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こんばんは。
以前から気になっているのですが、
江戸時代やそれ以前の領主の肩書きで○○守ってありますよね。
あれが実際の領地名と合っていないのはなぜですか?
例えば、忠臣蔵に出てくる脇坂淡路守。
実際の領地は淡路ではなく龍野ですよね。
「守」という称号を与えるにあたり、
なぜ淡路守なのか、紀伊守なのか、備中守なのか、
何を基準に決めていたのですか?

A 回答 (6件)

えっと、No1さんは、僭称と正式任官を少々ごっちゃにしているようなのですが・・・これは一緒にしてはいけません。

「江戸時代における」、名乗るための手順はNo1の人が書いているものです。

以下、前に私が書いたものを、この質問用に編集して回答としますが・・・

まず、本来的に守職というのは、その地に赴いて政務を行うのが役目です。
古来いわゆるそこに赴任する人に与えられていました(厳密に言うと、与えられるとそこに赴任することになります)。いまでいうところの支社長みたいなものでしょうかね。ただし、官職によっては親王のみがなれるものがありまして、その際は次官である介(スケ)が実質統治する場合がありました。

ついでにいうと、お金を稼ぐなら守がよい(賄賂とか税収をピンハネしたりとか、結構潤っていた人が多い)ということでわざわざ官位としては四~六位程度であまり高い位ではない守にしてくれ、という人までいました。もっとも、人気のない国はあり、これは簡単に言うと金銭収入が低い国です。そういうところに限って官位では高い位にあります。


しかし、武家の台頭により実際に任地に赴くことはまずなくなり、戦国時代にはただの箔となっています。武家の台頭とともにただの箔になったのです。厳密に言うと、守護とか地頭とかいう「守以外の長官」がでてきてからですね。

さて、戦国時代以降ですが、この時代多くの武士は官職を名乗っていました。
しかし、正式任官と、いわゆる僭称(勝手に名乗っている)の2種類がありまして、戦国にはほとんどが僭称となっています。正式任官している人のほうが例外です。
特に七位程度だと9割以上は僭称なのですが・・・守となると一応は正式任官している人が多いです。
しかし、それは大名クラスの話で、守職でも結構な人数が僭称しています。

織田信長を例に挙げますが、これは僭称です。最初上総守と書いていたのですが、すぐに上総介と変えています。非常にいい加減ではありますが・・・こういうものです。
つまり、勝手に名乗っていただけ、ということです。
僭称となれば、ただ名乗っているだけですから当然職務はありませんし、こなす必要もなければ義務もないのです。

江戸時代になってもこの傾向は同様でした。むしろさらに僭称のほうが当たり前になっています。
つまり、大半が勝手に名乗っているだけ、です。

で、No4さんの回答についてなのですが、これに補足しますと、厳密にいうと・・・
こういった国持ち大名の官職(前田家の加賀守など)はかぶらないようにしていたのですが、これをしていたのは「幕府」です。
本来的に官職は「朝廷」が取り決め、発布するものであって、幕府が発行するものではありません。
つまり、幕府が公然と僭称任官を認めていたのです。

もう一つついでに言いますと、この正式任官、実は僭称(実際には半ば僭称というところなのですが・・)している人が任官を断るケースがありました。
戦国時代の話なのですが、こういったことからも、当時いかに官職が箔以上の意味を持っていないかがわかるかと思います

参考URL:http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=2186347
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まず江戸時代の(守=かみ)名乗りからいうと、大名は幕府の働きかけで、朝廷から五位以上の冠位を贈られました。

    その後大名は好きな名を幕府に届け出し、差し支えなければ、老中より口頭で承認されました。
差し支えとは、同姓同守です。    他に禁止ではないのですが、出願を遠慮すべき名がいくつかありました。    先賢が既に書かれている、上総守などの勅任の守、徳川家、前田家、伊達家、島津家などがあったようです。    もっとも江戸初期には、池田武蔵守利隆、松平薩摩守忠吉がおりました。    好きな名乗りなので、播磨守が七人居た時があったそうです。、 
ついで乍ら旗本でも五位以上の冠位を贈られたものは、守名乗りを許されました。    大身旗本と呼ばれた、3000石以上がなれたようです。
戦国時代の守名乗りは、お屋形さまと呼ばれるような大名の家臣が多く、殆どが五位以上の冠位を持たず、殆ど僭称です。    信玄の配下に小幡上総守、江間常陸守なんてのがいます。    上杉、北条も同じです。    僭称が始まったのは、この頃でしょう。
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江戸時代の大名や高級旗本の受領名(○○守)などは単なる名前・称号であり、その国とはまったく関係なく同じ○○守が同時に何人もいることはふつうでした。


ただし、国持ち大名の本拠地のある国の受領名だけはその国持大名が名乗る場合があるので与えられないことが多かったです。
また老中などの要職についてものが名乗る受領名もあり、これらは老中になるとその受領名になり、やめると違う受領名などというみとはよくありました。
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過去ログに同様の質問&回答があります



参考URL:http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=921030
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http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E5%AE%B6% …
こちらで、関連の官位も色々とあります。
数日前にも官位の質問は有りました
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こんにちは。


これは、そう名乗りたい人が、その土地と何らかの関係を持っていれば、それを理由としてこじつけて申請し、ほぼ100%貰える肩書きでした。

理由はほとんど何でも良かったといって過言ではなかったようです。

「実家がそちらにある」なんてのは、かなり高級な部類だったでしょう。
奥さんの実家でも良かったし、お墓があるだけでも、以前そこに住んでた事がある、ひどいのだと親類がいるってだけでも良かったようです。

もちろん、その土地について何らかの研鑚をつんでる人ならそれも理由にできました。

なので、人気のある「越前守」などは大岡越前と同時代にも沢山いたようです。
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