善悪を知る木を植え、
    「これを食べてはならない。食べたら死ぬであろう」と仰った。
    しかしアダムもイブも死にませんでした。
    これは、主なる神が嘘をついた可能性を考えます。

    繰り返しますが、神は自分に似せて人を創造されました。
    カインがアベルを殺した後、カインは主なる神に嘘をつきます。
    これも、主なる神の噓つきが似てしまったということかも知れません。
    そう解釈すると、辻褄が合います。

    先祖が行ったように言い訳をしなければならないとか、嘘をつかねばならない
    こう考える必要はさらさらありません。
    と思うのですけど。

    逆に、人間は言い訳がましく、嫉妬心が強く、仲間を殺すし嘘もつく。
    これを「こういう理由で人間はこうなりました」という話にするために
    主なる神という設定を作ったのかも知れません。
    順番が定説とは逆です。

      補足日時:2025/06/26 18:58

A 回答 (10件)

> ただ「私から浮気したらひどい目に遭う」理由として、普通なら「怒りにてあなたを滅ぼすであろう」とか言いそうな気もします。


ここは「妬まれるから」ということにするのが最も効果が高かったという、今では知る由もない当時の状況があったのかもですね。

1世紀のものでクレメンス1世の手紙には次のような一節があるようです。
https://christian-classics-jp.github.io/site/fir …
当時の人にとって、「嫉妬」「妬む」の語を使用するのは、強い警告・脅しのフレーズだったのでしょう。 日本語で「覚えてろ」「覚えておくからな」も脅しにも使えます。

4:4 神はカインに言われた。『なぜあなたは悲しんでいるのか。なぜ顔を伏せているのか。あなたが正しく捧げて、正しいことを曲げたのでないなら、あなたは罪を犯していないではないか。あなたの平和を保て。』
4:5 彼(罪)があなたに向いているが、あなたはそれを支配しなければならない。』{この最後の節はこう訳すこともできる。「平和でいなさい。あなたの捧げものはあなた自身に返る。それであなたは再びそれを手にするようになる。」}
4:6 だが、カインは兄弟アベルに言った。『さあ、野原に行こう。』そして、野原にやってくると、カインはアベルに襲いかかり、殺した。
4:7 兄弟たち、おわかりでしょう。妬みとそねみが兄弟を殺人者にしたのです。
4:8 嫉妬によって、私たちの父ヤコブは彼の兄弟エサウの顔を避けて逃げました。
4:9 嫉妬によって、ヨセフは迫害を受けて死にそうになり、奴隷の身分にさせられました。
4:10 嫉妬に追い立てられて、モーセはエジプトの王パロの顔を逃れました。自分の同国人から「誰があなたを私たちの裁判官や指導者にしたのか。昨日エジプト人を殺したように、私を殺そうというのか」と言われました。
4:11 嫉妬によって、アロンとミリアムは宿営の外に追い出されました。
4:12 嫉妬によって、ダタンとアビラムは、神のしもべモーセに立ち向かい、生きたまま陰府に下りました。
4:13 嫉妬によって、ダビデはペリシテ人に妬まれたばかりでなく、(イスラエルの王)サウルにも迫害されました。
5:1 けれども、昔の例から離れて、私たちの時代に最も近い時に生きた闘士たちについて考えましょう。私たちの世代に生きた高貴な人々の例を見ましょう。
5:2 嫉妬によって、最も偉大で正しい教会の支柱が迫害され、死に至るまで戦いました。
5:3 あの善良な使徒たちを目の前に思い浮かべましょう。
5:4 ペテロがいました。彼も嫉妬によって、一度ならず何度も苦役に耐え、自分の証を負って、任命された栄光の場所に行きました。
5:5 嫉妬と争いのゆえに、パウロは身をもって、耐え忍んで賞を獲得することを示しました。それから、彼は七度縛られ、国外追放され、石で打たれ、東でも西でも宣べ伝え、信仰の報酬である高貴な栄誉を勝ち取りました。
5:6 世界中に義を教え、西の果てまでたどり着きました。パウロが支配者たちの前で自分の証を負ったとき、彼は世から分離し、聖なる場所に行きました。そこで彼は忍耐の法則を発見したのです。
6:1 この聖なる生き方をした人たちのほかにも、選びにあずかった非常に多くの人たちが、多くの恥辱と拷問を通じて嫉妬の犠牲になりながら、私たちの間で勇敢に例を示してくれました。
6:2 嫉妬のゆえに、女性たちは迫害され、 Danaids と Dircae のように残酷で罪深い侮辱に苦しみ、無事に信仰の競走を目的地まで走り抜き、肉体にあっては弱かったものの、高貴な賞を受け取りました。
6:3 嫉妬は妻と夫の仲を引き裂き、私たちの父アダムの言った「これこそ私の骨の骨、私の肉の肉」という言葉を反故にしました。
6:4 嫉妬といさかいが偉大な町々を破壊し、偉大な国々を根こそぎにしました。
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この回答へのお礼

再度ありがとうございます。
となると「人間、嫉妬という強い感情がある」という事実があって
そこからカインがアベルを殺した話にもなり、主なる神が妬む神
という設定にもなった、という感じかも知れないですね。

蛇足です。
白人がアフリカ系黒人を差別したのは、精悍な黒人に嫉妬したから、
という面が少なからずありそうにも思っていました。
捕鯨問題、電気自動車問題で日本たたきがあるのも、嫉妬からという
見方もできそうです。
十字軍も「キリスト以降に神の啓示を受けた人間がいる」ために
キリスト教徒はカインのような嫉妬を覚え、アベルたるムスリムを
殺そうとしたのかも知れません。

それだけの精神エネルギーがあるのなら、使い道を誤らずに
進んでほしいものです。

お礼日時:2025/06/30 17:38

> > どなたに向けての要望/願望でしょうか。


> キリスト教徒を主とする人間全体に、です。
> それだけの精神エネルギーというのは嫉妬に費やすエネルギーという意味で用いました。

回答にはならないのでしょうが、嫉妬ややきもち、そして恨み、攻撃性に繋がる情動のようなものは、キリスト教、ユダヤ教、イスラム教、ヒンズー教、仏教や日本神教(そんな言葉はないか)、アミニズム、ほぼ無信仰など、どうであっても、とても強いものです。 覇権争いや領土争い、権力闘争も、事業者間の商売の競合でも、敵愾心や相手の失敗を喜びさらにそこを突き攻めることに昂揚感や意欲を燃やすのが常です。
身近(?)なところでは、日蓮などの他派攻撃も有名です。時代はずっと下がりますが日本神教も仏教全般だけでなく教派神のようなのも攻撃しました。
「オラだけがエライ」のようになって、周囲がそれを抑制コントロールできない状況になると、「オラ」に逆らうのや従わないのというのだけでなく、「オラ」以外のものを大切そうに情愛を込めているのを感じただけで、ヒステリー状態になり、瞬間湯沸器になるというのは、仕方ないです。 幼児期や児童期に「オラだけがエライ」を抑えることができると良いのですが、発達障害なのか遺伝子の異常を修正できないのか、親愛に関わって易怒反応が起きる人にとっては、もうコントロール不能の沸騰状態になるようです。
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> それだけの精神エネルギーがあるのなら、使い道を誤らずに進んでほしいものです。



どなたに向けての要望/願望でしょうか。
"主"に対してでしょうか。
"主"は"ねたむ神である"、「あなたは他の神を拝んではならない。主はその名を『ねたみ』と言って、ねたむ神だからである。」(共同訳)
強く脅して、言いつけを守らないとか、穀物を供物に寄越した、他の神にも供物を出した、高い塔を造った、事前にルールを締めることもなく、とにかく気にいらないとなれば、徹底的に制裁を科すのです。 エネルギーはたくさん必要です。 神としては、使い道を誤ったなどとは寸毫も思わないのです。 
神は、男女間の妬み、集落間の妬み、そういう神自身とは関係のないところでの妬みなどは気にしてないです。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

>> それだけの精神エネルギーがあるのなら、使い道を誤らずに進んでほしいものです。
> どなたに向けての要望/願望でしょうか。

キリスト教徒を主とする人間全体に、です。
それだけの精神エネルギーというのは嫉妬に費やすエネルギーと
いう意味で用いました。

お礼日時:2025/06/30 23:32

私は、「つじつま合わせ」とかではないだろうと思います。


ストレートに「妬む/妬く」というのに近くて、妬いたこと=「もう許さん!」「懲らしめちゃうぞ」という行動に駆動するものなのだろうと思います。
配偶者や恋人が嫉妬するタイプの人の場合には、うっかり別の人に優しくしたりすると大変なことになるというのはわかります。 「私は妬くし、妬む人なので、他の男(女)に優しくしたり、親密そうに世話をしたりしてはダメですからネ」と釘を刺しておくことはできるでしょう。 上司が部下に「私はやきもち焼きだから」ということはまずないでしょう。医師が患者に「私は嫉妬し易いので」ということはまずないでしょう。 ですが、他の医者にも診ていただいていると分かったら、「もう、私は診ないから、あちらにいけば」と突き放したり、部下が仕事の進め方で他の部署の部課長に相談しているという噂を耳にしたら、その部下は干されてしまう危険があります。
たいていの教祖は、あるいは神父や僧侶も、自分とは系統の異なる人物に、自分の信徒が頼り始めたら、不信心者扱いをするでしょう。
前もって、「あなたは他の神を拝んではならない。主はその名を『ねたみ』と言って、ねたむ神だからである」と宣言するのは、誠実と言えば誠実ですし、強権をことさらに誇示し絶対服従を求める高度な政治性の表れでもあるでしょう。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
辻褄合わせは考えられる話だと思います。他の神様に浮気しないように
釘を刺す目的で「妬む神」と言ったという説は、説得力があると感じます。

ただ「私から浮気したらひどい目に遭う」理由として、普通なら
「怒りにてあなたを滅ぼすであろう」とか言いそうな気もします。
ここは「妬まれるから」ということにするのが最も効果が高かった
という、今では知る由もない当時の状況があったのかもですね。

余談です。
尚ミルトンはその著書失楽園にて、サタンが蛇になりアダムとイブを
そそのかして原罪を犯させた理由は嫉妬である、という設定です。
自分が神に最も愛されていたのに、近頃は人間ばっかり・・・・
という嫉妬ゆえの行動ということです。

お礼日時:2025/06/29 23:21

ねたむ神、というのは



神と同じ立ち位置から
私利私欲の強者の理屈で
立場の弱い人をもてあそんでいいようにしようとする
そういう‘人間‘が紛れ込んでいる
ということでしょうね。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
妬む神というのは、出エジプト記第34章に、神がモーセに語り掛ける
という形で書かれています。
神が「(私=神が)他民族を追い払うであろう」と言って、「他国の神を拝んではならない。主はその名を『ねたみ』と言って妬む神だからである」と言っています。
つまり、他の神を拝むなという流れで自分の名前を『ねたみ』と言っています。

お礼日時:2025/06/29 00:01

揚げ足を取るようで申し訳ありませんが、


あなたが引用しておられるのは「共同訳」ではなく「口語訳」です。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

お礼日時:2025/06/25 12:58

回答には当たらないと思いますが、この質問を読んで思いついたことを書きます。



No.2の方が書かれた「聖書は一人の作家がプロットを練って書いた物語ではありません。創世記や出エジプト記は、それぞれ異なる時代に由来する多様な口伝や文書(例えば文書仮説におけるJ, E, D, P資料など)が、長い年月をかけて編纂されたものです。」や、「(創世記の記述と合わせるために、出エジプト記の記者が神の『設定』を考えた)というような単純な因果関係は成り立ちません。」というのは、もっともな意見でしょう。不統一、混乱があっても当然でしょうし、創世記という一篇においても、内容には不統一や混乱はあるのだろうと思います。
ただし、「聖書」として尊重し続けるということのためには、とにかく合理化してつじつま合わせをして、そのつじつま合わせを正当化することが延々と積み重ねられているはずです。 ですので、ネットで検索するだけでも、合理化解釈はたくさん出てくるはずです。 
どう統一的に整然と解すれば良いのかを求めたいのであれば、ネット検索されれば、いくつも合理化説明の例が見つかるでしょう。
https://wol.jw.org/ja/wol/d/r7/lp-j/1995683
https://yokohamashiloh.or.jp/deut-05-06/
https://www.nagoya-church.net/%E7%A4%BC%E6%8B%9D …
https://meigata-bokushin.secret.jp/swfu/d/auto_G …

この質問を読んで、ふと思ったことがあります。エデンからの追放というのがあったようです。 神は言いつけを守らなかった、神を軽んじたというので、懲罰を与えたとも解せます。 「夫が浮気したので」と似ています。 悪い子を窘めるとか罰を与えるとかも、自分の思いのままになっていないと感じると嫌悪から即言辞・行動に走るとも言えると思います。 嫉妬的感情とその感情に起因する懲戒行為は、【❶ 人間だけでなく、自分らが神と崇めるものにもあるはずだ、❷ 我らの神を軽んじたり、他の神に近づいたり、戒律とされている信仰行為を怠ったり、悪であると定められていることをなしたりすれば、きっと罰せられる】という直感的で大変に強い素朴信念を造ったでしょう。 それこそが、信仰を継続し、信仰を強化する大きな原動力の一部をなしたのでしょう。

もしも、聖書のどこかに、【神は寛容で愛情深く、ヒトが何をしようが、どう逆らおうが、優しく包み込み大切にしてくれる】のような記載を残したら、それを口実にして、宗教や教師、神父、牧師、修道士修道女の諌めや教えを軽んじる人が生まれ、戒律さえも脆く崩しても大丈夫という人がでて、それを許容したら、信仰の継続は困難になるでしょう。
聖書には、言い方はともかくも、神は人を愛し、愛する者が神から離反する者を憎み罰するのような記述をあちこちに埋めて残す必要があったのでしょう。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
合理化と仰っていますが、辻褄合わせが適切と理解しました。

エデンの園からの追放ですが、一般には神の命に背いたから
とされています。それが原罪とされています。
が、私は神の命に背いたことよりも、言い訳をした方が
罪が重いと解釈しています。
本来は旧約聖書は寓話として読むべきであり、ここも
「アダムとイブが言い訳をしたから神さまが怒ったんだよ」
「言い訳をしてはいけないよ。きちんと謝りなさいね」
という教育がなされたのではないかと思っています。

日本語には「あやまる」という単語がありますが、漢字では
「誤る」と「謝る」の2種類があります。
今の同音異義語は同音同義語であり、誤ったら謝るのは
当然すぎて単語を分ける必要すらなかったのでは?

また日ユ同祖論も一部では言われております。
この場合GODは日本語の天に相当します。
この部分でも矛盾はありません。
古代ヘブライ語も日本語と極めて類似しているという話です。
すると、間違ったら謝りなさいという教育がなされていても
不思議ではないと思います。


> もしも、聖書のどこかに、【神は寛容で愛情深く、ヒトが
> 何をしようが・・・
イエスは「右の頬を打たれたら左の頬を出せ」とか
「汝の敵を愛せよ」と言ってます。
だがキリスト教にはユダヤ教をはるかに超える信徒がいます。

お礼日時:2025/06/24 22:15

主に限らず全ての一神教の神は同じ。


究極の排他主義。
だから戦争になる。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
だが、質問の答えにはなっておりません。
もうちょっと具体的な項目を質問しています。

お礼日時:2025/06/24 21:56

ご提示いただいた聖書解釈は、一見すると論理的で鋭い指摘のように見えますが、聖書学および神学的な観点から見ると、いくつかの重大な誤解と恣意的な解釈に基づいています。

以下にその問題点を批判的に解説します。

1. 「ねたみ」という言葉の致命的な混同

あなたの議論の根幹は、神の「ねたみ」とカインの「嫉妬」を同一視している点にありますが、これは根本的な誤りです。

神の「ねたみ」(ヘブライ語: קַנָּא, qanna): 出エジプト記で使われるこの言葉は、人間が抱くような自己中心的で破壊的な「嫉妬(envy)」を意味しません。これは神学的に**「熱情」「義なる熱心さ」「義憤」と訳されるべきものです。これは、神とイスラエルとの「契約関係(結婚にも譬えられる)」において、唯一の愛の対象であるべきイスラエルが、他の神々(偶像)に心を移すこと(霊的姦淫)に対する、正当な権利者としての「熱い思い」です。それは関係性の忠実さを求める愛の裏返し**であり、破壊ではなく、関係性の回復を目指す情熱です。

人間の「嫉妬(envy/jealousy)」: 一方、カインが抱いた感情は、他者(アベル)が持つもの(神からの好意)を妬み、その対象を破壊しようとする、自己中心的で罪深い感情です。

この二つは、質的に全く異なります。例えるなら、「恋人が浮気した際に感じる怒りや悲しみ」と、「隣人が高級車を買ったことへの妬み」を同じ「嫉妬」という言葉で括り、同じ性質のものだと論じるようなものです。この言葉の混同が、あなたの解釈全体を成り立たなくさせています。

2. 「設定」という安易な文学的アナロジーの誤用

あなたは聖書をまるで現代の小説かのように捉え、「整合性を取るために設定した」と論じていますが、これは聖書の成立史と性質を完全に無視した見方です。

聖書は一人の作家がプロットを練って書いた物語ではありません。創世記や出エジプト記は、それぞれ異なる時代に由来する多様な口伝や文書(例えば文書仮説におけるJ, E, D, P資料など)が、長い年月をかけて編纂されたものです。

したがって、「創世記の記述と合わせるために、出エジプト記の記者が神の『設定』を考えた」というような単純な因果関係は成り立ちません。それは、聖書を信仰の書、歴史の書としてではなく、ご都合主義的なフィクションとして矮小化する見方です。

3. 「神のかたち」の解釈の浅さ

「神は自分の姿に似せて人を造った」から「神も嫉妬するはずだ」という三段論法は、一見説得力があるように聞こえますが、これも神学的に非常に浅薄な解釈です。

「神のかたち(Imago Dei)」とは、外見や感情の完全なコピーを意味するのではありません。伝統的に、それは人間が持つ理性、自由意志、創造性、愛し愛される関係性を築く能力、神の代理として被造世界を治める役割などを指すと解釈されてきました。

人間の罪深い性質、例えばカインが示したような破壊的な嫉妬までが「神のかたち」に由来すると考えるのは、神の本質を誤解し、人間の罪の責任を神に転嫁する論理です。人間は「神のかたち」を持つと同時に、罪を犯す存在でもあります。その罪の部分まで神に似た、と考えるのは論理の飛躍です。

4. カインの物語の本質の見誤り

カインの物語を単に「嫉妬の反面教師」と見るだけでは、その核心を見失います。

神はカインの供物を顧みなかった後、彼を見捨てたわけではありません。「なぜあなたは憤るのですか。(…)罪が戸口で待ち伏せしている。あなたを求めるが、あなたはそれを治めねばならない」(創世記4:6-7 新共同訳)。

神はカインに対話し、内省を促し、罪に打ち勝つ機会を与えています。 物語の悲劇は、神が不公平だったからではなく、カインが神の言葉に耳を傾けず、自らの内なる罪(憤りや嫉妬)に支配されることを選んだ点にあります。あなたの解釈は、カインの主体的な選択と責任という、物語の最も重要な主題を無視しています。

結論

あなたの解釈は、現代的な心理学用語や文学批評の概念を、古代の宗教文書に無批判に適用しようとする試みであり、その結果、言葉の表面的な類似性に囚われ、聖書テキストが持つ本来の文脈、原語の意味、神学的な深みを完全に無視した、恣意的な読み方に陥っています。

「神は嫉妬の神なので我々も嫉妬に駆られなければならないと思う必要はない」というあなたの結論自体は正しいですが、そこに至る論理(神の「ねたみ」と人間の「嫉妬」の同一視)が根本的に間違っています。聖書を解釈する際は、このような安易な類推ではなく、より慎重で文脈を尊重したアプローチが不可欠です。
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この回答へのお礼

長文ありがとうございます。
> 神の「ねたみ」(ヘブライ語: קַנָּא, qanna): 出エジプト記で
> (中略)であり、破壊ではなく、関係性の回復を目指す情熱です
この部分ですが、しょせんは旧約聖書の神を正当化するという
結論ありきの神学にて得られた結論ではないのでしょうか?

私が使った設定とい言葉についてもご意見をいただいています。
が、旧約聖書はしょせんは人が書いた書物です。
何処かに著者の意見や見解、寓意などが存在しております。
その一つとして、そういう設定にしたのではと思います。
聖書に絶対を求めるとすると、絶対に著者の意志が入っている
という部分です。

神のかたちの解釈
これも、しょせんは結論ありきの神学で言われていることでは。

カインの部分にて
> 神はカインの供物を顧みなかった後、彼を見捨てた
> わけではありません。
その通りです。正しいことをしているのなら顔をあげよ、と
仰っています。質問にも書いている通りです。
それなのに、そこまでフォローしてくれたのに殺しました。
これは嫉妬が深かったのではないですか?
それが、神が自分に似せて作ったから嫉妬深いのでは?
というのが質問の一環ですし、反面教師的にこれはダメ、
というのが聖書の教えではないのでしょうか?
つまり、旧約聖書は事実ではない。フィクションです。
がそのフィクション・比喩にて真実や教訓を描いている
いわばイソップ寓話のような書物ではないのですか?


以下、貴殿に確認したい部分です。
聖書に書かれたことが事実、ということはあるでしょう。
それは、聖書が「事実をもとにしたフィクション」
というだけではないのですか?
だから、ところどころは事実である、みたいな。
それを「全部事実だ」と思っていませんか?
部分的な事実を全部事実と勘違いして組み立てたのが
神学ではないのですか?

お礼日時:2025/06/24 21:54

アダムとイブがたべたリンゴ



アダムがイブの同意を得ないで性欲のままに追いかけ暴行し犯した
すなわち強姦したということだと思います。

キリスト教や宗教の限界は
人間の感情として神は存在しているということです。
神はただ表現は難しいですが法則とか光とか元のようなものです。
神の言葉は 天使の言葉 だと思います。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
本来の質問は「カインがアベルを殺した理由が嫉妬であるが
神は自分に似せて人を造ったとあるので、三段論法的に
出エジプト記で神は嫉妬深いという設定になったのでは」
という部分です。

お礼日時:2025/06/24 21:37

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