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私は少し錯誤の勉強をしている者です。単刀直入にいいますと、判例は法的符号説をとっていますが、私は、具体的符号説の方が合理的だと思います。そこで、自分は法的符号説の考えをお持ちの方は、なぜ法的符号説の方を自説にしているのか詳しく知りたいです。どうぞ、私のわがままな意見にお答えできたらと思います。

A 回答 (9件)

こんにちは。



事実の錯誤では、客体の錯誤と方法の錯誤があると
いわれていますが、
客体の錯誤では、法定的符号説と具体的符号説ともに
故意が認められると主張しています。

故意が認められるかどうか判断がわかれるのは、
方法の錯誤です。
法定的符号説では、故意を認めますが、
具体的符号説は、この錯誤の場合に故意は認められないと主張しています。
法定的符号説をふかく理解したうえでの説明はできませんので、
法定的符号説が故意を認める一般的な理由だけになるとおもいますが、

法定的符号説が、客体の錯誤でも方法の錯誤でも、
表象と事実の間に重要な錯誤はなく、故意が認められるとする理由は、
(1)行為者は、構成要件のうえで同じ評価をうける事実を
 認識すると、行為を実行してよいかどうかの規範の問題 (たとえば、“人”を殺すなかれ)
 に具体的に直面する。
 そしてなされた事実(“人”がAであろうともBであろうとも同じ“人”だ)
 について故意を認めるべき。

(2)具体的符号説が、客体の錯誤で故意をみとめることは矛盾している。
 具体的符号説は、客体の錯誤ではその錯誤を
 重要なものとみなさない(=故意を認定)のに、
 方法の錯誤では、その錯誤を重要なもの(=故意を否定)とするのは
 一貫していない。

と思われます。

なので、錯誤が生じた過失犯を想定していない犯罪については、
具体的符号説では不合理?な結論を出してしまう?
という問題があります。

蛇足ですが、この批判論の前半部への反論(過失犯を規定していない犯罪は除いて)
として、具体的符号説は、
行為者の動機までは故意の中で考慮しておらず、
“その人”を狙ったかどうかが問題なので、
一貫していないとの批判はあたらないとしています。
たとえば、客体の錯誤で具体的符号説が故意を認める事例ですと、
ある日に講演会に出席していた総理大臣を殺害するつもりだった、
しかし当日その現場にいて、総理大臣だとおもって狙った“その人”は、
司会者だった。
この場合、その司会者の人への故意は認められるということになります。
逆に方法の錯誤の場合。
たとえば、Aを殺害しようと発砲したが、Bに命中してBが死亡した場合。
故意を認めないのは、“その人”を狙っていたが、
認識の範疇外の“べつの人”にあたったのだから、
Aについては殺人未遂、Bに対しては過失致死が成立するということになります。

後半部分の過失犯の規定のない犯罪についての反論は、
ちょっといまは記憶が不鮮明なので、うまく説明できません。申し訳ございませんー。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。こんな長い文をくれるとは感謝のかぎりです。参考にさしていただきます。

お礼日時:2005/08/16 02:10

私は、#4で質問者さんが補足でリクエストされたこと(なぜ、法定的符合説を自説にしているのか、それを妥当性とする理由を教えて欲しいと言うご希望)について回答しました。



私自身は、法定的符合説を妥当と考えるので、その立場から初学者にも分かりやすいようにかみ砕いて論述してみたつもりでした。

これが教科書的で無内容だとのご指摘ですので、その点を率直に認めた上で、私自身の講学のためにも、より説得力のある法定的符合説にたった論証を是非先生にご披露いただきたいと思います。よろしくお願いいたします。

なお、表記の指摘は質問者さんへの老婆心のつもりでしたが、先生の気に触られたようでしたら、この点もお詫びします。
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 また、削除されるかもしれませんが、No7さんのような大先生がおられるようなので一言(でもないですね)。



 言葉の間違いや、「法律の錯誤」の表題で、表記両説を並べていることを、いちいち問題にしていたら大変です。そんなことは、指摘するまでもなく言わずもがな。大人らしく目をつぶる。

 言わんとされているのは、たんに体系上からの形式的な理解を、別の言葉で指摘されているだけです。質問者の求めているものとは違います。

 しかし、構成要件的故意も責任要素としての故意の中身をなすものでしょうし、かつ、認識の問題である以上、他のみなさんが言われていること以上に付け足している記述は残念ですが見あたりませんでしたね。
 学説で言われている故意の実質化の流れを考えたら、事実の錯誤論で、具体的符(号)説の主張は、当然の出現ですし、妥当性もあります。故意を単なる抽象的なものと見るなら、あまりに浅薄です。社会的な意味の認識なくして、該当性段階でも「構成要件的故意」ありとは言わないでしょう。錯誤論で問題にしているのは、構成要件的事実の認識ですよ。それがどの程度まで必要かというのが議論のポイントです。構成要件が「人」と書いてあるから、構成要件該当性の段階では、「人」を表象していれば足りるというのは、無内容です。両説の争いの元にあるのは、そんな空虚な体系上からだけの理由ではないですからね。まだまだ、教科書ですべて分かったつもりレベルです。

 試験には割り切りが必要です。質問者の方が理解している理由付けで十分です。
 No7のかたは、受験生ですかね?自信なしとしているのだけは評価できます。
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      「♪故意とは何でしょう?」



 まず、お小言。法律を勉強する者は、とにもかくにも用語を正確に使わなければなりません。「具体的符(号)説」「法定的符(号)説」「(用)件」、こんな表記を論文やレポートですると、大減点ですよ。それだけで議論の意味を本当に理解しているのか?と読み手に疑われてしまいかねません。変換ミスなのでしょうが、意外と大事なことです。

 では本論。まず、ここで問題となっている「故意」とは何なのか?ここを見失うとピントがはずれますから要注意です。

 違法な行為を行った行為者に対する非難、これが「責任」です。故意は、その「本籍」を責任段階に置いています。

 ところで違法で非難に値する(有責な)行為というのは世の中に色々ありますが、その中で法が特に刑罰を科して禁ずべきと考えた行為を選んで類型化したものが、構成要件です。そして、この構成要件においては、例えば、およそ人を死なせる行為でも、殺意をもって死なせる行為と、誤って死なせる行為では、違法性が大きく異なります。

 そこで、故意は責任段階に本籍を置きつつ、構成要件の主観的要素として、犯罪の類型化に重大な役割を持つこととなります。これが、構成要件における故意、すなわち構成要件的故意です。

 本問の事実の錯誤において問題とされているのは、あくまでもこの構成要件的故意です。

構成要件的故意は、構成要件要素としてそれが「有るか・無いか」だけが問題とされているのであって、行為者を「個別具体的に非難できるか否か、またその程度」とは関係有りません。そのような問題は、責任段階において考慮すべきであって、未だここで考慮するべきではないからです。(ここを誤解している人もいるようですが、要注意です。)

 では、構成要件的故意とは、どのようなものなのでしょうか?
これは、構成要件に規定された、犯罪事実(客観的構成要件要素=行為、主体、客体、結果、因果関係、行為時の状況等)を表象(認識、結果・因果関係については予見)し、認容することです。このような構成要件的故意が有れば、行為者は規範の問題(こんなことをしても良いのか?と自省し思いとどまる機会)に直面しているので、違法性・有責性を一般的に有している行為の類型、即ち構成要件該当性が認められるからです。

 このように構成要件的故意は、あくまでも構成要件該当性の問題なのですから、その存否の判断は、構成要件に規定されている文言を基準にすべきであって、それで十分であると考えられます。つまり、例えば刑法199条が「人を」殺したるものは…と規定している以上、問題となるのは客体が「人」で有るかどうかだけが重要なのであって、「Aと言う人か、Bと言う人か」は問題ではないと言うことなのです。

 したがって、Aを殺害しようとしてAを狙って拳銃を発射したところ、弾がはずれて傍らにいたBに命中してBが死亡したという方法の錯誤においても、刑法199条に規定されている構成要件、即ち「客体が人である」「行為が客体の生命を侵害するものである」「結果が人の死である」「因果関係:狙撃→命中→死亡の大枠」等、客観的構成要件要素についての表象・認容は認められますから、Bが死亡したことについて行為者に殺人既遂罪の構成要件的故意を認めてよいと言えるのです。また、Aに対する殺人未遂罪の構成要件的故意も認められます。

 ポイントは、この事実の錯誤の問題が、構成要件該当性・違法性・責任のどの段階の話なのかを見失わないことです。この問題は、構成要件該当性の問題ですからその基準は一般的に判断すべきであって、構成要件の規定する文言をもって基準とすればよく、それ以上に細かく個別具体的に判断しなくてもよい。だから、具体的符合説ではなく、法定的符合説が妥当だと考えるのです。

 …私の理解はこんなところです。でも本当に難しい問題ですね。こういう素朴な疑問に答えるには、大変な勉強がいります。良い勉強になりました。もしよかったら感想など聞かせてください。とても難しかったし、長文になってしまったので、自信無しにしておきます(笑)
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 回答ではありませんので、意に添わない場合は悪しからず無視してください。



 この手の問題は、最終的には政策的判断に帰着する部分がおおきいのです。解釈論をしていて、ときおりあります。

 あなたが司法試験受験生なら、判例通説と有力説いずも理解しておき、出題された事実関係に含まれる「出題意図」がいずれの立場で書くとき、指摘しやすいか、論文を書く現場での「対応力」(出題意図に答える能力が試験で計られているのです)の方を磨くべきでしょう。

 法定的符号説を採用すれば、今まで言われている以上の説明は理論的には難しいです。試験委員もそれ以上の理由付けを要求するとは思えない。理由付けは大きなものひとつで十分です。

 殺人事案で、(概括的故意の存在を証明できないとき)、故意を流用し、政策的故意を認める法定的符号説は、実際問題の処理という場面で妥当性を発揮できます。数故意認めることに伴う不都合は、苦しいけれども観念的競合の規定の存在で現実的妥当性を図ることも可能です。

 すべての問題にクリアーな理論付けをすることはできませんし、不要です。試験に対応することが目下の関心事であれば、そこそこの理解で、すべて学説には問題があるということを理解しておくだけでいいのです。
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>しかし、故意とは行為者が悪いと分かっていたのに、行為に及んだことに対する非難です。




>とすれば、Aを殺すことについては決意していたのだから、十分に行為者を非難できます。(1)

上の2文の間には論理に飛躍がありませんか?ここの理由付けが甘い(ない)と法定的符合説の論証としては弱いですね。
第1文は、具体的符合説にも当てはまる理由ですから、これだけをもって法定的符合説の理由にするのは、ナンセンスですよ。

この回答への補足

なるほど。よく理解できます。専門家の方だけあります。no.1さんたちや私の会話をふまえまして、回答者さんはどう思いになっているのかお聞きしたいです。申し訳ないですが、詳しく法定的符号説の方がいいことを理解さしてもらえないでしょうか?

補足日時:2005/08/16 02:05
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具体的符合説でも、客体の錯誤の場合は故意を阻却しません。



法定符合説と具体的符合説は、方法の錯誤の場合においてのみ、結論が異なります。

要するに、Aを狙ってピストルを発射したが、Aに当たらず、Bに当たり死亡したとき(方法の錯誤)、Bに対して故意を認めるべきかが問題です。

確かに、Bを殺すつもりは無かったわけですから、Bに対する殺人罪を認めるのはひどいとも考えられます。

しかし、故意とは行為者が悪いと分かっていたのに、行為に及んだことに対する非難です。
とすれば、Aを殺すことについては決意していたのだから、十分に行為者を非難できます。(1)

つまり、構成要件的に非難の度合いは同じだろうと考えることができます。

また、具体的符合説では、器物損壊など、未遂犯処罰の規定がなく、過失犯もない場合に妥当な結論を導けません(Aの松の盆栽を損壊するつもりで、梅の盆栽を損壊した場合、不可罰になってしまいます)。(2)

したがって、法定符合説が妥当であると考えます。
(1)が理論的な理由、(2)は価値判断です。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。故意とは、行為者が悪いと分かっていたのに、行為に及んだことに対する非難です。でも、それは、少しあいまいな事ではないでしょうか?また、故意は法定的符号説によると、一定の客体に対して自己を現実にしてゆく意思であるが、主観面と客観面と構成要件が抽象的に一致するだけで既遂とみとめていいのかも疑問だと思います。思うに、価値的判断を重くすべきという意見で通そうとすると、本来の罪刑法定主義とは違った結果を生むのではないでしょうか?また、法定的符号説をとると、一つの故意に対して、二つ以上の故意犯の成立を認め、責任主義、刑法38条に反するのではないでしょうか?まだまだ、私も勉強不足なので一概にはいえませんが、ありがとうございました。

お礼日時:2005/08/16 02:04

どうして具体的符合説の方が合理的だと思われるのでしょうか?

この回答への補足

そうですね。話せばかなり長くなる気がします。まず、私は回答者さんの意見からききたいと思います。

補足日時:2005/08/16 00:29
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例えば


Aを殺そうと思って、実行に移したところ、その被害者は実はBだったという場合(客体の錯誤)

具体的符号説からは、
Aに対する故意しかないので、Bとの関係では犯罪不成立となる
客観的にみて「Bさん間違えましたすみません」ではすまない問題。
それにAに対する殺人未遂はどうなっちゃうの?
よって具体的符号説が不合理。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。でも、回答どおりにはならないのではないでしょうか?同一構成的用件内では、具体的符号説でも(その人の死が)問われるわけで、法的符号説では、(およその人の死が)問われるわけであります。だから、具体的符号説は(その人の死)が大事なわけで、その人が誰がであるかは特に重要ではありません。この件に関しては殺人の故意は得られるはずです。

お礼日時:2005/08/16 00:28

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