
No.9ベストアンサー
- 回答日時:
幕末に講談師の桃林亭東玉が「水戸黄門漫遊記」を創作してからポピュラーになったようです。
「この印籠が目に入らぬかぁ!」「ははぁ~!」」というシーンはTBSのドラマだけ。もともと水戸家は幕末に「勤王の大本山」とされた藩で、水戸光圀が編纂させた「大日本史(明治39年に完成)」は幕末の勤王志士の歴史観に大きな影響を与えていて、光圀は幕末・明治の読書人に身近な存在でした。光圀は、この「大日本史」に必要な資料を集めるために諸国に家臣を派遣しており、そうしたことも諸国漫遊話しの下地になっているようです。
また、光圀は徳川綱吉や柳沢吉保と時代を同じくし、「生類憐れみの令」に反して牛や羊を平気で食べ、将軍へもずけずけものを言ったため、庶民の受けも良く、名君とされる人です。
光圀自身は徳川家康の孫にあたります。当時の将軍の綱吉は家光の四男で家康の曾孫。神君家康を基準とすればより近い尊い血になります。
さらに、水戸家は水戸と言う江戸に近い地理の上、藩主は江戸定府が定められていましたので、徳川を名乗れる者の中では最も将軍に身近な存在でした。
上記の理由もあって、将軍親政を目指していた徳川綱吉に制度外から意見できる数少ない大名の一人でした。
尾張家・紀州家が将軍の血統が絶えたときに将軍を出す家柄である反面、幕政に関与できない立場にあったことと対比して、禄高が少なく、家格も一段低い水戸家を「副将軍」と位置付けたようです。副将軍と言う役職があったわけではありません(下馬将軍とかのような異名ですね)。
水戸光圀と言う人は、日本ではじめてラーメンや餃子を食べた人です。とても好奇心が強い人で、エピソードに事欠かないので調べてみると面白いですよ。^-^
実は先週の「大奥」を見てこの質問をさせていただいたのです。そう、綱吉です。
なぜ右衛門助(高岡早紀)が綱吉の「生類憐れみの令」を光圀にチクりに行ったのかな、と思って・・・。
光圀は面白いおじさまだったのかもしれませんね。もっと調べてみようと思います。
ご回答ありがとうございました!
No.8
- 回答日時:
蛇足ながら、水戸家が「御三家」に加えられたのは家光の代の晩期頃からで、家格も極官が権中納言と一段低いままでした。
建前上は御三家は平等に将軍候補を出せる家柄とされましたが、実際には紀伊家、尾張家のどちらかから出すものと決まっていました。ただし、御三家といえども紀伊家、尾張家は参勤交代の義務がありましたが、水戸家だけは例外的に江戸常府であり、都合による帰国もかなり自由に認められていました。こうした特別待遇から水戸家を指して「副将軍」と呼ばれるようになりました。「副将軍」と呼ばれたのは光圀だけではなく歴代藩主も同様でした。特に幕末時の藩主”烈公”斉昭は自らも「副将軍」然として振る舞い、幕閣から畏怖されました。
「副将軍」は幕府の官制には無いものですが、分限統制に厳しかった幕府が水戸黄門の講談話が流行し「天下の副将軍」という呼び名が流行した時にも特に不快感を示した記録もないので、実質的にそのような礼遇を受けていたと考えることもできるようです。
前の回答でもいただきました「副将軍」を掘り下げて教えてくださり、ありがとうございました。
昔習った記憶が脳ミソのヒダにひっかかっているような気がします。
当時はつまらなかった話が今は面白いです。
ご回答ありがとうございました!
No.7
- 回答日時:
大体皆様が回答される通りですが、もう1つの側面として一般庶民にとって武士は怖い存在という点もあります。
黄門様もある日知人と刀談義になって、試し切りをしようという話になりました。
そこでお寺に住み着いた浮浪者を縁の下まで追いかけていって引きずり出し、切り殺したという逸話があります。
あの人格者の黄門様がと驚きますが、黄門様の日記に依れば内心は罪も無い人間を切り殺すことに罪悪感を感じている反面、知人にそそのかされた上は切らないと臆病者と言われ、武士の面子に関わるので「是非もなし」と已む無く切ったと書かれており、そそのかした知人とは絶交したとも書いてあります。
つまり人格者の黄門様だからこそ庶民を切ることに躊躇を覚えましたが、5代将軍綱吉の時代までは戦国の気風が満ちており、一般の武士は庶民など大根を切る程度にしか考えてなかったようです。
示現流の東郷重位も同輩が往来の犬を蹴り殺して河原で犬鍋にして食べてるのを見たとか書いてますから、この時代は武士というのは現代の「暴力団」と考えてよいと思います。
黄門様は大組織の幹部ですから、一般庶民にとっては恐ろしい存在ともいえます。
試し切り!!怖ーーーい!ドラマじゃありえないですね!
やっぱり相手が刀を持って威張っている人なら今でもビビッちゃいますよね。
興味深いお話をありがとうございました!
No.6
- 回答日時:
徳川御三家の中で水戸家が「副将軍」と俗称されていたのは、No.2の方の回答にある通りです。
しかし、公式な身分秩序としても、徳川光圀はとても高い地位でした。
日本の各大名家は、将軍を頂点として家柄による序列が定められていました。
http://www.k2.dion.ne.jp/~toyo.13/index.bukekani …
これは例えば、江戸城内での席次や朝廷からもらえる官位・官職の上下で現されます。
しかも各大名は、若い頃には低い官位ですが年をとるにつれて高い官位に上りつめます。(低い家柄の高齢大名は、高い家柄の若輩大名より高位高官になります。)
さてそのサイトを見てもらえれば分かるように、水戸徳川家は全国の大名の中でも極めて高い位置にいます。
しかも徳川光圀は老齢ですから、水戸徳川家がもらえる官職の上限(上記サイト中では「極官」と表現されています)の、「権中納言」です。(準・中納言という意味)。ちなみに、日本の中納言にあたる地位を中国の王朝では「黄門」と表現するので、水戸黄門になります。
そのサイトの一覧表の中で、徳川光圀の時代、「御三卿」という家はまだなく、「御両典」も(確か)1家(甲府徳川家)だけ。
となると、水戸徳川家自体、江戸時代の大名秩序の中で
「将軍家、尾張徳川家、紀州徳川家、甲府徳川家」に次ぐ
No.5の家です。しかし、水戸家より上の家柄の当主たちが若輩で官位がまだ低いとなると。
徳川光圀は、当時の武士の中で将軍に次ぐくらいの立場だったのではないでしょうか。
参考URL:http://www.k2.dion.ne.jp/~toyo.13/index.bukekani …
目からウロコでした!実は恥ずかしながら御三家も定かでなかった私の歴史の認識力です・・・。
とても面白そうなのでもう少しいろんなリンクを辿って勉強してみたいと思います。
ありがとうございました!
No.5
- 回答日時:
水戸黄門漫遊記ができたのは、明治時代の初期といわれ、実際の水戸光圀は、諸国を漫遊してはいないらしいです。
ただ、非常に徳があり、人望があったので「副将軍」というあだなは当時からあったといわれています。全回答にもあるようにそういう官職はありません。
また光圀は歴史に興味をもち『大日本史』という歴史書の編纂に取り組みます。
「助さん」「格さん」はそれらの事業に参画し、後に彰孝館という歴史編纂所の総裁となった偉い学者です。武芸に秀でていたかどうかは、つまびらかではありません。
とても分かりやすくご説明いただき、ありがとうございました。
前述回答の鎌倉まで行ったのは旅行なんでしょうか(笑)。
でも勉強熱心ではあったのですね。それだけでも偉いです。ありがとうございました。
No.2
- 回答日時:
史実かどうかは、脇へおいといて。
光圀は徳川御三家の一つ水戸徳川家の当主だった人物で、将軍家とは血縁関係にあります。
御三家は、将軍家の血筋が絶えた場合、その跡目を継ぐ権利を持つ家柄で、大名としては筆頭、つまり将軍家に次ぐ地位と発言力があります。
特に光圀は幕府内での発言力が大きかったので、劇中では「副将軍」などとも呼ばれています(実際にはそのような役職はありません)。
とても分かりやすく教えていただき、ありがとうございました。
そういえばドラマで『天下の副将軍』って言ってますね。
でもそんな役職はないのですね?ありがとうございました。
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