ハーマン・メルヴィルについて詳しく教えて欲しいです。
色々なサイトを見ても『白鯨』のことばかりで・・・・
メルヴィル自身についてや、特に『詐欺師』について等とっても困っています。
またできたらメルヴィルが執筆していた頃のアメリカの時代背景も知りたいです。
お願いします☆

A 回答 (2件)

もういっちょ。



参考URLのページからはフルテキストが参照できます。そこにある INTRODUCTION や NOTES も
参考になるんじゃないですか?

参考URL:http://xroads.virginia.edu/~MA96/atkins/cmmain.h …
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この回答へのお礼

解答とってもありがとうございました。
参考にしてみます。
7日にレポートの提出があって本も実際読む時間が無く、参考なるものを
探していたのですがこまっていました。
がんばりまーす。

お礼日時:2002/01/04 20:46

論文かなんかですか?



参考URLのサイトは、それなりに詳しいです。「詐欺師(The Confidence-Man)」についても、
それなりの記述がありますね。

もうひとつあるんですが、著作権の絡みが良く分からないので、回答が消されるおそれが
ありますから、別の回答にしておきます。

参考URL:http://www.melville.org/
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Q『アメリカ文学と時代変貌』(研究社、1989)の「フィッツジェラルド」の部分の執筆者は?

『アメリカ文学と時代変貌』(研究社、1989)の「フィッツジェラルド」の部分の執筆者は?
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 教えてください。上掲書は日本を代表するアメリカ文学研究者による共著だそうですが、「フィッツジェラルド」の章を担当した教授の御名前は調べられますか?英米文学に関してはわが国のトップの会社から出版され、長く読まれ続けている名著だそうです。

 また、この研究社の書でフィッツジェラルドが高く評価されていることと、村上春樹がフィッツジェラルドを紹介したことが、こんにちの作家の評価に決定的に影響したそうです。

お願いします。

Aベストアンサー

こちらの回答に、お尋ねの内容が出ています。参考になさってください。
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/8846754.html

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Aベストアンサー

皆さんの言われるとおりですが、戦後の国語改革で、歴史的仮名遣いを廃したものの、「助詞」に関してはそのまま残したように認識しています、ただこれは「不徹底」というより、助詞と、名詞をはっきり分離できるという意味があったようです。英文などでは単語と単語の間にはスペースを置きますが、日本文や中国文ではそのようなスペースは存在しませんからある意味合理的です。

句読点も旧い漢文などでは存在せず、あったとしても句点だけとかで、今のように整備されたのは明治以降です。読点もあるにはあったが、実際は殆ど使われておらず、江戸時代の本を原書で読むには慣れが必要です。

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・中国呉方言:p(確か)
・韓国朝鮮:p
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と変化してますね。

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皆さんの言われるとおりですが、戦後の国語改革で、歴史的仮名遣いを廃したものの、「助詞」に関してはそのまま残したように認識しています、ただこれは「不徹底」というより、助詞と、名詞をはっきり分離できるという意味があったようです。英文などでは単語と単語の間にはスペースを置きますが、日本文や中国文ではそのようなスペースは存在しませんからある意味合理的です。

句読点も旧い漢文などでは存在せず、あったとしても句点だけとかで、今のように整備されたのは明治以降です。読点もあるにはあった...続きを読む

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Aベストアンサー

時代背景に関しては、先の方の回答が出ているので、作者と作品に関して、多少知っていることを書きます。

『父帰る』はまず冒頭で、明治四十年頃、と時代設定がしてあります。

発表された時期より、十年前ぐらいを舞台にしたもの、とおおまかな想定がなされていたことがわかります。

このことは、劇を見る人々に、冒頭に出てくる具体的な金銭の数字のやりとりを通じて、“いまより少し前”の話なんだなぁ、と理解させていくような仕組みになっているんですね。

この作品は、何らかの事件なりできごとなりを具体的に反映させたものではないけれど、明治四十年当時の庶民の生活の様子を色濃く映し出したものであるといえると思います。

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このサイトで読めます。

http://www.honya.co.jp/contents/archive/kkikuchi/hanjijoden/

『父帰る』が発表されたのは大正六年(1917)、上演されて、大成功を収めたのは三年後の大正九年です。

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参考URL:http://www.honya.co.jp/contents/archive/kkikuchi/hanjijoden/

時代背景に関しては、先の方の回答が出ているので、作者と作品に関して、多少知っていることを書きます。

『父帰る』はまず冒頭で、明治四十年頃、と時代設定がしてあります。

発表された時期より、十年前ぐらいを舞台にしたもの、とおおまかな想定がなされていたことがわかります。

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Q在原行平について。私は百人一首が大好きで、在原行平さんが特に好きです。そこから色々と調べて来たん

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Aベストアンサー

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>在原行平さんの奥さんが不明

この時代、女性の名前はほとんど残っていません。
名前がかろうじて残るのは、天皇の娘とか后くらいです。

紫式部も清少納言も名前ではありません。
紫式部の場合、父親が藤原為時で、官職が式部大丞であったため、当初は藤式部という女房名で呼ばれたが、おそらくは死後に「紫式部」の名で呼ばれるようになったものです。母親は藤原為信の娘というだけで、やはり名前は分かりません。

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「○○の母」だの「○○の女(娘)」ばかりです。

有名な弟の業平も妻は紀有常の娘だというだけで、名前は不明です。

在原行平も妻の名前はもちろん、母親の名前も分かりません。
行平の場合、誰の娘かさえ分かりません。


アニメなら、ストーリーが作りにくいので適当に名前をつけただけでしょう。
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Aベストアンサー

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