キリスト教カトリックの最大の会派は、今でもイエズス会とありました。

イエスのみの一神教で、多神教を信望する者は異端とし迫害するくらいの唯一神。であるならば、聖母マリアはどんな位置付けなのでしょうか?。
またゼウス・マリアと江戸時代の仙台のキリシタン信者は弾圧の際にも「マリア」を最大の保護者として祈った。

唯一神であるならば、イエス様だけを祈ると推察されます。

クリスチャンの方には申し訳ありませんが、江戸時代の背景も含ませて、マリアの位置付けを知りたいのです。
しろうとだと緩やかな多神教に思えてなりません。

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A 回答 (15件中1~10件)

No.6です。



私の前の回答は、やや言葉足らずでした。

私はクリスチャンではないので、現代のキリスト論を語るつもりはありません。

ただ、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教が唱える一神教というのは、それぞれの教義が確立した当初は「万能なる神」のみを信仰とするべきで、他の対象を信仰することは、信仰対象のズレをもたらしかねず、認められないものでした。(神を見立てた肖像画・彫刻も、神ではなく、その絵や彫像そのものが信仰対象となる恐れがあるとされ、認められなかったのです。)

それが、言葉の通じにくい他民族や教育を十分受けていない人たちへの普及のために分かりやすく、既存のものとオーバーラップさせる必要があったために、絵や彫像への信仰を認めたり、土着の母性信仰とオーバーラップさせるためにマリア信仰を黙認したり、という教義の解釈を現実に沿って微妙に変えてきました。

・・・という時代の経過と共に信仰対象が拡大され、現代の解釈とは大分違うものでした。

そのため、「マリアの位置付けを知りたいのです。
しろうとだと緩やかな多神教に思えてなりません。」という質問に対して、本来一神教であったキリスト教が、そうでない人々に教えを広めるために、多神教も母性信仰も取り込めるような柔軟な教義解釈に変わったんですよ、という点をお伝えしたかったとご理解ください。
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この回答へのお礼

二回目の書き込み有り難うございます。

皆様の真摯な書き込みに頭が下がります。

お礼日時:2006/08/01 06:23

私、一番問題なのはこういう議論に宗教者が加わる事だと思っています。


何度も宗教家に「宗教史学」的な質問をした事がありますが、結局のところ「彼自身の信仰心」が学問的な目を曇らされている事に気づくだけでした。客観的な考察が全く不可能なのです。やむを得ない事ではありますが。

かといって、宗教心のない人間で、それだけ熱心に宗教史学を研究する人も少ないようなんですね。

「客観的にマリア信仰の変遷を知りたい」という質問者さんの力に、もう少しなれればいいのですが。そう言う意味では出来るだけ「信仰の篤い人の意見」はご遠慮願えればと思います。
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この回答へのお礼

二回目の書き込みに感謝します。(No,9)

質問者の私としては、難しい領域に入ってしまった感があり早めに、このトビを閉めます。

 とても勉強になりました。熱心な信者の方には申し訳ありませんでした。正確な教えは後日、直接問い合わせしてみます。
されど、Scull様がおっしゃる発言は、恐れながら同感の部分が少しあります。けっして信心している対象をどうこう語るのは良い気分にはなれないと思います。

ただ歴史考察の範疇で客観的に、「何故?」の感覚で問い合わせしたのです。

不毛な宗教論争に立ち入る気はなく、一般社会人の素朴な教養程度故の質問でした。
書き込みして頂いた方々に改めてお礼申し上げます。

お礼日時:2006/08/01 06:33

キリスト教に限らず、現在まで存続している古来よりの宗教は、いずれも当初の教義から変質してきているようです。


経典の解釈の仕方も時代、聖人によって違うようで、その聖人(僧)が説いた教えが新たに宗派となって枝分かれし、今日に至っているため、原理主義と呼ばれる一派以外は大抵、始祖とはイコールでない教義を信奉していることになります。
(厳密には原理主義もイコールではありませんが)

よって、一神教であるはずのキリスト教が、マリアその他の聖人を崇めることに抵抗を示すプロテスタントという一派が興り、比較的寛容に偶像崇拝を受け入れはじめていたカトリックと対立した、というのが二者のスタンスであったと記憶しております。
gartさまのおっしゃる通り、「それは多神教・偶像崇拝にあたるのではないか」という反発がキリスト教内部から起きたという事だと思います。

つまり、同じ宗教の中でも、一神教、偶像崇拝に対する意見がさまざまに別れ、議論が繰り返されているのが現状であるという事になります。

マリアの位置付けを把握するのは中々難しいようです
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この回答へのお礼

素朴に、しろうとの質問でしたつもりでしたが、皆様が真剣に回答して頂き恐縮してしまいます。

この質問で、当初の「多神教」では?、という素朴な疑問はgartなりに解決できました。

お礼日時:2006/08/01 06:40

 クリスチャンといってもプロテスタントの多くの宗派はキリスト以外の崇敬を禁じていたりします。


マリアに祈りを唱えるのはカトリックの特徴かもしれません。
 私も昔、同じ様な質問を神父様にした事があります。判りやすく、その時の回答を説明します。

 聖母マリアはその母性を以って崇敬の対象にしています。決して崇拝の対象ではありません。
 キリストは三位一体の理を以って神と同一です。マリアは人間性を持ったキリストにとって母となります。マリア無くしてキリストの存在はありませんし、現在のキリスト教もなかったでしょう。私たちは神の子でもあり、その母マリアは私たちの母でもある訳ですから、母マリアを崇敬するのは当然だと思います。
…とのことでした。

しかし、崇敬の念が崇拝になってしまってはいきすぎです。そういった信者が多いのも事実でしょう。
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この回答へのお礼

コメント有り難うございました。

かなり良いヒントになりました。

お礼日時:2006/08/01 06:36

直接の回答ではないのですが、以下の点について気づいたことがあるので投稿することにしました。



> イエスも神様の使途にすぎない、という表現は印象的です。

「使途」は、おそらく、「使徒」のことだと思うのですが、使徒というのは、例えばGoo国語辞書(http://www.goo.ne.jp/)によると、「キリストの福音を伝えるために遣わされた者。…」とあります。(少なくとも、キリスト教では)イエス様が当のキリストなわけですから、「イエスも使徒にすぎない」といってしまうのでは(肝心の「キリストの福音」がなんであるのか曖昧になってしまうので)大いに問題があると思います。

イエス様が神様である、ということは、カトリックであれ、多くのプロテスタントであれ、キリスト教の中でとても重要な部分だと僕は思います。

> 三位一体の説ならば、人であり聖人であり完全な神である。
> しかしイエスは神格化される前は「神の子」と名乗るが、神ではない。

もしかしたら、質問された方は、イエス様が、預言者、聖人、神様であることを三位一体と言うと考えておられるのではないでしょうか。(すでに No.7の方が書かれているように)三位一体の三位は、父なる神、子なる神(イエス様)、そして、聖霊なる神のことです。

> クリスチャンの方には申し訳ありませんが、…

僕は、このような質問こそ、お近くのカトリックや、プロテスタントの教会で神父なり、牧師なりに直接尋ねられてはいかがかと思います。経験的に言って、おそらく、このような質問はむしろ歓迎されると思います。

僕はカトリック信者ではありませんが、例えば、教皇なり、マザーテレサなり、毎日聖書を読んでお祈りしている多くのカトリック信者が、本音と建前でカトリックの信仰をもっていると言ってしまってよいのか、非常に疑問を感じます。
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この回答へのお礼

有り難うございます。

直接問い合わせしてみます。

お礼日時:2006/08/01 06:35

《ルカの福音書 1:46-55》


46 マリヤは言った。「わがたましいは主をあがめ、
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48 主はこの卑しいはしために目を留めてくださったからです。ほんとうに、これから後、どの時代の人々も、私をしあわせ者と思うでしょう。
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ここからきているものだと思います

参考URL:http://www.asahi-net.or.jp/~HN3Y-SRT/mes/m2005_1 …
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この回答へのお礼

有り難うございました。マリア様は謙虚で、その霊性は主である神を口にするのも恐れ多い人々には、親しみやすい存在として憐みを持って、信じる心の中に存在すると言いたいのですネ。
あえて神の名を出さずとも、ゼウス・マリアと親しみやすく言える存在の彼女の超自然的霊的存在があるので、全ての信仰はつじつまが合う、と言いたい気がしました。

お礼日時:2006/07/29 20:38

イエスが神格化したのは、死後相当経ってからですね。


それ以前のイエスは「神の子」とは名乗りますが、「神ではない」と言えます。三位一体、マリア信仰、こじつけて信仰されている各種聖人、あまたある「記念日」(聖書をひもときますと、イエスは「過ぎ越し祭」以外の祭日を祝うなといっています)。

「キリスト教原理主義」という言葉があるように、相当のキリスト教(特にカトリック)では本来の「イエスの教え」とかけ離れた信仰になっていると言えるでしょう。

正に「本音と建て前は違う」です。
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この回答へのお礼

本音と建前は違うのですネ。

三位一体の説ならば、人であり聖人であり完全な神である。
しかしイエスは神格化される前は「神の子」と名乗るが、神ではない。

時代変遷があって解釈が違うわけですネ。

神は人間が考え出したもの故に概念は、大きく解釈しておかないといけないのでしょうネ。

有り難うございました。しばらく反芻してみます。

お礼日時:2006/07/29 06:43

ものすごく簡単に言いますと


「本音と建前は違う」
という事になります
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この回答へのお礼

単純に「なるほど」と思います。

お礼日時:2006/07/29 06:38

勘違いしている方もいるようですが、キリスト教ではイエスも神です。


人間でしかない預言者とは区別されます。
しかしイエスは神ですが父なる神も存在する事になっています。
また聖霊なる神も存在します。
しかし3つの神が存在するわけではなく、神はあくまで一つです。
かといってイエスが神の分身とか化身というわけでもなく、父・子・聖霊のどれも完全なる
神であるとされています。
これを三位一体といいます。
マリアや聖人への崇敬はもとより唯一神そのものへの捉え方も、
キリスト教はユダヤ教やイスラム教に比べて、複雑な要素をはらんでいるわけです。
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この回答へのお礼

有り難うございます。なかなか複雑ですネ。

お礼日時:2006/07/29 06:37

江戸時代のクリスチャンには詳しくないのですが、キリスト教そのものの一神教について言うならば、厳密にいうと、イエスも神様の使途にすぎませんので、一神教たるキリスト教の信仰対象ではありません。



イエスではなく、彼が伝えたとされる「神の言葉」と神そのもののみが信仰されるべきなのです。

なので、キリスト教の原則としてはイエス=キリストの肖像画や彫像も絵や像そのものが信仰対象になるということで、禁止されていました。

ただ、キリスト教が民族を越えて普及されるために、もともとその民族が持っていた土着信仰と結びつけるのが一番手っ取り早かったので、モノが信仰の対象になっていたらそれをキリストと結びつけたり、女性を重視していた民族宗教に対しては、信仰の対象となっていた女性とマリアを重ねて同一視させるといった手法が用いられました。
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この回答へのお礼

イエスも神様の使途にすぎない、という表現は印象的です。
他の回答者の意見を重ねて、納得してしまいます。

お礼日時:2006/07/29 06:35

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●サント・マリー・ドゥ・ラ・メールの村に「黒いサラ」伝説がある。
●教会の祭壇には聖母マリア像があり、その真下に続く階段を降りるとたくさんの蝋燭の向こうに黒い肌をした像・サラがあった。
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http://sisyphe.blog90.fc2.com/blog-entry-51.html
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あなたのおっしゃるように、キリスト教でも本来、偶像を拝んではならないのです。これを行うのは、主にカトリック教会です。そもそも、カトリック教会は十戒の本文も変更しています。つまり、十戒に関する戒律を外しているのです。

もちろん、カトリック教会には、それなりの言い訳・言い分があります。自分たちがこれまでに築いてきた伝統を捨てることができないーーたとえば、ルターの時代の免罪符(今の時代はあれは間違っていたとされていて、ない)を発行し、これを得れば救われるーーということがまかりとおっていました。
今の時代も、偶像礼拝は偶像自体を神とすることがいけないのであって、本当の神様をあらわすモノまで禁じるものではないーーという考えです。
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あなたのおっしゃるように、キリスト教でも本来、偶像を拝んではならないのです。これを行うのは、主にカトリック教会です。そもそも、カトリック教会は十戒の本文も変更しています。つまり、十戒に関する戒律を外しているのです。

もちろん、カトリック教会には、それなりの言い訳・言い分があります。自分たちがこれまでに築いてきた伝統を捨てることができないーーたとえば、ルターの時代の免罪符(今の時代はあれは間違っていたとされていて、ない)を発行し、これを得れば救われるーーということがまかりと...続きを読む

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