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江戸時代の同心はそもそも足軽のことと聞いてますが、藩によっては同心と足軽がいることありますが
その場合格上はどっちになるのですか?

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A 回答 (4件)

江戸幕府は将軍直属支配下の足軽を同心と名を代え、足軽の呼称をやめました。

  これから足軽、同心はひとくくりに見られるようです。   しかし江戸には大名屋敷、旗本屋敷がありこの中には足軽もいます。
各藩では足軽の呼称を無くした所はないようです。  江戸にならい町奉行の下が与力で、その下が同心という藩は多いようです。  しかし武官では物頭の下は足軽のままです。  文官では足軽格だが、物書きのように足軽と呼ばない職種も多いので、不明確な点もありますが、足軽は同心より格下の傾向はあります。   藩によっては足軽の一部に苗字を許さなかったといいます。
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この回答へのお礼

やはり地方の藩だと両者いますよね。参考になりました。ありがとうございます。

お礼日時:2006/07/27 21:04

足軽というのは徒武者の総称で、同心というのはその中で役目を与えられた人と考えてください。



常町廻り同心は警邏係の巡査のような役目、牢番は拘置所の警備係のような者、鉄砲同心は戦時に鉄砲組の構成員になる予備役というように役目を与えられていました。

現在でいえば足軽はフリーター、同心はパートといった所でしょうか。

どちらが格上とは言えませんが定職のある同心の方が社会的には上になるのでは。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

お礼日時:2006/07/27 21:02

足軽は「徒士(かち)」と書くように徒歩の兵士です。

もし東京にお住みなら「御徒町」は恐らくご存じでしょうが、徒士が住んでいた地域ですね。

同心は身分としては足軽、業務としては警察ですが、八王子同心などというのもあるので、普遍的な解釈はわかりません。

与力は寄騎とも書くように騎馬武者ですね。実際に馬に乗るかどうかは別として身分がそうだと言うことです。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

お礼日時:2006/07/27 21:01

同心


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%8C%E5%BF%83

足軽
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%B3%E8%BB%BD

足軽が同心に採用されていたということであって、「同心=足軽」ということではないようです。なので、格上や格下を決められるものではないようです。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

お礼日時:2006/07/27 21:00

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Q8石2人扶持の身分は足軽ですか?

江戸期に徳川親藩17万石の大名の家来で8石2人扶持の身分は足軽でしょうか?
飛地にある陣屋で勘定奉行を務めたらしいのですが仮に足軽でも勘定奉行に成れるのですか?
飛地の規模は約6万石、藩士は200人程で250石の支配役が2名で残りは全て10石前後です。

Aベストアンサー

17万石の藩で8石2人扶持なら,「士」か「卒」(足軽)かはよく分からない辺りです。6万石ですとおそらく,「士」だろうとは思うのですが。

例えば,黒田52万石で最下級の「士」の扶持では,6石2人扶持などという例がある一方で,「卒」身分でも陸士などは13石3人扶持をもらっています。また,逆に1万2千石の益田家では,「上士」でも12石程度の家があります。つまり,この辺りになってくると,扶持と身分の相関関係が曖昧になっているのです。現に旗本よりも家禄の多い,御家人だっていましたから。

江戸時代でも,算用方は,かなり能力人事の部分があったそうですから,仮に「卒」の身分でも取り立てられる事はあったはずです。ただ,勘定奉行というのは,「卒」のままでは難しいでしょう。その場合,「卒」から加増されて「士」として,勘定方の役職を歴任し,最終的に奉行になるというルートです。もともとが「士」の身分なら,そのまま出世をしていったという話です。

奉行をやっている間は,役料という形で扶持が増えているはずです。ただし,これは家禄ではありませんから,役を辞めればもらえません。ここで,認められれば加増という形で,家禄自体が増えるわけです。

17万石の藩で8石2人扶持なら,「士」か「卒」(足軽)かはよく分からない辺りです。6万石ですとおそらく,「士」だろうとは思うのですが。

例えば,黒田52万石で最下級の「士」の扶持では,6石2人扶持などという例がある一方で,「卒」身分でも陸士などは13石3人扶持をもらっています。また,逆に1万2千石の益田家では,「上士」でも12石程度の家があります。つまり,この辺りになってくると,扶持と身分の相関関係が曖昧になっているのです。現に旗本よりも家禄の多い,御家人だっていましたから。

江戸...続きを読む

Q江戸時代の足軽身分のものは半農半士だったのでしょうか?それとも武士とし

江戸時代の足軽身分のものは半農半士だったのでしょうか?それとも武士としての待遇だったのでしょうか?

Aベストアンサー

こんにちは。
私は、自称「歴史作家」です。

>>江戸時代の足軽身分のものは半農半士だったのでしょうか?それとも武士としての待遇だったのでしょうか?

回答から先に述べますと「武士階級」でした。

(1)戦国時代の足軽は「卒」(そつ)と呼ばれ、馬には乗れない徒歩で戦場を駆け巡りました。

(2)しかし、秀吉の時代に「刀狩り令」が出されてからは、それまで、半農半卒であったものが、農業をとるか、卒となるかの選択を迫られました。当然、二手に分かれたことは言うまでもありません。そして、卒は武士階級としては、最下位に位置づけられました。

(3)江戸時代になってからも、足軽は武士階級の一番下位に位置しました。しかし、実際には、足軽の下には、中間、小者という最下位の身分も作られました。

(4)足軽は、下級ではあっても、士分でしたので、帯刀を許されていました。ちなみに、中間が腰に差していたのは「木刀」でした。小者は何も身に付けることはできませんでした。そして、小者が主人のお供をする時は「裸足」(はだし)でした。

(5)また、足軽以下は下駄を履くことは禁止されており、常に草履でした。

(6)家禄というものはなく、給金制度で、大方の大名などに仕える足軽は、年間5両2人扶持の安い給料だったため、内職などに精を出し家計を助けました。そして、足軽長屋に住んでいました。
<扶持の計算方法>
男扶持では1日5合の計算。
女扶持では1日3合の計算。
ですが、足軽は男扶持で計算されました。
5合×360日=1,800合。
1升=10合。
1,800合=180升。
1斗=10升。
180升=18斗。
米俵1俵=4斗。
18斗=4.5俵
従って、年間5両と米俵4.5俵を与えられたことになります。

(7)中には、内職が本業のようになり、職人肌になる者もいました。

(8)米沢藩の上杉鷹山などの時代には、下級武士が藩の財政危機を打開するため、新田開発などに従事しましたが、鷹山は、この者たちの藩を思う心に打たれて、士分を捨てることは許可しませんでした。

(9)米沢藩のように、農業をした者もいますが、江戸や大阪府内では土地を持つことは許されず、江戸や大阪府内の足軽はもっぱら内職で食いつないでいました。

(10)地方の大名の足軽では、農業をしていた者もいました。しかし、一応は立派な「武士」でした。

こんにちは。
私は、自称「歴史作家」です。

>>江戸時代の足軽身分のものは半農半士だったのでしょうか?それとも武士としての待遇だったのでしょうか?

回答から先に述べますと「武士階級」でした。

(1)戦国時代の足軽は「卒」(そつ)と呼ばれ、馬には乗れない徒歩で戦場を駆け巡りました。

(2)しかし、秀吉の時代に「刀狩り令」が出されてからは、それまで、半農半卒であったものが、農業をとるか、卒となるかの選択を迫られました。当然、二手に分かれたことは言うまでもありません。そして、卒は...続きを読む

Q旗本

一千石・三千石・五千石の旗本の場合、家臣の人数・構成、屋敷の数・坪数はそれぞれどの程度の陣容だったのでしょうか?

Aベストアンサー

 ●家臣の数・構成(慶安2年(1649)の軍役規定)
1000石 21人(侍5、槍持等16)
3000石 56人(騎士2、侍8、槍持等46)
5000石 103人(騎士5、侍9、槍持等89)

 ●旗本の人数(元和9年(1623年))
1000石 24人
3000石 45人
5000石 75人

 ●拝領屋敷地(元和6年(1620年))
1000石~1900石 700坪
3000石~4000石 1500坪
5000石~7000石 1800坪

Q旗本の暮らし

一千石の旗本は、だいたい何坪程度の拝領屋敷に暮らしていたのでしょうか?

武家奉公人(侍・中間・女中)は軍役ではなく実際にはそれぞれ何人くらいいたでしょうか?

五千石くらいの大旗本の家老だと、百石前後はあった様ですが、千石の家の用人はどれくらいの家禄を貰っていたのでしょうか?

千石の屋敷の門は長屋門だったのでしょうか?

質問が多くてすみませんが、お考えを伺えると幸いです。

Aベストアンサー

千石以上の旗本は、全部で800家ほどしかありませんでした。
千石の旗本であれば長屋門でした。
屋敷の規模は人や場所によっても違いますので一概には言えませんが、二百坪くらいはありました。
家臣の数もその家の考え方や裕福さにもより、また役についているか無役か、どういう役職かなどによっても異なりますが、役についていれば千石クラスだと登城時にも4~5人の供は必要でしたから、男が用人、若党、中間、小者をあわせて6~7人くらい、女が2~4人くらいではないでしょうか。
このクラスだと用人でもせいぜい10石くらい、他は何両何人扶持といった程度で、譜代の家臣はいても用人くらい、あとは口入屋からの年季奉公人といったところでしょうか。

Q大名の家臣数

大名家の家臣数を知りたいので教えて下さい。
家々によって違うと思いますが、一万石・五万石・十万石・三十万石クラスの大名の大まかな家臣数・陪臣数を知りたいです。宜しくお願い致します。

Aベストアンサー

大名家の家臣数は時代によりかなり異なります。
戦国期、江戸初期、末期で実態が変わっています。
戦国末期で軍制が定まってきたときは大体一万石につき200名以上の人数、に武器、乗馬、旗などの数が決められていました。
しかし実態は戦闘時、戦闘員の数がものをいうので軍制以上の人数を動員するのが常でしたし陣場借りといってアルバイトのような人員も抱え込みふくらんでいました。

江戸初期にはこの名残で大体一万石につき200名位に落ち着きましたがそれ以上の家臣をかかえる藩もありました。
米沢藩上杉家は謙信以来の家風があり大幅な減封を受けたのですが家臣団のリストラはせず、一律減封で対処したので有名です。
この為米沢藩士の窮乏はひどく、藩財政の建て直しを図った上杉鷹山の事績は有名で、内職が特産になった位です。

太平が続いた江戸中期では経済の発達、実収入の変動も影響しリストラ、給与の削減(借り上げ)などが常態となり軍制は形ばかりで多くは渡り中間など臨時の人数で揃えることが多くなり馬を備える事もままなりませんでした。
従って実数は半分以下位に下がっていたでしょう。
幕末長州攻めなどに動員された時武器鎧も質にいれていたので請け出すのに借金して間に合わせたといいます。
勿論内実の裕福な藩や尚武の念の厚い藩などはこの限りではありません。
それぞれの藩の古文書などに頼るしかないと思います。

大名家の家臣数は時代によりかなり異なります。
戦国期、江戸初期、末期で実態が変わっています。
戦国末期で軍制が定まってきたときは大体一万石につき200名以上の人数、に武器、乗馬、旗などの数が決められていました。
しかし実態は戦闘時、戦闘員の数がものをいうので軍制以上の人数を動員するのが常でしたし陣場借りといってアルバイトのような人員も抱え込みふくらんでいました。

江戸初期にはこの名残で大体一万石につき200名位に落ち着きましたがそれ以上の家臣をかかえる藩もありました。
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Q書院番士の出世

書院番の番士は、通常はどの程度出世したのでしょうか?
諸太夫まで進む人は少なかったと思いますが、目付・御使番・番方の組頭小十人頭・御徒頭・勘定吟味役など布衣の職に就く人はそんなに稀でもなかったのでしょうか?
それともほとんどの番士は番士のまま終わったのでしょうか。

Aベストアンサー

書院番士といえば両番筋ですから、旗本・御家人のなかではいちばん毛並みのよい家柄のひとたちでした。
ですから、出世コースに乗れば諸大夫になるのはまれではありませんでした。
いちばんの出世コースは目付を経て遠国奉行から勘定奉行・町奉行というコースでしたが、そのほかにもいろいろな出世コースはありました。
ただ、勘定吟味役については実務がわからないと役に立ちませんし、カネ勘定はひとかどの武士のするものではないということで両番筋からなることはほとんどありませんでした。
また、両番だからといって全員が出世コースに乗れたわけではなく、隠居するまで番士のままか、せいぜい進物番になれるといった例もたくさんありました。
こういうように親が番士のままだと、子供は役に出られませんでしたが、親が布衣以上になっていれば親が現役でも子が番士に出ることが出来ました。

Q徒目付

徒目付・小人目付はどのような業務を担当していたのでしょうか?

Aベストアンサー

徒目付、小人目付はいずれも目付の配下です。
徒目付は50人ほどおり、目付の命令によって文書の起案、先例の調査などをしたり、探偵、江戸城内の宿直、大名登城時の玄関の取締り、評定所、紅葉山、牢獄などへの出役などを担当し、4名の組頭が統括しました。
小人目付は100人ほどおり、徒目付に従属し、目付以下を観察・糾弾する約で、町奉行所、牢屋敷見回り、勘定所、養生所、講武所、異変の立会い、諸大名の城郭営繕の調査、諸大名・旗本などの素行調査、将軍お成り先の警備などを担当しました。

Q足軽兵とは?

足軽兵について2つ質問があります。
1・一般に思いつく「足軽兵」は読んで字のごとく、軽装備の兵卒のことですが、このスタイルになる以前は、武将クラスのような重装備だったのでしょうか?
2・「足軽兵」は「半農半武士」が多いと思いますが、土佐で有名な「一領具足」も「半農(漁)半武士」のことですよね?何か特別な違いがあったのでしょうか?
ご存知の方よろしくご教授お願いします。

Aベストアンサー

足軽は元々武家においては「徒・郎党」等です。従軍はしますが戦闘に従事することはほとんど無く、主に戦闘補助に当たりました。

戦国時代に入って、戦闘の主役になるとそれまでの軽武装から一気に重武装化していきます。それまでの腹巻だけであった様な防具が草摺を備えた桶側胴になり、烏帽子や半頬だけであった頭部は陣笠をかぶり、薙刀が槍や鉄砲、弓箭になったりします。

足軽が=半士半農ではありません。武士の下に位置し「兵(つわもの)」と言えるでしょう。一領具足の場合は「半士半農と言うより半農半兵」で、いわゆる足軽が具足を貸与されたのに対して具足を「与えられている」点が最大の相違かと思います。一領具足は一般的な足軽よりは忠誠心が高く、兵としての連度は高かったようです。

Q町奉行の与力や同心の採用資格?

以前本で与力や同心は非正規雇用であった、という記述を読みました。

ということは武士の血筋でなくても、町人などでも採用される可能性があったということでしょうか?

採用される場合は試験や面接を受けたり、現在の警察のように身辺調査を受けたりと、明確な採用基準があったりしたのでしょうか?

ご回答よろしくお願いします。

Aベストアンサー

こんにちは。
私は、自称「歴史作家」です。

まず、「与力」と「同心」の成り立ちからお話しをすると、

与力

(1)徳川家康が天正18年(1590)に小田原征伐での軍功として、豊臣秀吉から関東(江戸)の地を与えられた際、家臣であった板倉勝重が武蔵国新座郡・豊島郡で1,000石を給され、関東代官、江戸町奉行となり、駿府の地から騎馬武者(約10名位)を呼び寄せ、江戸の治安の維持に当たらせたことが最初と言われています。

当然板倉家の家臣として主人の手伝いをしていたと思われますが、その仕事の性格上、勝重が他役に移動した後も請われて与力の仕事を続けましたが、当然身分は板倉家家臣ですから、奉行にとっては板倉家からの与力(寄力)ということになり、与力職を離れた後は板倉家に戻るというのが決まりであったと考えられます。

しかし、時代の流れとともに与力と板倉家の関係が希薄になり次第に幕臣に取り込まれていきました。元が中級の陪臣ですから、当然将軍への目通りや登城ができる資格がありませんでしたので、完全に幕府に取り込まれたのちも慣例として抱え席(後述)の目通り登城資格なしとなりました。

その後、江戸の市民も増加し、悪事を働く者もでましたので、寛永8年(1631)に家光が北町奉行に加賀爪民部少輔忠澄を、南町奉行に堀民部少輔直之を任命し(Wikiでは逆になっているが、それは間違いです)、板倉勝重の代からの与力と、新たに、関ヶ原の戦いなどで足軽大将を務めた者を与力に任命し、南北に各25騎ずつ計50騎を配置しました。

そして、与力は「御家人」と位置づけられましたが、正確には、「御家人」と「旗本」の中間くらいの位置づけでした。

旗本や御家人は、次の3つに分類されました。

★譜代・・・・・・世襲の家禄の家格。
★二半場・・・・役職(役料)を世襲で認められた家格。
★抱え席・・・・一代限りの役職(役料)の家格。


同心

(1)寛永8年(1631)に南北町奉行所が創設された時、与力の配下として関ヶ原の戦いなどで足軽を務めた者の中から選び出し、南北各60人ずつ計120人を任命しました。


>>以前本で与力や同心は非正規雇用であった、という記述を読みました。

「与力」「同心」は、上記の「抱え席」であったため、自分が死亡した時は、原則的には役職を返上しなくてはならなかったのですが、「不浄役人」と呼ばれて、新たにその役に就く者がいなかったため、一旦は役を返上し、改めて、その子などに同じ役が与えられるのが現実でした。

従って、「非正規雇用」という観点からみれば、原則的には一代限りですので、不安定な立場だったと言えるでしょう。


>>ということは武士の血筋でなくても、町人などでも採用される可能性があったということでしょうか?

「与力」や「同心」は常に「不浄役人」と言われ続けてきましたので、家名は残したいが跡継ぎはイヤダと言う者も出てきて、「与力」1,000両、「同心」200両という相場で、町民(商家の次男、三男)などに「御家人株」が売買された例もあります。


>>採用される場合は試験や面接を受けたり、現在の警察のように身辺調査を受けたりと、明確な採用基準があったりしたのでしょうか?

原則的には一代限り、しかし、実態は世襲と同じでしたので、試験も身辺調査もありませんでした。
さらには、嫡子が12~13歳になると、奉行所内での見習いをさせています。


(よもやま話)

(1)町奉行所の歴史
町奉行は、古くは室町時代まで遡ると言われています。また、「徳川実記」などでは、三河で松平氏を名乗っていた頃から、すでに、町奉行の職務が定められていました。しかし、当時は、在所の決まりはなく、町奉行を任命された者が自宅に「お白洲」を作って奉行所としていました。江戸幕府が開幕されても、家康、秀忠のじだいまでは、その形式が続いていました。

(2)町奉行は一人四役?
大岡越前守や遠山の金さんでおなじみの町奉行とは一体どんな役目だったのだろうか。町奉行は旗本から選ばれ、役人の花形であった。仕事は江戸の司法、警察、交通行政、民政の全般にわたった。また、四宿(板橋宿、内藤新宿、品川宿、千住掃部宿)を管理する役目も持っていたので、現在の「東京都知事」、「地方裁判所長」、「警視総監」、「東京駅長」を兼務していたようなものである。

(3)大岡越前守が有名になったわけ
享保16年(1731)、無宿の伝兵衛という者が火付けの罪で、江戸市中引き回しのうえ火焙(あぶ)りの刑を火付盗賊改から言い渡された。しかし、越前守の部下である手付同心が「伝兵衛にはアリバイがある」という噂を聞き、越前守に上申した。そこで、密かに、越前守は証拠集めを指示し、吟味のやりなおしをして無罪を言い渡した。当時は、1審制度だったので、再審まで断行し無罪を言い渡した越前守は、当然、庶民から人気の的となった。

(4)町奉行の管轄
町奉行の管轄は、町地だけに限られていた。つまり、町人だけが対象であった。江戸の街には武家地、寺社地、町地の区別があり、武家地とは大名の上屋敷、下屋敷、(また中屋敷を持っていた大名もいた)、旗本の屋敷などを指し、この地に犯人が逃げ込んだときや神社仏閣地へ逃げ込んだときには、町奉行所はいっさい手が出せなかった。武家地に逃げ込んだときは、目付に犯人の引き渡しを申し入れた。また、神社仏閣へ逃げ込んだときは、寺社奉行に申し入れをして犯人を捕捉してもらった。

(5)奉行所が三つ?
すでに多くの方がご存知の通り、江戸には南北二つの奉行所があった。通常は奉行所のことを「御番所」と言った。南は現在の数寄屋橋内、北は呉服橋内であった。しかし、元禄十五年(1702)に中町奉行所が東京駅八重洲口付近にできた。しかし、この中町奉行所は17年後の享保四年(1719)に北町奉行所に合併させられた。南北二つの奉行所は一ヶ月交代で門を開けて訴えを受け付けた。非番になると大門を閉じていたが、仕事をしなかったわけではない。前月のやり残しの事件処理にあたった。また、両奉行所同士で「内寄会(うちよりあい)」という連絡事項の回覧や相談書を交わしていたが、細部までは協定がされておらず、訴人は有利な扱いをしてくれる御番所へ、その月番を待って願い出ることもあったという。

(6)与力、同心の数
両奉行所にはそれぞれ25騎の与力と120人の同心が配属されていた。そして、与力は南北合わせて50人が一万石の知行地をもらい、200石づつ分けた。そのほかには、諸大名からの付け届けがあった。これは、その藩に属する者が問題を起こしたとき「よろしく頼む」という賄賂の性格があったが、中期以降は公然と奉行所内で受け取るようになっていった。また、馬上で指揮をしたので「騎」と数えるようになった。200石といえばれっきとした「旗本」であったが、罪人を捕らえる手の汚れたという意味で「不浄役人」と呼ばれ、登城もかなわなかった。同心は三十表二人扶持の御家人であった。ちなみに、同心を数える時は「人」。

(7)南北奉行所・・・どっちが偉い?
南町奉行所の方がやや格が上だったのである。遠山の金さんでおなじみの遠山左衛門尉景元は、天保11年(1840)、はじめ北町奉行に任命されたが、数々の手柄をたてたため、上役(老中)の引き立てもあり、嘉永年間(1846~)に南町奉行に「出世」した。しかし、役高はどちらも3000石だった。

(8)定町廻り同心の範囲
次のサイトの「墨線(ぼくせん、黒線とも呼ばれた)」範囲でした。しかし、時代とともに奉行所としての管轄範囲は広がりをみせています。
定町廻り同心の範囲  http://bungetsu.obunko.com/newpage507.html

(9)割合平穏
与力と同心は世襲制で、加増も栄転もまったくなかった。住まいも八丁堀の官舎住まい。「不浄役人」と言われ、一般の旗本や御家人などとの交際も「まれ」だった。縁組も同じ役職者に頼るほかはなかったので、幕末までに、ほとんどの与力、同心は親戚関係になったといわれている。また、凶悪犯罪は、多くて年に数回だったことと「火付盗賊改」がいたので、町奉行所は割合平穏な日々だった。

(10)奉行所付近の火事
奉行所または奉行所近辺で火事があると、髪結床が駆けつけた。「梅床」だとか「亀床」などという印のある提灯を持ち、「駆けつけ、駆けつけ」と大声で叫びながら奉行所に向かった。もちろん、この声を聞くと(現代の救急車みたいなもので)皆、道を空けたという。奉行所の書類は普段から箱に詰めて、麻縄が掛けてあったので、どんどん運び出したという。なぜ、髪結床だったのか?実は、髪結いの仕事は大変な力仕事だったのだ。武士の髪を結うには、髪を束ねて、鬢(びん)付け油を塗って、手首に力を入れて・・・と、かなりの力が必要だった。だから、男の髪結いが多かった。したがって、奉行所の火事には力のある髪結床が選ばれたのだ。では、大工も力仕事ではないか・・・。確かに、しかし、大工は仕事場がバラバラで結束しにくい。そこへいくと、髪結床は店を構えていて一箇所にいてくれたので集合しやすかった。

こんにちは。
私は、自称「歴史作家」です。

まず、「与力」と「同心」の成り立ちからお話しをすると、

与力

(1)徳川家康が天正18年(1590)に小田原征伐での軍功として、豊臣秀吉から関東(江戸)の地を与えられた際、家臣であった板倉勝重が武蔵国新座郡・豊島郡で1,000石を給され、関東代官、江戸町奉行となり、駿府の地から騎馬武者(約10名位)を呼び寄せ、江戸の治安の維持に当たらせたことが最初と言われています。

当然板倉家の家臣として主人の手伝いをしていたと思われますが、その仕事の性格上...続きを読む

Q足軽が戦に参加する理由

戦国時代の足軽は、主に農民だったと聞いたのですが、彼らは何故戦に参加したのですか?

現代と価値観が違うにしても、防衛本能があるでしょうし、死に対する恐怖があったと思います。にも関わらず参加した(せざるおえなかった?)理由はなんでしょうか?

村社会で、一人でも参加しない人がいたら気づく人が必ずいるからでしょうか?

Aベストアンサー

戦わないと死が待っていたからです。

日本の武士はそもそも「土地は個人財産」という永年墾田私財法が関わっています。この法律は現代でも深くかかわっていて、日本は世界的に公共への土地収用がものすごく難しい国のひとつです。

武士と言うのは、個人所有になった荘園などを守るために貴族たちが「傭兵を雇って土地を守る」ことからスタートしたわけですが、武士たちは集団を作るにしたがって、自分たちも土地の開墾を始め、開墾領主となって実力者になる人もでてきたわけです。つまり武力と土地持ち、という二つの後ろ盾があるから武士の勢力は強くなった、といえます。

しかし、平安時代までは法律は朝廷が作りました。貴族が工作して武士に不利な法律を作り、傭兵やほかの武士を雇って、撃退すれば自分たちで開墾した土地でも明け渡すしかなかったわけです。

こういうのがあまりにも頻繁に起こるので、鎌倉幕府ができて、武士たちは「自分たちの土地は自分で守る(一所懸命)になったのです」

この鎌倉幕府、というのは簡単に言えば「みんなでみんなの土地を守る集団安全保障」でありました。
幕府は棟梁として、朝廷と対峙できるようにして、御家人と言われた実力者たちは各地の領地を守りつつ、幕府が呼び出せば戦争に駆け付けたわけです。

各地の領地のなかも御家人を棟梁として、末端の村まで組織されていました。昨年の大河の真田家は元は武田家に仕えた国衆で小県という地域を支配し、その下にも家来が居て、家来は自分たちの土地をもち、小作人など土地を耕す農民たちを保護していたわけです。

鎌倉時代から戦国時代までは彼らの身分は不安定であり、自分たちの土地を守るために半農半兵であるのが普通でした。

このような安全保障体制ですから、鎌倉幕府は「通常は君たちの土地を守れるように政府として目を光らせるから、政府に敵対する勢力が来たら、全力で戦え」と言う約束をしていたわけです。

これが、足軽も参戦する大きな理由で、国衆や土豪と言われるレベルの人たちだと「戦争参加時には馬を○頭、共周りを○人、雑兵相当を○人」と割り当てられていました。ですから真田家の家来ぐらいの人たちは自分の領地の人たちに「お前たちの村が安全なのは真田様のおかげで、真田様は鎌倉様に従っているから、鎌倉様のお呼び出しがあれば、お前たちも戦に参加するんだぞ」ということなっていたわけです。

これが兵役としての税であり、この税を納める前提だからこそ、幕府は成り立ち、各地の領地人や、その下の農民は安心して暮らせたわけです。

逆をいえば、この呼集に応じないと、土地が奪われてしまうわけです。小さな村で「いや誰も戦争には行かねえ」といえば、今度は山賊などから守ってもらえなくなります。隣村との水争いなんかでも「お前んところは足軽も出さないんだから、水をやる必要はないだろう」ということになるわけです。

直接的に脅したりしなくても、権力者が「分たちの土地を維持するために必要な協力」をしてくれなければ、自分たちの土地を守ることができない、と言う仕組みになっていました。

だから「戦わないと死が待っていた」といえます。誰か足軽でもなんでも出して従軍すれば、領主はちゃんと土地や残された家族を守ってくれます。うまく手柄を立てれば、土地が広がったり士分に取り立ててくれるかもしれません。でも、足軽すら出さないなら「お前の土地を守る必要はない」ということになり、警察がきちんと機能しなかった時代では、土地争いで負ければ家族全員が路頭に迷って死ぬしかなかったのです。

つまり「戦争で死ぬのは足軽として参戦した自分だけ、でもそれを拒否すれば、土地も奪われて家族全員野垂れ死に」だったから、戦争に参加したといえます。もちろん足軽で参戦した家の年貢は免除されたり割引されたりしたでしょう。

でもそれは結果であって、何で参戦したか、というと土地と家族を守るためだった、ということです。

戦わないと死が待っていたからです。

日本の武士はそもそも「土地は個人財産」という永年墾田私財法が関わっています。この法律は現代でも深くかかわっていて、日本は世界的に公共への土地収用がものすごく難しい国のひとつです。

武士と言うのは、個人所有になった荘園などを守るために貴族たちが「傭兵を雇って土地を守る」ことからスタートしたわけですが、武士たちは集団を作るにしたがって、自分たちも土地の開墾を始め、開墾領主となって実力者になる人もでてきたわけです。つまり武力と土地持ち、という...続きを読む


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