私の友人に、文学・歴史・芸術方面の才能(感性・言語表現能力)は、ほとんど天才的なのに、
数学は苦手という人がいます。
ランボーは数学はまったくダメであったと何かで読みました。
近いところでは江藤淳さんが、やはり数学は苦手であったと記憶します。前から不思議に思って
いたのですが、数学的な才能と文学的な才能は両立しないのでしょうか?両立しないとしたら
それはなぜだと思いますか?

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A 回答 (5件)

mori0309さんの言われている「才能」というのが何を指しているかが、まずはっきり分かりませんので、いちおう以下のように2つのパターンを考えてみました。



1.「才能」=「天才」
歴史に名を残すほどのレベルの才能について言われている場合。
とりあえず細かい業績はインターネットなり書籍なりで興味があれば調べていただくとして、古代ギリシアの偉大なる哲学者たち(アリストテレスとか)あるいは、中世ヨーロッパの偉大なる哲学者たち(デカルトとかライプニッツとか)は同時に偉大なる数学者でもあります。(世間的にはどちらかというと哲学者の肩書きに重きが置かれていますが。)
万能の人と呼ばれたレオナルド・ダ・ヴィンチもまた、文理両刀の人です。
また、そこまでの天才でなくても、例えば「パラサイト・イブ」の著者、瀬名さんは、東北大学薬学部の大学院生時代にくだんの作品を執筆していますので、まあそれなりとはいえ、文理の才能を兼ね備えていると言えましょう。
要は天才のことですから、「可能」と言えば(ある程度は)何でも可能なのでしょう。ただ、それをやりたいと思わなければ、その天才の能力も世間には公表されずに歴史に埋もれて行くのでしょう。

2.「才能」=「(例えば)東大に行けるレベル」
これなら、私の周りにも何人もいます。ただ、創作、創造と覚えることは全く別物ですよね。このレベルは「覚える」才能がメインなので、対象が芸術、文学であろうが、数学であろうが、興味があればやれる人はいくらでもいます。

さて、しかし、一般的に周りを見渡すと、なかなか文理両刀の人物はいません。
何故かというと、私が思うに、
「興味が持てない」
に尽きると思います。
現代科学によれば、数学的思考(論理)と文学的思考(感情)は左右異なる脳に支配されています。
なので、どっちかが発達すると、もう一方も発達させるのは、凡人ではなかなか難しいのかな、と。
右利きか左利きはいっぱいいますが、両利きはあんまりいないですよね。それと同じことじゃないでしょうか。

この回答への補足

atsuotaさん、いつも回答ありがとうございます。小生はatsuotaさんたちキラ星マスターの話が
聞きたくてせっせと質問しているようなものです。atsuotaさんは自由人博士かと思ったら、企業
戦士(または起業勇者?)だったのですね。

> 偉大なる哲学者たち(デカルトとかライプニッツとか)は同時に偉大なる数学者でもあります。
文学的才能とはズバリ「詩才」のことだと思うのですが、歴史上、大詩人でかつ大数学者という人は
いるのでしょうか? 哲学は「論理」の世界の知能活動なのでは?

> どっちかが発達すると、もう一方も発達させるのは、凡人ではなかなか難しいのかな
理性と感性。自然の補償作用はどちらか一方の肥大化を嫌うような気がするのですが、、、
たわいない私的経験ですけど、以前、喫茶店で雑誌を漫然と読んでいたら、ある大学生の手記に雷に
打たれたように感動してしまい、(恥ずかしい話ですが)涙がボロボロ溢れ出してしばらく動けません
でした。そして、しばらくたったら今度はまったく違う自分が「立ちあがって」きて、
「今のはなんだったんだ」と猛烈に自己分析を始めました。
自意識(自己?)のフォーカスが脳のなかの感性領域から理性領域へ移ったのでしょうか?
文と理。感情と論理。感性と理性。芸術と学術。これも小生にとって興味のつきないテーマです。
あたらしい切り口の質問を思いついたらまた投稿しますので、よろしくお願いします。

補足日時:2001/01/01 16:40
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またまたnonkunです。



> 数学者は数学の問題を「映像」的・「絵」的にとらえているのでしょうか? 

数学者の例ではないのですが、ベンゼン環の構造を発見したときは夢の中で蛇がお互いに尻尾を噛んでいる図が浮かんだそうです。(ネタ。という説もあるけれど。)

しかし、明らかに数学的な思考では処理できない速さで回答を導く人もいます。これは文学的思考で処理してるのでしょうね。

もうこの処理方法は理屈じゃない。
というか理屈で判るなら数学的思考回路で処理できるはず。それが出来ないから文学的思考回路で処理するのです。

> 『脳のなかは数学的思考(論理)領域と文学的思考(感情)領域に分かれている。
> しかもそれが
生物の進化史のなかで自然にできた』
> なんという神秘的なことかと思います。

この宇宙(真実在世界)には「論理」と「感情」が
先験的に存在するのでしょうか? 自分(または心)とは何なのでしょうか? 論数学的思考は安定してるけれど(論理的だから)処理は遅い。文学的的思考は不安定だけど(感情的だから)無限の可能性を秘めていると思います。

それ以降についてはこの場ではここまでとして別の機会で議論しましょう。
別の質問をしたときには駆けつけます。

> こういうことを考え出すと、夢中になってしまい、仕事も上の空です。(いい年なのに、トホホ)
> こんな小生に、ときどき相手をしてやってください。よろしくお願いします。

私こそ相手をして頂いてありがとうございます。

#仕事が上の空ぐらいならまだいい。
#だって私には仕事がないのだから。(自爆)
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この回答へのお礼

nonkunさん、再回答ありがとうございます。
「数学的思考回路」ならばコンピュータで実現可能のような気もします、、、、、???
「文学的思考回路」って、いったいどうなっているのでしょうね。人間の頭のなかで実際に起こっているの
だから、コンピュータで実現することも不可能ではない、、、、、、、???
そういえば、「天才数学者は結論や真理を直観的につかんでしまう。証明の糸口を見つけて整理するのに
時間がかかるだけなのだ」と何かの本で読んだことがあります。
『直感』:これには文系とか理系とかいう別はないのでしょうね。『直感』の脳のなかのしくみって、どう
なっているんでしょう。これこそ21世紀のコンピュータ科学のテーマですね。
(あのー、これは再質問ではないです)

お礼日時:2001/01/03 19:47

脳みその使う部分が違うだけで、決して両立しないことは


ないと思います。右手が使うのが得意、左手が使うのが
得意、んで両手を同じ様に使える人もいるぐらいなもの
でしょう。

この回答への補足

popesyuさん、回答ありがとうございます。
自我なり意識のフォーカスが理性領域に常駐している人と感性領域に常駐している人と、ふたつのタイプが
あるような気がします。花を見て、花のしくみ・構造に興味を持ってそれを解き明かそうとする人と、
花が漂わせている情趣を感じ取って絵を描いたり俳句を作ったりする人と、両者の目指すものは正反対では?
両方の精神傾向をつねに同じ強さで保ち続けるというのは、無理のような気がするのですが。

補足日時:2001/01/03 19:32
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数学者でノーベル文学賞を取ったバートランド・ラッセル,数学者でイラストのほうがはるかに有名なM.C.エッシャー,例をあげれば切りがありません.


経験的には
「(多少の)数学的才能と(多少の)芸術的才能は両立しない」
「(真に天才的な)数学的才能と(真に天才的な)芸術的才能」は両立すると思います.

この回答への補足

tullioさん、回答ありがとうございます。
atsuotaさんの回答への補足にも書かせていただいたのですが、私は文学的才能とは「詩才」のことでは
ないかと思っています。大詩人と言って思いおこされるのは、私の場合、杜甫、李白、ゲーテ、ランボー、
西行、柿本人麻呂などです。大詩人で大数学者という人は、いないように思うのですが、どうでしょう?
ちなみに私の考える「詩才」とは、『物事の情趣や印象から、その内在本質を直感的にとらえ、それを
説明的叙述ではなく音楽的言語表現によって、他者へ伝えることのできる才能』です。

補足日時:2001/01/03 19:16
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atsuotaさんのおっしゃるように



> 数学的思考(論理)と文学的思考(感情)は左右異なる脳に支配されています

ということでどちらの脳が主になってるか従になってるかで得意な分野が違ってきます。

しかし数学的思考で名をあげた人には少なからず文理両刀の人がいます。。しかし、その人は文学的思考の脳が優勢です。
ではどうやって数学的思考をするかというと、数学を頭の中で映像として捕らえるのです。この映像として捕らえるというのは理解しづらいと思いますので例をあげますと、

本を読むとき
字面を追うのではなく、目に入った本そのものを文字と一緒に記憶してしまう。
ということです。

こうすることで処理量が飛躍的に増加するといわれています。

この回答への補足

nonkunさん、回答ありがとうございます。
数学者は数学の問題を「映像」的・「絵」的にとらえているのでしょうか? どのような抽象概念も
「映像」や「絵」で表現可能なのでしょうか? 演奏家が楽譜を見るだけで頭のなかに音楽を
鳴らすことができるように、数学者も数式や論理式を見るだけで、頭のなかにテーマやイメージが
くっきりと描かれるのでしょうね。

『脳のなかは数学的思考(論理)領域と文学的思考(感情)領域に分かれている。しかもそれが
生物の進化史のなかで自然にできた』
なんという神秘的なことかと思います。この宇宙(真実在世界)には「論理」と「感情」が
先験的に存在するのでしょうか? 自分(または心)とは何なのでしょうか? 論理世界の賜物?
感情世界の賜物? それとも「論理」と「感情」を左右の大臣のように従える超越者?
こういうことを考え出すと、夢中になってしまい、仕事も上の空です。(いい年なのに、トホホ)
こんな小生に、ときどき相手をしてやってください。よろしくお願いします。

補足日時:2001/01/01 17:06
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Q数学の得意な人・数学の天才にお聞きしたい

私は数学が嫌いというかセンスがないのでどう比べてもわからないのでお聞きしたいのですが、数学オリンピックに出題される問題のレベルと、例えば東大・京大等の理系のトップ校で出題される数学の問題のレベルはどうなんでしょうか。
(1)大まかに言ってどちらが難しいか。
(2)前者で満点を取れる人が後者で満点が取れる確率とその逆の確率はどんな
   ものか。
(3)どっちでいい成績を残す方が将来的に数学者として伸びるか。
(4)それらに対するには数学の勉強方法はかなり異なるか。
「東大理3」とかいった本を読んでいると「数学すきでオリンピックでたけど、数学でメシを食っていくには受験数学とは違った才能がないと・・・」とかいった感想がたまに見られますが。 また、ピーター・フランケルとか秋山仁なんて人は、大学入試問題はどれでもサラサラとこけてしまうんでしょうか。数学オンチの好奇心です。

Aベストアンサー

東大入試の数学は普通の進学校の採用している程度の数学の教科書に従って勉強している人が対象なので、それらに従って十分理解を深めていれば問題なく合格点がとれます(満点を狙うとなるとちょっと違った次元になりそうですが)。京大は若干ひねった問題が出る確率が高いというイメージがありますがよく知りません。
一方で数学オリンピックの問題は数学の好きな人が、数学を目的に普段からの鍛練(?)をしていないとなかなか高得点にはいけそうにないと昔問題を見た時は思いました。
多分、東大理系の人に数学オリンピックの問題を解かせても多くの人はまともな点数にならないと思います。逆に数学オリンピックで高得点をとった人が普通に大学入試の勉強をして、東大入試の数学で合格点に及ばないと言う事はほとんどないと思います。そういった意味で数学オリンピックの方が難しいだろうと思います。

ちなみに私の知り合いで数学オリンピックの合宿にまでいったというなかなかに凄いやつがいましたが、大学に入ってからあんまし勉強してなかったので数学で結構ひどい成績をとってました。十分勉強してればやっぱり凄かったのかも知れませんが、もしかすると数学オリンピックでは若干求められている方向性が違うのかも知れません。

ピーターフランクルはちょっと分かりませんが、秋山仁は受験生向けの講座とかもよくTVなんかでやってますよね。大学入試の問題は結構パターン化されているので、そういう人は入試問題についてはほとんどの問題をスラスラと解くと思います。

一方、数学オリンピックが初めて話題になったころ、東大だか京大だかの数学科の教授達がインタビューを受けていましたが、「あの問題解けますか?」の問いに「まず解くことはできる。ただ、制限時間をつけられると間に合うかは分からない。」といった感じの答えで笑ってました。

ちょっと漠然とした回答になってしまいましたが、御参考までに。

東大入試の数学は普通の進学校の採用している程度の数学の教科書に従って勉強している人が対象なので、それらに従って十分理解を深めていれば問題なく合格点がとれます(満点を狙うとなるとちょっと違った次元になりそうですが)。京大は若干ひねった問題が出る確率が高いというイメージがありますがよく知りません。
一方で数学オリンピックの問題は数学の好きな人が、数学を目的に普段からの鍛練(?)をしていないとなかなか高得点にはいけそうにないと昔問題を見た時は思いました。
多分、東大理系の人に数...続きを読む

Q数学のセンスや才能また進路についてです。

私は高校1年の男です。
私は数学が好きです、できれば大学も理学部数学科などに行きたいと思っています。
私は中学1年のときは数学が苦手で10点を連続で3回取ったりしていました、でも中学2年の終わりごろの証明の範囲あたりになって急に数学ができる+面白くなってきました。
学校の先生も10点からいきなり97点になったのでとても驚いていました、自分もです。
そのころからずっと数学は好きなままでテストでもほとんど100点をずっと取ってきました。
でも、大学の数学などになると今までの努力なんかよりセンスや才能のほうが大事だと聞きます。
有名な数学者もみんな若いうちから才能があったりした人たちばかりです。
これは本当に数学が好きなのとは違うのかもしれませんが、もし数学科とかに行くんであればやっぱりフェルマーの最終定理を解いたワイルズさんまでいかないにしても、証明などすごいことがしたいと思っています。
才能と言うもの事態よくわかりませんがくやしいけど自分に才能と言えるものは感じません、ただテストの問題を解いたりするのが得意なだけの人です。
そんな私が数学科などに行ってうまくやっていけるでしょうか?
また、才能があるかないかと言うのはどうやったら分かるでしょうか?

長くなってすいません。意見を聞かせてください、よろしくお願いします。

私は高校1年の男です。
私は数学が好きです、できれば大学も理学部数学科などに行きたいと思っています。
私は中学1年のときは数学が苦手で10点を連続で3回取ったりしていました、でも中学2年の終わりごろの証明の範囲あたりになって急に数学ができる+面白くなってきました。
学校の先生も10点からいきなり97点になったのでとても驚いていました、自分もです。
そのころからずっと数学は好きなままでテストでもほとんど100点をずっと取ってきました。
でも、大学の数学などになると今までの努力なん...続きを読む

Aベストアンサー

若い男性なんですから,やりたいと思う事があるなら,勇気を出して存分にやって下さい.尻込みせずに・・・.自分の思う通りにやるべきです.

失敗を恐れていては,何も前に進みません.進歩もしません.失敗した時は,失敗した時・・・.失敗も一つの進歩のうちなのです.

失敗を恐れず,やりたい事に勇敢に挑戦してこそ,結果がでる,というものです.尻込みをして,何もやらず,平々凡々で一生,歳を重ねて行きますか? それで気が済むなら,それも一つの人生ですが・・・.

やりたい事をやらずに年を取って,後悔してもはじまりません.人の人生なんてものは,無駄と失敗の連続です.人間は,そんなに効率よく一生を送れる様には出来ていません.

一生を通じて数学をやろうとする場合には,まず第一に,「数学が大好き」でなければ続きません.「好きである」ということも才能の一つなのです.

質問者さんは,数学的センスや才能にこだわっていますが,数学が本当に好きなのであれば,センス・センス,才能・才能と,こればかりにこだわる必要はありません.こだわってみた所で,数学的センスや才能が伸びたり,生まれでるわけでもありませんから.

好きならば,やる! ただ,それだけの決断でいいのです.

ただ,人間には,「ヒラメキ」というものがあります.「ヒラメキ」を全く持っていない人間と,「ヒラメキ」を持つ人間が確かに居ます.この「ヒラメキ」は,科学,芸術,など,全ての人の営みに共通に現れます.これを,数学的センスや才能と呼ぶのであれば,「あ! そう」と言うだけです.

誰であれ,好きな分野を必死に一生懸命やれば,必ず道は開けます.お金や名誉も伴って来ます.人生とは,そういうものだと私は思っています.

世間の名のある数学者と雖も,その殆どが自分の専門分野しか理解しておりません.自分の専門分野以外は,全く分かりません.そう言う人がほとんどです.それでいいのですが・・・.

これに関して,私に,以下のような経験があります.
十年ほど前,某学術専門誌に論文を投稿しました.投稿論文を受理されて,やがて論文番号が付けられた,査読結果が文書で郵送されて来ました.その査読者,曰く,「『橋』とは,何ぞや??」.これを見た私は愕然としました.『橋』も知らない人が論文の査読をやっていたのです.『橋』とは,「グラフ理論」の専門用語です.専門のはずれた査読者だったようです.

少し脱線しましたが,「好きこそ,ものの上手なれ」と申します様に,好きで数学に進んで行けば,広い数学の分野の中には,質問者さんに,ピッタリあった数学分野が必ず見つかるでしょう.

数学の未解決問題も山ほどあります.そのどれか一つに挑戦するのもいいでしょう.

そして,数学に進むなら,是非,英語で文章(論文)が書けるように修行・努力する事が賢明です.

大学院まで行って学位(修士,博士)を必ず取得する事も必要です.才能が有っても,学位が無いと世間に通用しません.

中学校の数学教師程度で終わるなら,大卒(学士)だけで,博士号など特にいりませんが・・・.

とめども無く,乱筆・乱文で失礼致しました.質問者さんのご健闘,ご幸運を祈り,筆を置きます.

若い男性なんですから,やりたいと思う事があるなら,勇気を出して存分にやって下さい.尻込みせずに・・・.自分の思う通りにやるべきです.

失敗を恐れていては,何も前に進みません.進歩もしません.失敗した時は,失敗した時・・・.失敗も一つの進歩のうちなのです.

失敗を恐れず,やりたい事に勇敢に挑戦してこそ,結果がでる,というものです.尻込みをして,何もやらず,平々凡々で一生,歳を重ねて行きますか? それで気が済むなら,それも一つの人生ですが・・・.

やりたい事をやらずに年を取っ...続きを読む

Q数学科の大学院卒の方々は就職後、数学をあきらめるのか?

数学科の大学院では、研究者向けの内容を勉強していていると思います。
研究者になれる人はまれで、ほとんどが挫折して、就職していくと思います。
就職先では、たとえ数学を使う仕事であったとしても、大学院での内容とは完全に異なると思います。

社会人になると、そのような仕事のために、時間と情熱を使い、数学を勉強し続けたくても、現実には困難と思います。

実際、数学科の大学院卒の方々は就職後、数学をあきらめるのでしょうか?

あきらめないにしても、どのような数学の方向性を目指していらっしゃるのでしょうか?

Aベストアンサー

 基礎数学にせよ応用数学にせよ、その気になれば就職口はあります。

 知り合いの後輩で、今年度ソニーに就職した人がいます。
 大学院時代の専攻は符号理論で、楕円暗号の研究をしていたとか。

 他、大規模科学計算の必要なところなら、電子回路の設計にせよ、大規模な統計処理にせよ、プラント設計におけるモデリングにせよ、いろいろと仕事はあります。
 No. 1 さんの仰るような金融商品のデザインや、株価動向の解析(いわゆる経済数学、経営工学など)といった仕事もあります。

 それらの経験を通じて、やがて大学に戻るというキャリアを積む人もいますよ。
 中には趣味レベルながら内容的には高水準の基礎数学の研究を続けている人だって居ます。

 大学等で数学の研究職に拘って生きている人は極めて稀ですが、数学に触れ続けるだけなら数学科卒でなくてさえ可能だと思います。
 就職する人だって、挫折して研究者の途を諦めた人ばかりではありません(再受験などを経て、別の分野で研究職を目指す人もいるくらいですし)。

Q京大と東北大、理学部数学科ではどちらに進むべきか。

将来、数学の研究(数論)もしくは数学科の教員になりたいと思っています。

京大では理科と英語が勝負といわれていますが、実際に過去問を解いてみると理科は化学は6~7割と安定していますが、物理が5~6割しかとれません。英語は7割、その他は普通です。

そこで質問ですが数学科へ進学するにおいて、京都と東北どちらがいいのでしょう。

また、数学科ではどちらのほうがよりいいのでしょうか?
(具体的には、担当教授がこちらのほうがいいとか、○○大のほうがいい教授がいるなど・・・)

また、その他の条件、たとえば経済的問題等はクリアしているとお考えください。

以上、よろしくお願いします。

Aベストアンサー

ただいま大学祭真っ最中の京都大学と東北大学の理学部ですか。
部外者だけど、ありきたりの回答として好きな教授の本や理論で決めてみたら、と思います。
全国的な知名度で京大を推す人が多いとは思いますが。

東北大は解析学の柳田教授、代数の花村教授、幾何学の塩谷教授とか
こと数学に関しては特に素晴らしい先生方・スタッフを揃えていますから。
(大学生活に戻れるならば、こんな先生方の下で改めて数学を勉強してみたいのですが)

一方、京大も幾何学の深谷教授やマリアヴァン解析の重川教授もいるし、
国内でも有数の理学部です。
ということで上述したとおりあなたが学びたい教授で決めても良いのでは?

その前に現在の学力も重要な選択要素となるから。
やはり偏差値では京大理学部が勝っていますので、模擬試験の結果をみて
決めてください。

私のような歴史好きな人間ならば、長年都であった京都という町で、哲学の道の
ベンチで座りながら数学を勉強したいという気持ちがあるので京大かな。
それに世界の美術を数多く鑑賞できる(日本でも有数の美術館や博物館がある京都の町
を選ぶという本来の学問とは別の視点から大学を選ぶ、という選択肢も考えます。

数学の理論構成に行き詰ったときに、世界的な絵画を見ながらひらめくこともあるので。
京都の町は次から次へと世界的な名画展が開催されているので。
意外と、こんな考え方も選択肢のなかでは重要な要素を占めると思いますが。

ただいま大学祭真っ最中の京都大学と東北大学の理学部ですか。
部外者だけど、ありきたりの回答として好きな教授の本や理論で決めてみたら、と思います。
全国的な知名度で京大を推す人が多いとは思いますが。

東北大は解析学の柳田教授、代数の花村教授、幾何学の塩谷教授とか
こと数学に関しては特に素晴らしい先生方・スタッフを揃えていますから。
(大学生活に戻れるならば、こんな先生方の下で改めて数学を勉強してみたいのですが)

一方、京大も幾何学の深谷教授やマリアヴァン解析の重川教授もいるし、
...続きを読む

Q大学院の修士課程と博士課程の違いは?

大学院の修士課程と博士課程の違いは?
博士はドクターと言うことですが
修士は?
勉強の内容が違うんですか?
そもそも大学院は何を勉強するところですか?
分かりやすく教えてください
よろしくお願いいたします

Aベストアンサー

過去の回答を見て、
私の時とはひょっとして
いろいろ制度が変わったのかしら?
と首をかしげているのですが

文科系の学科では、修士課程は2年、博士課程は3年が
一般的だったと思います。
ただし、それは大学によっても違いますし、
私大と国立によっても違います。
たとえば修士課程を、博士課程前期と言い換えて、
いきなり博士課程5年にするところもあります。

決して何年でも在籍できるわけではなく、
大学によって全4年なり全8年なり、
限度はあります。

学生(学士過程)では
授業(講義)を受けることにより
研究作業の訓練を習得しますが、
大学院では訓練で習得したことを生かして
主体的な研究作業をします。

つまり、学士では一般常識と同時に、
大なり小なり教授や助教授の方法論や
研究成果やを学びますが、

大学院では、より主体的なテーマを設定して、
研究を発展させていきます。
(大学によってはチームで研究することもありので
あくまで、個人的研究ではなく、主体的研究です。)

ただ修士の場合は、一方で、
学士と同じように講義を受けなければなりませんので、
(学士と一緒に受ける場合もあるし、修士のみの授業もある)
大学院でも初等的な訓練もしなければならないということでしょうか。

博士になると講義そのものはありませんが、
大学によっては出させてくれるところもあるようです。
また、教授や助教授の研究のお手伝いをしたり、
講義のお手伝いをしたり、
愛犬の散歩をしたりします(笑)

実質的な違いは、はやり名声とお金という
殺伐とした話になります。

たとえば大学の役職は教授職、助教授職、講師、助手などがありますが、
たとえば教授職になるための条件の一つとして、
博士号を修めていることなどがあります。
助手や、まれに講師職でしたら修士程度でも
雇ってくれるところはあります。

またたとえば、同じ助教授職でも、
雇用契約書によっては博士と修士の間に
給与の面で差をつけるところなどもあります。

就職難の今日では大学院へ行く人が多いようですが、
大学院に在籍しているからといって、
就職できないわけではありません。

たとえば、修士課程を受けながら、
ほかの県の予備校などで高校生相手に
受験勉強を教えている方など
いっぱいおられます。
中には昼は大学院で、夜は建設業(ドカタと言ったほうがいいかも)の方もおられます。

終戦で勉強したくてもできなかった
おじいちゃんやおばあちゃんがいる大学院も
中にはあるんじゃないでしょうか?

いずれにせよ、大学院過程は
大学によって違うし、
文科系、理科系によってもちがうし、
国立、公立、私立などの違いもあるでしょうから、

一番よいのは、志望する大学に問い合わせて
(たいていの大学院はパンフレットを発行していて
そこに研究方針やしくみなど詳しく書かれてあります)

場合によっては、教授や助教授を
直接たずねられてみてはいかがでしょうか。

最後にこの情報は何年も以前のうろ覚えですので、
今現在はこれが性格かどうかは責任もてませんが・・・

がんばってね。

過去の回答を見て、
私の時とはひょっとして
いろいろ制度が変わったのかしら?
と首をかしげているのですが

文科系の学科では、修士課程は2年、博士課程は3年が
一般的だったと思います。
ただし、それは大学によっても違いますし、
私大と国立によっても違います。
たとえば修士課程を、博士課程前期と言い換えて、
いきなり博士課程5年にするところもあります。

決して何年でも在籍できるわけではなく、
大学によって全4年なり全8年なり、
限度はあります。

学生(学士過程)では
授...続きを読む

Q学問(勉強)に才能(センス)は、(ある・ない)?

私自身ずっと疑問だったことがあります。

東大、京大へ行くには才能がいると聞かされたことがあります。

プロの野球選手やサッカー選手などは才能(センス)がないとなれないのは事実だと分かります。

そこで、みなさんは学問(勉強)に才能(センス)はあるとお思いですか?
○ある・ない
○その理由を教えてください。

アンケート的なものですがよろしくお願いします。

Aベストアンサー

本の内容を一読で記憶できるとか、そういった特殊な才能が無くても東大・京大に入ることは可能です。全ての東大生・京大生がそんな能力持っているなんてことはありませんからね。中にはそんな人もいるかもしれない、でも受験生の総数と比較すれば無視できる数しか存在しません。ほとんどの人は、周りより少しお勉強の出来る普通の人でしかないはずです。

じゃあどうやって周りより少しお勉強が出来るようになるのか?私は、単純に「勉強に費やす時間×効率×その他の条件」を大きくすれば良いだけだと思います。ですから我々一般ピープルにとって勉強に必要な才能とは、どれだけ勉強に時間を費やせるかという点に関わる才能(知的好奇心?人によっては苦行に耐える力?)、どれだけ効率良くそれをこなせるかに関わる才能(集中力とか、情報収集能力とか?)が大半となるはずです。そういった意味では勉強に才能は必要だと言えます。その他の条件というのは、親の収入であったりとか、切磋琢磨し合える仲間との出会いであったりとか色々あるでしょう。でもこれはある意味所与の条件なので…才能とはまた違うものですね。

以上、若造の戯言でした。

本の内容を一読で記憶できるとか、そういった特殊な才能が無くても東大・京大に入ることは可能です。全ての東大生・京大生がそんな能力持っているなんてことはありませんからね。中にはそんな人もいるかもしれない、でも受験生の総数と比較すれば無視できる数しか存在しません。ほとんどの人は、周りより少しお勉強の出来る普通の人でしかないはずです。

じゃあどうやって周りより少しお勉強が出来るようになるのか?私は、単純に「勉強に費やす時間×効率×その他の条件」を大きくすれば良いだけだと思います。...続きを読む

Q東大理IIIって天才なんですか?

それとも思ったほどたいしたことないんですか?

Aベストアンサー

私は文Iですが、友人が何人も行ってましたね。
世間一般から見れば「天才」だとか、「宇宙人」だとかとよく言われてますが、そもそも、普通の人からそう見える位のレベルだから、東大というものが尊重されるのでしょう。
逆に、一般人から見て大したことがないと思われる位なら「東大」という威厳と存在価値が無くなってしまいます。
確かに、頭の回転は結構速かったですが、私としては、特別ずば抜けてた訳でもないように思えます。
傾向としては、一般人と論理思考が違うということと、事務処理能力とスピードが超一級品だということですかね。
英文とか、数学の公式とかは、普通の人が1時間掛けて覚えることを、彼らは2~3分で大体の要旨を理解してしまうんですね。
私も、そんなに差は無かったですが、そのあたりは流石だという感じでした。
ただ、理IIIに行った中でも、駿台とかで大体10番以内に入ってた人と、合格可能性が50%くらいだった人とでは大分違いましたね。
後者の人たちは、私より下だったから別に特別に思いませんでしたが、前者の人は、頭の出来がやはり違ったように思います。
現代国語や、日本史などは、いつも競ってましたが、数学はちょっと・・・って感じでした。
私も、数学オリンピックに出て、国内ではメダル取りましたが、国際大会で上位に入る人には敵いませんでしたね。
長々となってしまいましたが、結論から言うと、一般人とは頭の出来が違うということ、上位で受かる人たちはまさしく「天才」という言葉に嘘はないということです。

私は文Iですが、友人が何人も行ってましたね。
世間一般から見れば「天才」だとか、「宇宙人」だとかとよく言われてますが、そもそも、普通の人からそう見える位のレベルだから、東大というものが尊重されるのでしょう。
逆に、一般人から見て大したことがないと思われる位なら「東大」という威厳と存在価値が無くなってしまいます。
確かに、頭の回転は結構速かったですが、私としては、特別ずば抜けてた訳でもないように思えます。
傾向としては、一般人と論理思考が違うということと、事務処理能力とスピー...続きを読む

Q高校の教科書が理解できていれば大学数学に接続できますか

大学の数学についていけません。
質問のとおりですが、高校の数学の教科書が理解できていれば大学数学に接続できるのでしょうか(具体的には理工系の基礎シリーズなどの基本的な微積や線形代数の参考書が読めるくらい)。
今後数学が必要なのですが、ほとんど出来ないので高校レベルまで戻ろうと考えています。受験で使わなかったので(数学の偏差値は45くらいでした)高校数学は穴だらけです。教科書は捨ててしまったので、シグマの「これでわかる数学」で教科書レベルの理解を目標にしようと考えています。

Aベストアンサー

ANo.1のコメントについて、繰り返しっぽくなりますけど…

> 教科書レベルがわかれば初歩的な数学の参考書くらいなら読めそうでしょうか。

 大学で学ぶ数学には、高校数学で習うような計算のスキルはさほど重要ではないので、高校数学が万全に出来ることは必須ではありません。そして、同じ理由により、高校数学が万全に出来てもスイスイ分かる訳じゃありません。いやむしろ、高校数学の問題集を凄いスピードでこなす練習を積んで来た人ほど、却って苦しむんじゃないでしょうか。というのは、なじみのない新しい概念が次々と出て来るからです。
 喩えるなら、高校数学は、ルールが決まっているゲームを極めるようなもので、定石を憶えるのは当たりまえ。これに対して、大学の数学はいろんな種類のゲームを次々にやるようなもので、全種類のゲームについての(定石を憶えるどころか)ルールすら憶え切れないけれど、参考書でルールを調べてもいいから、ともかくそれを使えることが重要。そして、本格的な数学になるとルールそのものを自分で作り出して行くから、参考書は自分で書くしかない。

> 大学生として通用する数学力が欲しいと思ってやっています

 「大学生として通用する数学力」あるいは将来「大学卒として通用する数学力」とはどんなものか。もちろん学部・学科に依ります。ですが、これから何らか専門課程を学び、研究をやる。あるいは就職したとします。で、余程特別な分野でない限り、それらの仕事に必要な数学のほとんどは高校数学までで充分間に合います。たまに間に合わないものが出て来たら独習すれば良い。重要なのはその独習ができることで、これこそが大学卒に求められる学力でしょう(数学に限った話ではないですけど)。
 ところで、実務における独習では時間の余裕がなくて、必要な所を必要な時に補うしかなく、きちんと分かるところまでは行かないまでも、とにかく進まねばならない。
 そういうやり方を早いうちに経験して、いざとなれば独習で間に合うという自信を付けておくのは貴重だと考えます。で、その題材として、受講なさっている講義はうってつけでしょう。全部は分からないにしても、一部分だけでも分かるようになるまで頑張ることが(それで得た知識自体はどうでも良いんですが、ナントカ達成できたという経験こそが)大切でしょうね。

ANo.1のコメントについて、繰り返しっぽくなりますけど…

> 教科書レベルがわかれば初歩的な数学の参考書くらいなら読めそうでしょうか。

 大学で学ぶ数学には、高校数学で習うような計算のスキルはさほど重要ではないので、高校数学が万全に出来ることは必須ではありません。そして、同じ理由により、高校数学が万全に出来てもスイスイ分かる訳じゃありません。いやむしろ、高校数学の問題集を凄いスピードでこなす練習を積んで来た人ほど、却って苦しむんじゃないでしょうか。というのは、なじみのない新...続きを読む

Q研究者になるのに大学名は関係ないですか?

以前どなたかの質問に対する回答でほとんどの回答者が研究者になるのは大学名は関係ないと言われていましたが、本当にそうなのでしょうか?
極端な話、Fランク大で超優秀な学生がいたとして、論文もIFの高い学術雑誌にのせています。その学生が旧帝大の助教に採用されるということは現実的に無いような気がします。学生は自分の大学より偏差値の低い大学出身の教員を嫌う傾向は明らかです。
建築設計の分野では高卒で東大名誉教授の安藤忠雄さんみたいな例はありますが、研究者データベースなんか見ると圧倒的に東大・京大が多い感はあります。私学なんかは自大学出身の研究者は少ないですよね?
要するにやはり東大や京大出身のほうが研究者になりやすいのではないか?完全実力主義ではなく大学名も影響するのではないかという疑問です。どうなのでしょうか?

Aベストアンサー

あなたの質問には2つあります。

1)助教採用
僕は東大卒ではないですが、東大と共同研究したときの経験からするに、やはり数式展開力が凄いと感じました。偏差値の低い大学の人を嫌う以前に、偏差値の低い人が高いそういう人たちを相手にして、本当に教えることができるのか疑問が沸きます。

2)研究者と大学名
東大京大卒の方がなりやすいと思いますね。偏差値教育の権化で序列化されたのですから、頭の良い人に研究してもらった方が良い結果が出る期待は高いので、官僚もそういう人に国の研究費を託したいと思うに違いないと思います。

ただ良い研究成果と大学名が影響するのかと言えばあまり関係無いと思います。青色LEDを開発した徳島大学卒の元日亜化学の中村修二さんは立派な成果を出しています。幾多もいた東大卒京大卒ですら最初に作れなかったのですから。

偏見ですが東大京大卒の人は人の意見を聞く人が少なく独自性に走りたがります。勉強はできても創造力実現能力が高いかと聞かれると低くように思えます。良い研究成果は企業からも多く出ているように感じます。

Qタナトフォビア(死恐怖症)の症状を抑えたいです。

現在23歳、大学3年で就活が間近に迫っている男です。

昨年(2010年)の年末から、死んだら自分はどうなってしまうのだろうという思いがほぼ四六時中、頭から離れなくて心身共に疲れています。

小学校に入学するかしないかの頃から、ふとした瞬間に、死んだら自分はどうなってしまうのだろうと考えて得体も知れない怖さを感じることが度々ありましたが、寝るなどしてしばらくしたら治まっていました。

しかし、今回はすぐに治まらず、死んだら自分の意識は無くなってしまうのだろうか、「無」は何なのだろうか、何の為に生きているのだろうかとか、宇宙について考えてしまったりして、ここ数日は朝になるまで寝られず、起きている間も考えてしまいます。恐怖や絶望を感じてしまい、食事も無理をして行っている感じがします。情けないですが、自分の部屋で声を殺して泣いてしまうこともありました。

また、母親(60代前半)もいつか死んでしまって、火葬が行われるであろうことも考えてしまい、家で母親の顔を見ただけでも、涙が出そうになってしまいます。ニュースなどで人が死んだことを聞いても、その人について考えてしまいます。

先日、ネットで調べて「タナトフォビア」という言葉があることを知り、自分もそれを発症していると思い、ここのような相談サイトを見て回ったのですが、理論的な理解はできても、感情をなかなか抑えられません。少し落ち着いているときと考え込んでしまうときが交互に来ている状況です。

10代の時に強迫観念症(これが正式名かどうかはわかりません)を複数発症したこともありました。(元々、そのような病気になりやすいのだと思います。)そのときは病院には行かず、程度の差はあれ、自分で症状を改善しました。

心が休まりません。どうすれば、タナトフォビアの症状を抑えられるのでしょうか。

強迫観念症の件で家族には迷惑をかけてきており、また、今回は対象が「死」ということもあり、家族には話していません。なので、ここで質問させていただいた次第です。

長文かつ乱文で申し訳ございませんがよろしくお願いします。

現在23歳、大学3年で就活が間近に迫っている男です。

昨年(2010年)の年末から、死んだら自分はどうなってしまうのだろうという思いがほぼ四六時中、頭から離れなくて心身共に疲れています。

小学校に入学するかしないかの頃から、ふとした瞬間に、死んだら自分はどうなってしまうのだろうと考えて得体も知れない怖さを感じることが度々ありましたが、寝るなどしてしばらくしたら治まっていました。

しかし、今回はすぐに治まらず、死んだら自分の意識は無くなってしまうのだろうか、「無」は何なのだろうか、...続きを読む

Aベストアンサー

今晩は。

症状を抑えるのも大事かと思いますが、うまく付き合う、それもひとつの解決策かと思いお返事します。

強迫性障害を持っています。死が対象だったことがあります。
死に捉われ、苦労はしましたが、お陰で意識がとても変わりました。
その経験をお伝えします。

なぜ死に捉われるのかから探りました。
実は身近に死が沢山溢れていることに対し感覚がそれを捕らえていることに気付きました。
だから意識が「死」から離れない。死を感じる結果、それを強く意識してしまう。
だから病気だ、というよりも単純に感性が鋭い事が原因なんだろうと思いました。
感性が豊かな人なら大なり小なりタナトフォビックであろうとも今は思っています。
死、はいかなる人であれ未知です。
DNAからは死を避ける行動を取るように恐怖という感情を引き起こすよう書き込まれています。
それなので死=恐怖は自然な感情です。ところが死が溢れているがゆえにいつまでも繰り返し
恐怖を引き起こす、どこかで麻痺するのが通常なんでしょうけれど、麻痺しないことが苦痛となる。
麻痺しないことは間違ってはいないと思うので病気だとは考えません。
ただ麻痺しないから困っている現状がある、それをまず客観的に捉えられるようにしました。

そこで繰り返し引き起こされる恐怖への対処法を考え、実行しました。

何をしたかというと、死、の反対を探したんです。
誕生ですね。意識して、意識を向けた結果、溢れる死と同じように
生命の誕生を至る所に感じられるようになりました。
毎日、毎秒、ありとあらゆる生命が生まれている一方で、死んでいく。
繰り返し、繰り返し、です。その感覚を得てはじめて万物流転をきちんと理解できた気がします。
自分の身に起こる死もまた、肉体が解体され、流転する。自然の流れなんだろうと。
そこに魂を信じる気持ちがあれば、輪廻転生も有り得る事とも思いました。

その一方で、死からも学びを得ました。何よりも如何に命が儚いか、です。
だからやはり誠に、生きて存在しているということ事態が奇跡なのだと知りました。
一期一会という言葉の持つ真の意味に触れることが出来たのも、死を思ったが故に。
今は昔、全ての時計に書いてあった言葉だそうです。メメントモリ(死を想え)と。
その昔は今で言うタナトフォビアが当たり前だったのかも知れませんね。
ちなみに朝生まれ、夜死す、それが繰り返されて日々となる、という考えもありますね。
なによりも人は思ったよりも簡単に死んでしまうものなので
限られた日々を一所懸命生きなさい、という智慧なのでしょう。

いつか必ず死にます。死後の世界の話で困るのは、結局死んでみないことには判らないですし、
折角まだ生きているのに、知りたいから今死のう、というのも違います。
なので死後の悩みは死後のお楽しみとしてひとまず置いておきませんか?
死後も意識が継続していましたら、その時にあらためて考える、としておいて
意識が無かった時は諦めよう、としてみましょう。
問題の死への概念ですが、死の意識を振り払うことは大変です。
だったら死に対してポジティブな意識を持つように意識を変えてみませんか?

私の辿った道のりです。
身近に溢れる命が死んでゆく、その切なく脆い命が故に、命に対しての愛おしさに繋がった。
儚さゆえの愛おしさだとしても、溢れる息吹に感じ入り、懸命に生きる大切さが
死を感じるが故に繰り返し伝わってくる。
その時にはじめて死の概念がそのまま命への慈しみへと変わりました。

残された日々を大切な人たちといとおしみ、生きる。それはかけがえのない日々となるでしょう。
命を見送り、自分の最後の時には、素晴らしい人生を過ごせれた、と悔いなく死ねるでしょう。
思い残すことが無いから安心して自らの命を自然へ帰す。
そんな心を最後の時に持てるよう日々、命を燃やして生きていきたい。
それこそが、死を想うが故に苦しみを生むことに対しての最大の対処法として
僕が今、まさしく実践中の毎日です。

繰り返しますが、命は儚いものです。お母様を想う気持ちは慈しみでしょう。
慈しむ思いがあるのですから、まずはお母様への慈しみの行動を取ってみましょう。
具体的に、日々の感謝の気持ちを手紙としてお渡しするのも良いでしょう。
あなたの笑い顔を見せることも、もちろんとても喜んでくださるでしょう。
何も出来そうになければ、ただ、傍に居る、たったそれだけでもとても大きな喜びでしょう。
愛情こそ、死への恐怖から解き放つ何よりのものではないでしょうか。

私事ばかりで恐縮ではありますが、何か拾えるものがありましたら何よりの喜びです。
長々とお付き合い、ありがとうございました。

今晩は。

症状を抑えるのも大事かと思いますが、うまく付き合う、それもひとつの解決策かと思いお返事します。

強迫性障害を持っています。死が対象だったことがあります。
死に捉われ、苦労はしましたが、お陰で意識がとても変わりました。
その経験をお伝えします。

なぜ死に捉われるのかから探りました。
実は身近に死が沢山溢れていることに対し感覚がそれを捕らえていることに気付きました。
だから意識が「死」から離れない。死を感じる結果、それを強く意識してしまう。
だから病気だ、というよりも単純...続きを読む


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