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タイトルの通りなのですが、ボスニア紛争中、日本がしたことは何ですか?
ボスニア紛争が勃発する数ヶ月前に生まれた私は、今まで紛争について知ることは全くありませんでした。最近になってヨーロッパでこんな紛争があったんだ、と知るようになり、興味を持ち始めました。
そこで質問なのですが、日本(政府)がボスニア紛争のためにしたことは何ですか?(日本は何かしましたか?)支援とかでしょうか。上手く言えなくて申し訳ないです…。
また、紛争が終わってから10年以上も経ってしまった現在ですが、今私たちにできることというのはあるのでしょうか。これから私たちが考えていかなければならないこと(紛争・戦争、平和についての課題)とは何なのですか?今現在、ボスニアがどういった状況で、何を望むのかも知りたいです。
上記の質問内容だけでなく、ボスニア紛争についての情報・雑学などでも結構です。いろいろ言ってしまってすみません。お願いします。

A 回答 (3件)

ボスニア紛争に関しては、どの人種に肩入れしても問題がおきそうということで、日本政府は「不介入」という態度をとることにしたようです(もちろん政府としては何も言っていないが、当時の新聞などのマスコミはそう報じていた)。



でも、例えばオーストラリアのように難民をたくさん受け入れるとかの方法もあったと思いますけどね。
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おおむね、No.1さんの回答にあるとおりですが、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争については、ユーゴスラビア紛争というより大きな視点からも、見る必要があります。


(参考:『ウィキペディア』-『ユーゴスラビア紛争』http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A6%E3%83%BC% …

で、結論としては、軍事力をもつNATOがユーゴスラビアの内戦に介入するまで、紛争に決着は着きませんでした。
自衛隊という実質的な戦力はもっていても、戦闘地域への派兵を禁じている日本にできることは何もなく、日本が何かできるとすればイラクに自衛隊を派遣したように、戦後復興にどれだけ協力できるかです。
(イラクについては、武装したテロ組織や民間人が騒いでいるだけなので、戦闘地域ではありません。単に治安が悪い地域です)

和平を達成するに当たり、NATO軍が治安回復を担当し、大きな成果を上げました。
国民的な議論が必要ですが、日本がより世界の紛争解決に貢献したいのであれば、こういう治安維持業務にも積極的に携わる必要があるでしょう。
(ただし、復興支援とは違いドンパチの最前線に出ますので、死傷者が出る確率はかなり高まるでしょう。そのリスクを、日本が背負う覚悟があるかどうかです)

それから、No.1さんの回答でも触れていますが、セルビア人には周辺民族に対する強い敵愾心があり、これは歴史にもとづく非常に深くてセルビア人にとって辛い事情があります。
簡単な経緯は以下のURLにありますが、セルビア人がもつ深い恨みはこんな簡単に説明できるものではないみたいです。

参考:『セルビアの領土拡大』http://ww1.m78.com/map/serbian%20map.html

当面はNATOが睨みを聞かせることで紛争を起こさせないようにし、長期的には歴史的な感情を解きほぐす処置が必要となるでしょう。(具体的プランは、今は思いつかないのですが)
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ボスニア問題は、長い歴史を持った問題です。


その事を考えずに、手を出しますと、かえって問題をこじらせます。

今から1200年ほど前、ヨーロッパのキリスト教世界は、ローマカトリックと、正教会とに分裂しました。
その地に広く住んでいた南スラブ族の真ん中で、教会領の堺が設定されました。

北のクロアチア、スロベニアは、カトリック地域となり、南のセルビアは、正教地区となりました。
ボスニアは、東西両教会の中間地帯になり、両教会の争奪の地となりました。

ボスニアの地は、山間部が多く、また係争地でもあったため、どちらの教会も、決定的支配ができませんでした。

そんな場所に、正教会の地区で弾圧された異端ボゴミール派の人達や、ボゴミール派の影響を受けて生まれた南フランスやイタリアのカタリ派の人達が移り住むようになり、ボスニアにはボスニア独自の「ボスニア教会」が成立します。
1000年ほど前の話です。

クロアチアを支配したハンガリーと、セルビアは、ボスニアをめぐり争います。
ボスニア人も両国の支配に抵抗して戦い続けます。

500年ほど前に、バルカン半島にトルコが進出してきます。
セルビアは、トルコに滅ぼされ、ハンガリーは大半の地がトルコに奪われます。
この時、トルコのバルカン支配に協力したのが、ボスニア教会で、トルコ支配の後、イスラムへ改宗します。

そのため、ボスニアの地に、多数のイスラム教徒が存在することになります。

トルコの力が弱まると、ボスニアは、ハンガリーを併合したオーストリアと、トルコから独立したセルビア間の
争奪の地となります。

この抗争が、第一次世界大戦へとつながります。

第一次世界大戦後、南スラブ人の地は、ユーゴスラビアとして独立します。
(セルビア=クロアチア王国)

第2次大戦では、ドイツがクロアチアの分離独立をはかり、クロアチア人と結び、セルビア人を大虐殺したり追放したりして、その土地や財産を奪います。
この時にボスニア人も、ナチスに加担します。

セルビア人には、この時の記憶がはっきりと残ります。

第2次大戦がドイツの敗北で終結すると、ユーゴの地には、ナチスに抵抗したチトー大統領の政権が成立します。
チトー大統領自身は、クロアチア人でしたが、新生ユーゴすラビアは、セルビア色が強く出て、ボスニアやクロアチアをセルビア人が支配する形となりました。

チトー大統領の死後、セルビア色は、さらに強まり、ソ連崩壊を機に、スロベニアやクロアチアで、独立機運が高まります。

東ドイツを併合して、自信を強めるドイツは、第2次大戦中の友好国クロアチアの独立を承認します。
この事は、セルビア人に、第2次大戦中の被害を呼び覚まし、クロアチア独立阻止のために、ユーゴ軍の投入となります。

ドイツに引きずられる形で、NATO軍がクロアチアを支援し、戦闘の拡大阻止(実質はクロアチア支援)のために乗り出します。
この時、セルビア軍の虐殺(民族浄化)などが報じられましたが、同じ事をさらに大規模に推し進めたのが、クロアチアでした。

クロアチア領内で、セルビア人が多数派を占めていたクライン地方に、クロアチア軍が侵攻し、セルビア系住民の虐殺、土地や財産の搾取が、大々的に行われました。
ユーゴ軍は、そりを阻止しようとしますが、NATO軍に阻止され、クラインからセルビア人は一掃されます。

この事は、セルビア側に強い危機感を植え付けます。

クロアチアの次にボスニアの独立が問題になると、セルビア側の危機感は、さらに高まり、ボスニアの独立阻止に全力を投入します。

ボスニアでの最大勢力のムスリム人(人口の40%)は、ムスリム人主体の国家の成立を目指します。
それに対し、セルビア人(人口の32%)は、ボスニア独立阻止をかかげ抵抗します。
クロアチア人(人口の20%)は、ムスリム人優位の状況に反発し、3つ巴の内戦になってしまいます。

反ユーゴ・セルビアのドイツを主体とするNATO諸国は、ボスニア人とクロアチア人の対立・内戦は、非常に都合が悪いため、両者の調停を必死で行います。
その時利用されたのが、セルビア人の残虐行為でした。

残虐行為は、ムスリム人もクロアチア人も行っていましたが、西側メディアの力にはかなわず、セルビア人だけが悪者にされてしまいました。

ボスニアは、結局独立しますが、内部にセルビア人共和国を抱える事となります。

ボスニア問題の解決のためには、日本は不用意に介入しない事が必要だと思います。
ボスニアに関して、日本で流れた報道のほとんど全てが、欧米経由の偏向された情報でした。
まず、その偏向された情報を正し、真実を見る事が必要です。
そのうえで、セルビア人の世界各国に対する不信を拭い去る必要があります。
西欧からの支援が有るボスニア地区ばかりではなく、セルビア人地域へのインフラの支援などを積極的に行い、セルビア人の世界各国への不信感を拭い去る事が重要だと思っています。
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