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高校教科書の用語集には「アカイア人とはドーリア人以前に南下(第1波)してきたギリシア人の総称」とあります。するとアイオリス人とイオニア人の総称になりますね。しかし、別の書物には「アイオリス人の一派がアカイア人」と書かれてました。正確な情報を教えてください。

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A 回答 (3件)

イオニア、アイオリス、ドーリスといった民族区分は主に言語学的な定義であり、地理的な集団区分ではありません(図説などでははっきり色分けされて記されていることがよくあるので混同しやすいですが)。


アカイアは東方方言系、ドーリスは西方方言系と考えられていることは高校教科書でも記述されているかと思います。
アカイア人とは旧石器時代から後期青銅器時代までペロポネソス半島、コリントス湾周辺などに居住した東方系の言語集団のことで、前14世紀頃にはミケーネ文明を起て、前8世紀にはイオニア植民を主導しました。イオニア人とはこの移住に関わったアッティカ周辺のアカイア人の別称と捉えてもほぼよく、特にイオニア植民から古典期にかけてのアカイア人のことを指します。アテナイなどはイオニア系ポリスです。
アイオリス人はこの大植民時代のイオニア移住の際、アカイア人と平行して小アジア沿岸の北部に移住した一団で、元は前二千年紀末にボイオティア・テッサリアなどを中心にギリシア本土に居住していた集団のことです。
彼らもまたドーリス系に先行する段階からギリシア本土に居住していた集団であるため、広義にアカイア人の一部として認識される場合もありますが、言語的には混交があまりみられなかったことから、青銅器時代以降(とりわけミケーネ時代と諸ポリス勃興の時代)はアカイア人という一元的な括りでなく、イオニア、アイオリスと区別して認識されたほうがよろしいかもしれません。イオニア系とアイオリス系、両者の間では前二千年紀から一千年紀を通じてローカルに小規模な混血もあったとされますが、血縁的な近縁関係ははっきりしていなかったと記憶しています。
教科書の古い記述に反映されてはいませんが、近年ではアイオリス人をアカイア人の中に含めず、最初期の東方方言系住人をアカイア人、古典期のアッティカやイオニアにポリスを立てたその末裔をイオニア人、青銅器時代の後期から末期にギリシア北部から南下してきた東方方言系移民をアイオリス人、青銅器時代最末期に大規模な移住を行った西方方言系集団をドーリス人とし、全く区別して扱う研究者も増えているようです。
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この回答へのお礼

すると、「アカイア人の中の一部としてイオニア人がいた」「アカイア人にはアイオリス・イオニア人ともに含まれる」「アカイア人はアイオリス・イオニア・ドーリア人とは別のギリシア人」など諸説があるのですね。大変参考になりました。ありがとうございます。

お礼日時:2006/01/30 23:37

一応補足しておきますと、アカイア系の一派がイオニア人であることは史料的にほぼ疑いないことです。


現状、「アカイア系の中の一部としてイオニア人がいた(アイオリス人は同じ東方言語系にある可能性があるが、後のイオニア人に繋がるような純粋なアカイア系集団であるかどうかは定かでない)」、「アカイア系にはアイオリス・イオニア人ともに含まれる」とみなす両方の立場があるのですが、アカイア人とイオニア人を別の民族と考えることはありません。
(本土のアカイア系住民をアカイア人、小アジアへのアカイア系植民者をイオニア人、というふうに意識的に区別して記述することはあるかもしれませんが)

>アカイア人という一元的な括りでなく、イオニア、アイオリスと区別して認識されたほうがよろしいかもしれません。
この辺の文章で誤解されてしまったかもしれませんが、アカイア人とイオニア人の関係を否定したわけではありません。アイオリス人がアカイア系であるか否かを問うよりは、アカイア系という括り方をひとまず置いて、イオニア・アイオリス・ドーリスという大植民時代以降の言語区分で捉えたほうが理解しやすいのでは、といった意味での書き込みでした。
勘違いされていたらお詫びいたします。
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この回答へのお礼

よくわかりました。ありがとうございます。

お礼日時:2006/02/01 09:31

ギリシア人の中に、アイオリス人・イオニア人・ドーリア人がいたはずですが…。


ギリシア人を居住地域・方言で区別した分類ですよ。
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Qインド=ヨーロッパ語族が広範囲に広がった理由

世界の人種・言語圏を見ると、インドからヨーロッパ全域に至る広範囲に渡り、インド=ヨーロッパ語族が中心になっていますが、なぜ4千年程前に黒海周辺の狭い地域で暮らしていた当民族が、ここまで勢力を拡大できたのでしょうか。素人考えでは優れた文化(特に生存に直結する武器や農耕手段など)が背景にあったのかな、と推察しますが。有力な学説などがありましたらご教示下さい。

Aベストアンサー

私も素人ですが、インドヨーロッパ語(以下印欧語)族の起源に関しては、真面目に本を読んだ事があるので回答させて頂きます。

印欧語族の起源に関して、とりあえず「一番有名な仮説」と言えるのは、南ロシア起源と考える「クルガン仮説」でしょう。参考URLの説明をご覧下さい。この仮説では「馬の家畜化が戦車の使用につながり、それが原印欧語の拡大の契機となった」と考えられています。
但し、参考URLを読んで頂ければわかるように、これは「定説」と言える程のものではまだありません。特に、「何をきっかけにして印欧語が広がっていったのか」については、この仮説の中では支持の少ない部分です。

「印欧語の拡散」に関する仮説で、代替の仮説として取り上げるにたるものとしては、「アナトリア起源」説があります。(これも参考URLで触れられています。)この仮説では「農業が少しずつ伝播する過程で、農業による人口増→農民が周囲を徐々に開墾していく→開墾地域の拡大に従って、原印欧語が話される地域も広がっていく」と考えられています。(尚、No.2の方が挙げている「ヒッタイトが鉄と馬で版図を拡大したのにつれて印欧語も広がった」という説は、私は知りませんが、それとこの『アナトリア起源』説は、場所は一致していますが、別のものと思われます。)

そもそも論からすれば、言語学からは、現在の印欧語の分布状況、各印欧語に共通する単語の種類から、原印欧語の起源の大雑把な場所や時代が推定できるだけです。例えば、「原印欧語には、鉄を意味する言葉は無かったようだから、原印欧語が話されていたのは、鉄器時代よりは前だろう」とか、「原印欧語には、羊とか牛を意味する言葉はあっても、穀物や野菜を味する言葉は無かったと思われるから、主に牧畜に頼っていたのだろう」とか、同様に原印欧語にあったと思われる植物や動物の名前から地域を推定する、等いった事です。このやり方は、借用語の可能性(現在、印欧語に共通する言葉であっても、元々原印欧語にあったのではなく、後になってひとつの言語でできた言葉が、他の言語に借用されただけかも知れない)を考えると、かなり限界があります。
言語学ではこの程度の大雑把な話しかできませんが、クルガン仮説は、原印欧語と、「クルガン」やそれに付随した遺物を結びつけ、南ロシアを起源にした原印欧語が「クルガン文化」とともに伝播していった、と推定しているわけです。

ただ、このように、特定の遺物・遺跡と、特定の『民族的な集団』を結びつける発想自体、最近(といってもここ20年ぐらいですが)は、以前ほどは支持を得られなくなっています。『人間の移動を伴わない文化の移動』の可能性を考慮していないからです。このような「人間集団の移動」と「物や文化の伝播」を分けて考えるのは、特にイギリスの考古学界で顕著で、それは、「ケルト人のブリテン島とへの大量移住」という従来の仮説が、いまや事実上否定されている事に象徴されています。(住居や埋葬方法などを見ると、ケルト人の大量移住はほとんど考えられない)

といったわけで、「クルガン仮説」は、今でももっとも有力な仮説とは言えますが、定説と言うほどのものではなく、更に肝心の「何をきっかけor原因にして伝播して言ったか」は、特に意見がわかれている部分です。

従って、ご質問に関しては、とりあえず「クルガン仮説」が一番有名(有力と言うのには少し躊躇します)ではあるが、原印欧語拡大の契機については、よくわからない、というのが実情だと思います。

参考URL:http://www.memomsg.com/dictionary/D1198/301.html

私も素人ですが、インドヨーロッパ語(以下印欧語)族の起源に関しては、真面目に本を読んだ事があるので回答させて頂きます。

印欧語族の起源に関して、とりあえず「一番有名な仮説」と言えるのは、南ロシア起源と考える「クルガン仮説」でしょう。参考URLの説明をご覧下さい。この仮説では「馬の家畜化が戦車の使用につながり、それが原印欧語の拡大の契機となった」と考えられています。
但し、参考URLを読んで頂ければわかるように、これは「定説」と言える程のものではまだありません。特に、「何をきっ...続きを読む

Qトロイ戦争は、史実ですか?

今度封切られる映画「トロイ」を観ようとおもいますが、
トロイ戦争は、史実なのですか?
いろいろ、調べてみても神話なのか?史実なのか?わかりません。
おしえてください。

Aベストアンサー

 
>トロイ戦争は、史実なのですか?

「史実」ではありません。「神話的伝説」または「伝説的英雄譚・叙事詩」です。

伝説の詩人ホメーロスが造ったとされる、『イーリアス』や『オデュッセイア』などに歌われている戦争の主舞台である「トロイエーの都市」が実際に過去に小アジアに存在したことは、ハインリッヒ・シュリーマンの発掘等で確認されましたが、トロイエーの都城が存在したということは、つまり、「トロイエー戦争」が史実であったとはならないのです。

「トロイエー戦争」は、叙事詩が歌っているのが本当だとすると、大体、紀元前14世紀頃に起こったと考えられますが、そのような戦争が、古代ギリシア連合軍と、トロイエー都城のあいだであったという歴史的記録や証拠が残っていません。

これに対し、同じ紀元前14世紀には、エジプトの大王ラムセス2世が、ハッティ(ヒッタイト)帝国と戦争し、そのなかでも「カデシュの戦い」という決定戦があったという記録がエジプトにありました。

しかし、エジプトの記録にある、「ハッティ帝国」の存在が確認されていませんでした。本当にそういう国や勢力があったのか、歴史的証拠が見つかっていなかったのです。しかし、20世紀初頭になり、小アジアのボガズキョイの遺跡を発掘すると、そこがハッティの首都であり、更に、「カデシュの戦い」の記録が発見され、エジプト側の記録と比べて、内容がほぼ合致するので、「カデシュの戦い」は、「歴史的事実=史実」だと確認されました。

そこで、史実であることが判明した「カデシュの戦い」に比較して、時代は同じ頃の紀元前14世紀頃ですが、「トロイエー戦争」は、ホメーロスの叙事詩で雄壮に歌われていますが、この時代の古代ギリシア人(アカイア人)の連合軍が、小アジア東端のトロイエーの都城に大挙して戦争を仕掛けて、十年に及ぶ攻防戦の果てに、「木馬の奇計」を使って、トロイエーの都城を陥落させたというような「歴史的記録」は、アカイア族の遺跡記録にもありませんし、発見されたトロイエー都城側の記録にもありません。

アカイア族(古代ギリシア人)が、各地に勢力を拡大し、略奪行為などを行ったという発掘的証拠はあり、トロイエー都城側でも、小アジアの商業的軍事的要衝にあったこの都市に、幾度も争乱があり、侵略者が出現し、戦いがあったという発掘的事実は見つかっていますが、アカイア族の連合軍が大挙してトロイエーに侵攻し、十年に及ぶ戦争が行われたなどという記録・証拠はありません。

シュリーマンが発掘したトロイエーの都城は、明らかに年代の異なる幾つもの地層に分かれており、それぞれの地層において、異なる建造物の遺跡などが見つかりました。これからすると、トロイエーは、千年かそれ以上の期間、幾度も都城が築かれ、崩れ、その崩壊した遺跡の上に、また新しい都城が築かれたのだということが分かります。

都城が火災によって滅びたと考えられる遺跡地層もあるので、これが、「トロイエー戦争」のトロイエーの遺跡だとの説もありますが、時代が合わないようです。

トロイエーの王子パリス(アレクサンドロス)が、メネラオス王の妻である絶世の美女ヘレネーを奪い去った結果、アカイア族の諸国が連合軍を造り、アガメムノーンを盟主として、トロイエーに侵攻し、十年にわたる戦争のあと、奇計をもってトロイエーの都城を陥落させたという「トロイエー戦争」の話は、ホメーロスの英雄叙事詩等に歌われているだけで、そのような事件が実際にあったという歴史的資料や記録がないのです。

従って、「トロイエー戦争」が史実であったという証拠や記録は、現在、存在しないのであり、「史実」とは言えないのです。
 

 
>トロイ戦争は、史実なのですか?

「史実」ではありません。「神話的伝説」または「伝説的英雄譚・叙事詩」です。

伝説の詩人ホメーロスが造ったとされる、『イーリアス』や『オデュッセイア』などに歌われている戦争の主舞台である「トロイエーの都市」が実際に過去に小アジアに存在したことは、ハインリッヒ・シュリーマンの発掘等で確認されましたが、トロイエーの都城が存在したということは、つまり、「トロイエー戦争」が史実であったとはならないのです。

「トロイエー戦争」は、叙事詩が歌...続きを読む

Qセム族ハム族とは?

エジプトや中近東で歴史的に、セム族、ハム族が出てきますが、歴史的にはどのように繁栄して推移してきたのでしょうか。現在の国で言うと、どの国の人を構成しているのでしょうか? 人種3大分類でいうと、どういう比率でどのカテゴリに近いのか?
教えてください。

Aベストアンサー

まず、参考URLにあるように、最近は「セム・ハム語族」という言い方はしなくなりました。
一応、旧来の言い方に従うと、
1.セム語で現在最も「有力」なのは、アラビア語ですから、繁栄の歴史については、アラブ史の本を読まれるといいでしょう。
2.言語と国民を対応させるのは、歴史的に言葉が変わったりするので、難しいのですが、乱暴に言えば、我々が「アラブ人」と呼ぶ人達ですね。それから、ユダヤ人もそうです。
ハム語は、アラブ化される前にエジプトで話されていたエジプト語や、北アフリカの(アラブ人の進入以前から居た)ベルベル人の言葉(ベルベル語)などが入ります。
3.「どういう比率でどのカテゴリに入るか」というご質問の主旨が今ひとつよくわかりませんが、アラブ人はコーカソイド(いわゆる「白人」と同じ)に分類されます。(というか、これも今は、学問上は、人種という分類自体、ほとんど意味がない、という考え方が主流になっているので、「分類されていた」という言い方の方が正しいでしょう。)

参考URL:http://www.tufs.ac.jp/common/fs/asw/ara/arabiago.html

まず、参考URLにあるように、最近は「セム・ハム語族」という言い方はしなくなりました。
一応、旧来の言い方に従うと、
1.セム語で現在最も「有力」なのは、アラビア語ですから、繁栄の歴史については、アラブ史の本を読まれるといいでしょう。
2.言語と国民を対応させるのは、歴史的に言葉が変わったりするので、難しいのですが、乱暴に言えば、我々が「アラブ人」と呼ぶ人達ですね。それから、ユダヤ人もそうです。
ハム語は、アラブ化される前にエジプトで話されていたエジプト語や、北アフリカの...続きを読む

Qギリシアとローマの関係について

高校レベルの世界史もよく把握していないのですが…
古代ギリシアとローマの関係がよくわからないのです。

・ギリシアとローマは戦争していたこともあり、別個の支配体制ですよね?
・それなのに同じ12神を信奉していますし、使用するアルファベットも似ています
・ローマは土木工事等の実学には長けていたが、ギリシアのような哲学や数学は発達しなかったと聞きます。文化面でもだいぶ隔たりがあるように見えます。

結局この2つはどんな関係で、お互いにどんな相手だと見ていたのでしょうか?

Aベストアンサー

 古代ギリシアは都市国家の集まりです。何度か、都市国家連合としての統一国家になろうとしましたが成功しませんでした。その理由は、おそらくは文明・文化の発達でしょう。自立と自由があって、初めて文明・文化が発達します。そして、それを手放してまで、国力だけのために統一国家となることは受け入れにくいのです。

 古代ローマは、文明・文化の発達が遅かったので、早くから統一国家、しかも都市国家連合という緩い結びつきの国ではなく、全域を中央政権が支配する領土国家にまりました。そして、文明・文化は近隣で発展していたギリシア(とりわけ学問先進国のアテネ)に学んだわけです。

 ギリシアの文明に学び、しかも全域が統一されているローマの国力は急速に伸びて行きました。やがて、国力としては劣り、しかも統一できていないギリシアの都市国家を次々と従わせ、ローマの地方都市として、やがてギリシア全域をローマの領土に組み入れることとなります。

 しかし、ローマはギリシアの文明・文化を超えるような独自なことはできませんでした。巨大な建築はできたけど、基本はギリシアのものです。それだけ、ギリシアの文明・文化は発達していたわけです。宗教も、ローマ独自のものはあったのでしょうが、ギリシアの神々と同じものだとしてしまいました。

 キリスト教が広まり、公認されるようになると、ようやくキリスト教由来を加えて、ローマ独自文明・文化が発達し始めました。ローマ帝国が東西に分裂し、西ローマ帝国が滅びても、東ローマ帝国は長く保ち、首都コンスタンティノープルではヨーロッパ有数の文明・文化先進地域であり続けました。

 そういう例は、古代中国にもありました。殷や周は都市国家連合です。一番国力があり、他の都市国家のリーダーととして取りまとめていたのが、殷や周という大きい都市国家でした。その地域を中原(ちゅうげん)と呼んでいて、そこでは早くから文明・文化が発達しました。

 その周の力が衰えていく一方、地方では楚といった文明・文化は遅れていて、中原の都市国家に学んだ国が、早くから領土的にも統一した国家として台頭して行きました。

 周が衰えて、他の国家が力を得て行った春秋時代は、中原ではまだ都市国家連合がひとまとまりとなった国家が多く、非常に多数の小国が乱立していました。小国とはいえ、文明・文化が発達しているので、その周辺地域の領土的に統一された国家から尊敬を受けていました。

 しかし、続く戦国時代となると、ほとんど国家が領土的に統一された国家となります。都市国家は単なる都市となりました。それでも、小国となっても周とその近辺の小国は、秦が中国全土を領土的に統一するまで、長く尊敬を受け続けていました。

 古代ギリシアは都市国家の集まりです。何度か、都市国家連合としての統一国家になろうとしましたが成功しませんでした。その理由は、おそらくは文明・文化の発達でしょう。自立と自由があって、初めて文明・文化が発達します。そして、それを手放してまで、国力だけのために統一国家となることは受け入れにくいのです。

 古代ローマは、文明・文化の発達が遅かったので、早くから統一国家、しかも都市国家連合という緩い結びつきの国ではなく、全域を中央政権が支配する領土国家にまりました。そして、文明・...続きを読む

Qイスラム教の聖地はエルサレム、メッカ?

イスラム教の聖地とはエルサレム、メッカ、どちらなのでしょうか?
よろしくお願いします。

Aベストアンサー

どっちもです。

メッカ、メディナ、エルサレムの3つの都市が、イスラム教の三大聖地とされているようです。

メッカには、「神の館」であるカーバ神殿があり、また、預言者モハメッドの生誕地でもあります。

メディナには、モハメッドの墓所に建てられたモスクがあるらしいです。

エルサレムは、モハメッドが天に登った場所だそうです。

Q神聖同盟でイギリス、ローマの教皇が参加しないのはなぜ?

1815年の神聖同盟にイギリス、ローマ教皇、トルコが参加しませんでした。トルコはイスラムなので参加しないのはわかりますが、後の二つはどうして参加しなかったのですか?

Aベストアンサー

神聖同盟に参加しなかった理由は、
イギリスが立憲君主主義政体だったからで、
ローマ教皇は新教徒国とのいかなる協力も拒否したからです。

この同盟は、キリスト教の正義・友愛の精神により
各国君主が個人的に提携するという
君主間盟約のような抽象的なものでした。

イギリスは憲法的制約だけでなく、
現実的にも、将来の国益の障害になりそうな内容だったので
これには参加せず、
もっと実際的な四国(後に五国)同盟の方に加わります。

ローマ教皇の場合は、先代の教皇ヨハネパウロ2世の代に
ようやくプロテスンタトと和解しましたが、
現在でもギリシャ正教会とは対立しているくらいなので、
到底、キリスト教的友愛精神など持ち合わせていなかったわけです。
皮肉ですね。

Q世界史B 武装中立同盟について

武装中立同盟について簡単にわかりやすく教えてください。

イギリスを孤立化させようとして、ロシアのエカチェリーナ2世が提唱したのは分かるのですが、
同盟の内容がいまいちわかりません…

よろしくお願いします<m(__)m>

Aベストアンサー

武装中立同盟は、二回(1780~1783、1800~1802)ありましたが、
この同盟の意義は、イギリスによって行われていた中立国の船舶に対する、
乱暴な海上臨検や船体と積荷の差し押さえ、通商の妨害に対抗するものです。

本質的には、イギリスを孤立させる目的ではないです。
逆に、イギリスが一回目のアメリカや二回目のフランスを、
孤立させる海上封鎖政策をしていたのです。
これらの国とも貿易していたヨーロッパの中立国にしてみれば、横暴きわまったわけで、
そういった経済的損失を被らないように、中立国が団結して、
外交的圧力をイギリスにかけて思いとどまらせるのが目的です。
それが結果的に、イギリスの外交上の孤立化ということになっただけ。

だから武装中立。動機は、同盟諸国の国益の保護で、イギリスと直接対決するわけでもない、間接的なものです。
(ただし1800年の場合はイギリスはデンマークのコペンハーゲンを強襲し、
ハンブルクとデンマークに武装中立同盟からの離脱を強要した)

当時、国際紛争を解決するような機構が存在せず、
国家間紛争が二国間協議に依存していたため、
中小国は不利益を被っていました。

武装中立同盟は、二回(1780~1783、1800~1802)ありましたが、
この同盟の意義は、イギリスによって行われていた中立国の船舶に対する、
乱暴な海上臨検や船体と積荷の差し押さえ、通商の妨害に対抗するものです。

本質的には、イギリスを孤立させる目的ではないです。
逆に、イギリスが一回目のアメリカや二回目のフランスを、
孤立させる海上封鎖政策をしていたのです。
これらの国とも貿易していたヨーロッパの中立国にしてみれば、横暴きわまったわけで、
そういった経済的損失を被らないように、中立国が...続きを読む

Qゲルマン民族の大移動となったフン族はなぜ・・

歴史の勉強していくと何故?何故?と疑問がわいてきます。またそれを知った時
すっきりします。ゲルマン民族が移動することによって、ヨーロッパに変化が起きましたが、ではそのフン族がいきなり西方へ移動してきたのは何故でしょうか?
いろいろ調べてみましたが・・ゲルマン民族大移動の原因で出てくる程度、しかも
それまでおとなしくしていたのに、いきなり移動したようなニュアンスです・・
どなたか、ご存知のかた教えてください。

Aベストアンサー

フン族についてはアジア系遊牧騎馬民族という位の情報しか正確なものが乏しい民族です。

「きょう奴」が分裂して一部が西進し中央アジアキルギス高原に達して定着した部族の子孫という説があり彼らは多数の家畜を抱え遊牧し、乗馬に巧みで当然騎射に長けていました。
農耕を知らなかったので自然に生える草を家畜の餌にし殆ど生の獣肉などを食べていたといいます。
従って草がなくなれば当然移動して新しい草原を探さねばなりません。
東方は彼らが既に同様な生活習慣で暮らしてきたので草はないことを知っていますから西進するしかなかったのです。  こうしてヴォルガ川にたっし、さらに西進しました。  これには気候の変化説、疫病説など諸説もありますが正確なところは不明です。  この時代の移動速度は緩やかなものでした。

そこには既に東ゴート族が居住していましたから彼らを略奪、抵抗する者を殺しました。
この情報はすぐに東、西ゴート族に伝わり、かれらフン族の残酷さ、騎馬戦術の脅威が過大に誇張されて伝わったため、パニックが起こりゴート族の西方への大移動が起こって次々とゲルマン民族などの大移動が伝播したのです。  この頃は草原の確保より略奪が目的に変化していてフン族の移動は迅速で警報が間に合わない事もよく起こりました。

アッチラというフン族の王が出現し部族をまとめてから、その攻撃力はすさまじいものとなり現在のフランス、イタリアまで侵略された位です。

フン族についてはアジア系遊牧騎馬民族という位の情報しか正確なものが乏しい民族です。

「きょう奴」が分裂して一部が西進し中央アジアキルギス高原に達して定着した部族の子孫という説があり彼らは多数の家畜を抱え遊牧し、乗馬に巧みで当然騎射に長けていました。
農耕を知らなかったので自然に生える草を家畜の餌にし殆ど生の獣肉などを食べていたといいます。
従って草がなくなれば当然移動して新しい草原を探さねばなりません。
東方は彼らが既に同様な生活習慣で暮らしてきたので草はないことを知っ...続きを読む

Q紀元前と紀元後をなぜ分けるの?

タイトル通りの疑問なのです。当たり前すぎなことなのかもしれませんが、教えてくださいお願いします。どういういきさつで分ける必要になったのでしょうか?
またいつから分ける様になったのですか?

Aベストアンサー

つまりは、西暦に関するご質問ですね?

いま現在、我々が使っている西暦は、イエス・キリストが生まれた年を紀元(はじまり。すなわち西暦1年)としています。(ところが後日、実際には何年か違うらしいことがわかった。)
この西暦を考え出したのは、数学と天文学に通じていたローマの修道院長、ディオニシウスで、6世紀半ばのことです。
それまでは、日本の元号のように、何皇帝の何年というような呼び方をしていました。
しかし、それでは年数の計算が不便なので、ディオニシウスは、キリストが生まれた年を紀元とすることにしました。
これが、現在我々が使っている西暦の始まりです。
何故西暦0年が存在しないかと言うと、西暦が作られた6世紀半ばのヨーロッパは、まだ数学が発達していなかったためか、「0」の概念が無かったのです。
そのため、「西暦0年」ではなく、「西暦1年」から始まったのです。これは平成0年がないのと同じですね。
だから、紀元1年より前の年をあらわすには、0がないので当然ながらマイナスを使えず、「紀元前」とするしかないわけです。
この西暦は、まず教会で用いられ、それがヨーロッパの一般人に定着するのはそれから数世紀経ってからで、 実際に世界的に使われるようになったのは、18世紀になってからです。
日本に至っては、明治以降、つまり19世紀に入ってから、やっと使い始めました。

つまりは、西暦に関するご質問ですね?

いま現在、我々が使っている西暦は、イエス・キリストが生まれた年を紀元(はじまり。すなわち西暦1年)としています。(ところが後日、実際には何年か違うらしいことがわかった。)
この西暦を考え出したのは、数学と天文学に通じていたローマの修道院長、ディオニシウスで、6世紀半ばのことです。
それまでは、日本の元号のように、何皇帝の何年というような呼び方をしていました。
しかし、それでは年数の計算が不便なので、ディオニシウスは、キリストが生まれ...続きを読む

Q教科書ガイドは役に立つのか?

公立進学校に入学予定の新高一ですが、買おうか迷っています。用途は定期テスト用にしたいと思っています。

Aベストアンサー

高3です。

教科書ガイド。役に立つか立たないかと言われれば、役に立ちます。
でもまぁ無くてもやっていけるな、という感じでしょうか。

値段も1000円台と手ごろ(?)ですし、
書店に並ぶのも今のうちだけだと思いますから思い切って買っちゃえばいいと思います。

主に古典、数学が役に立つのかな。
答え丸写しにするのはよくないですが、テスト前に参考にするのは良いと思いますよ。


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