阿修羅について調べています。出生、神との戦い、その後神に仕えた等どんな事でも結構です。情報をお知らせください。また、HP、書籍のご紹介も御願い致します。オタク的な詳しさ歓迎です。よろしくお願いします。

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A 回答 (2件)

下の方が言われている本は、


佐藤任著 悲しき阿修羅 平河出版社 第一版:2001/11/25
のことですね。
Amazonでは検索出来ませんでしたので、書店で注文するなどして手に入れてください。

乾闥婆(けんだっぱ)というのは音楽の神で、帝釈天の楽士ですね。
阿修羅が帝釈天に勝てなかったのは、
不老長寿の酒ソーマを飲めなかったためだと言われているようです。

阿修羅(アスラ)の意味ですが、スラは神を表し、アスラとは神でない者という意味だそうですよ。

元々は異教の神で、鬼神だと書いてあるページがありましたよ。
HPもいくつかあげておきますね。
http://www.butsuzou.com/jiten/asyura.html
http://www.asahi-net.or.jp/~QI3M-OONK/tosyokan/f …
http://www.hi-ho.ne.jp/~asura/words.html
http://www1.linkclub.or.jp/~fenrir/material/summ …
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
恋に破れたのはお酒が飲めなかったからなんて・・・
何とも興味を惹かれます。
もう少し、紹介していただいたHP等を見てみようと思います。
ありがとうございました。

お礼日時:2002/03/04 18:36

阿修羅は元々は仏教の神では有りません。


異教の神、たしか中心的な存在の太陽神で有ったような。
むかし実際に有った宗教戦争(中東辺りでやっているあれ)により
仏教に取りこまれたものと記憶しています。
仏教では八部衆という位の低い存在です。
仏教での物語としては
ケンダツバ(字を忘れた)の娘に恋をして、その娘を掛けて帝釈天と
決して勝つことの無い戦いをした。
やがて、釈迦の説法を聞き、仏に帰依した。
というような事だったように記憶しています。

HPは「阿修羅」「アスラ」「アフラマズタ」で検索すれば色々出ると思います。
本については「悲しき阿修羅」というのがお勧めなのですが
残念なことに出版社がどこなのか記憶に有りません。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。色々と知らなかった事が分かりました。阿修羅も恋をしたのですね。なんだか微笑ましいと言うか・・・
もう少し調べてみますね。
ありがとうございました。

お礼日時:2002/03/04 18:33

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仏教について詳しくなりたい高校生です。
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しかし高校生であることもあり(行動範囲が狭いため)阿修羅に関する知識はネット上のもとに限られていました。
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手始めに初心者でもわかりやすい仏教の書籍などのオススメを知りたいです。それと、仏教好きならコレだけはやっておけ‼︎というお話も教えて欲しいです。

Aベストアンサー

中村元 先生の本がわかりやすかったです。
特に、原始仏典について書かれた本がわかりやすかったです。
図書館等で貸出があるとよいですね。

私は、もう、こどもが成人しているオッサンなのですが、3年位前に薬師寺に行って、「あぁ、昔は医学が進歩してなかったし、病気になったら祈るしかなかったんだろうな。」と感じました。「当時の人は、自分や家族の病気を治るようにと言う思いでこの場所に祈りにきたのかな」と。
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Q【政治と宗教】エジプト文明が滅びたのは統治者が神の力を借りたから。民衆は神を讃え、統治者より神が

【政治と宗教】エジプト文明が滅びたのは統治者が神の力を借りたから。

民衆は神を讃え、統治者より神が偉くなり、統治者が神を制御出来なくなり、神を頂点とする世界に統治者は不要となった。

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違いますか?

Aベストアンサー

統治者が、神の名を借りて統治していたようですよ。
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結局ローマの覇権争いを利用しようとしたクレオパトラが自滅を招いたということらしいです。
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亡くなった祖母は何にでも手を合わせていました。口癖は「守ってくれよる」でした。今も、祖母が守ってくれていると感じる私もきっと有神論者に入るのでしょうね。

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仏教に帰依したと聞きます。処が 仏教が誕生した国、インドでは衰退しヒンズー教が残っています。それでは阿修羅等のヒンズー出身の神々はヒンズーには戻っていないのですか?
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菩薩号は、後伏見天皇の時、西大寺の僧叡尊に興正菩薩の五を賜りしを以て始とす。蓋し叡尊は菩薩戒の師たるを以ての故ならん。(叡尊が菩薩号を送られた最初の人:死後です)
是より前に、僧行基等を菩薩と称せしことありしかど、当時其の人を尊敬するに出でたる称にて、朝廷の賜ふ所にあらざるなり。世行基を以て菩薩号の始としたるは誤なり。(行基を菩薩と呼んだのは、人々の尊称です。女を菩薩と思う男も多いです)
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「菩薩戒を受ける」というのは、大乗仏教における菩薩僧に与えられる戒律です。
http://blog.goo.ne.jp/tenjin95/e/81f447994409c07b283e97df920b084d
菩薩僧や僧でなくても菩薩戒を受けて悪をとどめ善を修め人々のために尽くすなら菩薩というのかもしれません。叡尊(後の興正菩薩)は多数の人に菩薩戒を授けています。
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なお、今でも、比較的簡単に菩薩戒を受けることも可能です。
http://www.potala.jp/news/1104class/tokyo/bosatsu.html
 
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菩薩号は、後伏見天皇の時、西大寺の僧叡尊に興正菩薩の五を賜りしを以て始とす。蓋し叡尊は菩薩戒の師たるを以ての故ならん。(叡尊が菩薩号を送られた最初の人:死後です)
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Q平地での戦いで用いられる主な戦術 騎馬での戦いで用いられる戦術 攻城の

平地での戦いで用いられる主な戦術 騎馬での戦いで用いられる戦術 攻城の際に使われる戦術 籠城の際に用いられる戦術 水軍で用いられる戦術などを教えてください
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最近NHKでやっている、「名将の采配」が参考になるかも?

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Q仏教の神様を英語で

仏教の神様で 帝釈天、梵天、阿修羅などは英語で何と呼ばれていますか? 日本固有のものではないので、そなままローマ字にするのも変だと思います。どなたかご存知の方 教えてください。

Aベストアンサー

帝釈天: Indra
梵天: Brahma
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参考URL:http://www.pandaemonium.net/menu/myth20.html

Qソンムの戦い(フレール=クレスレットの戦い)で登場した戦車に関して質問です。

タイトル通りです。第一次世界大戦中の1916年7月から開始されたソンムの戦いでは、イギリス軍がドイツ軍相手に攻撃を仕掛け、多大な犠牲を被ったのち、1916年9月の調べてみるとフレール=クレスレットの戦いから戦車を投入したとの記載がありました。ただ、この時にイギリスは用意した49両もの戦車のうち、実際に戦闘に投入できたのはわずかに5両であったと聞きました。

第一次世界大戦のソンムの戦いではじめ投入された戦車というのは、ドイツの砲兵にやられたり砲弾でできた穴にはまって動けなくなるなどの情報もありますが、戦車というのはそれ単体では威力を発揮しなかったのでしょうか?

現在においても戦車単体では、敵の対戦車砲などによってすぐに潰されてしまいますが、第一次世界大戦だと防御側は有刺鉄線や塹壕、機関銃などによって圧倒的に優位であったため、あまり戦車は役に立たなかったという認識は合っていますか?それとも、違いますか?

Aベストアンサー

>フレール=クレスレットの戦い~の時にイギリスは用意した49両もの戦車のうち、実際に戦闘に投入できたのはわずかに5両であったと聞きました。

 49両中、10両が故障で前線まで移動できず、攻撃開始地点から実際に戦闘に参加したのは14両。戦闘開始で前進中5両が泥濘にはまって行動不能となった、ということでした。

> 第一次世界大戦のソンムの戦いではじめ投入された戦車というのは、ドイツの砲兵にやられたり砲弾でできた穴にはまって動けなくなるなどの情報もありますが、戦車というのはそれ単体では威力を発揮しなかったのでしょうか?

 そもそも、戦車が開発されたのは、塹壕や鉄条網を超越し、歩兵の進撃路を確保することによりこう着する戦況を打開するためで、戦車戦の用兵思想はなかったのです。

 ゆえに、防御装甲は船舶ボイラー用の鋼板を流用した程度で、ドイツ軍が敵の監視哨狙撃用に装備していた小銃用徹甲弾(smK弾)で戦車側板を打ち抜けていました。また、速度は時速約6キロていどでしたから、歩兵の協同がないばあい、ドイツ兵は容易に死角から戦車に迫って集束手榴弾を使用したり、開口部を銃剣でこじ開けたりして中の乗員を射殺しました。さらに、泥濘での立ち往生や故障などからドイツ軍に手に渡る例もありました。
 
 実際、のちにドイツ軍が戦車部隊を編成した際には、イギリス軍から鹵獲した改造戦車が主力となっていたほどでした。

 このように戦車が登場した初期は、前線のドイツ軍将兵に恐怖を与えた効果はありましたが、戦車戦闘の運用思想の欠如により戦況に大きな変化を出すには至りませんでした。
 
>第一次世界大戦だと防御側は有刺鉄線や塹壕、機関銃などによって圧倒的に優位であったため、あまり戦車は役に立たなかったという認識は合っていますか?それとも、違いますか?

 1917年11月、カンブレーにおけるイギリス軍の戦車大量投入(476両)による奇襲作戦は、それまで何度も失敗していたドイツ軍の前線を一日で突破するという画期的な戦果を挙げました。反面歩兵の協同を欠いた戦車群のみで前進したフレスキエルの戦闘ではドイツ軍野砲部隊により約30両の戦車が破壊されました。

 第一次大戦中の戦車の運用は、戦車の奇襲的な大量投入や、戦車と歩兵、砲兵などの諸兵科の連合的運用という大量殺りく戦へつながり、続いて起こった二次大戦、ついで現代までのきわめて重要な戦訓を生んだといえるでしょう。

資料:歴史群像 欧州戦史シリーズ『WWⅡ ドイツ軍装甲部隊全史Ⅰ』 学習研究社 2000年

>フレール=クレスレットの戦い~の時にイギリスは用意した49両もの戦車のうち、実際に戦闘に投入できたのはわずかに5両であったと聞きました。

 49両中、10両が故障で前線まで移動できず、攻撃開始地点から実際に戦闘に参加したのは14両。戦闘開始で前進中5両が泥濘にはまって行動不能となった、ということでした。

> 第一次世界大戦のソンムの戦いではじめ投入された戦車というのは、ドイツの砲兵にやられたり砲弾でできた穴にはまって動けなくなるなどの情報もありますが、戦車というのはそれ単体で...続きを読む

Q阿修羅の祈り

興福寺の阿修羅像です。



少年阿修羅は光の中にいる

光の中で手を合せている

今しがた手を合わせたばかりの姿で、前を見つめて立っている

振り向けば、悲しみと憎しみを背負い

背負いつつ、優しい光に手を合せている

いまだ懺悔もない、目覚めの姿

阿修羅の祈りは

深い優しさを垣間見た少年の祈り



この阿修羅像には由来からして、光明皇后の亡き母への想いが込められていると思いますが
そういった事を抜きにしても、心に訴えかけてくるものがあるように感じられます。
美術評においても「驚くべきリアリティーである・・」と言われていますが
それぐらい、子供の祈る姿を通して純粋なものを感じさせる作品になっていると思います。
私なりの印象といったものを、上に書いてみましたが
この阿修羅像から受ける印象は、人それぞれに違うのかもしれません。
私は美術書の写真を見たのみで、まだ実物を見たことがありませんので
できれば、実際にこの阿修羅像を見た方にその印象をお聞きしたいと思います。
また、仏教に関する感想等ありましたら付け加えていただければ幸いです。
よろしくお願いします。

興福寺の阿修羅像です。



少年阿修羅は光の中にいる

光の中で手を合せている

今しがた手を合わせたばかりの姿で、前を見つめて立っている

振り向けば、悲しみと憎しみを背負い

背負いつつ、優しい光に手を合せている

いまだ懺悔もない、目覚めの姿

阿修羅の祈りは

深い優しさを垣間見た少年の祈り



この阿修羅像には由来からして、光明皇后の亡き母への想いが込められていると思いますが
そういった事を抜きにしても、心に訴えかけてくるものがあるように感じられます。
美術評においても「驚くべきリ...続きを読む

Aベストアンサー

about72 さん、こんばんわ。

私も仏像の中では天平仏が大好きです。なぜかというとこの前の時代と後の時代はとても定型的な表情なのですが、この時代の仏像の表情はとても自由で闊達な感じがするからです。特に阿修羅像はとても若い少年の容貌をしており、乾漆像というこの時代特有の作り方をしており、それは前述のとおり、ある種仏像としては型破りで空前絶後ですが、なぜか人の心をとらえて離さない魅力があります。それはほかの天平仏でも、やはり仏像なので、自由闊達に見えてもどこか悟りきった大人の表情が多いのですが、この仏像だけは若い少年の表情なので、あなたの言う通り、純粋なものを感じさせる作品になっているのかもしれません。その分この仏像の心は私たちの考えに近く、親近感を感じてしまうのかもしれません。
ちなみに私は2回見ました。

詳細は下記のURLを参照してください。



乾漆像
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%BE%E6%BC%86%E9%80%A0


阿修羅
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E4%BF%AE%E7%BE%85

about72 さん、こんばんわ。

私も仏像の中では天平仏が大好きです。なぜかというとこの前の時代と後の時代はとても定型的な表情なのですが、この時代の仏像の表情はとても自由で闊達な感じがするからです。特に阿修羅像はとても若い少年の容貌をしており、乾漆像というこの時代特有の作り方をしており、それは前述のとおり、ある種仏像としては型破りで空前絶後ですが、なぜか人の心をとらえて離さない魅力があります。それはほかの天平仏でも、やはり仏像なので、自由闊達に見えてもどこか悟りきった大人の表情...続きを読む

Q柳生家が徳川家康に仕えるようになったのは西暦何年くらいで何がきっかけだったのでしょうか。

時代劇などでよく柳生家は徳川家康の剣術指南役として出てきますが、柳生家が徳川家康に仕えるようになったのは西暦何年くらいで何がきっかけだったのでしょうか。

Aベストアンサー

文禄3年、西暦で言うと、1594年5月3日。
黒田長政の仲介により、徳川家康と出会った柳生宗厳が、家康の前で「無刀取り」を披露したことによって、兵法指南役に迎えたいと家康より申し出を受けました。
しかし、宗厳はその当時で、すでに66歳。
代わりに、五男の柳生宗矩を指南役として押しました。

Q阿修羅はなぜ左手に太陽、右手に月のようなものを持っているのですか。

阿修羅はなぜ左手に太陽、右手に月のようなものを持っているのですか。

ゴールデンウィークに奈良・山辺の道の長岳寺に行き、地獄絵を見ました。
その中で阿修羅が風神・雷神と闘う様子が描かれていましたが
阿修羅は左手に太陽、右手に月のようなものを持っていました。
阿修羅はなぜ太陽や月を持っているのでしょうか。

Aベストアンサー

ご質問に関しては次のサイトに載っている話が仏教(ゾロアスター教が元?)の本に書かれて居ります。
http://blog.goo.ne.jp/mitsuzoin/e/1048fdfeb10186ace5045255b64c1c83

また、日天と月天を持っている阿修羅は4大阿修羅王の一人である「羅喉(らご)阿修羅王」の特徴であり、その理由はこちらに書かれている「ラーフ」と「ヴィシュヌ」「プラシュマー」との争いが元々の話であり、後に「ラーフ」⇒「ラゴ」に変語し、仏経に取り入れられた時点で4大阿修羅王の一人である「羅喉阿修羅王」となったのではないかと言う説もあります。
http://www.saji.city.tottori.lg.jp/saji103/tayori/tayori175/seminar.htm
http://www.senseofwonder.org/~aim/diarypro/diary.cgi?no=134
[阿修羅]
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E4%BF%AE%E7%BE%85
[妙法蓮華教序品]
http://www.kosaiji.org/hokke/kaisetsu/hokekyo/1/01.htm
 ↑このサイトの下の方にある「阿修羅王衆」

ご質問に関しては次のサイトに載っている話が仏教(ゾロアスター教が元?)の本に書かれて居ります。
http://blog.goo.ne.jp/mitsuzoin/e/1048fdfeb10186ace5045255b64c1c83

また、日天と月天を持っている阿修羅は4大阿修羅王の一人である「羅喉(らご)阿修羅王」の特徴であり、その理由はこちらに書かれている「ラーフ」と「ヴィシュヌ」「プラシュマー」との争いが元々の話であり、後に「ラーフ」⇒「ラゴ」に変語し、仏経に取り入れられた時点で4大阿修羅王の一人である「羅喉阿修羅王」となったのではない...続きを読む

Q観音寺城の戦いにおける事実確認をお願いします

観音寺城の戦いは、1568年に発生した、六角氏と織田上洛軍の合戦です。
戦いは1568年中の短期間で終わるはずなのですが、ウィキペディアの「六角義治」の項目に、それとは矛盾する記述があります。
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矛盾は
「六角義治」の項ではこのように書かれています。
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この文章によると、1568年においては一旦は上洛軍を追い返した→しかし翌年の1569年に再侵攻を受け、観音寺城は落城した。
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Aベストアンサー

ああ表現が少しあやふやなので勘違いされたのですね。

最初に追い返したのは軍勢ではなく使者です。つまり和議の使者を追い返されたので信長は開戦を決意して翌年攻め込んできたというわけです。


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