面白きこともなき世を面白く 住みなすものは心なりけり

とはどういう意味なのでしょうか?

A 回答 (6件)

 済みなす=住み為す・成す→現代語訳:すみこなす:知恵を使って上手く住めるように工夫する。



 あまり、言い換えると落ちるニュアンスもあり、元の方が含蓄があって、好きですね。

 
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僕は難しく考えずに、


「住みなす」という字を当てます。
面白くもない世の中を、面白く生きるのは心次第。
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下記に面白い話が書いてあります。

真偽のほどはわかりませんが、下の句は臨終の枕元にいた野村望東尼が書き加えたものだというのです。これを晋作は『面白いのう』とつぶやいて息を引取ったというのですね。享年29歳。1867年ですから貴族院議員になれるわけがありません(^_-) 木戸孝允と混同されているかな?

参考URL:http://www.geocities.jp/ryoma21jp/newpage40.htm
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わざわざ書くまでもないことかもしれませんが、


高杉晋作が亡くなったのは、第二次長州征伐の幕府軍相手に
四境戦争を戦っている最中です。
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高杉晋作は、


自分のアイデアがことごとく成功して、
明治維新の立役者に、そして貴族院議員になりましたが、
晩年は、隠居のようでした。

>面白きこともなき世を面白く 住みなすものは心なりけり

自分の気持ち次第で面白くなるものです。
と、野村望東尼が続けたのでしょうが、

上の句の、高杉晋作の意図は、、
己の力で世の中を面白くしてきたが、たいしたことはなかった。
よりも、
興が冷めた今の世の中を、もっと面白くする人物はいないのか。
と解釈するほうが楽しいですね。

下の句は、上の句の流れがあるので、
面白くない世の中も、
自分の気持ち次第で面白くなるものです。

と、したのでしょう。
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高杉晋作「面白き こともなき世を 面白く」


望東尼(晋作の愛人)「すみなすものは 心なりけり」
晋作「面白いのお」

が、最期のやりとりだとか。できすぎの感もありますが。
面白いこともない人生を、面白く生きてやったぞ、という感慨のこもった、上の句のように思えます。

この回答への補足

すみなすものは心なりけり

の部分がよくわからないのです。

現代語訳すると正確にはどういう意味なのでしょうか?

補足日時:2006/07/16 01:38
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坂本龍馬については、1866年1月に成立した薩長同盟の際に
長州の三吉慎蔵が竜馬の警護についています。
2日後に竜馬は寺田屋で幕吏のために襲われてしまいますが
後に竜馬の妻となるおりょうが風呂場から裸で急を告げ
その際に三吉も同席していたという話は有名ですね。

この頃には龍馬はすでに幕府・薩長の両方から
重要人物として注目を浴び始めていたようですが
安政の大獄(1860年)当時は、まだ江戸の千葉道場で
剣術修行に励んでいた一人の若者に過ぎませんでした。
(彼が井伊大老の暗殺を聞いたのは土佐に帰省していた時でしたが)

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後に竜馬の妻となるおりょうが風呂場から裸で急を告げ
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> 似た様な顔の人は性格も似るのでしょうか。

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よろしくお願いします。

Aベストアンサー

 関連情報なのですが。
 牢役人もですが、牢では牢名主(ろうなぬし)という人にも賄賂(寸志・心付け)をあげないと手紙を出したり手紙を受け取ったり、差し入れをもらったりが出来ませんでしたので、松陰は牢名主にも賄賂を渡していました。
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 松陰は牢名主に渡すため、「福神漬けを2樽送ってくれ」と実家のお父さん(杉家)に手紙を書いています。なんで、福神漬け? と思いますが、牢名主の好物だったか? それにしても2樽とは、江戸時代の流通が発達していない時に、運賃がすごい高かったでしょうに。
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 しかし、牢名主にワイロ渡していたお陰で、松陰の遺書『留魂録』は残りました。牢名主が明治に入ってから松陰の門下生に遺書を届けてくれなかったら、遺書は歴史の中に消えていたところでした。その最後に記された辞世の句、 身はたとひ武蔵の野辺に朽ぬとも留置まし大和魂 も牢名主のお陰で残りました。

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