【無料配信♪】Renta !全タテコミ作品第1話

江戸時代まで名字(姓)が許されたのは、貴族、武士だけだと学校では習いました。一般庶民が名字を持つようになったのは、明治時代からだと思いますが、本当に江戸時代に名字を持っていた農民、商人はいなかったのでしょうか?

一部の有力な農民、商人の中に名字を持つ者はいなかったのでしょうか?もしいたら、それはどういう理由から持つことを許されたのでしょうか?

ご教授願えませんか?よろしくお願いします。

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A 回答 (12件中1~10件)

「誰でも苗字は持っていたけれど公的には使えなかった」というのが私の見解です。

(全く持ってなかった人もいたとは思いますが)
その証拠のひとつに江戸時代の墓を見てください。俗名は苗字付きで書いてあるはずです。その他、手紙など私的な文書には使用は可能だったでしょうが、売買証文など公的なものはだめでした。
藩に多額の献金をするなどの功績があると苗字が御免になることがあります。庄屋や大商人にも許されていますが、庄屋とか大商人という理由だけで許されたわけではないようです。古文書を見ると苗字なしで署名している庄屋もいます。
その許され方も「一代限り」とか「永代」といった区別がありました。
商人は一般に「屋号」を使いますが、苗字が使えないのでその代わりに屋号で呼びあったという研究者もいます。
教科書に書いてあるような江戸時代の「常識」はいい加減なものですね。私もあきれています。
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この回答へのお礼

>その証拠のひとつに江戸時代の墓を見てください。俗名は苗字付きで書いてあるはずです。
→なるほど。

>庄屋とか大商人という理由だけで許されたわけではないようです。古文書を見ると苗字なしで署名している庄屋もいます。その許され方も「一代限り」とか「永代」といった区別がありました。
→褒美が苗字を許すというのは、藩にとっては安上がりでお得で!権力というのはいやらしいですね。

>商人は一般に「屋号」を使いますが、苗字が使えないのでその代わりに屋号で呼びあったという研究者もいます。
→これも、なるほどです。考えてみれば、今でも普通の農家などにも屋号がありますよね。ということは、農民なども、苗字は公的には使えなかったので屋号を使用したと考えられるでしょうか?

>教科書に書いてあるような江戸時代の「常識」はいい加減なものですね。私もあきれています。
→「士農工商」という概念も誤りだったとか・・・。私たちには常識なのですが、今の教科書からは消えていると聞いています。人間は誤りを犯す動物ですが、全国一律で誤りを教える制度はどうかと思いますねえ。

興味深いご回答を頂き、ありがとうございました。

お礼日時:2006/08/17 08:18

#9です。



>ということは、「かみしも」さんというお名前ですか?

はははは。違います。かなり数の少ない名前(親戚しか知りません)なのであえて書きません。^^;

ただ、3文字の姓の人は「武士でなく名字帯刀を許された平民が多い」と祖母は言っていました。公式の場での「紋付き袴」も特典の一つのようです。

この回答への補足

【この場をお借りして】
短時間の内にたくさんの回答を頂き、反響(?)の大きさに驚いております。本当にいろいろと勉強させて頂きました。十分なお礼をしていなかったかも知れませんこと、お詫びします。ここに改めてお礼申し上げます。m(_ _)m

補足日時:2006/08/17 19:50
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この回答へのお礼

わざわざ回答を頂き、誠にありがとうございました。(^^;)

お礼日時:2006/08/17 19:50

私の生まれ育った地方では、ほとんどが苗字を持っていました



明治になって平民が苗字を名乗ることを許されるようになったとき、先祖代々受け継がれてきた苗字を名乗るようになりました

住職に付けてもらったような例は皆無です

江戸時代以前からの苗字をひそかに受け継いできたのだと思います
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この回答へのお礼

>明治になって平民が苗字を名乗ることを許されるようになったとき、先祖代々受け継がれてきた苗字を名乗るようになりました
→これが、「隠し姓」というものでしょうね。

>私の生まれ育った地方では、ほとんどが苗字を持っていました
>住職に付けてもらったような例は皆無です
→よく御存じですねえ!どのようにしてお知りになったのでしょうか?

ご回答を頂き、ありがとうございました。

お礼日時:2006/08/17 07:56

母親方の先祖は、カミシモ屋(特にカミシモだけを扱っていた)をしていたので名字帯刀が許されていたと聞いています。



かなり変わった姓です。^^;
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この回答へのお礼

ということは、「かみしも」さんというお名前ですか?確かに、聞いたことがありません。

ご回答を頂き、ありがとうございました。

お礼日時:2006/08/17 07:52

私も、No.1の6dou_rinneさまのように認識しております。



「農民も苗字を持ってはいるが、名乗ることは許されていない」ですね。

公式には名乗れないけれども、私的には代々使っている苗字は「隠し姓」などと呼ばれます。

公式に苗字を名乗っている一部の農民が、「苗字をもらう」ではなく、「苗字を許される」と表現していることからもその仕組みが伺えるかと思います。

(名乗ることを)許される、という事ですね。
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この回答へのお礼

>公式には名乗れないけれども、私的には代々使っている苗字は「隠し姓」などと呼ばれます。
→へえ、そんな呼び名もあるんですね。

>公式に苗字を名乗っている一部の農民が、「苗字をもらう」ではなく、「苗字を許される」と表現していることからもその仕組みが伺えるかと思います。
→なるほど、fornaoyaさんは言葉に敏感な方ですね。

ご回答を頂き、ありがとうございました。

お礼日時:2006/08/17 07:51

先日、NHKドラマのひらりの撮影にも使われた、岡崎のカクキューに行きました。



http://www.kakuq.jp/home/

ここの資料館に江戸期の当主の早川久右ェ門が岡崎藩から名字帯刀、往来の自由を認めるという許可証が保存されており、見てきました。

藩に対して貢献(多額の藩の債権を買ったもの)には、褒美として名字帯刀を許したようです。

尚、明治までは町人は名字が無かったとされていますが、実際には持っているものも少なくなく、公では藩侯の許可が無ければ使えないということだったようです。
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この回答へのお礼

>藩に対して貢献(多額の藩の債権を買ったもの)には、褒美として名字帯刀を許したようです。
>尚、明治までは町人は名字が無かったとされていますが、実際には持っているものも少なくなく、公では藩侯の許可が無ければ使えないということだったようです。
→みなさんもそのようにご回答されていますが、そのようだったんですね。

ご回答を頂き、ありがとうございました。

お礼日時:2006/08/17 07:48

理由はわかりませんが、私の母方の家がそうでした。


尤も、半士半農だった可能性も高く、一概に農家だったとも言えないのですが。ただ、お城からはずいぶん離れた場所に土地を持っており、決してお城に上がるような上等な武家ではなかったようです。
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この回答へのお礼

>理由はわかりませんが、私の母方の家がそうでした。
→よく御存じですね。どのようにして、分かったのですか?代々話し継がれているのですか?家系図に苗字が記載されているのですか?私などは江戸時代の先祖についてはほとんど知りません。

ご回答を頂き、ありがとうございました。

お礼日時:2006/08/17 07:45

こんにちは!


学生さんですか?

農民で江戸時代に『名字帯刀が許された人』では、
滋賀県の『龍』さんが有名です。

私は古生物学を研究していますが
その研究に関連した著作を行う際の、
2004年1月10日、滋賀県の博物館で確認しました。

調査当時、龍氏のご子孫で
『龍 市朗兵さん』と言う人物が、
「現在も滋賀県○○の伊香立と言う住所に、
健在でお住まいだ」との事を確認しています。

龍市朗兵氏のご先祖は、
当時膳所(ぜぜ)藩の農民であったが、
無届で農地を開墾しているときに、
大きな骨…化石を発見した。

当時はまだ『古生物学』と言う
科学的な思考が存在しない時代です。
そのために出土された化石が、当時信じられていた想像上の
『龍の骨』と、膳所藩の学者に判断され、藩主に対する答申の中で
「御領内から、竜の骨が見つかるとは、おめでたい」との、
評価を受けた藩主によって、発見の褒美として
『 “龍”の苗字と“帯刀”まで許された』という事実が存在します。

因みにその発見された『龍』の化石は、
現在の研究で『トウヨウゾウ』と言われる動物の化石と判明しています。

当時の学者は、多くの化石(カマスに8杯分)を使い、
天に昇る図を基に想像を働かせ、その姿を復元しています。
象の牙を龍の角に見立て、下顎臼歯を組み合わせて、
「龍の頭部」に強引に組み立てられた図まで現存します。

話がそれましたが、この様に実際に士農工商と言う、
がんじがらめの身分制度が存在した江戸時代に、
確かに農民から名字帯刀まで許された農民が存在し、
その事実を証明する、子孫まで間違いなく現存します。

今後もがんばって勉強してくださいね。
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この回答へのお礼

>学生さんですか?
→実は、いいえなんですよ。

>農民で江戸時代に『名字帯刀が許された人』では、
滋賀県の『龍』さんが有名です。
→寡聞にして知りません。「たつ」さんなのでしょうか?「りゅう」さんなのでしょうか?藩主が許すわけですね。ということは、藩によってかなり事情がことなる可能性もあるんでしょうね。全国一律、幕府によってお触れが出ているのかと思っていました。

ご回答を頂き、ありがとうございました。

お礼日時:2006/08/17 07:41

 まず、江戸時代以前は、姓と苗字は別のものということを理解しておく必要があります。



 例えば、徳川家康の場合は、 徳川次郎三郎源朝臣家康が正式な氏名で、
「徳川」が名字(苗字)、 「次郎三郎」が通称、 「源」が「姓」(本姓)、
「朝臣」が古代の姓(かばね)、 「家康」が諱(いみな=本名)です。

 姓(本姓)は「天皇から与えられる」もので、
苗字(名字)は「自分で名のる」ものです。
 
 苗字については、江戸時代には幕府の政策で、武士、公家以外では、
平民の中で、庄屋や名主など特に許された旧家の者だけが名乗ることを許されています。

 しかし、これら平民については、姓は、そもそもありません。

参考URL:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8B%97%E5%AD%97# …
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この回答へのお礼

>姓(本姓)は「天皇から与えられる」もので、
苗字(名字)は「自分で名のる」ものです。
→そういえば、学校で「氏姓」(うじかばね)って習いましたねえ!

ご回答を頂き、ありがとうございました。

お礼日時:2006/08/17 07:32

下記サイトで説明されていますよ。



参考URL:http://www.geocities.jp/goromaru134/goromaru/sei …
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この回答へのお礼

とても分かり易いサイトでした。
ご回答を頂き、ありがとうございました。

お礼日時:2006/08/17 07:26

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Q江戸時代、苗字を持っていなかった人の割合は

江戸時代、公に苗字を名乗れるのは武士や特別に許可された農民だけでした。
しかし、ほとんどの人が苗字を持っていたと思います。
寺社に奉納した石碑などに、農民の名前が刻まれているのを目たことがありますし、
寺の過去帖で、村全員の苗字が載っているのを見たことがあります。
そもそも、名前だけだと、どこの家のものか区別がつきにくいですよね。
明治になって初めて苗字をつけた人がいるらしいですが、
そういう人たちの割合はどれくらいだったのでしょうか?
あるいはそれは俗説にすぎないのでしょうか。

よろしくお願いします。

Aベストアンサー

全国的には、ほとんどの人が苗字を持っていたという事実はありません。ただし、村を個別に見れば元々苗字を持っていた武士が帰農して村民になっていた村もあります。例えば武蔵野台地の多摩地区は、地形が水利に恵まれず、江戸時代以前は全く開発されていなくて原野状態でした。そこに徳川秀忠が鷹狩りに来て、代官に新田開発を奨励させるといったことがありました。多摩地区には滅ぼされた後北条氏の元家臣が大勢残っていて、そうした新田開発の募集に応じた人がいます。逆に代々農民だった人は新田開発に応募しない。農民とは保守的・守旧的な性質があり、冒険的な事業に乗り出そうという気概がある人が少ないのです。そういう村ならば、石碑や寺の過去帖に苗字が載っていても不思議ではない。しかし、そうした特殊な例を持って全国にあてはめるのは間違いです。江戸時代の村の規模は極めて小さく、人口は数百人から多くても千人を越えるぐらいです。保守的・守旧的な農民の性質から、農村は過去のしがらみ、立村の経緯を引きずって、どうしても細かく分かれたままで統合しようという機運が起きないのです。小さな村の合併が進んで町や市に昇格していったのは明治時代以降のこと。

17世紀末たまたまカムチャッカ半島に漂着した伝兵衛という人がいます。大阪の質屋の息子だったが、東京へ向かう途中に嵐があって、なんとカムチャッカ半島まで漂流したというのです。アイヌの村に拾われたところ、たまたまカムチャッカ半島を侵略していたロシア人に見つかってサンクトペテルブルクに強制連行されて日本人学校の校長として一生を終えたと伝えられています。そうした事はかなり後になってロシア側の記録から分かったことです。ところが、伝兵衛の苗字は伝えられていません。ただ伝兵衛というだけ。もし苗字があったなら、ロシア人に対して遠慮なく伝えたはずです。ロシア人に対してなにを遠慮する必要があろうか。

カムチャッカ半島には伝兵衛の後にゴンザとソウザの2名も漂着した事例があったことが分かっていますが、やはり苗字は伝えられていません。どちらもロシア側の記録によります。アイヌは文字を持ちませんから、カムチャッカ半島がロシア領になる以前のことは全く分からない。

また幕末には一介の漁民から旗本にのし上がったジョン万次郎という人がいます。この人も漁に出てたまたま無人島に漂着したところをアメリカ人に見つけられてアメリカで学業を受けさせてもらってアメリカ通になったところを日本へ帰国後に評価されて旗本に取り立てられて苗字を許されました。中濱村出身だから、中濱万次郎となのりました。もし元々苗字を持っていたというなら、その苗字を名乗ればよい。しかしそうしなかった。他に思いつく苗字がない。だから出身地の中濱村から苗字を貰ったわけです。

石碑も過去帖もいいのですが、あったあった、それ見たことかと大はしゃぎにそればかりが一人歩きしている現状はいかがなものか。

全国的には、ほとんどの人が苗字を持っていたという事実はありません。ただし、村を個別に見れば元々苗字を持っていた武士が帰農して村民になっていた村もあります。例えば武蔵野台地の多摩地区は、地形が水利に恵まれず、江戸時代以前は全く開発されていなくて原野状態でした。そこに徳川秀忠が鷹狩りに来て、代官に新田開発を奨励させるといったことがありました。多摩地区には滅ぼされた後北条氏の元家臣が大勢残っていて、そうした新田開発の募集に応じた人がいます。逆に代々農民だった人は新田開発に応募し...続きを読む

Q農民の家紋使用はいつから?

家紋が必要なのは主に紋付きを作るときかと思います。
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それとも、苗字と同じように、使わなくても我が家の家紋はコレ!と決まったものがあったのでしょうか?

江戸時代に農民が家紋を使っていた証拠となる文献をおご存じでしたら教えてください。

建造物や墓石に家紋がある、というのでも結構です。

または、明治以降になってこうして家紋を決めた、という資料でも結構です。

Aベストアンサー

日本における紋章は、苗字と共に受け継がれた「家」との関係を表わすもので、称して「家紋」と呼んでいます。
また衣服に紋章を付ける用い方は、日本独自のもので、他の国には見られないようです。
家紋には、自然物からの描写である雲・波・草花、扇面・亀甲や文字を意匠化したものまであり、現在では5000種類、一説によれば2万種類もあるといわれています。
家紋をつける風習は、平安時代の中頃、公家が自分の牛車や調度品に本人や家の好みの文様を付けたことから始まったといわれています。実際着物に家紋を付け出したのは、足利時代以後のようです。その頃の紋は男性のもので、女性が紋を付けるようになったのは、江戸時代中頃になってからのことのようです。そのころから「女紋」が作られ、男性の紋と区別するようになりました。
身分に関係なく、どの家でも自家の紋を持つようになるのは明治になって、一般庶民にも苗字が許されるようになってからのことです。
ただ、それ以前でも苗字帯刀を許された一部の豪農は武家を真似て家紋を使用していたようです。また商人は、所謂「屋号」としての紋章は使用されていました。

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Q戦国時代の人々の名前について

司馬遼太郎の国盗り物語を読んだのですが、すこし感覚が掴めなかったので質問させてください。

戦国時代の人々の一般的な名前はどういったものなのでしょうか。
たとえば武将でいえば武田信玄、織田信長、明智光秀の呼び名は有名ですが、これらの名前って現代の人たちが理解しやすいように略した名前ですよね。
武田信玄は徳栄軒信玄
織田信長は織田上総介信長
明智光秀は明智十兵衛光秀
といった感じで、苗字+名前の形式ではなく、ミドルネーム?みたいなものはどういう規則であるのですか?
ある人は御屋形、ある人は信玄公、ある人は信玄様とさまざまな呼び名で統一されなかったのには意味があったのでしょうか。

ある身分の人ならば織田様と呼び、ある身分の人は、弾正忠様と呼び、ある身分の人は信長様と呼んで良いなんていう規則もあったのでしょうか?

また農民とかならば、個人を特定するような名前自体存在しなかったのでしょうか。
小説で読んだ中では志乃とかお清とか名前はみかけたので、名前がないということはあるでしょうが、人々の命名規則等は存在したのでしょうか。
(苗字は名乗ってはいけないとか、こういう名前を使ってはいけないとか言う規則はあると考えています)
(また、将軍の姓を使った織田とかは名乗れなかったと思います)

苗字を名乗れるのは、どういう身分の人たちなのでしょうか。
小説の中で山崎屋とか商人の人々には名前があったと思うのですが、村里の人々での苗字はみかけませんでしたし。

質問がわかりづらいかも知れませんが、
1.身分によって相手を呼ぶときの名前に対し厳しい制約は存在していたのか。
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3.また、命名規則があればどのような名前が多かったのでしょうか。
(農家の男なら五平、六平。女なら志乃、清など)
の3つ教えてください。
よろしくお願いします。

司馬遼太郎の国盗り物語を読んだのですが、すこし感覚が掴めなかったので質問させてください。

戦国時代の人々の一般的な名前はどういったものなのでしょうか。
たとえば武将でいえば武田信玄、織田信長、明智光秀の呼び名は有名ですが、これらの名前って現代の人たちが理解しやすいように略した名前ですよね。
武田信玄は徳栄軒信玄
織田信長は織田上総介信長
明智光秀は明智十兵衛光秀
といった感じで、苗字+名前の形式ではなく、ミドルネーム?みたいなものはどういう規則であるのですか?
ある人は...続きを読む

Aベストアンサー

質問1については、先の回答者さんが答えておられるので、2と3について・・・

時代は少し古くなるのですが、建武の新政が行われた1334年に、若狭の国・太良荘(たらのそう)で、地頭の交代を請求した一揆の起請文には、惣村に属する農民・59名の署名が書かれています。

それを例にあげますと・・・
この一揆のリーダーだったと思われる僧実円・僧禅勝といった僧の名の付く人が6名、大山貞重・中原吉安・物部宗弘といった姓と実名のある人が6名、この内3名は花押も持っていて、グループの中では上層の身分の人たち、名主クラスです。

次に中大夫・平大夫・五郎大夫など大夫が付く人が10名・・・中介・江介・三郎介など介の付く人が6名、「大夫」や「介」は古代の令制の官位の呼び方ですが、すでにこの時代には農民が、一定の年齢に達した時、幼名から改名する際に使用していたようです。

新検校・惣別当・安寿など名の付く人が3名・・・「検校」や「別当」「安寿」などは、ご存知のように本来、寺院や荘園・官庁の役職名ですが、やはりこの時代ではすでに農民のレベルでも名乗っています。

次に、かい丸・牛丸と「丸」の付く人が2名・・・「丸」は本来、幼名に使用する文字ですが、牛飼いなどの運搬業に携わる人は、成人しても使用していたそうです。

平細工・孫太郎細工と「細工」と付く人が2名・・・彼らは手工業の職人だったと思われます。

残り24名は、この時代の農民の一般的な名前と言える物・・・藤内・源内・中江・孫太郎・孫二郎・彦二郎・平二郎・藤二郎・弥二郎・中三郎・惣四郎・孫五郎など、この中の「彦」や「孫」や「弥」は全国的に使用されている最も一般的な文字です。
「平」「源」「藤」「中」は貴族の姓を名前に取り入れています。
その後につく二郎や三郎というのは、お察しの通り、大抵は出生順の「○郎」と付けたようです。
彼らは、小百姓層の人たちです。

以上、先にも書かせていただいたように、これらの名前はすべて、中世の惣村の農民の名前・・・一揆の起請文の署名です。
女性の名がないのは、一揆の場合の署名は、一家の家長が代表して行う事が多かったためだと思われます。

長々と書いてしまいましたが、少しは参考になりますでしょうか?

質問1については、先の回答者さんが答えておられるので、2と3について・・・

時代は少し古くなるのですが、建武の新政が行われた1334年に、若狭の国・太良荘(たらのそう)で、地頭の交代を請求した一揆の起請文には、惣村に属する農民・59名の署名が書かれています。

それを例にあげますと・・・
この一揆のリーダーだったと思われる僧実円・僧禅勝といった僧の名の付く人が6名、大山貞重・中原吉安・物部宗弘といった姓と実名のある人が6名、この内3名は花押も持っていて、グループの中では上層の身分...続きを読む

Q江戸時代の苗字帯刀について

おはようございます。
江戸時代に武士以外で苗字帯刀を許される人について伺いたいのですが、
自分でも調べてみたところ、
「豪農」、「藩に多額のお金を納めた」等いくつかの例を知りました。
また、苗字帯刀に加えて「裃着用」、「麻上下着用」等
プラスアルファが許されている家があることも分かりました。
では、「苗字帯刀鎧着用」というのは、
どのような家柄の人に与えられるのでしょうか?
ご存知の方がいらっしゃったら教えて下さい。

Aベストアンサー

幕藩体制化の豪農は、有力豪族が群雄割拠した時代には「武士」だった家系が多いです。
戦に破れて領地へ帰農。その地で土着し、地主・庄屋・名主となります。

江戸時代当初、将軍家から領地を与えられた武将は「藩主」として新天地に赴任します。
まだ領内の治安が安定しない場合、武力か平和裏に支配権を確立するかは各藩で異なります。
土佐藩では「武力で支配権を確立」したので有名ですよね。
平和裏に支配を確立するには、豪農を味方にするのが早いのです。
米の生産高(○○万石)が安定しますからね。
その時の、信頼関係・家柄の尊重が(未来の)苗字帯刀問題に影響します。

江戸中期になると、武士は「戦闘要員から、生産性の無い消費者」(名誉職)となります。

>「豪農」、「藩に多額のお金を納めた」等いくつかの例を知りました

その通りで、藩・藩主に対して援助した者は苗字帯刀を許されました。
百姓の次男坊でも、「カネ次第」で武士になれた時代です。
不浄役人(必殺仕置人の主水クラス)だと、案外「農家・町人出身者」が多いのですよ。一応、由緒ある家の養子になりますが。

鎧兜ですが、平和な時代には「武士が質屋の質草」に出しています。
既に「無用の長物」と化していたのでしよう。
(ペリーが来た時、武士が一斉に「質屋で鎧兜を引き出した」記録があります)

苗字帯刀と同時に「元有力武家の家臣、有力郷士(地侍)だった豪農」には、鎧兜を認めている場合があります。
以前、私が赴任していた中部では「元武田家家臣を先祖に持つ庄屋」の住居の一般公開があり「鎧兜」も「苗字帯刀及び鎧兜を許す」書状を展示していました。
四国の某庄屋は、南北朝時代に細川家家臣だった家柄です。
ここにも、江戸時代の鎧兜と一緒に同様の書状が残っています。

幕藩体制化の豪農は、有力豪族が群雄割拠した時代には「武士」だった家系が多いです。
戦に破れて領地へ帰農。その地で土着し、地主・庄屋・名主となります。

江戸時代当初、将軍家から領地を与えられた武将は「藩主」として新天地に赴任します。
まだ領内の治安が安定しない場合、武力か平和裏に支配権を確立するかは各藩で異なります。
土佐藩では「武力で支配権を確立」したので有名ですよね。
平和裏に支配を確立するには、豪農を味方にするのが早いのです。
米の生産高(○○万石)が安定しますからね...続きを読む

Q江戸時代の墓について

数年前に江戸時代後半の先祖墓が見つかりとてもびっくりしています。墓石は70個くらいでしょうか。
凄い田舎で百姓をやってたと思うのですが、墓のひとつひとつが貧農ではまずこのような墓を作るのは困難と思われるようなものばかりなのです。
しっかりとした石を使っているためか、かなりの墓石の文字がはっきりわかります。
中には墓石に仏像が彫られ、着物に赤い色が塗られているのも数体あります。女性の墓石ではないかと推察しています。
写真を添付しますので、見ていただければ幸いです。
ネットで同様の墓石を探しても見当たりません。
なぜこのような墓を作ることができたのか?どのような推察でも構わないので教えてください。
また、昔の墓の研究をしているところがあればそれはどのようなところなのか、どうすれば調べられるのかわかれば
それも教えてください。
よろしくお願いします。

Aベストアンサー

江戸時代は土葬が基本です。
同時にお墓は個人単位が基本です。
たくさんの墓石が集団で見つかるのはこのためです。
ただ上質の石材を追加って丁寧に彫られていますことから、相当の名家であったのではないかと思います。
お墓を管理している菩提寺に過去帳は残されていませんでしょうか。
彫られている享年で推定はできます。

生前墓といって死ぬ前から用意することがあります。(長生きができるとされています)
この際に戒名などに朱を入れます。
この朱を入れる習慣の延長かどうかはわかりません。
男女は掘られている戒名等で判別は可能か思います。

いずれにせよ、お近くの博物館などの学芸員の方に一度みてもらってください。
市町村の役場で問い合わせ先を教えてもらえるのと、依頼ができるかと思います。
市町村の図書館で郷土史家の方を教えてもらえますので、その方とも一度話をしてみて下さい。
お住いの地区でどのようなことがあったのかは大よそ見当がつくかと思います。

Q苗字帯刀の適用範囲

こんにちは。
江戸時代に苗字帯刀を許された農民について伺いたいのですが、
例えば、その家に父親と複数の息子がいたとすると、
苗字帯刀できるのは、父親(戸主)だけですか?
それとも、父親の生前から息子達も全員苗字帯刀なのですか?
或いは、父親が死んでから、長男だけが苗字帯刀を継ぐのですか?
それとも、(父の死後)息子達全員が継ぐのですか?
質問だらけになってしまって分かりにくいかもしれませんが、
ご存知の方がいらっしゃいましたら、ご教示下さい。

Aベストアンサー

 参考までに・・・

 わたしの父方は、江戸時代は富農で、明治になって地主であったという以外、昔のことはわかりませんが、母方は家系図が残っており、かなり確かと思われます。

 母方の本家は、大庄屋(庄屋の代表として、数ヶ村の庄屋のまとめ役。)で、室町時代は土豪であったようです。

 わたしの住んでいるところは京都に近く、歩いても無理をすれば1日で、子供の足でも歩くのになれた昔の子供であれば、丸二日で着くことが出来る位の距離です。
 ですから、荘園制が発達した平安時代中ごろ以降、京都に住む貴族が戦乱時に一時避難する先となっていました。そして、貴族にとって単に経済的基盤であるだけでなく、避難先としても利用する重要な荘園であったため、中央貴族としての地位を相続できなかった貴族の子弟が、荘園の管理者として、京都から移り住み土豪となっていった歴史があります。
 具体的に言うと、村上天皇の皇子が臣籍に入って源氏となった「村上源氏」なのですが、この地域の室町時代の守護・戦国時代の国人領主の大半は村上源氏の系統です。私の母方の本家も当然のように村上源氏で、室町時代の行政文書や記録にも少しだけ名前が出て、合戦には数騎、総計数十人を引き連れて、有力な領主にしたがって参戦していたようです。
 秀吉の刀狩を経て江戸時代となり、大庄屋を代々勤める家となり、藩主が領地見回りをする時の宿舎ともなっていました。

 そのような家なので、代々苗字帯刀を許されていたようです。ただ、鎧着用は許されていなかったと思います。
 苗字・帯刀=行政官=文官扱いなのに対し、鎧着用=武官=戦力という考え方で、武家社会の江戸時代にあっては、更に武士に近い扱いでしょうね。

 尚、江戸時代も中期以後になると、貨幣経済と商品流通が活発化し、どの藩も財政事情が悪化することとなり、藩に対する財政的寄与に対する褒章として、苗字帯刀を許す例が増えます。

 参考までに・・・

 わたしの父方は、江戸時代は富農で、明治になって地主であったという以外、昔のことはわかりませんが、母方は家系図が残っており、かなり確かと思われます。

 母方の本家は、大庄屋(庄屋の代表として、数ヶ村の庄屋のまとめ役。)で、室町時代は土豪であったようです。

 わたしの住んでいるところは京都に近く、歩いても無理をすれば1日で、子供の足でも歩くのになれた昔の子供であれば、丸二日で着くことが出来る位の距離です。
 ですから、荘園制が発達した平安時代中ごろ...続きを読む

Qご先祖様の暮らしを知りたいです。

先祖の調査をしようと本家に行きました。
お墓と位牌を見てきましたが、わからない事だらけです。

以下の調査結果から農民だっと思うのですが、どんな暮し(身分の)農民だったのでしょうか。

1.位牌は沢山出てきましたが、一番古いのは寛文三年 戒名は 禅定門と禅定尼
2.正徳まで禅定門の位牌が多いです。
3.墓で一番古いのは(判明できるのは)正徳です。
4.場所は栃木県です。
5.菩提寺はもともと城で、戦国時代後期に落城。その後死者を弔うために建立されました。

まったくの素人なのである程度詳しい方の意見や実際に調べている方の意見など頂けると幸いです。

上記と直接関係があるかわかりませんが、以下についても記します。

5.実は上記の位牌以外に一つだけ古そうなのがあり、そこには貞和四年とある。しかし状態が悪く、ほとんど書いてあることが読めない。

6.上記位牌は菩提寺の住職が読める範囲で書き直したらしい。

7.古い掟では、正月飾りをしてはならぬ、節分や節句、祝い事、祭りごとなど目立つことはしてはならぬ。とあったそうです。 とにかく目立つことはしてはいけないと。

8.昔は蔵があったが、火事で燃えてしまった。蔵には長持ちがいくつもあったらしい。他の位牌も燃えたとか?

よろしくお願いします。

先祖の調査をしようと本家に行きました。
お墓と位牌を見てきましたが、わからない事だらけです。

以下の調査結果から農民だっと思うのですが、どんな暮し(身分の)農民だったのでしょうか。

1.位牌は沢山出てきましたが、一番古いのは寛文三年 戒名は 禅定門と禅定尼
2.正徳まで禅定門の位牌が多いです。
3.墓で一番古いのは(判明できるのは)正徳です。
4.場所は栃木県です。
5.菩提寺はもともと城で、戦国時代後期に落城。その後死者を弔うために建立されました。

まったくの素人なのである程度詳し...続きを読む

Aベストアンサー

こんにちは。
私は、自称「歴史作家」です。

中々の銘家と推察いたします。

>>2.正徳まで禅定門の位牌が多いです。

「禅定門」「禅定尼」は基本的には、禅宗(曹洞宗・日本達磨宗・臨済宗・黄檗宗・普化宗)寺院での戒名と考えて良いかと思います。
もし、現在禅宗寺院を菩提寺としていない場合は、先祖の誰かが改宗したものと考えます。

また、武士階級や商人でも藩に関わる仕事をしていた方に「禅定門」「禅定尼」の戒名が付けられることが多く見受けられます。

従って、昔、城があった・・・と言うことですので、武士・・・それも徴兵された百姓などのように「にわか武士」ではなく、城主に仕える身分だったのかもしれません。
ただ、蔵があった・・・と言うことから考えると、城への出入りを許された商人のような気もします。こちらの方が強いかな?


>>4.場所は栃木県です。
>>5.実は上記の位牌以外に一つだけ古そうなのがあり、そこには貞和四年とある。

栃木県には足利氏の荘園が幾つも存在し、貞和四年(1348)と言うことは、足利尊氏が征夷大将軍を務めていた時代ですから、栃木県は足利氏の影響力が非常に強かった時代です。
その頃、あなたのご先祖さまは足利氏に直接、または、その家臣たちに取り立てられて、次第に大商人となり、活躍していた可能性が考えられます。

>>7.古い掟では、正月飾りをしてはならぬ、節分や節句、祝い事、祭りごとなど目立つことはしてはならぬ。とあったそうです。 とにかく目立つことはしてはいけないと。

これには2つの考え方ができます。

1.大商人であったから、他人にみせびらかすような派手な行為を慎むと同時に「節約を旨とすべし」のような家訓があった。

2.何かの失態があって、他人(ひと)さまに顔向けができない。そこで、全ての行事は内々に内輪だけで執り行うようになった。

>>8.昔は蔵があったが、火事で燃えてしまった。蔵には長持ちがいくつもあったらしい。他の位牌も燃えたとか?

昔は、現代のように「恋愛結婚」などは、特に、大商人や地主、武士などもそうですが、絶対的にありませんでした。
全て、親が、相手の家格や財力などを基に嫁などは決めていましたので、あなたのご先祖さまも大商人で、当然、それに見合った嫁選びをしたことと思います。
従って、長持ちの中には代々のお嫁さんが実家で用意してくれた衣装などが入っていたと考えられます。

また、他の位牌については、なぜ蔵にあったのか疑問ですが、或いは、母屋も焼失してしまったのかも含めて、貞和四年(1348)から、いきなり、寛文三年(1663)まで、約300年間が飛んでしまっていますので、その間の位牌ではないかと考えます。

総合的に判断すると、城へ出入りを許された「大商人」の家系のように思われます。

余談になりますが、
私の実家は本家は古くは、やはり、平安時代にまで遡ることができますが、江戸時代の宝暦年間(1751~)に、佐渡奉行所が財政難になった時、当時、庄屋であった夘兵衛という者が近隣の庄屋四人に声をかけて資金集めをし、佐渡奉行所へ300両(約3,000~4,500万円)を寄付したことから、佐渡奉行より「○○家を名乗るように」と姓を授かりました。
そして、その夘兵衛の四男が分家をし「△△家」」を起こしたのが私の家です。
ただし、あくまでも農家でした。

こんにちは。
私は、自称「歴史作家」です。

中々の銘家と推察いたします。

>>2.正徳まで禅定門の位牌が多いです。

「禅定門」「禅定尼」は基本的には、禅宗(曹洞宗・日本達磨宗・臨済宗・黄檗宗・普化宗)寺院での戒名と考えて良いかと思います。
もし、現在禅宗寺院を菩提寺としていない場合は、先祖の誰かが改宗したものと考えます。

また、武士階級や商人でも藩に関わる仕事をしていた方に「禅定門」「禅定尼」の戒名が付けられることが多く見受けられます。

従って、昔、城があった・・・と言うこと...続きを読む

Q江戸時代、藩がどう分布していたかがわかりやすい日本地図を探しています。

たとえば、
今の山口県のあたりには長州藩があり、藩主は毛利家
ということが見てわかりやすい日本地図を探しています。
そのような地図がおいてあるサイトをご存知の方はいらっしゃいますか?

Aベストアンサー

江戸時代初期は大名の取り潰しが多かったので、いつの時代が必要なのか難しいですが、一応300藩と言うことで参考URLをご覧ください。
地方ごとに分かれています。

参考URL:http://www.asahi-net.or.jp/~me4k-skri/han/hantop.html

Q江戸時代の戸籍謄本を入手する方法は?

私の家の家系図を作成する計画です。その為の参考資料として戸籍謄本を利用したいと思います。

私を起点として、私の祖先(配偶者含む)の名前と生年月日、没年月日、結婚又は離婚の年月、養子縁組の年月、祖先の親の氏名などを世代を遡って把握します。また父母、祖父母、曽祖父母に関する事項だけでなく、彼らの兄弟姉妹に関する情報も必要になります。そこで質問です。

質問(1)今の役所で保存されている戸籍の原本では、祖先の系譜をどの頃まで遡ることができるのでしょうか。明治の初めまででしょうか。

質問(2)(この質問の方が重要ですが)仮に遡る限界が明治初期の場合、それ以前、つまり幕藩体制時代の戸籍についての記録は、どこで保存されているのでしょうか。(ちなみに私の祖先は愛知県知多郡におりましたので、「尾張藩」です。)菩提寺の過去帳では戒名は分かりますが俗名が分からないのです。

ご存知の方、よろしくお願いします。

質問の答が分からなくても、質問の答を見つける方法をご存知でしたら教えて下さい。(どの役所に聞いてみる、とか、どこの歴史資料館で捜す、とか、ホームページとか。)

私の家の家系図を作成する計画です。その為の参考資料として戸籍謄本を利用したいと思います。

私を起点として、私の祖先(配偶者含む)の名前と生年月日、没年月日、結婚又は離婚の年月、養子縁組の年月、祖先の親の氏名などを世代を遡って把握します。また父母、祖父母、曽祖父母に関する事項だけでなく、彼らの兄弟姉妹に関する情報も必要になります。そこで質問です。

質問(1)今の役所で保存されている戸籍の原本では、祖先の系譜をどの頃まで遡ることができるのでしょうか。明治の初めまででしょうか。...続きを読む

Aベストアンサー

ご自身が含まれる戸籍は自由に入手は可能ですが、いくら親兄弟であっても戸籍が別となっていれば、正当な理由や権利が無ければ入手できません。
相続や先祖を祀るなどの理由があれば直系であれば入手は可能でしょう。
それぞれから委任状などを得る必要があると思います。

1については、戸籍によって保存期間があり、既に処分されているものもあるようです。自治体によって法律上の保存期間を超えても処分していない役所も多いと思いますので、それぞれの役所へ確認しましょう。私の地元の役所では江戸時代ぐらいのものはまだあるようです。

2については、役所の戸籍でわからず、寺などの過去帳でわからなければ難しいでしょう。

戸籍謄本は自分との関係を証明しながら取る必要性がありますので、ご自分や親の戸籍から遡って、わかる範囲で戸主の名前で請求するようになるでしょう。縁故者の協力状況によっては、遡るにも限度があると思います。
行政書士などは職権で戸籍謄本などの入手が可能な為、一部の行政書士などが家系図作成を請け負っている場合などもあります。

私自身、家督相続時代を含めた相続手続き(登記)を行った際、遡るのに結構大変でした。

頑張ってください。

ご自身が含まれる戸籍は自由に入手は可能ですが、いくら親兄弟であっても戸籍が別となっていれば、正当な理由や権利が無ければ入手できません。
相続や先祖を祀るなどの理由があれば直系であれば入手は可能でしょう。
それぞれから委任状などを得る必要があると思います。

1については、戸籍によって保存期間があり、既に処分されているものもあるようです。自治体によって法律上の保存期間を超えても処分していない役所も多いと思いますので、それぞれの役所へ確認しましょう。私の地元の役所では江戸時代...続きを読む

Qリベラルとは?

・左派、革新、社会主義
・右派、保守
という分類ができると思うのですが、
リベラルや自由主義は、どう考えたらいいのでしょうか?
よろしくお願いします。

Aベストアンサー

 政治思想は、下記のXY軸に表す事が出来ます。(リベラルを日本語に訳したのが「革新」あるいは左派です。)

 Y軸 Libertarian(自由・市場主義 = 小さな政府) - Statist(統制主義 = 大きな政府)
 X軸 Liberal(革新) - Conservative(保守)
 真中 Centrist(中間主義)

 各派の解説は下のURLの解説部分を参照してください。
   http://meinesache.seesaa.net/category/719933-1.html

 自由主義と言うとリバタリアンの範疇になりますが、アメリカの政治に例えると、レーガン大統領より前の共和党政策が旧保守主義(右派リバタリアン)で、それ以後を新保守主義(ネオコン)といい保守と名乗っていますが、実態は左派リバタリアン(左派が保守に転換し、現状を保守する為に革新的手法(戦争など過激な改革を許容する)を執ると言う主義)です。

 自由主義の反対となる統制主義も左派だと共産主義や社会主義、比べると右派に成るイギリスの「ゆりかごから墓場まで(高福祉政策)」などが有ります。

 簡単に言うと、積極的に変えようとするのが左派で、変わらないように規制するのが右派です。そして変える方向(変えない方向)が自由か統制かで分類できます。

 日本には明確に保守を謳う政党が無いので、イメージがわき難いのかも知れませんが…。
 (自民・民主党は中道で、共産党は左派統制主義ですから…。)

 政治思想は、下記のXY軸に表す事が出来ます。(リベラルを日本語に訳したのが「革新」あるいは左派です。)

 Y軸 Libertarian(自由・市場主義 = 小さな政府) - Statist(統制主義 = 大きな政府)
 X軸 Liberal(革新) - Conservative(保守)
 真中 Centrist(中間主義)

 各派の解説は下のURLの解説部分を参照してください。
   http://meinesache.seesaa.net/category/719933-1.html

 自由主義と言うとリバタリアンの範疇になりますが、アメリカの政治に例えると、レーガン大統領より前の共...続きを読む


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