あなたの習慣について教えてください!!

私の友人に、文学・歴史・芸術方面の才能(感性・言語表現能力)は、ほとんど天才的なのに、
数学は苦手という人がいます。
ランボーは数学はまったくダメであったと何かで読みました。
近いところでは江藤淳さんが、やはり数学は苦手であったと記憶します。前から不思議に思って
いたのですが、数学的な才能と文学的な才能は両立しないのでしょうか?両立しないとしたら
それはなぜだと思いますか?

A 回答 (5件)

mori0309さんの言われている「才能」というのが何を指しているかが、まずはっきり分かりませんので、いちおう以下のように2つのパターンを考えてみました。



1.「才能」=「天才」
歴史に名を残すほどのレベルの才能について言われている場合。
とりあえず細かい業績はインターネットなり書籍なりで興味があれば調べていただくとして、古代ギリシアの偉大なる哲学者たち(アリストテレスとか)あるいは、中世ヨーロッパの偉大なる哲学者たち(デカルトとかライプニッツとか)は同時に偉大なる数学者でもあります。(世間的にはどちらかというと哲学者の肩書きに重きが置かれていますが。)
万能の人と呼ばれたレオナルド・ダ・ヴィンチもまた、文理両刀の人です。
また、そこまでの天才でなくても、例えば「パラサイト・イブ」の著者、瀬名さんは、東北大学薬学部の大学院生時代にくだんの作品を執筆していますので、まあそれなりとはいえ、文理の才能を兼ね備えていると言えましょう。
要は天才のことですから、「可能」と言えば(ある程度は)何でも可能なのでしょう。ただ、それをやりたいと思わなければ、その天才の能力も世間には公表されずに歴史に埋もれて行くのでしょう。

2.「才能」=「(例えば)東大に行けるレベル」
これなら、私の周りにも何人もいます。ただ、創作、創造と覚えることは全く別物ですよね。このレベルは「覚える」才能がメインなので、対象が芸術、文学であろうが、数学であろうが、興味があればやれる人はいくらでもいます。

さて、しかし、一般的に周りを見渡すと、なかなか文理両刀の人物はいません。
何故かというと、私が思うに、
「興味が持てない」
に尽きると思います。
現代科学によれば、数学的思考(論理)と文学的思考(感情)は左右異なる脳に支配されています。
なので、どっちかが発達すると、もう一方も発達させるのは、凡人ではなかなか難しいのかな、と。
右利きか左利きはいっぱいいますが、両利きはあんまりいないですよね。それと同じことじゃないでしょうか。

この回答への補足

atsuotaさん、いつも回答ありがとうございます。小生はatsuotaさんたちキラ星マスターの話が
聞きたくてせっせと質問しているようなものです。atsuotaさんは自由人博士かと思ったら、企業
戦士(または起業勇者?)だったのですね。

> 偉大なる哲学者たち(デカルトとかライプニッツとか)は同時に偉大なる数学者でもあります。
文学的才能とはズバリ「詩才」のことだと思うのですが、歴史上、大詩人でかつ大数学者という人は
いるのでしょうか? 哲学は「論理」の世界の知能活動なのでは?

> どっちかが発達すると、もう一方も発達させるのは、凡人ではなかなか難しいのかな
理性と感性。自然の補償作用はどちらか一方の肥大化を嫌うような気がするのですが、、、
たわいない私的経験ですけど、以前、喫茶店で雑誌を漫然と読んでいたら、ある大学生の手記に雷に
打たれたように感動してしまい、(恥ずかしい話ですが)涙がボロボロ溢れ出してしばらく動けません
でした。そして、しばらくたったら今度はまったく違う自分が「立ちあがって」きて、
「今のはなんだったんだ」と猛烈に自己分析を始めました。
自意識(自己?)のフォーカスが脳のなかの感性領域から理性領域へ移ったのでしょうか?
文と理。感情と論理。感性と理性。芸術と学術。これも小生にとって興味のつきないテーマです。
あたらしい切り口の質問を思いついたらまた投稿しますので、よろしくお願いします。

補足日時:2001/01/01 16:40
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またまたnonkunです。



> 数学者は数学の問題を「映像」的・「絵」的にとらえているのでしょうか? 

数学者の例ではないのですが、ベンゼン環の構造を発見したときは夢の中で蛇がお互いに尻尾を噛んでいる図が浮かんだそうです。(ネタ。という説もあるけれど。)

しかし、明らかに数学的な思考では処理できない速さで回答を導く人もいます。これは文学的思考で処理してるのでしょうね。

もうこの処理方法は理屈じゃない。
というか理屈で判るなら数学的思考回路で処理できるはず。それが出来ないから文学的思考回路で処理するのです。

> 『脳のなかは数学的思考(論理)領域と文学的思考(感情)領域に分かれている。
> しかもそれが
生物の進化史のなかで自然にできた』
> なんという神秘的なことかと思います。

この宇宙(真実在世界)には「論理」と「感情」が
先験的に存在するのでしょうか? 自分(または心)とは何なのでしょうか? 論数学的思考は安定してるけれど(論理的だから)処理は遅い。文学的的思考は不安定だけど(感情的だから)無限の可能性を秘めていると思います。

それ以降についてはこの場ではここまでとして別の機会で議論しましょう。
別の質問をしたときには駆けつけます。

> こういうことを考え出すと、夢中になってしまい、仕事も上の空です。(いい年なのに、トホホ)
> こんな小生に、ときどき相手をしてやってください。よろしくお願いします。

私こそ相手をして頂いてありがとうございます。

#仕事が上の空ぐらいならまだいい。
#だって私には仕事がないのだから。(自爆)
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この回答へのお礼

nonkunさん、再回答ありがとうございます。
「数学的思考回路」ならばコンピュータで実現可能のような気もします、、、、、???
「文学的思考回路」って、いったいどうなっているのでしょうね。人間の頭のなかで実際に起こっているの
だから、コンピュータで実現することも不可能ではない、、、、、、、???
そういえば、「天才数学者は結論や真理を直観的につかんでしまう。証明の糸口を見つけて整理するのに
時間がかかるだけなのだ」と何かの本で読んだことがあります。
『直感』:これには文系とか理系とかいう別はないのでしょうね。『直感』の脳のなかのしくみって、どう
なっているんでしょう。これこそ21世紀のコンピュータ科学のテーマですね。
(あのー、これは再質問ではないです)

お礼日時:2001/01/03 19:47

脳みその使う部分が違うだけで、決して両立しないことは


ないと思います。右手が使うのが得意、左手が使うのが
得意、んで両手を同じ様に使える人もいるぐらいなもの
でしょう。

この回答への補足

popesyuさん、回答ありがとうございます。
自我なり意識のフォーカスが理性領域に常駐している人と感性領域に常駐している人と、ふたつのタイプが
あるような気がします。花を見て、花のしくみ・構造に興味を持ってそれを解き明かそうとする人と、
花が漂わせている情趣を感じ取って絵を描いたり俳句を作ったりする人と、両者の目指すものは正反対では?
両方の精神傾向をつねに同じ強さで保ち続けるというのは、無理のような気がするのですが。

補足日時:2001/01/03 19:32
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数学者でノーベル文学賞を取ったバートランド・ラッセル,数学者でイラストのほうがはるかに有名なM.C.エッシャー,例をあげれば切りがありません.


経験的には
「(多少の)数学的才能と(多少の)芸術的才能は両立しない」
「(真に天才的な)数学的才能と(真に天才的な)芸術的才能」は両立すると思います.

この回答への補足

tullioさん、回答ありがとうございます。
atsuotaさんの回答への補足にも書かせていただいたのですが、私は文学的才能とは「詩才」のことでは
ないかと思っています。大詩人と言って思いおこされるのは、私の場合、杜甫、李白、ゲーテ、ランボー、
西行、柿本人麻呂などです。大詩人で大数学者という人は、いないように思うのですが、どうでしょう?
ちなみに私の考える「詩才」とは、『物事の情趣や印象から、その内在本質を直感的にとらえ、それを
説明的叙述ではなく音楽的言語表現によって、他者へ伝えることのできる才能』です。

補足日時:2001/01/03 19:16
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atsuotaさんのおっしゃるように



> 数学的思考(論理)と文学的思考(感情)は左右異なる脳に支配されています

ということでどちらの脳が主になってるか従になってるかで得意な分野が違ってきます。

しかし数学的思考で名をあげた人には少なからず文理両刀の人がいます。。しかし、その人は文学的思考の脳が優勢です。
ではどうやって数学的思考をするかというと、数学を頭の中で映像として捕らえるのです。この映像として捕らえるというのは理解しづらいと思いますので例をあげますと、

本を読むとき
字面を追うのではなく、目に入った本そのものを文字と一緒に記憶してしまう。
ということです。

こうすることで処理量が飛躍的に増加するといわれています。

この回答への補足

nonkunさん、回答ありがとうございます。
数学者は数学の問題を「映像」的・「絵」的にとらえているのでしょうか? どのような抽象概念も
「映像」や「絵」で表現可能なのでしょうか? 演奏家が楽譜を見るだけで頭のなかに音楽を
鳴らすことができるように、数学者も数式や論理式を見るだけで、頭のなかにテーマやイメージが
くっきりと描かれるのでしょうね。

『脳のなかは数学的思考(論理)領域と文学的思考(感情)領域に分かれている。しかもそれが
生物の進化史のなかで自然にできた』
なんという神秘的なことかと思います。この宇宙(真実在世界)には「論理」と「感情」が
先験的に存在するのでしょうか? 自分(または心)とは何なのでしょうか? 論理世界の賜物?
感情世界の賜物? それとも「論理」と「感情」を左右の大臣のように従える超越者?
こういうことを考え出すと、夢中になってしまい、仕事も上の空です。(いい年なのに、トホホ)
こんな小生に、ときどき相手をしてやってください。よろしくお願いします。

補足日時:2001/01/01 17:06
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