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カントの思想について、アインシュタイン以後、この宇宙の時間と空間は伸びたり縮んだりする絶対的なものではないものだという概念にとって代わり、

ア・プリオリな判断形式が成り立たないのが現実世界であるわけだから、「純粋理性批判」は現代ではナンセンスだ…

ということが立花隆氏の近著に書かれていたのですが、哲学の学問の世界でもそういう認識はあるのでしょうか?

また、「いかなる経験もいかなる感覚も混入されない認識」をもって純粋な認識といい、そのような認識を得させる理性を純粋理性という…というところからカントの「純粋理性批判」は始まっているそうですが、立花氏はそれについても、現代の認知科学によると、人間の認識というものは、すべてが経験・感覚入力の基盤の上に成立するものであって、もし、感覚入力をすべて取り去ったら、認識能力そのものが崩壊してしまうということをたくさんの感覚遮断実験が証明している…と述べ、さも高級な意識のような、純粋理性などというものは存在しない、と論じていました。

この文章には、さすが圧倒的な勉強量を誇る氏ならではの議論だな~と、単純にスゴイスゴイと思って、確かに氏の言うことは筋が通っているんじゃないか、と、私自身は大した素養もないまま思ってしまうのですが、実際学問の世界の人から見たらこういう議論は妥当性があるのでしょうか?哲学の研究者には嫌われそうな議論だよな~と、何かと批判されることもあった立花氏が心配になったりもするのですが。(私に心配されても余計なお世話だと思いますが。)

哲学の歴史ではカントの存在は圧倒的に大きい気がするので、私もいつか時間ができたらカントの本を読んでみようとは思っているのですが、現代ではナンセンスだ、と言われると、ちょっとさみしいような気がします。

現在の世の中について何か論じたいと思ったら、思考のベースとしてクラシックな哲学をひも解くより、現代の思想家の本を読んだほうが良いのでしょうか?どちらにしても、現在の思想のルーツを確認するために、過去の思想も知る必要はある気もするのですが…

ヘーゲルについても、アマゾンのレビューでもっともらしく批判されている方がいたので、思想史の貴重な資料としてはともかく、近代あたりまでの哲学は現代の思想、社会分析には直接は役に立ちにくいのかな…という不安もあります。どうなんでしょうか?

A 回答 (6件)

「哲学の歴史ではカントの存在は圧倒的に大きい」というご指摘の中に、


既に答えがありますが、アカデミックな“歴史研究”としての側面が
大きく、哲学本来の意味である実際に生きていく上での世界観として
の思想とは遊離しています。

ちなみに、絶対時空のアンチテーゼとして、100年も前の相対性理論を
持ち出すのは古過ぎで、アインシュタインさえ、その後の量子論的
世界像についていけず、古典的な遺物として批判にさらされました。
相対性理論において、時間と空間が絶対的ではなく、観測者との相対
において変動するものだと指摘したアインシュタインですが、そこに
相互作用する物体は、認識体とは独立した絶対的なものとして扱って
いました。
しかし、量子論的世界像(コペンハーゲン解釈)において、
「人間原理」が提唱されるに至り、アインシュタインは必死で反論
したものの、次第に孤立して晩節を汚しました。
量子力学の不確定性原理は、同時期に登場した論理学における
ゲーデルの不完全性定理と共に、“認識のいい加減さを排除した
絶対的な本質”を否定(ないし無(無限不確定性)に還元)しており、
それに基づかない思索は、いかに深くとも矛盾(先験的思い込み)を
内包する、いわゆる「素朴唯物論」と呼ばれるものに属します。

最新の量子論的世界像において、有限な存在性は観測される事に
よって生じています。
量子的な相補的不確定性を介した、自我仮説と時空仮説の相補分化
と、そこにおける、無の射影としての存在性。
(無の無限の闇に対する自我の射影)
全てのものは、あなたが存在するための(物理的根源にまで遡った)
補完なのです。
我々は「過去は既に終わっている」「未来はまだ来ていない」ので、
「存在するのは現在」と考えますが、真の『現在』とは、認識体の
感受表面での量子相互作用(光速)のみであり、その経験
(過去=超光速)による予測(未来=光速下)として時空的
広がりは発生しているのです。
(認識体自身が、その仮説的空間に有限な大きさを占めている
ことで先入的根拠の完全否定)
(ここから先は、過去回答をご参照下さい↓)
http://okwave.jp/qa/q5875288.html
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この回答へのお礼

そうですか…現代人であれば量子論まで持ち出して議論しなければならないということですね。科学について言及するにも、時代をとらえておかないといけませんね。勉強になりました。ありがとうございます!

お礼日時:2010/05/29 09:06

ちょっと追加で、


永遠の時間空間の存在、というのは、今現代社会においても、実生活ではやはりすべての人の生きる前提ですから、代わりはないと思います。

つまり主観と物理学は別です。
物理で時間空間が歪むからと言って、僕らがじゃあカントの時代と違って、歪む時空を前提に物事を世界を把握して生きることに変わったわけじゃないですから、
そういうのを直接扱う宇宙関係や、カーナビや、学者ですら、日常生活の前提は、やはりカントさんの言うとおりだと思います、現代でも。
もしそうでなかったら、時空が歪み、物の質量が変わることを前提に生きてたら、多分立つことも歩くこともものを考えることもできません。本気で人としての、一番本音の部分で、本気で時空は歪んでいる、と思ってるなら、物理学者は実験すらできません。いきなりそんなことになったら、即発狂ではないでしょうか? (感覚遮断実験とは別問題として)


それは、例え光速の99%で移動するロケット操縦士でも話は一緒です。
彼だって、時間空間は永遠だ、と言う本音の上に因ってたって自分を成立させ、その上で2次的に、ここは宇宙船の中なんだから、相対論的効果が現れてるから「普通と違うぞ」と自分に言い聞かせて、現象の変化に対応しているはずです。
それは相対論を理解する宇宙飛行士、というペルソナ、演技をし続ける範疇にいるからです。ずっとそんなことをしてたら、休憩もできません。
違うでしょうか?(僕もそんなものに乗ったことないので想像ですが)
つまりアプリオリはそのまま、ということです。
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こんばんは。


まず、立花さんも、アプリオリな前提がないと、ものも考えられませんから、それはないと思います。
もちろんカントが言ったときの時間空間ではないでしょうが、
現代は現代で別のアプリオリがありますし、立花さんは立花さんで前提があります。
アプリオリの中身は変わったと思いますが。
ものを考える=アプリオリがある、ということじゃないでしょうか?
最悪、立花さんは、自分のアプリオリを認識してない可能性も感じます。


>感覚入力をすべて取り去ったら、認識能力そのものが崩壊してしまう
それはそうですが、だから意識が崩壊するわけでもないし、意識の存在を否定するのは変です。

もし総てを遮断したら、と言いますが、普通に感覚の遮断をしたら、自分がどうやって遮断されたか事情も知ってるわけですし、
知らなくても察しはつくでしょうし、立花さんの話は飛躍があると思います。
むしろ、その中で正気を保てるのであれば、残るのは意識だけのはずだと思うんですが。

ただなんでもそうですが、感覚の遮断も、練習が必要です。いきなりやったら確かに気を失うかも知れませんが、
宇宙飛行士でもなんでもそうですが、人は慣れてきますし、感覚が遮断されることを、ノイズがへった、とプラスに取れるようになれば、得るものも多いと思うんですが。

ぼくはイメトレくらいしかやったことないのですが、
立花さんは、自分で感覚遮断実験を受けたのでしょうか?

この回答への補足

立花氏は実際、感覚遮断実験は受けたことがあるそうです。

補足日時:2010/05/29 09:03
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 カントは高校のときにちょいと手引書を読み、法学部時代にラートブルッフを独学しているとき、ラートブルッフとカントは思想史を勉強してから、突入しました。

翻訳本と原著を引き比べながら。
 立花隆さんも大変興味のある題材を扱っておられて、面白そうですね。
 俗にコペルニクス的転回などというように、カント先生は人間の認識というものを思索、検討されていますね。
 アプリオリな用具としての。だから立花隆先生のいう対象客体世界での時間、空間とは扱い方が違うのでしょうね。
 カント先生もきっと、立花隆先生のお話をきけば、なかなか示唆に富む話だというでしょう。
 じゃあ自分の“批判論”を引っ込めるでしょうか?
 再度検討するでしょうが、引っ込めないと存じます。

 ここ50年ほどはインド哲学の時間、空間というよりも創造の問題に興味があるので、細部には踏み込みませんが、立花隆先生の話も悪くないと存じます。でもどちらがどうっていう背反の問題には為りえないと存じます。インド哲学の創造論もそうです。それぞれでしょう。
 次元、方向、扱い方の違いではないでしょうか?
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この回答へのお礼

なるほど、ありがとうございます!

お礼日時:2010/05/29 09:07

哲学は科学では無いので、科学の進歩によって自然感が変貌したからと言って、カントの哲学がナンセンスだというのは言いすぎのような気がします。



音楽が感性に対して訴え、聞いた者が感動することに価値があるように、
哲学は理性に対して訴え、聞いた者が納得することに価値があるのではないでしょうか。

つまり、質問者さんが身の回りの自然現象をアインシュタインの相対性理論に従って認識しているのであれば、既にカントの認識論は質問者さんに対して納得的でないので、不要になるかもしれません。
しかし、新幹線に乗っている人と、新幹線の外側に居る人では、時間の進行が違うなどという認識はもっていなでしょう?
ですから、人生の日常で起きる事に対する認識論を整理しようと思えば18世紀のカントの考えも参考になるし、納得的である可能性は高いです。

問題は、哲学では時間や距離の制約が無く一挙に宇宙の始まりや、生物の末路にまで思考が及んでしまうことがあり、その場合の前提条件として、絶対座標系を基準に自然を記述したうえで認識するのか、相対論で自然を記述した上で認識するのかが問題になります。
その際、質問者さんが一般相対性理論を理解するまで、自然界に対する疑問を放置しておくことができますか?

我々、現代物理学を理解しない人間にも哲学は必要ですね。
したがって、物理学の最先端を理解しえない人々に役立つ哲学として、いつまでもカントやヘーゲルの考えはわれわれの宇宙認識の役にたつのではないかと思います。
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星空を見て御覧なさい。

天空の星ぼしは北星(北極星)を原点に回っているのがわかりますね。
無数の星がありその星の輝きも個性もみな違うものです。星ぼしは止まることなく運動しています。でも北星は動かずそれを黙ってみているだけですね。
つまり、哲学にも北星はあるといいたいのですね。アインシュタインが何を考えようが、立花氏が何を学ぼうが北星を知る者にとっては星ぼしでしかないのですね。
ヘーゲルやカントは北星を知っているからそれを基準にしたということだけですね。
動き回る星ぼしは今日を生きているだけでしょう。それは相対的でもいいんですね。
でも歴史的には、いや学問の継続性としては何ものこらないでしょうね。
・・・という感じですが理解できましょうか。
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