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本に書いてあった対立軸についてよくわかりません。
1 理性・精神を重視→神に代わって人間の理性が世界を支配する(例)迷信・不合理の追放、化学・技術の進歩、民主主義の発展。

2 感性・身体の復権→理性重視の近代精神が現代のの混迷をもたらした(例)科学の暴走への危惧、地球環境の破壊、精神的荒廃、孤独。

1と2が対立しているとのことです。どのような点で対立しているのかいまいちわかりません。わかる方ご教示ください。

A 回答 (5件)

 対立しているといえばしているようにも見えますが。



 これに1つのプロセスを補って、3つのレベルで説いてみようと思います。

 前近代-宗教・伝統・共同体的価値が支配的な時代
 近代-理性的・科学的価値が支配的な時代
 後期近代-近代的価値が生んだ腐敗を清算する時代

 いささか単純すぎる図式ではありますが…一応あなたの書物の図式にあてはまるものです。

 近代期(通例はフランス革命以後)は、人権などの近代的価値が生まれ、民主主義という普遍的?政治制度が
発展する一方、同時に産業革命以降に資本主義が都市化と産業化とともに進展してきた時代を指しています。もちろん同時に社会主義や独裁などとの対立が激化していった過程でもありましたね。この時代の価値は、前近代的価値を否定して生まれたものといわれます。ウェーバー流には、「脱魔術化」すなわち伝統的価値や宗教的価値を否定し、人間を合理化していく過程です。

 感性・身体の復権というのがいまいちこれだけのヒントでは理解しかねますが、あげられている例を見ますと、この近代の合理化が実は精神的荒廃を招いてきたということです。とりわけ地球環境の破壊というのは、人間が合理化することの帰結を把握していなかったということです。
 たとえば、日本は高度成長期において、大規模な開発を行いました。結果、生み出したものは公害問題という人間自身に害をもたらすものでした。地球環境問題・核の恐怖、貧困(エイズなども関連)などはグローバルな問題とされ、地球そのもののの存続を危ぶむものとして懸念されはじめたのは、それほど昔ではありません。せいぜい1960年代以降ぐらいではないでしょうか。
 科学の暴走への危惧とは、20世紀前半からの核への恐怖、軍事力の増大、世界戦争の勃発などがおもなものでしょう。これらは明らかに近代になって、ひどくなった現象です。昔にも戦争はありましたが、これほどの動員体制と規模を大きなものは過去に例はありません。戦争の産業化(ギデンズ)は、間違いなく近代の産物です。
 孤独とは難しいですが、実は「孤独」って近代的現象じゃないの?っていう話はあります。それはなぜか。第1に、共同体的関係がたしかに薄れているからです。この手の議論は、実は100年も200年もやっているので怪しいところはあるのですが(笑)、日本でいえば、核家族化や産業化に伴う流動性の高まり(つまり人があちこち移動する)によって、人間は従来の共同体的紐帯(つながり)を失いつつあるのです。
 第2に、先の言葉でいう「脱魔術化」すなわち、宗教的価値・伝統的価値の否定は、人間の心のよりどころを失うこととなりました。現代では、より自分実現が啓蒙され、自己責任が問われるようになりました。それは、システムとしての個人主義の確立と進展です。結果、人は、原子としての「個人」として置かれるようになっているのです(実際は違うのだが)。
 近代の成熟期のなかで、後期近代が出現する。すなわち、近代の負の遺産に対して、とりわけ20世紀後半以降に見直しが進められているということですが、それをこの著者は「感性・身体の復権」として考えているのです。
 感性とはおそらく平和・人権・民主主義などの普遍的な価値が再度問われる時代へ移っているということでしょう。身体は、これだけの情報量ではいいかねます。
 
 補足:ただ今は、近代の反省性(A・ギデンズ)という議論が個人的には説得的だと思います。近代と後期近代に連続性があるか、ないかというのはかつての焦点でした。つまり、近代とポストモダン(後期近代)は違うのかどうか。
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同じ頭で考えることを対立と考えるのはどうかと思いますが・・


これは「風の谷のナウシカ」の結末に通じるものだとち思います。http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=1963770
読んだことがないなら読んでみるといいですよ。

生命や体の組成までいろいろ人為的に操作し、世界の浄化まで計画をした先人の技術「墓所」を、ナウシカは破壊したわけです。腐敗の兆候を示す作為に対して、生命の本質=体を主に考えたのです。
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 では、部分的ではありますが、1の、科学技術の進歩と、2の、自然環境の破壊について対立の例を挙げてみます。


 農薬を使って野菜の生産高をあげたとします。たくさん取れますが、農薬の所為で、身体に害が出たとします。身体は、農薬の使用によって維持されているたくさんの収穫によって、飢えることがありませんが、同時に、その農薬によって病気になります。
 このようなことをジレンマと言うのでしょう。
今までの科学的手法を全部捨てるわけにも行かない、身体を犠牲にするわけにもいかない。
さぁどうする、という問いかけをしており、この対立によって、止揚せねばならない、と言うのが意図であると思います。止揚後の状態についてが、その本の主題として書かれているのではないですか?
 
 まとまらないものまでをまとめようとする民主主義に、反対(民主主義と孤独の対立)。分からないことについては沈黙し、判断できない科学に、反対(理性と感性の対立)。
このような対立関係を、私は質問内容から思い浮かべました。
アメリカの戦争や民族対立、先進国に暮らす孤独、科学の狭量や脆さ、そのようなことを挙げて、次の段階を目指そうと言う、目論見ではないでしょうか?
 そして、これらの対立関係は、あえて設定されているのだという事でしょう。その先に、言いたいことがあるから、本になっているのだとは思いますが。
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確かに読みにくい文章ですね。

対立部分を明確に記述できていません。
ただ、言いたいことはあるみたいですので、
理性精神を重視し、科学を重要視した結果、科学の暴走、環境破壊が起きた。また、物質社会になった故、たとえ迷信や不合理的でも一理を持つ情緒的なものを排除する傾向になり、精神的荒廃や孤独感が生じた。従って感性と身体の復権を行なわなければならない。
と言うように読みつないでみたらどうでしょうか。対立まで行かなくても互いの齟齬が現れている状態はわかるのではないでしょうか。
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あなたの言うとおり、別に対立していないと思います。


その本の作者は非理性的な人なのでしょう。問題を誰かや何か(科学や民主主義;そのひとは科学が苦手な貴族?)のせいにして安心したいという心理では。あまり相手にしない方がいいと思います。
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