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大宝律令では、流刑は近流、中流、遠流とあったようですが、
その実態はどのようなものだったのかを調べようとしています。

法制史の本も見てみましたが、総論的な本だったため、
実際に遠流地の1つ伊豆であれば、伊豆のどこが該当する場所なのか、
国府なのか、刑務官にあたるような制度はどうなっていたのかなどは分かりませんでした。

ネット情報では、流刑は身分が高い者しか実行されないようなことも書いてありましたが、
その身分とはどのくらいが対象なのかなどなど。。

流刑の実態についてご存知の方がいらっしゃいましたらお教えください。
これについて書かれている書物名でも助かります。

A 回答 (1件)

古代における流刑の近・中・遠流の別については『続日本紀』神亀元年(724)3月庚申条にその規定をした記事があります。

そこでは、

遠流=伊豆・安房・常陸・佐渡・隠岐・土左
中流=諏方・伊予
近流=越前・安芸

とされています。これは10世紀初頭に出された『延喜刑部式』でもほぼ同様です。(諏訪は、信濃になっていますが)

律の規定では、流刑は死刑に次ぐ重い刑罰で、身分の高下は関係なく、科されます。(但し律規定では、位の高い人物は減免措置があるので、基本的に実刑は科されない)また流刑は、本籍を強制移転する刑罰と移配先で1年もしくは3年の労役を科す刑罰の組み合わせです。
8世紀において、流刑を科された例はありますが、この時期は犯罪全般について、律どおりの科刑は行われていません。
また律以前の風習である「追放刑」の性格を流刑は持っていたようで、労役の部分はいつしか削げ落ちていったようです。
さらに10世紀以降になると、刑罰体系全体が中央や天皇から犯罪者を追放するという性格になっていきます。

あと参考文献ですが、
律令そのものについてお知りになりたいならば、岩波思想体系『律令』をおすすめします。
律適用の実態については、吉田一彦氏の「日本律の運用と効力」1~4(『名古屋市立女子短期大学紀要』45、48、50、『名古屋市立大学人文社会学部研究紀要』3、1990~97)を、
10世紀以降の刑罰体系の変化については、義江彰夫氏の「王朝国家刑罰形態の体系」(『史学雑誌』104-3、1995)を、お勧めします。
吉田・義江氏の参考文献は専門の論文なので、読む&入手が大変かもしれません。
おそらくご質問の内容でしたら、『律令』の注を参考にされるとよいかと思います。
あと『続日本紀』の神亀元年の記事について知りたければ、岩波新日本古典体系『続日本紀』などの注をご参照ください。
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この回答へのお礼

ああ。すごく助かります。ありがとうございます。
専門の方にお答え頂けるとは思いませんでした。

法制史学会HPはチェックしてあるのですが、年会費を払わないと読めず、
数も多いのでどれが適当か分かりませんでした。
ご紹介頂いた文献を求めて近くの大学図書館へ行ってみます。

調べたい人物がおりまして、続紀の文武3年5月に
伊豆嶋へ配流されているのです。
下された刑から当該人物の身分や罪の種類を推測できないだろうかと考えています。

大宝律令の前ですが、文献解釈では遠流とされているのです。
でも伊豆が遠流地になったのは20年以上後なんですね。


もしこれもお答え頂けるようでしたら新しく別に質問しなおします。
いかがでしょうか。。

お礼日時:2006/02/16 21:38

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