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「天皇家は万世一系?」という質問に依然としてたくさんの投稿があるようですが、知らない事実が出てきて回答がフォローできない部分もあります。誰か教えていただけないでしょうか?

1)天智・天武が兄弟だとすると矛盾があるとはどういったことでしょうか? 額田大王をめぐって兄弟が争ったという古典的なイメージしか持ち合わせていないもので。

2)継体天皇が別系列であるというのはなんとなく聞いたことがあるのですが、詳しく教えてください。

3)さらに応神天皇も前とつながっていないともききましたが、どういうことでしょうか?

よろしくお願いいたします。

A 回答 (6件)

(1) 天智・天武は天智(兄)、天武(弟)とするのがこれまでの定説でした。

最近になって、天武を兄とし、天智を弟とする説が唱えられるようになってきたと聞いています。残念ながら、関連する書籍・論文などを目にした記憶がなく、これ以上の説明は出来ません。

(2) 継体帝(26)の出自の疑問。武烈の帝(25)が、古事記などでは非常に残虐な天皇として描かれた上に、子供がないままに亡くなり、かつ皇統を継げる第1世王(父が天皇の皇子)が絶えたことが述べられています。継体自身は応神の帝の5世の子孫(5代前が応神)という極端に血のつながりの薄い皇族であり(これも事実かどうか、疑う研究者が多いようです)、また即位から大和の地に入るまで20年もかかったことなどから、継体を征服者と見る研究者も少なくないようです。
また、継体の前例が、その後において「5世王までは皇統を継ぐ権利がある」という慣例となって伝えられていくことになります。

(3) 応神帝(15)に対する疑問。第14代仲哀との間に歴史的な連続性に疑問があると言われています。母が神功皇后で、この方も実在に疑問が持たれており、応神の帝が仲哀の帝(実は仲哀の帝も実在性が薄いとする説があります)に取って代わるか、婿入りするかして王朝を継いだのではないか、とも言われています。
神功皇后はいわゆる三韓(朝鮮半島)征伐の英雄として古事記・日本書紀に描かれていますが、対応する中国・朝鮮側に対応する文献がないなどこれを証明する歴史的な証拠がありません。かつ応神の帝の妊娠期間が異常に長い(袖の袂に石を入れて、出産を遅らせた……との記述がありますが、医学的には「嘘」の一言で片づけられるような記述です)、また仲哀の帝が亡くなってから応神の帝が誕生するまでが一年以上、あるいはいわゆる一〇月一〇日きっかりである……などの記述から、古事記・日本書紀のあからさまなねつ造と言われています。
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この回答へのお礼

早速のご回答ありがとうございます。

お礼日時:2006/07/12 00:19

「日本書紀」に依れば、天智天皇は舒明天皇崩御(641年)に16歳と記録されており、崩御は671年なので、46歳で亡くなったことになる。


一方、天武天皇は生年月日は不明ながら、崩御は686年となっている。
他の資料では「本朝後胤紹運録」には享年65歳とあり、これに従えば、天武天皇の方が4歳年長となる。
「日本書紀」では、両天皇の母親の斉明天皇に関して、前夫の高向王との間に「漢皇子」をもうけ、再婚した舒明天皇との間に葛城皇子(中大兄皇子)、間人皇女、大海皇子(大海人皇子)を生んだとある。
これ以外の資料も両者の年齢に関してはばらばらで、兄弟間で娘のやり取りが多く、不自然と言うこともあって、本当の兄弟かどうかは疑いがもたれている。
尚、大海人皇子に関しては、私の質問した

http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=2146144

尾張氏が深く関わっており、日本書紀には「尾張大海媛」、古事記には「意富阿麻比売(おおあまひめ)」が尾張氏の祖先とあり、先代旧事本記には尾張氏の氏神、火明命の7世の子孫に大海姫命が記され、尾張氏と天武天皇との結びつきが感じられる。
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この回答へのお礼

早速のご回答ありがとうございます。

お礼日時:2006/07/12 00:19

仲哀天皇の存在が怪しげなのですが、仮に仲哀天皇が実在の人物だとしても記紀の仲哀天皇の死の記述はは余りにも不自然で、仲哀天皇は神功皇后と武内宿禰に謀殺されたんじゃないかという思わせぶりの記述に見えます。



また、応神天皇の出生はは仲哀天皇が死んで1年以上経過してからで、神功皇后は腹に石を巻いて出産を遅らせたとか、余りにも見え透いた記述があります。

ですから、普通に考えれば仲哀天皇と応神天皇がつながっていないことはあきらかです。
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この回答へのお礼

さっそくのご回答ありがとうございます。

お礼日時:2006/07/12 00:20

#2ですが、続きを



一般的に天武天皇は「漢皇子」ではないかと見る方が多いですが、異説として山背大兄王(聖徳太子の息子)は架空の人物であり、本来の山背大兄王は聖徳太子の最晩年に誕生し、蘇我氏と物部氏の支持を受けて大海人皇子として知られる人物となった。
そのため、聖徳太子とその妻の死亡の有様が曖昧に描かれ、天武天皇の生年も曖昧になっていると言うものです。
そして中臣鎌足として知られる人物は、百済王子の豊璋ではないかとも言われる。
そして天智天皇の皇后倭姫は額田女王ではないかと。
物部守屋は物部氏の本家とされるが、実は傍系の跳ね返り物で、本家の意を受けた蘇我氏が殺したのではないか。

いずれにせよ、天智天皇+中臣鎌足(豊璋)という勢力と大海人皇子+蘇我・物部連合という2大勢力が対立していて、主な対立点は朝鮮半島外交になったのは間違いない。
そのため、天智天皇+中臣鎌足(豊璋)は蘇我入鹿を殺すことで主導権を握ろうとしたが、完全ではなく、妥協点として、蘇我・物部連合の推す大海人皇子を皇太子とし、彼の妻である額田女王(物部系)を離縁させて娶り、代わりに娘たちを大海人に嫁がせて人質にするという妥協をしたと言うこと。
しかしながら天智天皇+中臣鎌足(豊璋)の目的は百済救済なので妥協案を無視して出兵に踏み切り(このあたりは浅井氏との約束を反故にした信長を髣髴させる)、当然大海人皇子+蘇我・物部連合の協力を得られないので、担保として高齢の斉明女帝を連れて行き(無理がたたって崩御)、敗戦後はすんなり都にも帰れない事になった。
こうした事実を都合のよいように書き換えたのが、持統天皇+藤原不比人で、彼らにより天武天皇の血を引く皇子は暗殺され、壬申の乱で活躍した蘇我+物部連合は失脚し、神話も書き換えられていったと言われています。
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 補足程度に。



 (1)には兄弟関係を認めない場合と、認める場合に分かれます。
    非兄弟説=佐々克明氏。
    異父兄説=小林恵子氏、大和岩雄。
    異母兄説=水野裕氏。
 この辺を解説してくれる本として手ごろなのは井沢元彦氏の『逆説の日本史2』小学館文庫でしょう。関裕二氏の『天武天皇隠された正体』ワニ文庫もあります。

 (2)継体天皇は、男系的には応神天皇の5代目、母系的には垂仁天皇の7代目の子孫であると説明されており、子孫を残さなかった武烈天皇の跡を継いだので別系統とされます。
 しかし『記紀』ともに応神天皇~継体天皇間の系譜の重要部分が削られており、また系譜のいくつかの部分が信憑性に欠けること、5代目という数字が後世に皇位継承権が認められたギリギリの数字であること、越の国という遠隔地から招かれたことなどから、実際は継体王朝を前王朝とは異なる征服王朝ではないかと唱える人がいます。

 (3)応神天皇が征服王朝の始祖王的人物であるためです。ふつう応神天皇は河内王朝の始祖とされます。始祖王的な伝承としては、漢風の名に《神》の字を含むことが神武天皇を連想させ、その出生が神秘的であること、母である神功皇后が神武天皇同様に九州方面から東進し、香坂王・忍熊王を滅ぼすこと、といったところ。
 もっとも河内王朝の起源としてはいくつか説がありますが。最近有力になりつつあるのは、元来大和を中心に栄えていた政権が、その政治的基盤を背景に河内に進出したとするもの。
 ただし、古くは吉井巌氏が応神天皇を始祖とみなすことに反対しており、最近では応神天皇が始祖的であることは認めつつも、その伝説があまりに神秘的であるため、実質的には次の仁徳天皇を河内王朝の祖と認めることがよくあるようです。
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回答者の皆さんから、これだけの諸説が出ているということはどれが確実な「史実」なのか、まったく判明していないという事ですよ。


別に私は研究者ではありませんが、これだけでも、『天皇家は万世一系である』と断言している事自体「?」と思いませんか?
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