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 こんにちは。少しお尋ねしたいことがあります。どうでもいいことかもしれないのですが、よろしくです。

 「至福の喜び」という表現なのですが、使い方としておかしかったりしますか?「至福」と「喜び」がかぶったりしないか気になってしまいました。ちょっと検索してみても普通に使われているので気にしなければいいのかもしれないのですが、ちょっと教えてください。よろしくお願いします。

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A 回答 (4件)

う~ん・・・ 私はかぶっているような気がしますねぇ。



至上の喜びだと和英の辞書に出てきましたが、
至福の喜びでは出てきませんでした。
(広辞苑の電子辞書には両方とも出てきませんでした。)

至福のばか、とか、至福の園、とかは和英の辞書に出てきました。

「至福」を広辞苑で引くと「この上ない幸福」です。形容詞ではなくて名詞ですよね。「この上ない幸福」の「喜び」というのはつながり方が変だという気がします。
「この上なく幸福な喜び」としても、やっぱり日本語的には変ですよね。幸福な喜びという日本語は存在しないと思います。

ということで、私は「至福の喜び」はやっぱりかぶっている気がします。「至上の喜び」というのが正しいのでは?

(しかし、自分が今までに「至福の喜び」という言葉を使っていなかったかと問いかけてみると、自信がありません。間違って使っていた可能性は大です。)
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この回答へのお礼

 どうもありがとうございます。そうなんですよね、言葉としては何気なく使っていたと思います。でも文章にしたときには何だか気になってしまうのです。中学・高校のころなら国語の勉強をしていたのでもっときちんと考えられたと思うのですが、今ではどんなに調べてもそうではないかな?とあいまいな答えしかでなかったので質問してみました。

 たぶん気にしなければいいことなのかもしれないのですが、回答ありがとうございました。

お礼日時:2002/01/09 11:42

 


  「至福」という言葉は、元々日本語にあったものか、または漢語でもあったものかも知れませんが、個人的な経験というか、言葉についての感じでは、これはキリスト教に非常に関連した言葉だと思えます。特に「至福の喜び」というようなのは、これはキリスト教的な文脈・考えのなかで出てきている表現で、それが一般化したのではないかとも思います。
 
  至福とは、「最高の幸福」のことですが、カトリックの中世の偉大な神学者で、カトリックの聖人である、聖トマス・アクィナスは、人間としての最終的な幸福、最高の理想状態は、神との完全な和解(神に許され受け入れられること)で、この時、人間の魂は、神と直接、顔と顔を合わせて対面し、神の聖なる無限の御心を知り、神と完全な霊的交わりを行うとされます。この状態を「至福直観」とカトリックの用語で呼びます(日本語訳ですが。原語はラテン語です)。神をこのように前にする(直接に観じる)ことが、至福であるからです。
 
  あるいは、Millenium というのは、「千年期」という意味ですが、辞書を引かれると分かるように、これは「至福千年」という訳語もあり、この場合、キリスト教用語です。これは、最後の審判の前に、キリストが地上に再臨して、千年のあいだ地上を直接統治し、至福の時代が訪れるので、この千年間のことを、ミレニアム(至福千年)と呼ぶのです。
 
  「至福」というのは、最高の幸福とか、至上の幸福という意味だけでなく、キリスト教における、神との完全な和解=救済、永遠の楽園の回復の意味が実はあり、「完全な救済の喜び」「永遠の楽園の喜び」というような意味が、内含されいるのだと思います。
 
  普通の日本語と考えると、「幸福の喜び」は、何か「馬から落ちて落馬」のような同義反復の印象を与えますが、「至福」には、単なる「最高の喜び」以外に、霊的/宗教的な救済・永遠の楽園・死や悩みの克服など、キリスト教で初めて了解できるような、独特の「幸福」の意味があると知ると、何故、「至福の喜び」というような表現があるのかも了解できるのではないでしょう。
 
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この回答へのお礼

 細かい説明どうもありがとうございました。単純に言葉としてだけではなく、意味まで考えればおかしくないわけですね。どういう意味合いで使用するかによって使い分けないといけないですね。ボクが使うときはそこまでの気持ちではないのでなるべく使うのを控えようと思います。

お礼日時:2002/01/10 12:58

「至上の喜び」と「至福のとき(を過ごす)」がごっちゃになっていると思います。


「至福のときを過ごすことができた喜び」の略ならばわかる気がしないでもありませんが、そこまでいくと深読みのしすぎというものでしょう。
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この回答へのお礼

 どうもありがとうございます。「至福のときを過ごす」って表現ありますね。全然違和感ないですよね。どうも気になってしまいました。

お礼日時:2002/01/10 13:04

至福・・・極めてしあわせなこと


喜び・・・喜ぶこと

使い方としては、おかしくないと思います。
『極めて幸せなことの喜び』ということになりますので、かぶったりしていないと思いますよ。
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この回答へのお礼

 なるほど、どうもありがとうございます。気にしなければ別にどうでもいいのですが、文章にすると何故か引っかかってしまうのですよね。参考にいたします。

お礼日時:2002/01/09 11:34

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Aベストアンサー

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これってどう違うんですか??

「聞く」が「訊く」となっているのも気になって
調べてみるとちゃんと意味があるみたいですが、
こっちはわかりませんでした。

Aベストアンサー

はじめまして。

1.「いう」は以下のような、使用区別があります。

言う:
(1)心に思うことを言葉で表します。
(2)「~と呼ぶ」「~と名づける」の意味で使います。
(3)物が音を立てる(戸ががたがた言う)時などに使います。
例:Aが~だと言った。

云う:
(1)「伝える」が語源です
(2)人から聞いたことを「云う」
(4)伝承・伝説として伝わることを指して「~と云われている」
例:昔から~だと云われてきた。

謂う:
(1)「謂」は「理由、わけ、事情」という意味があります。
(2)「謂れ」=「因縁」「由緒」と考えるとわかり易いです。
例:この家の謂れは~


2.「きく」は以下のような、使用区別があります。

聞く:
物音や人の話を耳でとらえます。
例:人の話を聞く。

聴く:
「(限定的に)身を入れて聴くこと」を言います。
例:音楽を聴く。国民の話を聴く。

訊く:
(1)「訊ねる=問いただす」から来ています。
(2)意味は「尋ねる」ということです。
例:道を訊く。詳細を訊く。

以上ご参考までに。

はじめまして。

1.「いう」は以下のような、使用区別があります。

言う:
(1)心に思うことを言葉で表します。
(2)「~と呼ぶ」「~と名づける」の意味で使います。
(3)物が音を立てる(戸ががたがた言う)時などに使います。
例:Aが~だと言った。

云う:
(1)「伝える」が語源です
(2)人から聞いたことを「云う」
(4)伝承・伝説として伝わることを指して「~と云われている」
例:昔から~だと云われてきた。

謂う:
(1)「謂」は「理由、わけ、事情」という意味があ...続きを読む

Q帰路

帰路に着く、と言う言葉は
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どなたか教えてください。

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Aベストアンサー

そもそも【十分】と【充分】は別のことばです。

国語辞典では「十分」も「充分」も同じこと、を踏まえてのご質問と見うけます。
私は、事務的文書では「十分」に一本化していますが、私的文章では、両者を使い分けています。情緒的な差という人もいますが、語の本来の意味は異なります。
☆「十分」「充分」の意味が混同される原因は(推測です)、
 ・漢字本来の発音の違いが日本語では区別し難いため、便法で漢字音を決めた。
 ・旧かな遣いの時期は区別がし易かったが、新かな遣いになり混同を助長。
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☆この二つの文字の違いは何か?
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     更に9+1は十分大きい ⇒ 数が足りている状態。 
  ☆数詞、段階を踏むデジタルな思想です。
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  ☆基本は動詞、切れ目なく満ちる、満たす、果たす、アナログ的思想です。
【分】:実は、発音も意味も一意でないのです。
  【十分】の発音はshi2fen1   【分】fen1の意味は 部分、分割したもの など。
  【十分】の発音はchong1fen4 【分】fen4の意味は 成分、本分、職責 など。 

さて、お尋ねのこと「私はじゅうぶん満足した」はどう書くか。
 ・単純に量的に満たされたならば【十分】。
 ・心または腹が充足感を以って(徐々に内部から)満たされた場合は【充分】。
    としたいところです。
  
【充】については以下の用法で感覚をつかんで下さい。
 充電・充填・充足・充実・充溢・充血・充ちる(潮が、悪意に、月が、刑期がetc)
ついでに、
  「十分ご説明をいただいて、充分満足いたしました」のごとき用法も。

いまや、【十分】【充分】を使い分けるか否かは個人の好みです、読む人の感性に合わなければそれまでのこと、自己満足の域を出ません。いずれにせよ、公式文書や事務的文書では、好悪を捨てて、国語辞典を標準とするに越したことはありません。

そもそも【十分】と【充分】は別のことばです。

国語辞典では「十分」も「充分」も同じこと、を踏まえてのご質問と見うけます。
私は、事務的文書では「十分」に一本化していますが、私的文章では、両者を使い分けています。情緒的な差という人もいますが、語の本来の意味は異なります。
☆「十分」「充分」の意味が混同される原因は(推測です)、
 ・漢字本来の発音の違いが日本語では区別し難いため、便法で漢字音を決めた。
 ・旧かな遣いの時期は区別がし易かったが、新かな遣いになり混同を助長。
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Q人間の3大欲とはなに?

この質問は このジャンルでふさわしいのかどうかちょっと迷ったのですが・・・。

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Aベストアンサー

人間の三大欲望は
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この3つはある程度は我慢が出来ますが,人間が生きていくためには必ず必要なことです。欲望というより,必要不可欠なことです。
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最近テレビなどで、「カミングアウト」という言葉をよく耳にします。
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<coming out of closet>(押入から出てくる)と言う比喩表現
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参考URL:http://www.be-senior.com/inpaku/active/imadoki/ka.html

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ふと頭をよぎったのですが、、
「人間は考える葦である」とはどういう意味なのでしょう? また誰の言葉なのでしょう? 簡単な質問ですみません。 よろしくお願いします。

Aベストアンサー

 
  「人間は考える葦である」というのは、フランスの17世紀の思想家・数学者であったブレーズ・パスカルの手稿にあった言葉の翻訳です。普通、『パンセー Pensee(思索)』という著作のなかの言葉だとされますが、『パンセー』はパスカルの著作ではありません。パスカルは、もっと系統的に、人間、世界、神の秩序や矛盾などを考察した、体系的な浩瀚な著作を著すことを計画していて、そのメモを多数書いたのですが、構想が難しかったのか、または若くしてなくなった為か、計画した著作を完成させずに死去しました。
  
  残された膨大なメモを元に、パスカルが計画していた著作に似たものを編集することも考えられたのですが、とても、それは無理なので、断片集として、計画のまとまりや、内容の関連性などから、おおまかに断片メモを整理してまとめて、一冊の本に編集したのが、『パンセー』です。当然、パスカルの死後出版されましたし、内容は、緩やかなつながりで、長短の断片文章が並んでいる構成です。従って、本のなかの文章はパスカルのものですが、本は、パスカルの「著作」とはちょっと云えないでしょう。ほとんどできあがっていて、足りない部分などを、他の文章で補ったりして、計画通りかそれに近い本を作ったのならともかく、当初の計画とは違う、「箴言集」か「随想集」のような本になってしまっていますから。
  
  それはとまれ、「葦」が弱いものの代表として人間の比喩に取り上げられているのは事実ですが、何故「葦」だったのか、という疑問が起こります。例えば、「人間は考える蟻である」とか、「人間は考える蝶である」とか、また「人間は考えるクローヴァーである」とか、幾らでも考えられます。
  
  これは、誰かの説明であったのか、わたしが勝手に考えたのか記憶がはっきりしないのですが(おそらく誰かの説明です)、人間が「葦」であるということの比喩は、ナイルの河畔に生える葦は、強い風が吹くと、弱いために、すぐしなって曲がってします。風に抵抗できない。いや抵抗せずに、しなって敗北するのである。しかし、その他方で、偉大な樫の樹などは、風が吹くと、しなることはせず、抵抗するので風に勝利するが、しかし、繰り返し風が襲って来た時、何時か強い風に倒され、根元から折れてしまうのです。しかし、賢明に自らの分を知る「葦」は、風が吹くとそれに身をまかせてしなり、逆境のなかで、一見屈服したように見えるが、しかし、風がやむと、徐々に身を起こして行き、再びもとのなにごともない姿に戻って微風に揺れているということが、人間への「比喩」の意味だったはずです。
  
  少しの風が吹くとしなり、風の前屈して曲がるが、風が去ると、また元のように立ち上がる。人間とはこのように、自然や運命の暴威に対し無力であるが、それに従順に従い、そして暴威をくぐり抜けて、また元のように、みずからの姿で立ち上がる。自然界のなかでたいへん弱く、簡単に風にしなるが、柔軟性があり、運命にも暴威にも屈しない。そして何よりも、「考えることができる」すなわち「精神を持つ」ことで、ただ、自然の力、暴威として、力を無自覚に揮う風に較べて、遙かに賢明で、優れた存在である。……このような意味の比喩ではなかったかと思います。
  
  この葦の比喩は、パスカルという人がどういう人だったかを知ると、パスカル自身のことのようにも思えて来ます。パスカルは、四十に満たないで亡くなっています。彼は、少年の頃から神童と言われたのですが、病弱で、一生、病気や身体の苦痛とたたかいながら、思索し実験し、研究し、晩年は、修道院に入って信仰生活を送ることを決意して、自分自身でも、そのことについて、悩み考えつつ、世を去りました。パスカルは、自分に襲いかかる不条理な病や、身体の不調などと、「たたかう」というより、それを受けて耐え、病の苦しみのなかで思索や研究を続け、「精神」において、自然が与えた病の暴威などを、乗り越えて生涯を送った人だとも云えるのです。
  
  暖めた流動食でないと、喉を通らないというようなこともしばしばあったということは、解説書などには必ず記されているはずです。弱々しい「葦」のように、襲って来る風に身をまかせつつ、思索した精神、それがパスカルなのでしょう。パスカルは「人間とは、運命に従順であるが、しかし、精神で、運命に抵抗し、不屈の意志で、思索することで、運命や自然の暴威を乗り越える自由の存在なのだ」という意味で、この言葉を記したのではないかとも、思えるのです。
  

 
  「人間は考える葦である」というのは、フランスの17世紀の思想家・数学者であったブレーズ・パスカルの手稿にあった言葉の翻訳です。普通、『パンセー Pensee(思索)』という著作のなかの言葉だとされますが、『パンセー』はパスカルの著作ではありません。パスカルは、もっと系統的に、人間、世界、神の秩序や矛盾などを考察した、体系的な浩瀚な著作を著すことを計画していて、そのメモを多数書いたのですが、構想が難しかったのか、または若くしてなくなった為か、計画した著作を完成させずに死去し...続きを読む

Qクリエイティブってどういう意味ですか?

「クリエイティブ」ってどういう意味ですか?また、こういった「日常でよく聞く言葉だけど、意味がよくわからない」というものを、どうやって調べたらいいですか?ちなみにgooの辞典なんかを使って「クリエイティブ」と調べてみましたが、分かりませんでした。つまらない質問でごめんなさい。

Aベストアンサー

「クリエイティブ」は英語の"creative"から来ていて、「創造的な」「創造力のある」「独創的な」「創作的な」という意味があります。

綴りがわかれば英和事典で調べられるのですけど、わからない時は困りますね。電子辞書では「スペルチェック」の機能を使って、だいたいの綴りから検索することができるものもありますが。

参考URLの「カタカナ表現」には、残念ながら「クリエイティブ」は載ってませんでしたが、今後役立つこともあるかも知れません。

参考URL:http://home.alc.co.jp/db/owa/reloc?genre_i=001&ctgr_i=001002&url_i=http://home.alc.co.jp/db/owa/ehj_idx


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