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 最近「坂の上の雲」を読み返しているのですが、乃木将軍の一軍の将としての資質に疑問を感じずにいられません。
 さらに、「旅順」「奉天」とたいした戦功をたてていないのに、最近まで英雄とされていたと聞きました。確かに人格者としてはすばらしいものがあったと思いますが、旅順の失敗を挽回する性質のものでもなく、現在で考えると決して英雄だとは考えられません。
 そこで疑問に思ったのですが、なぜあまり戦功をたてていない乃木将軍が児玉源太郎や大山巌をさしおいて英雄たりえたのか教えてください。

 また、乃木将軍の有名な逸話などもありましたら、あわせて教えてください。

A 回答 (6件)

私も「坂の上の雲」を読んでの感想なので新しい知見ではないかもしれませんが..



・明治天皇のお気に入りだった
 -和歌が上手で、よく陛下のお相手をつとめていた
 -学習院の校長(言葉が違ってたらすみません)にもなった
・日露戦争で実の息子を失ってまで奉公した
・崩御の際に殉死した

という点で、当時の理想の国民像によくマッチしたのではないでしょうか。
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この回答へのお礼

 回答ありがとうございます。
 やはり、知的で忠臣で悲劇の人というのが当時の日本人の理想だったのですね。
 ありがとうございました。

お礼日時:2005/05/27 17:24

先日公開された映画「ロング・エンゲージメント」で、第一次大戦の凄惨な塹壕戦の様子がビジュアルに描かれていました。

旅順要塞の攻撃は、だいたいあんなものだったと思われます。

第一次大戦の記録を読むと分かりますが、敵陣地に対する白兵突撃・一日で万単位の死傷者・一個連隊が一回の突撃で全滅、といった事例が、日露戦争の10年後に、より大規模に再現されていたことが分かります。

私が司馬氏の著作を読んだ限りでは、氏は第一次大戦のことは特に研究していなかった形跡があります。ですので、乃木将軍が「愚将」とすれば、「痴将」「狂将」とでも表現するべき軍人が第一次大戦で数多く存在したことは良く知らなかったのでしょう。乃木将軍について評価が辛すぎると言うことは、だいぶ前から言われています。詳しくは、No3の方が書かれているようなことです。

乃木将軍は、客観的に見て、ロシア軍が「難攻不落」を目指して巨費を投じた旅順要塞を攻略し、日露戦争の勝利に大きく貢献した司令官です。このことは、当時広く認められていました。

また、旅順攻略戦の最中に息子を全て戦死させています。当時、同将軍の詩人としての声望がどのくらいあったのか分かりませんが、「旅順要塞を落とす為に多くの兵を殺してしまった。慙愧に耐えない」という率直な意思表明をいろいろな形でしています。子供が旅順で戦死した人も、乃木将軍を責める気にはあまりならなかったのではないでしょうか。同じように子供の命を捧げているわけですから。日本人は、こういう「率直な人」を好む傾向があります。

「日本海海戦の英雄・東郷大将、旅順攻略戦の英雄・乃木大将」ということに日露戦争後はなったようですが、特におかしなことはないと思われます。

なお、歴史書として見れば不足な点は多々あるでしょうが、「坂の上の雲」は偉大な著作です。平成の我々が、日露戦争の経過を一通り知っているのはこの本のおかげみたいなものです。

参考URL:http://www3.kiwi-us.com/~ingle/index.html
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乃木将軍は悲劇の人ではありました。


かれは家族の全てを犠牲にせざるを得ませんでしたし、殉死という形をとったのも最後の抗議であったかも知れません。

旅順戦は確かに準備不足で、白兵力のみで攻撃せざるを得ませんでしたが日清戦争での楽勝の記憶が残っており近代要塞に対する認識、攻撃法の知識の欠如は否めません。 これは乃木将軍に限ったことではなかったのですが、その点で不運な人でした。

戦略上の要求を突きつける大本営に対し意見具申をすることなく多大の損害を受けるだけの白兵攻撃を繰り返したのは指揮官としては無能のそしりをうけても仕方ないと思います。

近代要塞には当時の野砲など役にたたず結局児玉大将が参謀長となって当時移動不可能に近いと思われていた28cm臼砲の導入に成功し攻撃の成功を見たのですが、その導入が遅れたのは歩兵出身とはいえ乃木将軍の近代戦の知識不足です。

古武士個人としては達人であっても指揮官としては適格でない例であったと思います。
しかしこのような傾向は陸軍の伝統的思考であった事はその後の戦争でも現れることでした。

乃木大将英雄論は彼の清廉な生き様を尊崇したものだと思います。
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この回答へのお礼

 ありがとうございます。
 やはり、武功というより乃木将軍の人間性が英雄たらしめたのでしょうね。
 

お礼日時:2005/05/27 18:43

歴史のことは詳しくありませんが、高島俊男の「お言葉ですが」の最新刊に、興味ある話が紹介されていました。


西南戦争では連帯旗を奪われ、日露戦争では多くの兵隊を死なせた「愚将」というのがやはり定評だったようですが、殉死のときも、殉死の一報がとどいた朝日新聞社などでは、記者から印刷工にいたるまで、みんながみんな、「時代錯誤なことをしたバカもの」という受けとめかた。それが翌日記事となってでると、手ばなしで殉死をたたえる報道だったそうです。
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この回答へのお礼

 当時もやはり愚将のイメージがある程度あったのですね。
 ありがとうございました。

お礼日時:2005/05/27 18:34

 「坂の上の雲」は司馬遼太郎が乃木希典将軍を故意に悪く書いています。

史実とは全く以ってかけ離れています。
 旅順攻略は本来、陸軍の管轄ではありませんでした。陸軍は明治35年段階、対露戦想定の戦争計画を立案する時に旅順の攻略も検討していました。ですが海軍側から旅順の管轄は海軍であるとして陸軍による攻撃は不要とされました。明治30年までは海軍軍令部は陸軍参謀本部の下部組織だったのですが、31年から同格となりました。その為、陸軍は海軍の作戦計画に対して口出しが出来なくなったのです。よって対露戦では陸軍による旅順攻撃は行わないということになったのです。それに伴い、対要塞戦の研究も中止されました。
 いざ戦争になってみると、ロシア軍第4、第7東シベリア狙撃師団は南山から旅順に後退し、要塞に立て篭もるという事態になりました。また太平洋艦隊も湾内に篭もるという事態になったのです。そこで大本営は、当初第二軍左側面を作戦行動域として編成を進めていた第三軍を急遽、旅順に向かわせるということになったのです。無論、陸軍参謀本部には旅順攻略計画案は存在しませんでした。第三軍は砲兵出身の伊地知少将を参謀長にし、対要塞戦の研究を遅ればせながら始めたのです。
 第三軍司令部は遼東半島上陸後、着実に拠点を制圧しながら旅順へと迫っていきました。また、旅順から逃亡してきた清国人労務者に報酬を与えて要塞の構造を聞きだしたのです。それにより導き出した攻撃方法は正攻法(工兵による要塞の爆破と重砲による砲撃)によるニ龍山、松樹山の突破作戦でした。ですが、早急なる攻略を希望する海軍と満洲軍総司令部の要求により強襲突撃作戦に変更させられたのです。これは第九、第十一師団が主力となって盤龍山を突破する作戦でした。一方で第三軍は第一師団をあくまでも当初の計画に使う事にし、水師営へと向かわせます。また、重砲隊も移動は行わず、ニ龍山・松樹山への砲撃を行い、盤龍山攻撃部隊への支援は行いませんでした。
 第一次総攻撃が開始され、第一師団は水師営を攻略します。第九、第十一師団は盤龍山・望台山頂の攻略に成功します。ですが、この直後、ロシア軍が反撃に出て山頂を駆逐されました。ロシア側は練度が高く、近接戦闘(白兵戦など)が得意だったのに対して、日本側は近接戦闘の訓練が不足しており、ロシア側の銃剣攻撃に対して後退するしかない状態でした(余談ですが、日露戦争中、日本側は一度も銃剣戦闘を行っていません)。
 9月、28cm砲設置場所確保のため第一師団を中心に水師営方面の占領地拡大の作戦を開始します。これによりてん盤溝、高崎山が攻略され、同時に二百三高地への侵入拠点が確保されます。
 9月末、28cm砲がてん盤溝に搬入されます。この時点で既にニ龍山・松樹山の重砲陣地は破壊されていたようです。何故ならてん盤溝はニ龍山・松樹山から砲撃可能な場所にあるにも関わらず、工事、設置が行えています。
 10月、正攻法により総攻撃が再度行われます。その結果、望台の制圧に成功します。ですが、ここに問題が生じました。第一師団の受け持ち区域が大きくなり過ぎて、第一師団と第九師団の間に隙間が出来てしまったのです。そこで中村覚少将司令官とする特別支隊が結成され、その穴を埋めたのです。それでも戦力は不足しており、第七師団を補充しました。
 11月、全面的な攻勢を開始し、特別支隊は2キロ以上の前進に成功しますが、敵最重火力地帯を前進したため壊滅的打撃を受けます。また、海軍側の要望により二百三高地への攻撃を余儀なくされます。この地域のロシア軍はほとんど手付かず(第4東シベリア狙撃師団管轄)でした。そこに第七師団を送り込み一騎討ちの対決となります。両軍ともほぼ壊滅的損害を出しましたが、ロシア側の戦力が尽いて二百三高地が攻略されました。続いて東北正面も随時陥落し、明治38年1月に旅順開城となります。
 旅順開城は白人が有色人種に降伏したのが250年ぶり2度目のことで、近代では初めての事でした。同時にこのニュースが世界中に飛び回ると日本の軍事国債が飛ぶように売れ、戦費調達が出来るようになったのです。また、ロシア軍降伏のニュースはロシアの支配下にあったフィンランドや抑圧された国民を勇気づけ、1月13日には首都で「血の日曜日」事件が発生、フィンランドでは独立運動が起こります。
 2月第三軍は北上を開始します。ですが、第一師団の松本師団長が過労で急死してしまいます。2月末、審陽郊外に布陣し、ロシア側は防衛ラインを広げざるを得なくなります。
 3月、ロシア軍は潰走し、満洲軍総司令部は奉天城への入場を果たすのです。

乃木の功績としては次のことが挙げられます。
1・ロシアの要塞を僅か5ヶ月で落とした
 (通常は1年から2年かかります)
2・近代では初めて白人を降伏させた
3・その降伏により戦費の調達が容易になった
4・奉天戦に間に合った

これでいかがでしょうか。
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この回答へのお礼

 なるほど~。
 司馬氏はずいぶん悪意を持って書かれたのですね。
 死傷者や二百三高地を最初に弱点と見抜けず正攻法で行くしかなかったことをさっぴいても、結果を見るとやはり大きな仕事を乃木将軍ははたしていたのですね。
 ありがとうございました。

お礼日時:2005/05/27 18:30

軍部は日露戦争の結果を『公刊日露戦争史』という形で発表した。

これによれば、乃木は苦労に苦労を重ねて203高地を占領、旅順の艦隊を撃破したかのように書かれている。『乃木あればこそこの勝利があった』としたかったのであろう。そうしなければ、乃木に旅順を攻撃させた自分達の誤りの責任をとらねばならなくなってしまう。その為に乃木を優れた将軍として取り扱わねばならなくなった。また二人の息子を戦死させたが、悲しみを公にはしなかったことも、かえって国民の共感をあつめた。

 乃木将軍夫妻の殉死事件でも、夫妻ともども粛然と自決したかのように報じられたが、かなり前の雑誌(婦人公論だと思う)でとりあげられた、当時の調書によれば、
・夫人のほうには当日まで自決の意志はなかった。「これからは芝居でも見に行って楽しく暮らしたい」とひとに語っていた。
・夫人が自決を迫る夫から逃げまわった形跡が家の廊下にあった。
・「自決」の際、夫人が抵抗した痕跡が遺体にのこされていた。

 もちろん、こういった情報が当時報道されることはなく、戦後も長い間誰からも触れられることもなく、「軍神」美談として語られることとなった。

 
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この回答へのお礼

 回答ありがとうございます。
 その後の報道にそんな意図があったとは、実感していませんでした。みんな乃木将軍に気を使っていたのですね。
 殉職に関しても、凄い話ですね。今考えると、立派な殺人事件でびっくりします。
 ありがとうございました

お礼日時:2005/05/27 17:21

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