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法律では直接的な因果関係で事件が起こった場合のみに裁かれます。
例えば
・ある人が前方不注意の事故をおこした。
・ある人が友人と喧嘩になってしまい危害を加えてしまった。
とか。

しかし、前方不注意に至ったのは、間接的には仕事で大失敗をし大失敗をした原因が同僚のミスが原因だった。

2番目の喧嘩に至ったのは、妻の機嫌が悪く、友人と会う前に夫婦喧嘩をしてしまって自分の機嫌が悪かった。その妻が機嫌が悪かったのも姑との相性が悪く、ついつい機嫌が悪くなってしまった。
友人の方も会う前にチンピラに絡まれ機嫌が悪かった。

上記2つとも創作ですが、
人が人に影響を与えるって実はものすごいことのような気もします。
極端な話、朝すれ違った人やアドバイスを受けた店員の話など些細なことでもその後の人生に大きく影響を与える場合だってあると思います。

南の国が餓えているのも、日本人が繁栄しているからかもしれません。

そこで気になるのは、自分が他人に悪影響を与えていないか、他人の人生に影響を及ぼしてはいないか、テレビなどで見る、不幸な人が不幸になったのは自分が
影響(因果関係はものすごく薄いとは思いますが)していないか。など考えてしまいます。

人が人に与える影響について皆様はどう考えられますか。
出来れば合理的で気が軽くなる考え方を教えてください。

(カテゴリー的には、哲学か、法律か、メンタルヘルスか迷いましたが、哲学かな?)

A 回答 (5件)

アフリカのシオラレオネでは新生児の3人に1人が死んでいるという現実に対して自分が責任を負うと考えるなら、同じ理屈で、アメリカの大富豪が幸せに暮らしているのは自分のおかげだと考えることができます。


ビルゲイツやウォーレンバフェットが自分に何かを与えてくれるべきだと考えるなら、それと同じ程度に貧しい人々に何かを与えるべきです。しかし彼らが自分に対して何かを与える責任を負うわけではないと考えるなら、自分が世界の貧困に対して過分な責任を負うのではないかと考えるのはアンバランスです。

影響の程度という問題を考えなければ、私自身は世界の全てに影響していますし、世界の全ては私に対して影響しています。世界に対して自分が全く無関係な善意の第三者であるとは考えるべきではないと思います。
しかし世界の中で過剰に自分自身の存在を意識することは、見方を変えれば自意識の過剰であり傲慢でもあります。

世界との関係は意識すべきなのでしょうが、自分の手の届く範囲で無理なく出来ることをすれば良いのだと思います。そういったバランス感覚が「普通」ということの考え方です。法律も「普通」な考え方に帰結することを目指しています。
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この回答へのお礼

倫理的にも論理的にも感情的にも今の私にはALLOKです。
助かりました。
>自意識の過剰であり傲慢でもあります。
そのとおりです。

お礼日時:2005/10/04 21:52

質問者様の疑問は私がいつも日々課題として注意を払っている事なのでとても引き付けられました。


私の個人的な解釈をどうか聞いて下さい。

私は人から人に伝わっていく影響を「エネルギー」(バイブレーション)と考えています。巷でよくいうところの「波動」です。

これは本当に恐ろしいほど簡単に人から人へ伝わり、強い波動ほど人に大きい影響を与えると思います。

感情とはエネルギーだという説を読んだことがあります。ですから、人の目に見えないだけで、ありとあらゆるポジティブな又はネガティブな感情のエネルギーが丁度、携帯電話の電波のように空間に満ち満ちているのではないでしょうか。

その中からどれを選ぶかでその人の1日の気分が決まるかもしれません。
人は皆、自分にピッタリの、しっくりいく波長(波動)を無意識に選んでいると思います。慈悲深い人は慈愛の波動を・・・怒りっぽい人は怒りの波動を・・・自信の無い人は自信喪失の波動を・・・

自分の感情に近い波動が、親和力の法則から自動的に引き寄せられると思います。
ですから誰でも自分の感情に気を付けて、どんなエネルギーを出しているのかをいつも分かっているようにならなくてはいけない・・・と思っています。

ネガティブな波動を出すと、同じようなネガティブなエネルギーが親和力の法則で引き寄せられてきます。(暗い人生)

ポジティブな波動を出すとポジティブなエネルギーが引き寄せられてきます。(明るく楽しい人生)

人も同じです。似たような人同士が親しくなるでしょう。気性が合う人同士集まるでしょう。

ですから常に自分の感情を明るく、慈悲深く、謙虚に保つ様心がけています。とっても難しいですけど・・・

質問者様のたとえ話のような事は現実問題として多々あると思います。多分誰でも経験あると思います。
それではどうやって人からの負の感情から身を守ればいいのか・・・

以前読んだ本(サネヤ ロウマン著 パーソナル・パワー)に相手に対し慈しみ(愛)のエネルギーを送ればどんな負のエネルギーも防ぐ事が出来ると書いてありました。
つまり、相手を未熟な人として同情し、理解し、慈しめば相手のエネルギーは慈愛のエネルギー乗って、相手に戻っていくということなのでしょう。相手はこちらの慈愛のエネルギーを拒むことは出来ません。誰でも心からの慈愛(慈悲)を拒むことは出来ませんから・・・
成る程と思いますが、これって人格者にしかなかなか出来ませんよね。私にはトテモジャナイケド難しい・・
でも、気を取り直し、試してみています。

取り留めない内容になってしまいましたがこんなことをいつも考えています。

最後に南の国の苦しみは回りまわって必ず先進国に何らかの影響を与えると思います。エネルギーは伝わりますから。ですから人道的にも、自分の為にも、苦しんでいる人に手を差し伸べなければなりません。
見殺しにする負の波動や、救いたいという慈愛の波動はどちらしても自分に必ず戻ってきますから。
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この回答へのお礼

>私は人から人に伝わっていく影響を「エネルギー」>(バイブレーション)と考えています。巷でよくい>うところの「波動」です。

波動ですか。確かに相性のように合わない人は生理的に合わないですよね。
それに同類を引き寄せているような気はいたします。
波動は確かにありそうですが、
>救いたいという慈愛の波動
でも救えないときは救えないので。。。

ごめんなさい。うまくコメントできません。
でもおっしゃるとおりの部分もあると思います。
ありがとうございます。

お礼日時:2005/10/04 21:48

#1さん、#2さん、とても素晴らしい回答だと思います。


あまり難しいことはよく理解していないのですが、僕が生活で心がけていること
を書きたいと思います。

事故を起こしてしまったり、喧嘩して危害を加えてしまったり…全て、自己管理
の問題でもあります。重くなるようなことを書いてすみません。
大失敗をした同僚のミスが、自分に影響を与えて事故を起こしてしまった。
夫婦喧嘩、姑とのこと、チンピラに絡まれたこと、それらが自分に影響を与えて
機嫌を悪くしてしまった。

人が人に影響を与えるって実はもの凄い!ならば、僕は人にいい影響を与えたい。
そう思います。

人から受ける影響って、もの凄いですよね。ネガティブな人と一緒にいると、こ
っちまでそうなってしまいそうで、まいってしまいます。ただ、僕がそこで思う
のは、それは受身な考え方なんです。ネガティブな人に、ポジティブな影響を与
えることができる可能性は、自分にもあるんです。全体主義で考えていけば、み
んなでひとつ、世界はひとつです。そこには緻密な因果関係があると思います。
だからこそ、自分自身が、責任を持って、ポジティブな影響を周りの人に与えて
いけば、他人が救われ、そして自分自身も救われるんじゃないかなと思うんです。
あくまで理屈ですが、人間みんなが戦争に反対すれば戦争はなくなります。本当
にやったね!!でも、現実はそれができないわけですが…。

南の国が餓えていても、逆に日本にもホームレスの方など、飢えている人はいる
と思います。(年間数百人か、数十人いたはずです)社会問題を考えだしたら、
ほんとうにキリがないぐらい多くの問題があります。その中で、自分はどれだけ
ポジティブないい影響を与えることができるんだろう…。

自分の影響が、他人にとっていい影響か、悪影響かは、相手の受け取り方次第で
もあります。工夫する人は、悪い影響を反面教師としてプラスに転換する人もい
ると思います。自分がいい影響を与えていると思っていても、他人にとっては迷
惑な話もあると思います。ゆえに、結局は、自分のことは自分で責任を持って自
己管理し、独善的にならないためにも、多くの人と交流し、相互理解と正しい答
えを追求することこそ、社会的存在として、いい影響を与えることができるよう
になるんじゃないかなぁと僕は思っています。

僕がいつも思うのは、自分だけが幸せになっても、自分にとって大切な人が不幸
で苦しんでいれば、僕は幸せになれない。逆に、自分の周りの人たちが幸せでハ
ッピーでも、自分にとってどうしようもない苦しみがあって不幸になっていれば、
それは幸せとはいえない。つまり、自分が幸せであるためには、自分が幸せであ
ると同時に他人も幸せでなければならない。そう僕は思います。
なので僕は、自分の周りの人に、自分がプラスだと思ったこと、ポジティブだと
思ったことを言ったり、したりします。お互い刺激しあって、元気を交換しあっ
て、交流し、成長していける環境こそ、僕が望む社会です。

自分がどこまで人に影響を与えるのか、自分にもわかりません。でも自分がネガ
ティブに悪い影響を発すれば、確実に自分は不幸な状態になっちゃうと思ってい
ます。類は友を呼ぶというか…。少なくとも、悪い影響は受けないように、あり
たいと思っています。あ~、もっと大きな人間になりたい。(笑)
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この回答へのお礼

力のこもった長文回答ありがとうございます。

>工夫する人は、悪い影響を反面教師としてプラスに転換する人もいると思います。

自分がいい影響か悪い影響かわかりませんが、相手の取り方次第ですよね。

受身的な発想をやめればよいのかもしれませんね。
参考になりました。

お礼日時:2005/10/04 21:39

お邪魔します。


#1さんの、前半部分、「責任転嫁・・・やったね」以前は
多いにありえる話しで、私も多分そうだろうと考えます。

但し、言語能力・自我意識・性意識等は、成長の過程でほぼ完成します。
一旦、私と言う存在が出来れば、責任転嫁は出来ません。

ですから、南の国で植えている人に対して、責任があります。

ところが、私は、全知全能ではないです。
「南の国で飢え」これは、たまたま、自分が気付いただけで、
北でも西でも東でも、上でも下でも、知らない事が多すぎます。

つまり、たまたま聞いた「南の国」に関心を持つだけでは、不公平。
私に出来る事は限りが有る、言い換えれば、能力が無い。

これで気が楽になります。
法的にも、責任能力の無いものに対して、罪を問いません、やったね(笑。


たた、まだ、つづきは有るのですが、誰かにお任せ、この辺で失礼します。
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この回答へのお礼

確かに責任能力はありません。
南の餓えた人には申し訳ありませんが
いつか大金持ちか、大物政治家になったときに出来る範囲で責任を果たしたいと思います。

これで少し気が楽になりました。やったね!!
(自分の責任逃れの解釈のようで少し悪い気もしますが)

運命論的には少し疑問がありますが、とても参考になりました。

お礼日時:2005/09/11 07:12

気が軽くなるか重くなるかのどっかですが、貴方の言っていることを敷衍すると、自分に責任がないという事を言っていることにもなります。

なぜならば他者からの影響であるから。

人は生まれた時に自我が無く、親から決別して自我を生成していき、とある期間から自分をもつわけですが、その自分と言う存在は他人を真似て得たものです。

たしかに自分は自分を意識して、他人とは別なものであると思い込んでいますが、その自分はすべて他人によって作り出されたものなのです。

外界のモノの影響をうけて生きてきた個々の人間に責任はありません。なぜならば、すべてその人(自分)の人格や立場は、育ち生きてきた環境の中で決定付けられたものです。

ならば、自我があろうが無かろうがどんな影響も自分から発生したものではないならば、自分に責任はないんです。究極の全体主義と唯物論で、責任転嫁してみました。これで責任は逃れて軽くなれます。やったね!!

しかしながら完全な自我を認めるならば、自分の理由で動き、その行動によって他者から受けられる利や害をすべてひきうける、"自由"を得てして生きていかねばなりません。

南の国、北の国、飢えているのは、
彼らの自由意志でもあるんのです。

責任の所在を探す手立てにしてみてください。

この回答への補足

朝、読み返してみたところ、前半部分はなんとなく理解できました。やったね!

他人によって作られてきたとすれば、罪人の罪も問えなくなるような気もしますね。
でもどこかに責任がないと社会が納得しないし、人の感情も抑えられないということで裁いているのでしょうか?

陪審員制度が恐ろしい!?

補足日時:2005/09/11 06:57
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
>他人によって作り出されたものなのです。
などはとても参考になりましたが、
全体的に私には難しすぎてわかりません。

>南の国、北の国、飢えているのは、
>彼らの自由意志でもあるんのです。
この辺はなぜこうなのでしょうか?

お礼日時:2005/09/11 02:12

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