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よろしくお願いします。

不思議で仕方ないのですが、大筋において、もっともなことを言う人がいます。

たとえば人を許しましょうとか、大きい心を持ちましょうとか、色々もっともなことです。道徳的に見てもっともなことを理路整然と言うので、知らない人は感心してしまいます。

ところが、これだけもっともなことを堂々と言うのだから、自分でも少なくともある程度は出来ているのかというと、ハタから見る限りにおいて、これがまったく出来ていない人がいますよね。やろうとしているのかもかなり怪しい・・。


言ってることとやっていることが、恐ろしく不整合な人というのがいますよね。

多くの人も、言行不一致の部分は持っているとは思いますが、同時にある程度自分でもこれを認識していますので、そうそう覚りすましたことも言えなくなりますし、言い方も相手の立場も考慮したものに変わってくると思いますし、得々と説教するという雰囲気でもなくなってきます。あまりにも言行の不一致を繰り返すことには苦痛や罪悪感、恥を感じることもあると思います。

しかし、自分の言行不一致を認識しない、もしくは過小評価する人もいるようで、その認識にはある意味うらやましさをさえ感じます。どこか視点が著しく欠如していて、我々が感じるものを徹底的に感じない、不都合な状況を徹底的に見ないように出来ているのではないかという風に見えます。人に、自分の心の醜いのを見ろと言っていても、自分だけは例外なので、言っている内容にはほとんど関係ありません。こういうのを心理学用語を使って、あるいは心理学的に説明できますか?

「お父さん、お母さんを大事にしましょう」と言いつつ、その横で、自分では姑いびりをしているとかいうのもそうです。こういう人いますよね?

よろしくお願いします。

A 回答 (1件)


一瞬自分のことを言われたのかと思うほど、私自身も言行不一致という点では自信? があります。
このカテでも結構偉そうなことを言っているほうだと思いますが、自身で実行できていることはわずかしかありません。
「>言ってることとやっていることが、恐ろしく不整合な人というのがいますよね。」
は私のためにあるような言葉かもしれません。

とはいえ、他人の欠点というのは自分がそれを欠点と認識していなければ理解できない事柄です。
欠点と認識するためには自分がその欠点を持っていることが近道です。
かくして、欠点を持っている人ほど他者への非難・批判は容易になります。
かといって、自分も欠点があるのだから他人に物言う資格は無いということにはなりません。
端的に言うと「罪を憎んで人を憎まず」ということで、欠点に対する批判なりはよいが相手の人格そのものに対する攻撃はよろしくない、ということではないでしょうか。
なぜならば、好きで欠点を持つ人はいないわけで、欠点と言う以上、本人が最大の被害者という見方も可能だろうと思われます。
何から被害を受けているのかといえば、本人も制御不可能な無意識の領域に潜むモノでしょう。
欠点を持たざるを得なかった理由がそこには隠されているわけです。

その理由を無視して(あるいはそれに気付かず)人となりのみを責めても本人にとっては不可解としか感じられず、一方的で理不尽なイジメを受けたという認識を持つことすらあるでしょう。


「お父さん、お母さんを大事にしましょう」と言う人は、表面的にはどのように見えても自分が親を大事にしていないという認識(意識的にせよ無意識的にせよ)を持っていることになります。
その認識があるために、「大事にしましょう」と【言う必要性がある】と考えるわけです。

私事ですが、他のカテで「不倫はいかん」という主旨の投稿をよくしていたものです。
放っておけば、理性が性の誘惑に負けて泥沼に引きずり込まれるに決まっている、という確信? に基づいてのものなのですが、それとて、自分自身にスケベなところがあるので他人も皆そうだろうという観念があればこそできる物言いなわけです。
理性の塊という人にとっては(そういう方がいるかどうかはさておき)、「不倫? 性の乱れ? ふ~ん、そんなにいいものなのかしらん」と感じることはあっても、目くじら立てて非難しようという気には恐らくならないでしょう。
「水中の魚が水の大切さを説くことは無い」という比喩も可能でしょう。
水が無いという状況を知らない魚にとっては、地上に住む人間がなぜ水を大切にしましょうとのたまうのかさっぱりわからないということです。


鋭くご指摘されているように、私自身「>あまりにも言行の不一致を繰り返すことには苦痛や罪悪感、恥を感じる」こともあります。
とはいえ、これは自らに何か足らざるところがあるというコンプレックスのなせる業であって、理屈で解消できる性質のものではありません。
人間であれば程度の差こそあれこの類のコンプレックスは持っているでしょうが、これを絶対的な個の問題として受け止めるか相対的な事象として拡散させてしまうかというところで、人としての可能性は大いに異なってくるでしょう。

専門家ではないので学問的根拠はありませんが、
『「お父さん、お母さんを大事にしましょう」と言いつつ、その横で、自分では姑いびりをしている』
ような人には、本人自身に親を大事にしていないという認識があることを認めた上で、その原因が明確ではないにせよ、なぜ親を大事にできないような性格になったのかという過去の不幸(あるいは不運)に対して共に悲しんであげるという気持ちが必要ではないかと思います。

その雰囲気が伝わって「自分も誰かに理解されているのだ」と感じたとき、他者に対しても優しさを発揮する余裕が生まれるのだろうと考える次第です。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
うーん、そういうことではないのですが・・・。

お礼日時:2006/05/16 08:52

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