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無知な私に教えて下さい。
水戸の光圀は将軍ではないのに何故あんなに偉い身分なんですか?
どうして皆が「ははぁ~!」となるのでしょうか?
幼稚な質問で本当にスミマセン。
どなたか分かりやすく教えて下さいませ。

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A 回答 (9件)

幕末に講談師の桃林亭東玉が「水戸黄門漫遊記」を創作してからポピュラーになったようです。

「この印籠が目に入らぬかぁ!」「ははぁ~!」」というシーンはTBSのドラマだけ。

もともと水戸家は幕末に「勤王の大本山」とされた藩で、水戸光圀が編纂させた「大日本史(明治39年に完成)」は幕末の勤王志士の歴史観に大きな影響を与えていて、光圀は幕末・明治の読書人に身近な存在でした。光圀は、この「大日本史」に必要な資料を集めるために諸国に家臣を派遣しており、そうしたことも諸国漫遊話しの下地になっているようです。

また、光圀は徳川綱吉や柳沢吉保と時代を同じくし、「生類憐れみの令」に反して牛や羊を平気で食べ、将軍へもずけずけものを言ったため、庶民の受けも良く、名君とされる人です。

光圀自身は徳川家康の孫にあたります。当時の将軍の綱吉は家光の四男で家康の曾孫。神君家康を基準とすればより近い尊い血になります。
さらに、水戸家は水戸と言う江戸に近い地理の上、藩主は江戸定府が定められていましたので、徳川を名乗れる者の中では最も将軍に身近な存在でした。
上記の理由もあって、将軍親政を目指していた徳川綱吉に制度外から意見できる数少ない大名の一人でした。
尾張家・紀州家が将軍の血統が絶えたときに将軍を出す家柄である反面、幕政に関与できない立場にあったことと対比して、禄高が少なく、家格も一段低い水戸家を「副将軍」と位置付けたようです。副将軍と言う役職があったわけではありません(下馬将軍とかのような異名ですね)。

水戸光圀と言う人は、日本ではじめてラーメンや餃子を食べた人です。とても好奇心が強い人で、エピソードに事欠かないので調べてみると面白いですよ。^-^
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この回答へのお礼

実は先週の「大奥」を見てこの質問をさせていただいたのです。そう、綱吉です。
なぜ右衛門助(高岡早紀)が綱吉の「生類憐れみの令」を光圀にチクりに行ったのかな、と思って・・・。
光圀は面白いおじさまだったのかもしれませんね。もっと調べてみようと思います。
ご回答ありがとうございました!

お礼日時:2005/12/06 15:43

蛇足ながら、水戸家が「御三家」に加えられたのは家光の代の晩期頃からで、家格も極官が権中納言と一段低いままでした。

建前上は御三家は平等に将軍候補を出せる家柄とされましたが、実際には紀伊家、尾張家のどちらかから出すものと決まっていました。
ただし、御三家といえども紀伊家、尾張家は参勤交代の義務がありましたが、水戸家だけは例外的に江戸常府であり、都合による帰国もかなり自由に認められていました。こうした特別待遇から水戸家を指して「副将軍」と呼ばれるようになりました。「副将軍」と呼ばれたのは光圀だけではなく歴代藩主も同様でした。特に幕末時の藩主”烈公”斉昭は自らも「副将軍」然として振る舞い、幕閣から畏怖されました。
「副将軍」は幕府の官制には無いものですが、分限統制に厳しかった幕府が水戸黄門の講談話が流行し「天下の副将軍」という呼び名が流行した時にも特に不快感を示した記録もないので、実質的にそのような礼遇を受けていたと考えることもできるようです。
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この回答へのお礼

前の回答でもいただきました「副将軍」を掘り下げて教えてくださり、ありがとうございました。
昔習った記憶が脳ミソのヒダにひっかかっているような気がします。
当時はつまらなかった話が今は面白いです。
ご回答ありがとうございました!

お礼日時:2005/12/06 15:38

大体皆様が回答される通りですが、もう1つの側面として一般庶民にとって武士は怖い存在という点もあります。


黄門様もある日知人と刀談義になって、試し切りをしようという話になりました。
そこでお寺に住み着いた浮浪者を縁の下まで追いかけていって引きずり出し、切り殺したという逸話があります。
あの人格者の黄門様がと驚きますが、黄門様の日記に依れば内心は罪も無い人間を切り殺すことに罪悪感を感じている反面、知人にそそのかされた上は切らないと臆病者と言われ、武士の面子に関わるので「是非もなし」と已む無く切ったと書かれており、そそのかした知人とは絶交したとも書いてあります。
つまり人格者の黄門様だからこそ庶民を切ることに躊躇を覚えましたが、5代将軍綱吉の時代までは戦国の気風が満ちており、一般の武士は庶民など大根を切る程度にしか考えてなかったようです。
示現流の東郷重位も同輩が往来の犬を蹴り殺して河原で犬鍋にして食べてるのを見たとか書いてますから、この時代は武士というのは現代の「暴力団」と考えてよいと思います。
黄門様は大組織の幹部ですから、一般庶民にとっては恐ろしい存在ともいえます。
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この回答へのお礼

試し切り!!怖ーーーい!ドラマじゃありえないですね!
やっぱり相手が刀を持って威張っている人なら今でもビビッちゃいますよね。
興味深いお話をありがとうございました!

お礼日時:2005/12/06 15:34

徳川御三家の中で水戸家が「副将軍」と俗称されていたのは、No.2の方の回答にある通りです。


しかし、公式な身分秩序としても、徳川光圀はとても高い地位でした。

日本の各大名家は、将軍を頂点として家柄による序列が定められていました。
http://www.k2.dion.ne.jp/~toyo.13/index.bukekani …
これは例えば、江戸城内での席次や朝廷からもらえる官位・官職の上下で現されます。

しかも各大名は、若い頃には低い官位ですが年をとるにつれて高い官位に上りつめます。(低い家柄の高齢大名は、高い家柄の若輩大名より高位高官になります。)

さてそのサイトを見てもらえれば分かるように、水戸徳川家は全国の大名の中でも極めて高い位置にいます。
しかも徳川光圀は老齢ですから、水戸徳川家がもらえる官職の上限(上記サイト中では「極官」と表現されています)の、「権中納言」です。(準・中納言という意味)。ちなみに、日本の中納言にあたる地位を中国の王朝では「黄門」と表現するので、水戸黄門になります。

そのサイトの一覧表の中で、徳川光圀の時代、「御三卿」という家はまだなく、「御両典」も(確か)1家(甲府徳川家)だけ。

となると、水戸徳川家自体、江戸時代の大名秩序の中で
「将軍家、尾張徳川家、紀州徳川家、甲府徳川家」に次ぐ
No.5の家です。しかし、水戸家より上の家柄の当主たちが若輩で官位がまだ低いとなると。
徳川光圀は、当時の武士の中で将軍に次ぐくらいの立場だったのではないでしょうか。

参考URL:http://www.k2.dion.ne.jp/~toyo.13/index.bukekani …
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この回答へのお礼

目からウロコでした!実は恥ずかしながら御三家も定かでなかった私の歴史の認識力です・・・。
とても面白そうなのでもう少しいろんなリンクを辿って勉強してみたいと思います。
ありがとうございました!

お礼日時:2005/12/06 15:32

水戸黄門漫遊記ができたのは、明治時代の初期といわれ、実際の水戸光圀は、諸国を漫遊してはいないらしいです。


ただ、非常に徳があり、人望があったので「副将軍」というあだなは当時からあったといわれています。全回答にもあるようにそういう官職はありません。
また光圀は歴史に興味をもち『大日本史』という歴史書の編纂に取り組みます。
「助さん」「格さん」はそれらの事業に参画し、後に彰孝館という歴史編纂所の総裁となった偉い学者です。武芸に秀でていたかどうかは、つまびらかではありません。
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この回答へのお礼

とても分かりやすくご説明いただき、ありがとうございました。
前述回答の鎌倉まで行ったのは旅行なんでしょうか(笑)。
でも勉強熱心ではあったのですね。それだけでも偉いです。ありがとうございました。

お礼日時:2005/12/06 15:27

ちょっとひねって。



やはり、助さん、格さん、弥七らが、その前に悪代官らを徹底的に痛めつけるからでしょう。その上で、「水戸黄門」を名乗るからこそ、「ははぁ~!」となるのではないのかな?
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この回答へのお礼

なるほど、普通のじいさんだと思っていたら徳川の人だったっていうギャップが余計ビックリさせるのですかね。私も驚くだろうな。
ありがとうございました!

お礼日時:2005/12/06 15:22

 まず。

光圀は諸国を廻ってはいません。一番の遠出は鎌倉あたりまでです。
 偉いといえば偉いです。水戸徳川家の藩主にして権中納言の位も持っていますから頭を下げる人は多かったでしょう。
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この回答へのお礼

鎌倉・・・そうなんですか!
ドラマ的に面白くしてるんですね~。
ありがとうございました!

お礼日時:2005/12/06 15:21

 史実かどうかは、脇へおいといて。



 光圀は徳川御三家の一つ水戸徳川家の当主だった人物で、将軍家とは血縁関係にあります。
 御三家は、将軍家の血筋が絶えた場合、その跡目を継ぐ権利を持つ家柄で、大名としては筆頭、つまり将軍家に次ぐ地位と発言力があります。
 特に光圀は幕府内での発言力が大きかったので、劇中では「副将軍」などとも呼ばれています(実際にはそのような役職はありません)。
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この回答へのお礼

とても分かりやすく教えていただき、ありがとうございました。
そういえばドラマで『天下の副将軍』って言ってますね。
でもそんな役職はないのですね?ありがとうございました。

お礼日時:2005/12/06 15:20

作り話です。


テレビドラマは史実ではありません。
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この回答へのお礼

あんなにしょっちゅうあだ討ちや光圀そっくりさん出現があるわけないですよね。
ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2005/12/06 15:18

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Q水戸黄門について

「さきの副将軍、水戸光圀公にあらせられるぞ!」とキメの台詞があります。水戸黄門が副将軍の時の将軍って、誰でしたでしょうか?また、時代劇で水戸黄門が多く、長く、また再放送される理由とはどうお考えでしょうか?(個人的に水戸黄門は好きです)

Aベストアンサー

将軍は、5代目の徳川綱吉です。

1700年12月6日に水戸黄門として知られる水戸藩2代目藩主、水戸光圀公が73歳で死去しました。
名君の誉れ高い光圀は、将軍の補佐役として「天下の副将軍」と呼ばれることもあるが、当時、実際には「副将軍」という幕府役職は存在しませんでした。
この呼び名がついたのには理由があるります。

光圀の実際の位は「従三位」で官職が「権中納言」と言います。
「黄門」とは中納言の唐名のことです。
水戸藩主は常に徳川将軍のそばにいる家柄ということで、いつしか「天下の副将軍」と称されるようになったそうです。

また、光圀は引退後『大日本史』の編纂に着手。
資料を求めて「助さん」「格さん」のモデルとなった家臣を諸国へ派遣したエピソードから「光圀公が諸国を漫遊して悪を懲らしめる」という講談が生まれ、時代劇の定番ヒーローとして語り継がれるようになった。


水戸黄門が永く愛される理由は、
・老人(水戸黄門)が主人公なので御年寄りに人気
・勧善懲悪のシンプルな作りなので子供や御年寄りに受けが良い
・人がめったに死なないため、喜劇のまま終わる。
※他の時代劇では、必ず人が死にます。
・由美かおるのお約束

~~~~~~~~~~~
「変身願望で心理分析」
筑波大学の井上教授は、長寿番組「水戸黄門」の人気の秘密は“変身”にあると。
越後のちりめん問屋のご隠居が印籠を見せただけで、天下の副将軍になる。
普段隠されているものが実は、“こうなんだ”と正体を現す・・・
これが「水戸黄門」の一つの特徴。
私たちは誰でも、自分に100%満足している人は普通いません。
普段の自分と違った別の人間になりたい、より強い人間になりたい!という、色んな願望の現れの一つが“変身”という形なのだと。

将軍は、5代目の徳川綱吉です。

1700年12月6日に水戸黄門として知られる水戸藩2代目藩主、水戸光圀公が73歳で死去しました。
名君の誉れ高い光圀は、将軍の補佐役として「天下の副将軍」と呼ばれることもあるが、当時、実際には「副将軍」という幕府役職は存在しませんでした。
この呼び名がついたのには理由があるります。

光圀の実際の位は「従三位」で官職が「権中納言」と言います。
「黄門」とは中納言の唐名のことです。
水戸藩主は常に徳川将軍のそばにいる家柄ということで、いつしか「天下の...続きを読む

Q水戸黄門ってどれくらい偉いの?

歴史に疎すぎる質問を致します。

今日水戸黄門をたまたま観ていたのですが、助さんと角さん(でいいのかな?)が紋章みたいな物を見せたら全員抵抗を止めてハハーッと膝まづきますが、悪代官なら全員殺して死体隠して知らんぷりをするようなそぶりを見せてもよいと思います。

何故悪代官はあの紋章を見せられると全く反抗しようとしないのでしょうか。


水戸のご老公って今の社会でどのくらいの地位なんですか?

Aベストアンサー

> 悪代官なら全員殺して

残念ながら、これができないんです。
なぜなら、助さんや格さん、その他の黄門様の部下にコテンパにやられるちょっと前に、黄門様が「助さん、格さん、もういいでしょう」と声をかけるのです。
すると、悪代官や悪徳奉行の元で戦っていた下っ端は、彼らを捕縛する側に回ってしまいます。(彼らも宮仕えなので格上の方の言うことを聞くこととなる)
そもそも、武力でも負けている上に、身分でも負けているのです。

さて、先の副将軍・・・というので、副将軍だったわけですが、まあ、今までの回答にあるとおり、ナンバー2とまではいかなくても、かなりの身分ですね。
少なくとも、将軍に謁見できるでしょうから、大名・上級旗本並みの身分であったと思います。
実際の幕府のナンバー2は大老(臨時職)か筆頭老中ですから、副将軍は名誉職です。
そして、現在の日本で言うと将軍は内閣総理大臣とすると、副将軍は与党であれば代表代行とか野党第一党であれば副総裁といった所でしょうか。
ちなみに、現在の日本のナンバー2は、内閣官房長官です。

※※ Wikipedia「内閣官房長官」より
2000年4月以降は原則として内閣総理大臣臨時代理予定者第1位に指定されている(別に副総理が置かれる場合を除く)。

> 悪代官なら全員殺して

残念ながら、これができないんです。
なぜなら、助さんや格さん、その他の黄門様の部下にコテンパにやられるちょっと前に、黄門様が「助さん、格さん、もういいでしょう」と声をかけるのです。
すると、悪代官や悪徳奉行の元で戦っていた下っ端は、彼らを捕縛する側に回ってしまいます。(彼らも宮仕えなので格上の方の言うことを聞くこととなる)
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Q水戸黄門の「越後のちりめん問屋」とは?

水戸黄門は自分のことを「越後のちりめん問屋」と名乗ります。
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検索すると、生地とかしらすとかでてきます。

よろしくお願いします。

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ちりめんとは、シボのある布の事です。漢字で書くと「縮緬」です。巾着やちょっとした和小物、風呂敷なんかで使われます。
水戸黄門一行は、この布を扱う問屋の隠居という身分で諸国漫遊してるわけですね。なんで、ちりめん問屋かというと、水戸光圀が越後のちりめんを愛用していたからだそうです。越後の国ではさすがに、呉服屋とか和菓子屋、旅芝居の一座などと名乗っていたようですよ。

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たとえば、
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ということが見てわかりやすい日本地図を探しています。
そのような地図がおいてあるサイトをご存知の方はいらっしゃいますか?

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江戸時代初期は大名の取り潰しが多かったので、いつの時代が必要なのか難しいですが、一応300藩と言うことで参考URLをご覧ください。
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Q「幕府」と「朝廷」の違いを教えて

中学校1年生の子供からの質問なのですが、

・「幕府」と「朝廷」の違いが分からない。
・そもそも「幕府」って何?「朝廷」って何?

と言われました。
お恥ずかしながら的確に説明できません。
教科書には説明が載ってないし、「先生に聞いてみたら?」と言うと
「先生は授業が終わるとすぐに職員室に戻ってしまうし、あまり質問しやすい先生じゃないもん!o(;△;)o 」
とのこと・・・(´_`;)

どなたか教えていただけますか?
私も勉強したいです。よろしくお願いします。<(_ _;)>

Aベストアンサー

朝廷というのは天皇を頂点とした政府のことですが、ここが日本全国を完全に支配していたのはせいぜい平安時代までで、その後紆余曲折はありますが、鎌倉時代、室町時代、戦国時代(この時代は全国を支配した政権はありません)、安土桃山時代から江戸時代まで、ほとんどは武士が支配することになります。
ただ、ややこしいのは武士が支配していた時代でも一貫して朝廷は存在していたことです。幕府の長は征夷大将軍ですが、これは形式的には天皇の部下なんですね。ただ、現実には天皇が将軍を自由に選べるということはほとんどなく、武士に言われるがままに任命していたわけですから、実権は武士の側にあったということになります。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%81%E5%A4%B7%E5%A4%A7%E5%B0%86%E8%BB%8D
これを端的にお子さんに説明するのは難しいかもしれません。
ただ、今の天皇陛下も政治的な実権はまったくなくて象徴として存在しているわけなので、それとちょっと似ているというような説明は、できるかもしれませんね。(今でも首相を任命するのは天皇と決まっています。ただし天皇が首相を選ぶことはできず、国会が選んだ人を形式的に任命するだけです)

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Q創価学会の人かどうかの見分け方を教えてください。

事情で、創価学会の人とできるだけ関わりたくありません。
(詳しくは書きませんが、かなり迷惑を被っています。)
これからいろいろな人と知り合いになると思いますが、
創価学会の人かどうか見分け方がありましたら、
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ちなみに自分なりに考えたのが、
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あと、学会の批判ではなくて、見分け方のみご回答願います。

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学会会員です。比較的簡単な見分け方は.

1.死者がいないのに(紙製の)仏壇を持っている
2.木製の仏壇の場合は.つくりが派手(他の宗派の場合には.分家したときに作った仏壇をいつまでも使いつづけるので.結構古い物が転がっています)。
3.お守り.破魔矢.熊手.達磨等の縁起物を持たない・買わない(私のような例外もいますが)
4.命日など家族で遠距離の墓参りに行く。(近所の宗派の方は.命日の近くの都合のよい日に出かけます。)
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7.宗教(日蓮)関係のわけのわからない本がある。

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以前聞いた話しでは実際に請求、支払までいくことはないと言ってましたが・・・

自殺→電車に飛び込む→通常の精神状態では出来ない

のような理由だそうです。一億円以上等、高額の賠償金や
慰謝料の話しは鉄道関係者がある程度意図的に流しているようで(そう簡単に電車に飛び込まれては困る)。
それよりも飛び込まれた電車の運転手さんの精神的ショックのほうが大きくて事故後強制的に1ヶ月の休暇をとらされるようです。

いずれにしろ、電車で飛び込み自殺なんて絶対にいけません!!

Qもし現代人が江戸時代で1ヶ月生活するとしたら、何で困るでしょうか?

空想の話で恐縮です。

時代小説を読んでいて時々思うのですが、もし今の日本人がタイムマシンか何かで数百年前の江戸時代に戻り、そこで1ヶ月ほど当時の一般庶民の家に滞在するとしたら、何で困ると思われますか? あるいは何も困る事はないでしょうか?

例えば食事。 衛生状態は今ほど清潔ではなかったはず。 もしかして最初の食事で腹痛や下痢をおこし、ギブアップになるでしょうか? それとか味付け。 現代人の口に合うでしょうか? 我慢しないで1ヶ月食べ続ける事に何も問題ないでしょうか? それとか、今のように肉食はそんなにしなかったはず。 せいぜい鳥や兎の肉くらいでしょうか? あと、お酒もそうですね。 現代人に飲めますか?

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風呂。 現代人が躊躇なく当時の銭湯に入れますか? 当時は毎日入っていたんでしょうか?

トイレ。 現代人に当時のトイレで大・小できるでしょうか? 特に女性の場合。

人によって感じ方が違うと思いますが、上に挙げた以外で 「1ヶ月滞在するとしたら、おそらく大多数の現代人にはこれが苦痛だろう、あるいは無理だろう」 と考えられるのは、どんなものでしょうか?

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例えば食事。 衛生状態は今ほど清潔ではなかったはず。 もしかして最初の食事で腹痛や下痢をおこし、ギブアップになるでしょうか? それとか味付け。 現代人の口に合うでしょうか? 我慢しないで1ヶ月食べ続ける事に何も問題ないでしょうか? ...続きを読む

Aベストアンサー

 下級武士のご新造さんの一日(朝のみ)。
(1)最初にご新造が起床、用便を済ませます。汲み取り便所だから臭いですね。蛆が湧いています。ハエが便所に限らず、そこいらじゅうブンブン飛び回っています。しゃがんでウンコ・オシッコするのはきついですぞ。
(2)次に井戸端で洗顔します。釣る瓶で水をくみ上げて、その水で洗顔、大体は外の吹きさらしですから、これからの季節は寒いですぞ。
(3)朝食の準備にかかります。井戸端で味噌汁の実にする大根を洗い、米を研ぎます。台所の水がめに水を張ります。ブリキのバケツではなく、木の桶で運びますから重たい。道具は何でも重たくて大変。飯炊きの釜や薬缶もアルミ製のものはありません。みんな鉄か瀬戸物です。
(4)カマドに火を着けます。火打ち石でやります。なかなか火が着かず難しいです。火吹き竹で空気を送り込んでやっと景気よく燃え出しました。飯を炊きます。一人当たり三匹の目刺をあぶります。
(5)雨戸を開けます。障子はみな紙です。ガラスではありませんので、吹き降りの日だと雨戸を閉めないといけません。昼間でも暗いです。
(6)家族そろって朝食。
(7)食器などを洗います。油の着いた食器を洗うのは大変です。ママレモンはありませんのでギトギトがなかなか取れません。水道の水でジャージャーやるわけのもいきません。
(8)井戸端で盥で洗濯します。これも大変です。

・・・女性は大変でしょう。田舎の明治生まれの女は、以上のようなことをやっていました。江戸時代とそんなに変わりません。電気(裸電球)とマッチだけが江戸時代よりマシなだけです。

>「1ヶ月滞在するとしたら、おそらく大多数の現代人にはこれが苦痛だろう、あるいは無理だろう」 と考えられるのは、どんなものでしょうか?
・・・夏場の暑いときに一ヶ月滞在すれば、参るでしょう。
・網戸がないので蚊に食われる。
・ハエがブンブン飛び回る。食卓の食べ物にハエがたかる。
・冷房や扇風機がないので暑い。雨の日は雨戸を閉めるのでこれも暑い。
・便所が臭く、人の体も臭い。
 夏場でいいことは、行水などで女性の裸を見る機会が多いことくらいかな。

 下級武士のご新造さんの一日(朝のみ)。
(1)最初にご新造が起床、用便を済ませます。汲み取り便所だから臭いですね。蛆が湧いています。ハエが便所に限らず、そこいらじゅうブンブン飛び回っています。しゃがんでウンコ・オシッコするのはきついですぞ。
(2)次に井戸端で洗顔します。釣る瓶で水をくみ上げて、その水で洗顔、大体は外の吹きさらしですから、これからの季節は寒いですぞ。
(3)朝食の準備にかかります。井戸端で味噌汁の実にする大根を洗い、米を研ぎます。台所の水がめに水を張ります。ブリキ...続きを読む

Q藩主と大名は同じ人物か?

江戸時代1万石以上の領地(藩)を与えられた武士を大名と言い,その領地と政治組織を藩といいます。となるといわゆる藩主というのは大名と同一人物になるのでしょうか?1つの藩に藩主は1人でしょうが,大名と藩主が同一人物でないとすれば,藩に大名は複数いたのでしょうか?

Aベストアンサー

江戸時代の藩は300とも500とも言われますが、幅がおおきのは藩、大名の規定が複雑だった事を物語っています。大名という言葉は鎌倉時代からあり、徳川幕府が一万石以上を大名と定めた事から、大名とは一万石以上の領主となりますが、例外もたくさんあったようです。先ず大大名の家来には一万石以上の者がいるわけですが徳川幕府が認めなければ家来の家来(陪臣)は大名扱いを受けていません。

大名として認知されていない領主も藩を治めていれば藩主なので、大名と藩主がイクオールでないケースも出てきます。米の取れなかった松前藩は禄高ゼロでも北海道特産物を瀑布に物納して一万石の大名扱いを受けていたそうです。

参考URL:http://www.nifty.ne.jp/forum/fsiro/hp/fsiro_db/han/01-01.htm

Q水戸藩の参勤交代について

参勤交代についてですが、[水戸藩は江戸定府→参勤交代なし]と参考書に書いてあります。これはどういうことですか?水戸藩は江戸にあるから、参勤交代はなし。って意味ですか?水戸って現在の茨城県のあたりですよね?茨城が江戸のはずないし。どうでしょうか。よくわからないので、知識のある人お願いします。

Aベストアンサー

水戸藩主は常時江戸にいるのが原則であり、そのため参勤交代はありません。もちろん、ごくまれに将軍の許可を得て水戸に帰る場合もありましたが、参勤交代というのはあくまでも毎年領地と江戸の間をいったりきたりすることなので、たまに領地に帰るのは参勤交代とは言いません。
そのため水戸藩主は一生のうち水戸にはほとんどいませんでした。
水戸藩主のほかにも参勤交代をしない大名はありますし、老中・若年寄ほかの幕府の役職についている大名も在職中は江戸にいたきりなので参勤交代をしません。


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