今、受験で現代文に取り組んでいるのですが、私は村上陽一郎(敬省略)の科学哲学の本をしばしば読んでいるのですが、河合隼雄が村上陽一郎の人間科学の研究の仕方を批判されていました。
河合隼雄をは人間の科学が真の分析法で、哲学は誰が学んでも同じ答えが出てくると解説されました(○ゼミ講師に)
哲学とは本当にそういうものなのでしょうか?
低次元な質問ですみません。

このQ&Aに関連する最新のQ&A

A 回答 (3件)

 


  実は、わたしは村上陽一郎については、何も読んだことがありません。ただ、彼の方法についての批判というようなものは、少し耳にしたことがあります。他方、河合隼雄の方は、かなり本を読んでいて、彼の立場は或る程度分かっているつもりです。村上氏について何か著書を読んでいましたら、この質問に答えることができたのですが、読んでいないので、回答はできないと思ったのです。ただ、どういう批判を河合氏が行ったかは、ほぼ予想が付いたとも言えます。
 
  補足回答を読みまして、「哲学とは何か」というような大問題についての、ごく短い簡単な私見を述べさせて戴くこととします。
 
  >> 哲学とは本当にそういうものなのでしょうか?
 
  と尋ねられていることからも、哲学とはどういうものでしょうか、という広い意味の質問を、村上氏の「科学哲学的人間科学」に対する河合氏の批判を具体的きっかとして尋ねておられるとも解釈できるからです。
  
  そこで、まず知らない方の村上氏ですが、氏は「科学哲学」の立場に立ち、「人間科学」の研究をしているとのことですが、科学哲学とは何かということです。これは、「科学的な哲学」ではありません。村上氏の場合は、あるいはそうなのかも知れませんが(はっきり分かりません、というか知りませんので確認できません)、「科学哲学」というのはわたしが理解する処では、科学の哲学的基礎付けを行う「哲学の範疇」のことのはずです。フッサールの哲学は、現象学と普通言われ、科学哲学とは言われませんが、フッサールは、元々科学者で、「真理」の客観的基礎付けはできないのかと考え、現象学的還元というものを提唱し、現象学的還元によって、「真理」を人間は把握できるようになるはずだとの構想で思索し研究したのですが、結果は、「真理」を客観的に基礎付けることはできない、ということになります。
  
  ポパーの「反証可能性」を科学の条件とする科学哲学が、科学の哲学的基礎付けとして、現在では、有効とされているのだと思います。
  
  しかし、科学哲学と呼ばれるものは非常に多様であり、またニュートンの物理学が立てられたのが17世紀ですが、その頃すでに、あるいはそれ以前から、科学の哲学的意味や、科学の論理的構造などについての研究や考察はあった訳です。20世紀であれば、ラッセル・ホワイトヘッドの大著 Principia Mathematica は、数学を論理的に基礎付ける試みであったのですが、これはまた、「論理」とは何かという問題の現代的提起にもなります。ホワイトヘッドの科学論や、ヴィトゲンシュタインの言語の分析は、「論理実証主義」という20世紀の哲学の一つの潮流を生み出し、これが20世紀の科学論・科学哲学において大きな位置を占めているとも言えます。しかし、20世紀には、論理実証主義だけではなく、それとは立場を明らかに異にする、ディルタイやベルクソン等の「生の哲学」があり、またハイデッガー等の「実存主義哲学」があり、ソーシュールの言語学に源を発するとも言える、「構造主義」もあり、それぞれが、相応に科学の哲学的意味というものを提示しようとしたのも事実です。マルクス主義は、科学的唯物論哲学だと称し、総合的な科学と哲学の連関の展望を描こうとしましたし、カトリシズムは、また科学に対し、独自の深い考察を行ったとも言えます。
  
  村上氏は「人間科学」だそうですから、人間の存在についての「科学哲学的解明」を目指しているのだと思えます。しかし、人間科学は、「人間についての《科学》」である訳で、科学であるという条件を前提にしたものと言えます。その場合、村上氏の立場は、「科学としての心理学・行動主義的心理学」にも近いものではないかと推測されます。村上氏の人間科学では、人間の行動を扱うだけではなく、その心理や、また、人間の大脳構造の大脳生理学的・神経生理学的知見を元とした、「人間の存在・意識や思考力/認識や知覚」の構造解明が主要な課題になっているのではないかと思います。このような大脳生理学や神経生理学による科学的知見は、いわば、人間を考える上での基礎資料・データとなる訳で、しかし、それをどのように人間存在の論・基礎付けと解明に位置付けるかは、研究者の立場や方法や思想で多様となります。
  
  河合氏が、「人間の科学」をむしろ強調したのは、「科学」である前に、「人間についての学」は、「生き方 way of life」の問題であり、「人間の存在」は、近代/現代科学的分析の対象として、没価値的・(擬似)客観的に把握できるものではないという認識を示したものでしょう。大脳生理学や神経生理学や行動主義的心理学や比較心理学の知見を元に、何を「人間」について描くべきか、何を人間について把握し了解すべきか、それは、人間は、人間的交通(human communication)のなかで、「誰であるか」が了解されるもので、誰でもない人間についての「何であるか」の科学は、現代科学の方法として、妥当であるかも知れないが、人間を「科学の対象」として分析できるとする考えがむしろ、傲慢なのであり、間違っており、科学の検証にも配慮した「人間の学」または「魂・心の学」が本来の人間存在の研究方法であるというのが、河合氏の主張であり、考えなのではないでしょうか(これを、「人間科学」に対し、「《人間》の科学」と河合氏は述べたのでしょう)。
  
  これについては、「心理学とは何か」という質問に答えた、わたしの回答のなかで、「科学としての現代心理学」と、「心・魂の学としての心理学」という二つの心理学について説明しました。以下のURLにその文章があります。
  http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=173615
  
  「哲学とはどういうものなのか」については、以下に、或る質問の回答として準備したものの、回答として出さなかった文章での、「哲学と科学」について、わたしなりにまとめた形の短い説明があります。(こんな大問題を、簡単に勝手な言葉で説明するわたしは、かなりいい加減なのだと思いますが)。
 
======================================================================
 
  まず、「哲学」とは、philosophia ですが、これは元々「愛智」の意味で、このような用法は、「魂への気遣い」を述べたソークラテースから始まっているとも言えます。ソークラテースは、「人間にとって善とは何か」ということを考えつづけた人です。ソークラテースは、「言葉嫌いになるのはよそう」と述べたと、プラトーンが伝えています、この場合、「言葉」は、ロゴス(logos)のことで、これは理性とも知性とも、ものごとの理(論理・原理)とも言える概念です。つまり、「論理嫌いにならないようにしよう」と、ソークラテースは言ったのです。
 
  逆に言うと、「論理」や「知性」が哲学においては重要であるということになります。哲学はその原義、その起源から言えば、世界をいかに把握するかという方法において、論理や知性に基づいて探求するという面と、善とは何か、従って、人はいかに生きればよいのかの二つの大きな柱があるとも言えます。哲学は、自然現象の観察とその理性的・論理的解釈=把握である「自然学 Physica」と、アリストテレースの書物の呼称からその名が来た、世界や人間、存在者の存在の根拠や、ありようの機構を超越的に求める「形而上学 Metaphysica」と、人間の生き方を尋ねる「倫理学 Ethica」の主に三つの基本主題から成り立つことになります。
 
  哲学とは、従って、世界把握の論理的方法であり、形而上学的問題把握を持ち、また倫理学的な問題把握を持つということが分かります。これがとりあえず哲学です。
 
  次に「科学 science, scientiae」とは、元々分科学の略ですが、西欧の言葉の起源からいうと、これは「知識の学」となります。「知識」とは何かというと、scientia(スキエンティア)であり、これはサピエンティア(sapientia)の対語ともされ、サピエンティアとは、智慧・叡智的知識で、善とは何か、共同体と個人の関係の理想は何かなどの智慧に属する知識の謂いです。サピエンティアは、哲学における原義「愛智」に対応し、これを問題にするのが哲学であるとも、特に、善を尋ね、人の行為の規範を求める倫理とは何かを問うのは、「倫理学」になります。しかし、科学は寧ろ、「自然学」に近く、先の哲学の三つの主題の一つである自然学分野を扱うものだとも言えます。科学は、客観的に(複数の人のあいだで、そうだと)認められる現象を元に、世界の像を部分的に築き、これらの部分像の総体として、世界のありようと科学的本質=原理を提示する学問となります。ポパーは科学の定義を立てましたが、それは客観的に検証可能な、現象についての理論であり、「反証可能性」をクリアーしている理論となります。哲学の三つの主要主題の一つである「自然学」は、科学が今日では扱い、更に倫理学の課題であった部分を、法学・社会学・経済学・政治学などが部分的にカバーしているとも言えます(哲学の主題を科学が囓り取ったとも言えます)。
 
======================================================================
 

参考URL:http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=173615
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
しかも、若輩者に丁寧に分かり易く、長く述べてくださって本当に有り難いです。
哲学は、奥が深いですね。でも、楽しいですが今の段階では全く愛読者という感じなので、少しは大学で知識つけられたらいいな等と明るく前向きに考えられる糧となりました。本当に感謝しています。

お礼日時:2001/12/04 11:25

村上さんは、西洋の近代哲学の方法論に則って人間を研究しています。

そこでは人間は対象として客観視され、分析されます。 ところが、そのようなやり方で分析された「人間」というものは、しばしば我々生の人間とは無関係な代物になりがちです。人間の分子構成がどうであろうが、自分の日常生活には直接何の影響も及ぼさない、という訳ですね。

そこで外側から分析する、というのではなく一緒にその人間を「生きながら」共に経験したり、分析したりしていくという手法を一部の哲学者、特にユング派の心理学者はとるようになりました。そこではカウンセリングという独特の経験が色濃く影を落としています。

カウンセリングでは相手を突き放して観察すると、患者は心を開いてくれません。相手と同じ世界観を共有し、なおかつどこか覚めた眼で観察するというヌエ的な立場が要求されます。その手法は科学ではありませんし、西洋哲学というより東洋哲学、実践哲学に近いものですが、河上さんはそのような行動を通して、初めて人間を全人的に把握し、分析することができると考えているようです。

どちらが正しいとはいえませんし、「分析」という意味自体が両者の間で食い違っているようなのですが、一応河上さんの手法は西洋の学問の伝統上では異端とされるユング派、そのユング派からも氏は破門同然の扱いを受けていた、ということを言っておきます。もちろん、異端=間違い、という訳ではありません。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
凄く分かり易くて、ホント嬉しいです。
まだまだ未熟は承知ですが、これからの学問の意欲に繋がりました、
本当にありがとうございました。

お礼日時:2001/12/04 11:15

 


  河合隼雄の村上陽一郎批判とは、どういうことを批判していたのか、説明してください。貴方の理解できた範囲で構いません。他者に分かるように説明してください(他者に分かるように説明する文章を書くというのも、現代文の訓練というか、学習の一部ですよ)。念のため、数行とかではなく、最低でも4行か5行は書いてください。数行で説明できるものとできないものがあります。この場合は、できないはずなのです。また、しても、他者にうまく伝わりません。
 

この回答への補足

ご返答ありがとうございます。
河合曰く、人間の科学こそが人間の学問としてふさわしい.なぜなら、村上式の人間科学では人間は分析され、もののように扱われ、本来の自分も人間であるということを欠いている。
人間の科学というのは、対等な立場で対象(この場合人間)を扱って初めて、この学問は成立するのだ。

という解釈でした。合ってるかは定かではないです(涙)
でも、人間科学と人間の科学は違うのだという事が重要と思われます.
そこで、今まで村上の本を読んでいた私は「え?ダメなの、村上の科学哲学?」と驚いたので他者のご意見を伺いたかったのです.
科学的な哲学っておもしろいなと思っていたのですが、他のものはソクラテスとラケスの対話とか、別物って感じだったので。
でも、ソクラテス大好きです。
未熟な補足ご容赦下さい.

補足日時:2001/11/26 14:08
    • good
    • 0

このQ&Aに関連する人気のQ&A

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!

関連するカテゴリからQ&Aを探す

このQ&Aを見た人が検索しているワード

このQ&Aと関連する良く見られている質問

Q河合隼雄と村上陽一郎の文章について

今、受験で現代文に取り組んでいるのですが、私は村上陽一郎(敬省略)の科学哲学の本をしばしば読んでいるのですが、河合隼雄が村上陽一郎の人間科学の研究の仕方を批判されていました。
河合隼雄をは人間の科学が真の分析法で、哲学は誰が学んでも同じ答えが出てくると解説されました(○ゼミ講師に)
哲学とは本当にそういうものなのでしょうか?
低次元な質問ですみません。

Aベストアンサー

 
  実は、わたしは村上陽一郎については、何も読んだことがありません。ただ、彼の方法についての批判というようなものは、少し耳にしたことがあります。他方、河合隼雄の方は、かなり本を読んでいて、彼の立場は或る程度分かっているつもりです。村上氏について何か著書を読んでいましたら、この質問に答えることができたのですが、読んでいないので、回答はできないと思ったのです。ただ、どういう批判を河合氏が行ったかは、ほぼ予想が付いたとも言えます。
 
  補足回答を読みまして、「哲学とは何か」というような大問題についての、ごく短い簡単な私見を述べさせて戴くこととします。
 
  >> 哲学とは本当にそういうものなのでしょうか?
 
  と尋ねられていることからも、哲学とはどういうものでしょうか、という広い意味の質問を、村上氏の「科学哲学的人間科学」に対する河合氏の批判を具体的きっかとして尋ねておられるとも解釈できるからです。
  
  そこで、まず知らない方の村上氏ですが、氏は「科学哲学」の立場に立ち、「人間科学」の研究をしているとのことですが、科学哲学とは何かということです。これは、「科学的な哲学」ではありません。村上氏の場合は、あるいはそうなのかも知れませんが(はっきり分かりません、というか知りませんので確認できません)、「科学哲学」というのはわたしが理解する処では、科学の哲学的基礎付けを行う「哲学の範疇」のことのはずです。フッサールの哲学は、現象学と普通言われ、科学哲学とは言われませんが、フッサールは、元々科学者で、「真理」の客観的基礎付けはできないのかと考え、現象学的還元というものを提唱し、現象学的還元によって、「真理」を人間は把握できるようになるはずだとの構想で思索し研究したのですが、結果は、「真理」を客観的に基礎付けることはできない、ということになります。
  
  ポパーの「反証可能性」を科学の条件とする科学哲学が、科学の哲学的基礎付けとして、現在では、有効とされているのだと思います。
  
  しかし、科学哲学と呼ばれるものは非常に多様であり、またニュートンの物理学が立てられたのが17世紀ですが、その頃すでに、あるいはそれ以前から、科学の哲学的意味や、科学の論理的構造などについての研究や考察はあった訳です。20世紀であれば、ラッセル・ホワイトヘッドの大著 Principia Mathematica は、数学を論理的に基礎付ける試みであったのですが、これはまた、「論理」とは何かという問題の現代的提起にもなります。ホワイトヘッドの科学論や、ヴィトゲンシュタインの言語の分析は、「論理実証主義」という20世紀の哲学の一つの潮流を生み出し、これが20世紀の科学論・科学哲学において大きな位置を占めているとも言えます。しかし、20世紀には、論理実証主義だけではなく、それとは立場を明らかに異にする、ディルタイやベルクソン等の「生の哲学」があり、またハイデッガー等の「実存主義哲学」があり、ソーシュールの言語学に源を発するとも言える、「構造主義」もあり、それぞれが、相応に科学の哲学的意味というものを提示しようとしたのも事実です。マルクス主義は、科学的唯物論哲学だと称し、総合的な科学と哲学の連関の展望を描こうとしましたし、カトリシズムは、また科学に対し、独自の深い考察を行ったとも言えます。
  
  村上氏は「人間科学」だそうですから、人間の存在についての「科学哲学的解明」を目指しているのだと思えます。しかし、人間科学は、「人間についての《科学》」である訳で、科学であるという条件を前提にしたものと言えます。その場合、村上氏の立場は、「科学としての心理学・行動主義的心理学」にも近いものではないかと推測されます。村上氏の人間科学では、人間の行動を扱うだけではなく、その心理や、また、人間の大脳構造の大脳生理学的・神経生理学的知見を元とした、「人間の存在・意識や思考力/認識や知覚」の構造解明が主要な課題になっているのではないかと思います。このような大脳生理学や神経生理学による科学的知見は、いわば、人間を考える上での基礎資料・データとなる訳で、しかし、それをどのように人間存在の論・基礎付けと解明に位置付けるかは、研究者の立場や方法や思想で多様となります。
  
  河合氏が、「人間の科学」をむしろ強調したのは、「科学」である前に、「人間についての学」は、「生き方 way of life」の問題であり、「人間の存在」は、近代/現代科学的分析の対象として、没価値的・(擬似)客観的に把握できるものではないという認識を示したものでしょう。大脳生理学や神経生理学や行動主義的心理学や比較心理学の知見を元に、何を「人間」について描くべきか、何を人間について把握し了解すべきか、それは、人間は、人間的交通(human communication)のなかで、「誰であるか」が了解されるもので、誰でもない人間についての「何であるか」の科学は、現代科学の方法として、妥当であるかも知れないが、人間を「科学の対象」として分析できるとする考えがむしろ、傲慢なのであり、間違っており、科学の検証にも配慮した「人間の学」または「魂・心の学」が本来の人間存在の研究方法であるというのが、河合氏の主張であり、考えなのではないでしょうか(これを、「人間科学」に対し、「《人間》の科学」と河合氏は述べたのでしょう)。
  
  これについては、「心理学とは何か」という質問に答えた、わたしの回答のなかで、「科学としての現代心理学」と、「心・魂の学としての心理学」という二つの心理学について説明しました。以下のURLにその文章があります。
  http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=173615
  
  「哲学とはどういうものなのか」については、以下に、或る質問の回答として準備したものの、回答として出さなかった文章での、「哲学と科学」について、わたしなりにまとめた形の短い説明があります。(こんな大問題を、簡単に勝手な言葉で説明するわたしは、かなりいい加減なのだと思いますが)。
 
======================================================================
 
  まず、「哲学」とは、philosophia ですが、これは元々「愛智」の意味で、このような用法は、「魂への気遣い」を述べたソークラテースから始まっているとも言えます。ソークラテースは、「人間にとって善とは何か」ということを考えつづけた人です。ソークラテースは、「言葉嫌いになるのはよそう」と述べたと、プラトーンが伝えています、この場合、「言葉」は、ロゴス(logos)のことで、これは理性とも知性とも、ものごとの理(論理・原理)とも言える概念です。つまり、「論理嫌いにならないようにしよう」と、ソークラテースは言ったのです。
 
  逆に言うと、「論理」や「知性」が哲学においては重要であるということになります。哲学はその原義、その起源から言えば、世界をいかに把握するかという方法において、論理や知性に基づいて探求するという面と、善とは何か、従って、人はいかに生きればよいのかの二つの大きな柱があるとも言えます。哲学は、自然現象の観察とその理性的・論理的解釈=把握である「自然学 Physica」と、アリストテレースの書物の呼称からその名が来た、世界や人間、存在者の存在の根拠や、ありようの機構を超越的に求める「形而上学 Metaphysica」と、人間の生き方を尋ねる「倫理学 Ethica」の主に三つの基本主題から成り立つことになります。
 
  哲学とは、従って、世界把握の論理的方法であり、形而上学的問題把握を持ち、また倫理学的な問題把握を持つということが分かります。これがとりあえず哲学です。
 
  次に「科学 science, scientiae」とは、元々分科学の略ですが、西欧の言葉の起源からいうと、これは「知識の学」となります。「知識」とは何かというと、scientia(スキエンティア)であり、これはサピエンティア(sapientia)の対語ともされ、サピエンティアとは、智慧・叡智的知識で、善とは何か、共同体と個人の関係の理想は何かなどの智慧に属する知識の謂いです。サピエンティアは、哲学における原義「愛智」に対応し、これを問題にするのが哲学であるとも、特に、善を尋ね、人の行為の規範を求める倫理とは何かを問うのは、「倫理学」になります。しかし、科学は寧ろ、「自然学」に近く、先の哲学の三つの主題の一つである自然学分野を扱うものだとも言えます。科学は、客観的に(複数の人のあいだで、そうだと)認められる現象を元に、世界の像を部分的に築き、これらの部分像の総体として、世界のありようと科学的本質=原理を提示する学問となります。ポパーは科学の定義を立てましたが、それは客観的に検証可能な、現象についての理論であり、「反証可能性」をクリアーしている理論となります。哲学の三つの主要主題の一つである「自然学」は、科学が今日では扱い、更に倫理学の課題であった部分を、法学・社会学・経済学・政治学などが部分的にカバーしているとも言えます(哲学の主題を科学が囓り取ったとも言えます)。
 
======================================================================
 

参考URL:http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=173615

 
  実は、わたしは村上陽一郎については、何も読んだことがありません。ただ、彼の方法についての批判というようなものは、少し耳にしたことがあります。他方、河合隼雄の方は、かなり本を読んでいて、彼の立場は或る程度分かっているつもりです。村上氏について何か著書を読んでいましたら、この質問に答えることができたのですが、読んでいないので、回答はできないと思ったのです。ただ、どういう批判を河合氏が行ったかは、ほぼ予想が付いたとも言えます。
 
  補足回答を読みまして、「哲学とは何...続きを読む

Q哲学の人文科学及び社会科学の中の位置づけについて

哲学を学ぶということは、人文科学の諸分野を支える根幹的な思想を学ぶということに等しいですか?
例えば、自然科学の中で数学を学ぶというように。数学のあらたなる真理の扉を開けるのは、至難の技にしても、数学は数学以外の自然科学の諸分野の基盤や基盤以上の物を提供しているように。つまり数学が自然科学の諸分野・土台を支えてるいるのとイコールのように、哲学を人文科学・社会科学の研究の諸分野を支える根幹的なものと認識についての是非を教えてください。私のこの議論が全くもって的外れなら、どれ位的外れかまたどのように的外れで実際はどうなのかをご教授ください。

もう一つだけ追加でお願いします。自然科学において真理の扉を開けるということは、その当該分野のフロンティアをまた一つ新しく開拓したと言えると思うのですが、哲学におけるそれは何をもってそれ(学問分野のフロンティアを開拓するという事象)を定義付けるのでしょうか?また、フロンティアの開拓ということ自体、哲学の学問分野にとってはさほど重要度は高くないものですか?

よろしくお願いします・

Aベストアンサー

時間があるので脱線しないように 真面目に答えてみようと思います。

まず前提として
日本では学ぶということが真剣に語られていません。

「真面目に学ぶ」が強調されすぎ、それ以外が 疎かになっています。

非効率的学習プロセスが主流になっているということです。

今 定年になろうとしている人たちは
 
勉強しなければいけなかった総量=絶対量が 圧倒的に少なかった。

日常的にそのことついては 自覚がありますが 

いざ他人の評価となると 
勉強をしなくても基本ができればいいのだとか 
いい大学を出たのはいいやつだ とかと
いうことをいいだし

 「いい加減=適正ということは=俺に従うことである」 を 基準として持ち出してきます。 

学の基準が その担当者の主観のみに左右されるということです。

つまり 質問者様の述べる 根拠 が 老人中心の身勝手な根拠 と なっていることに 問題があるのです。

本題に入ります。

科学の諸分野を支えているのは ひとです。

2000年に入ってからこの方、序文に掲げた理由で、著しく信頼関係という大事なものが破壊され続けています。

しかしそのすきを見て蔓延している害毒があります。 

『科学の諸分野の根幹をなしているのは思想であり、 
根幹的思想とは 「哲学的経済学である」 という 迷信』です。

まさに はびこっています。

たとえば 日本の哲学は 哲学学である と えらそうに いうひとがいますが、 

その根幹をなす思想は、 (学)は経済学が根幹でありその根幹は 哲学であり 
その根幹が わたくし である 

という 刹那的・唯物論的 部分意識です。匿名キリスト教の「論理的・間接的」布教です。

究極的には 学問は俺よりバカである 俺のほうが偉いという理論です。

唯一絶対の神のまえでは どんぐりの背比べである みんな馬鹿だ
という 傲慢です。

底に横たわっているのは キリスト教的 物質論=燃料資源 と 言語論理=ivGotです。

あたまのわるいおれさまも iGotをおさえていれば 基本をおさえている
どうだ!
もってるか? という のが 

基本として ひつようとされる 行動だ というわけです。

つまり 数学・哲学の素養がない人間の それでも俺様は偉い といいたいがための 言い逃れが

「(アカウントの)所有」である

という現状です。

(布教が失敗した例として セカンドライフ を あげると 
日本人はそこまで馬鹿ではなかった ということもできましょうが・・・)

つまり 簡単に表現するとすれば、

所属と思想 という 中世的思考が 今の世の中では 所有と偶像崇拝 に とってかわられたのです。

書面としては ドグマが 神学から 情報科学 へと移りました。

そういう意味で 質問者様が感じ取った 他人を弾圧し、加害者側となって阻害されないための教義
そして
その根本はどこにあるか という 点では 的を射ているということができるでしょう。

しかし その数学は 情報科学としての 数学 であり

哲学も 情報科学としての 哲学です。

中世では 1教会 2キリスト教 3聖書(神学) であったものが
形を変えて 存在し続け
現状としては
1 SNS 2 端末教 3 WIKIぺ
(情報科学 別しては自然=数学/人文=哲学/社会=経済学) に 変化しました。

新たな真理とは いまでいうと
表現的焼き直しです。

馬が車に 書物がデータに 変わった というだけの 言語的・論理的修正です。

忘れてはならないこととしては
支えているのが「底辺」であり、
上記IT三学
(情報工学としての数学・
ネットオントロジーとしての哲学・
社畜管理のための経営学)を修めているのは

WASPシンパの指導者たちです。

なにも支えてはいません。

「B層には なるな」ということだけが最低限の教訓として存在します。

時間があるので脱線しないように 真面目に答えてみようと思います。

まず前提として
日本では学ぶということが真剣に語られていません。

「真面目に学ぶ」が強調されすぎ、それ以外が 疎かになっています。

非効率的学習プロセスが主流になっているということです。

今 定年になろうとしている人たちは
 
勉強しなければいけなかった総量=絶対量が 圧倒的に少なかった。

日常的にそのことついては 自覚がありますが 

いざ他人の評価となると 
勉強をしなくても基本ができればいいのだとか 
いい大...続きを読む

Q村上陽一郎の…

本になっているかどうかはわからないのですが、
村上陽一郎の”科学技術のポスト戦後”を探しています。
アマゾン・Webcat等で検索したのですが、
見つけられません。

ご存知の方、教えてくださいm(_ _)m

Aベストアンサー

そのタイトルでの著作は発刊されていないようです。
村上陽一郎氏のHPには、雑誌に執筆された原稿も含めて、全著作があげられていますので、参考になさってください。

参考URL:http://subsite.icu.ac.jp/sts/

Q《ファイル人間》は哲学屋であっても哲学していない

 ファイルは 必要に応じて抽斗から(ポケットから)出してくるものであって いかに知識と情報がいっぱい詰まったものであっても《ファイルや抽斗やポケット》が街を歩いていてはおかしいぢゃないですか。

 日本人はもともと そのような《理屈人間》を嫌っていて そこから基本的に(生活態度として)自由であった。

 このところ その免疫性が弱まって来たのでしょうか?

 といった疑問を覚えるのですが みなさんはいかがでしょう?

Aベストアンサー

「お礼」ありがたうございました。

このところ哲学カテゴリへの投稿を減らして、たまつてゐた疑問をあちこちのカテゴリに投稿してゐます。いちばん感じるのは、哲学カテゴリは、bragelonneさんの指摘なさる「自由」が大きいといふことです。これはあくまでも比較しての話ですが、他のカテゴリでは、どうしても定説や常識にとらはれる傾向が強く、おもしろみに欠ける部分があります。もちろん、人によつては、独創的な回答をどんどん投稿して楽しませてくれてゐます。せつかくのコミュニティーサイトなのですから、コピペしてきたやうな回答だけでなく、十人十色のさまざまな見解を聞きたいものです。

以前哲学カテゴリに引きこもるのはなぜか、といふ名質問がありましたが、この自由がその理由のひとつであるのは、まちがひなささうです。


「コピペ」でひとつ言ひたいことがあります。STAP細胞の騒動で、あれだけコピペによる無断引用が日本中で糾弾されたにもかかはらす、ネットのコピペについては、とどまることがありません。このサイトで特に気になるのは、いはゆる「名言」の出典明示がなされないことです。古い言葉には法的責務が課せられないとはいへ、人としての礼儀だと思ひます。回答文が長くなるといふ短所はありますが、文脈を調べたりするのにも好都合です。《ファイル》には、きちんと「出典」といふタグをつけるべきです。パクリは私一人で充分です。

「お礼」ありがたうございました。

このところ哲学カテゴリへの投稿を減らして、たまつてゐた疑問をあちこちのカテゴリに投稿してゐます。いちばん感じるのは、哲学カテゴリは、bragelonneさんの指摘なさる「自由」が大きいといふことです。これはあくまでも比較しての話ですが、他のカテゴリでは、どうしても定説や常識にとらはれる傾向が強く、おもしろみに欠ける部分があります。もちろん、人によつては、独創的な回答をどんどん投稿して楽しませてくれてゐます。せつかくのコミュニティーサイトなのですから...続きを読む

Q「叙勲」のお祝いの言葉は?

「叙勲」とは「国家や公共事業に功労のあった人に勲等を授け、勲章を与えること。」となっています。
とすれば「勲章」を受けた方に「この度は叙勲おめでとうございます。」
では 日本語としておかしいですよね?
「叙勲」をお祝いする言葉として どのような言葉遣いが適切でしょうか?
教えてください。

Aベストアンサー

○○章ご受章、誠におめでとうございます。
この度は叙勲の栄に浴され、誠におめでとうございます。
栄えあるご受勲、心からお祝い申しあげます。
栄えあるご受勲を祝し、謹んでお喜び申しあげます。

以上、電報文例より。

Q哲学はニセ科学か?

最近、巷では、「水からの伝言」が小学校で行われるなど、疑似科学が教育の場にまで浸透しているようです。その他にも、「マイナスイオン」や「ゲルマニウム」、あるある大辞典の捏造事件など知の退廃行為が蔓延しています。最先端の科学でも、捏造行為は科学全体の信頼を裏切る背徳行為だと思います。

人文・社会科学系の学問においても、科学の名を語ったインチキが蔓延っているようです。例えば、カールポパーは、精神分析学、ヘーゲルなどの弁証法、マルクス、フランクフルト学派などを疑似科学として批判を行っています。また、アラン・ソーカルは著書「知の欺瞞」の中で、ポストモダンの哲学における科学用語の濫用・誤用を指摘してます。

様々な批判や指摘を受けた後、精神分析学においては、膨大なフロイトに関する文献が専門家に公開され、それによりフロイトがしたとされる治療例の殆どが、希望的観測と意識的作り話の所産であったことが証明されたようです。

しかし、哲学や社会学の分野において、精神分析学のように詳細な検証作業のようなことが行われたという話は聞きません。ソーカルやポパーの指摘を受けた後、何か哲学や社会学の分野において、過去の疑似科学的な言説を腑分けする作業などは行われているのでしょうか?もし、ご存知の方がいましたら、よろしくお願いします。

最近、巷では、「水からの伝言」が小学校で行われるなど、疑似科学が教育の場にまで浸透しているようです。その他にも、「マイナスイオン」や「ゲルマニウム」、あるある大辞典の捏造事件など知の退廃行為が蔓延しています。最先端の科学でも、捏造行為は科学全体の信頼を裏切る背徳行為だと思います。

人文・社会科学系の学問においても、科学の名を語ったインチキが蔓延っているようです。例えば、カールポパーは、精神分析学、ヘーゲルなどの弁証法、マルクス、フランクフルト学派などを疑似科学として批判...続きを読む

Aベストアンサー

補足拝見いたしましたが、どたばたで、遅れをとってしまったようで。
>ソーカル事件に対するみなさんの意見を教えて欲しい。
この件につきましては、すでに、お見事なご回答があり、
「お水からの伝言」同様、当方に付け加えるような、詳しい知識は御座いません。

今回は、少々、ご質問者様の意図と別の視点で考えてみたいことがあります。

結局、学問や科学が商品になってしまっている。

昔は、出来の良い物を市場に出して、出来損ないを自家消費に廻すと言う傾向が逆転あるいは自家消費が全く無ければ、出来不出来よりも、規格に合いさえすれば良いですし、規格もご都合により曖昧にされます。なんせ、自分のものではなく、他人のものですから。

もう一点、前にも書きましたが、

知識の分散

これは、一人の頭脳の中に、世界中の知識をすべて入れることは不可能なこと、シュレティンガーが50年程前に嘆いた問題ですが、最新の科学の検証が困難になるネガティブな捉え方ですね。
これに反して、知識の分散をポジティブに捉える方法も古くからあります。
例えば、カント、ヘーゲル、最近ではハイエク。少し特殊なベルクソン。
人間の知識・能力・生命が限られていること、諸個人に分散している故に諸個人は助け合って種としての発展を目指していく、と、肯定的に捕らえてしまう方法です。もちろん、助け合う仕方が「市場」なのか「計画・分配」なのかの違いにより、いろいろな立場にまたまた分散してしまう。

その結果、分散した知識は商品になり、商品はその定義上、品質を落としていく。

あら、最後の結論が、暗くなってしまった。
この辺り、私も本当の問題点が良く解っていないのです。
今回は、お役には立てませんが、独り言としてご笑納下さい。

補足拝見いたしましたが、どたばたで、遅れをとってしまったようで。
>ソーカル事件に対するみなさんの意見を教えて欲しい。
この件につきましては、すでに、お見事なご回答があり、
「お水からの伝言」同様、当方に付け加えるような、詳しい知識は御座いません。

今回は、少々、ご質問者様の意図と別の視点で考えてみたいことがあります。

結局、学問や科学が商品になってしまっている。

昔は、出来の良い物を市場に出して、出来損ないを自家消費に廻すと言う傾向が逆転あるいは自家消費が全く無け...続きを読む

Q生きて叙勲を受けた人は如何なる事があっても取り消されると言うことはない

生きて叙勲を受けた人は如何なる事があっても取り消されると言うことはないのでしょか。
知人で叙勲を受けている人に騙されてお金を貸して欲しいと頼まれて貸して以来、返してくれないそうです。贅沢な生活をしていて騙し取られたのが馬鹿だと嘆いていますが、お金が返らなくてもそのような人間が叙勲を受ける資格はないと思うのいです。その人と署名活動でもして僅かな反撃でもしたいと思いますが、叙勲の取り消しとかは絶対に無理なのでしょうか。ご存知の方が居られましたら教えてください。取り消しが無理でも何か一矢報いる事が出来ればとも思っています。

Aベストアンサー

ご友人の事情などはコメントしませんが、

一般論として、勲章を取り上げることは当然あり得ます。
本邦に置いては勲章褫奪(ちだつ)令
http://law.e-gov.go.jp/cgi-bin/idxselect.cgi?IDX_OPT=3&H_NAME=&H_NAME_YOMI=%82%A0&H_NO_GENGO=M&H_NO_YEAR=41&H_NO_TYPE=4&H_NO_NO=&H_FILE_NAME=M41CO291&H_RYAKU=1&H_CTG=1&H_YOMI_GUN=1&H_CTG_GUN=1
にその定めがあり、
第一条勲章ヲ有スル者死刑、懲役又ハ無期若ハ三年以上ノ禁錮ニ処セラレタルトキハ其ノ勲等、又ハ年金ハ之ヲ褫奪セラレタルモノトシ(引用者後略)
第二条  勲章ヲ有スル者左ノ各号ノ一ニ該当スルトキハ情状ニ依リ其ノ勲等、又ハ年金ヲ褫奪シ外国勲章ハ其ノ佩用ヲ禁止ス
一  刑ノ執行ヲ猶予セラレタルトキ
二  三年未満ノ禁錮ニ処セラレタルトキ
三  懲戒ノ裁判又ハ処分ニ依リ免官又ハ免職セラレタルトキ
四  素行修ラス帯勲者タルノ面目ヲ汚シタルトキ
となっています。

浅学にして、適用条件や前例などは知りませんが、ま、既定があることだけは確かです。

ご友人の事情などはコメントしませんが、

一般論として、勲章を取り上げることは当然あり得ます。
本邦に置いては勲章褫奪(ちだつ)令
http://law.e-gov.go.jp/cgi-bin/idxselect.cgi?IDX_OPT=3&H_NAME=&H_NAME_YOMI=%82%A0&H_NO_GENGO=M&H_NO_YEAR=41&H_NO_TYPE=4&H_NO_NO=&H_FILE_NAME=M41CO291&H_RYAKU=1&H_CTG=1&H_YOMI_GUN=1&H_CTG_GUN=1
にその定めがあり、
第一条勲章ヲ有スル者死刑、懲役又ハ無期若ハ三年以上ノ禁錮ニ処セラレタルトキハ其ノ勲等、又ハ年金ハ之ヲ褫奪セラレタルモノトシ(引用者...続きを読む

Q哲学は科学でしょうか?

哲学が科学だとすると、誰でも同じ結論に到達する客観性が必要になると思います。自然科学では実験を根拠として、社会科学でも統計データをもとに議論することである程度の客観性を保っています。
しかし、哲学がテーマとするのは、自由とは?、死とは?、善とは?のようなあいまいな事象が多いです。私はこう考えるということはいえるでしょうけど、どうやって客観性を保っているのか疑問に思いました。

1)哲学は科学でしょうか?あるいは文学や芸術のような主観の入るものと理解したほうがよいでしょうか?
2)科学だとしたら、どのような手段により客観性を確保しているのでしょうか?

Aベストアンサー

哲学は文学や芸術に近い人間の価値観と善悪などを主題とした創作、思索活動です。科学は基本的に価値観を問わないことで前者とは異なります。哲学の一分野に科学哲学というものがありますがこれは科学に人間的な価値観を取り込んだものといえますが、数学や理論物理学などではすでに哲学と不可分になった数理哲学や量子理論などのようないはば形而上学的科学になっています。1)については以上です。2)については客観性というより厳密な論理的思考をかさねることで誰でも理解でき、誤った考えかたに入らないようにしているということだと思います。

Q叙勲者に対してのどんな祝いがいいのか

 先般の叙勲に私の叔父が該当していました。
我が家系で叙勲なんか無縁と思っていましたが、たまたま公務員だったことで、11月5日勲記勲章の伝達後11月12日皇居に参内し、「危険業務従事者叙勲」の栄誉に浴したようです。
 叙勲後に叔父から上記の案内があったのですが、晴天の霹靂のこの事実に対し祝意を顕したいのですが、この場合お祝いとはどのようにするのが社会通念として妥当なのでしょうか。
 よろしくお願い致します。

Aベストアンサー

おめでとうございます。

うちの会社の会長も叙勲をいただきました。(いただく、で合ってるのかな・・?(-_-;)

当日から胡蝶蘭&花束&祝電が山のように届いてます。

会社関係ではなく親戚ですので、お祝いの品(花かお菓子か品物か)を持って会いに行かれてはどうでしょう?
年上の親戚ですからあまり高価なものでなくていいと思います。
お祝いの気持ちが大切だと思いますしね(^o^)丿

都合が悪く直接会うのがムリならご自宅に送るのがいいと思います。あと電話でお祝いの言葉を伝えて。
今からですと「お祝いが遅くなってすみません」と付け加えるといいと思います。

あまり参考になるかわかりませんが・・・m(__)m

Q哲学と科学の違い

哲学と科学の違いとは何ですか?教えて下さい

Aベストアンサー

科学は哲学の一分野です。

科学も哲学も、ある種の「問い」に答えようとする活動です。
でも、迷子の子猫ちゃんの名前を問うような問いでは面白くない。一回しっかり検討しておけば、後々に使えるようなのが面白いし重要だ。それで、何らか普遍性・再現性があるように見える現象を捉えて、その背後にある(かもしれない)本質、つまり法則を見つけ出したいというのが一つの到着点です。(例えば「法則なんか、ない。」なんて答も、あんまり役に立たないですけど、法則を主張したことには違いないでしょ。)そうすると「問い」を作り出すこと自体が哲学に含まれてきます。つまらん問い、どうしても答えようのない問い、答の出る問い。問いの内のあるものは問うたとたんにもう答が出てますし、答がまとまらない問いもあるだろうし、どう答えてもおかしくなるような仕掛けが入った問いもあります。
そういうものを見極めるにはどうすりゃいいんですか?ちゅう問いもアリです。

科学では、(ネタや発想をどこから持ってくるかは別として、)最終的に「科学的方法」という形式に従って法則を記述し、実証しなくては落第です。

哲学では、方法を科学的方法に限ったりしません。それどころか、何にでも一般に通用する方法というものはないと考えている。科学とは相反するのかというと、とんでもない。そうじゃなくて、科学を含むんです。科学で解決される問いはいっぱいありますからね。新しい方法を開発するのも哲学の内だし、その方法で手に負えない問いを出して見せるのも哲学。

最も成功した哲学の代表選手は、やっぱり理論物理学でしょう。11次元空間で記述される(まだ詳細不明の)理論から導かれる10次元空間における沢山の物理理論、という描像。物に質量が生じる機構とそれに関わる未発見の粒子、という描像。これらは紛れもなく形而上学ですよ。直接実証できる見込みなどありませんからね。
 科学においては、何かを実験的に実証した、と言うことがある。ですけど客観的には、実験はただの統計の偏りを示しただけのこと。そこに理論から演繹された予言との一致を見て、「少なくとも辻褄はあってる」と言っているに過ぎない。だから確かな例外が一つ出れば全てがひっくり返ります。だからこそ、世の中的には「既に実証済み」と思われてる理論・法則が、いつまで経っても研究の対象になっています。

下記URLでも似たようなこと書いてますんで、ご参照下さい。

参考URL:http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=53553, http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=12863

科学は哲学の一分野です。

科学も哲学も、ある種の「問い」に答えようとする活動です。
でも、迷子の子猫ちゃんの名前を問うような問いでは面白くない。一回しっかり検討しておけば、後々に使えるようなのが面白いし重要だ。それで、何らか普遍性・再現性があるように見える現象を捉えて、その背後にある(かもしれない)本質、つまり法則を見つけ出したいというのが一つの到着点です。(例えば「法則なんか、ない。」なんて答も、あんまり役に立たないですけど、法則を主張したことには違いないでしょ。)そ...続きを読む


人気Q&Aランキング

おすすめ情報