戦国時代の映画などをみていると、大抵”ウオ~!”と叫んで決戦などしますよね?

あれ自体は本当だと思うのですが、あれってなんて言うんでしょ?

”ウオ~!”って言う奴です。

よく時代物の映画の話をしてても、あの・・その・・・ほら声が、臨場感が・・・。となってしまうので、ぜひ教えてください。

他、戦国時代の戦争の話なども教えてください。(これからの参考のために)

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A 回答 (4件)

 


  おおまかに雰囲気を表すためなら、「鬨の声」でよいのですが、「鬨の声」というのは、戦闘の開始に当たって、志気を鼓舞するため、儀式的にあげる戦闘開始の合図の叫びで、大将が、「えい、えい」と二回叫ぶと、部下が「おう」と三回大声で応えて、意気軒昂を示す声のことで、普通「えいえい、おうおう」という風に音を表現します。
 
  これは儀式的な叫びで、開戦の合図だとも云えます。実際、使用する場面は、「あちこちで鬨の声が上がった」とか「敵陣で鬨の声があがるや、こなたでも鬨の声があがり」という風に、戦闘開始の合図の叫びが起こったという意味で使われます。
 
  実際に戦闘が始まり、闘いで上げる叫び声の「うぉー」とかいうのは、「鬨の声」ではありません。何というのか、どうも思いつかないのですが、「咆吼」ではないでしょうか。「戦(いくさ)の咆吼を上げつつ、敵は肉薄してきた」とは言います。志気を高めるため、兵士が突入する過程で、「鬨の声」ではなく、「うぉー」という意気軒昂な叫びを上げさせるのに、大将が、「吼えよ」と言っていた例が時代小説であります。この場合、確かに「鬨の声をあげよ」ではないのです。
 
  敵に向かい、現に突入しつつある時に、「鬨の声」は上げないのです。しかし、兵士も武将も「うおー」とか叫んでいたでしょう。これは、何かもっといい表現があれば、そうですが、「戦の咆吼」とでも呼ぶしかないのではないでしょうか。「鯨波(げいは)を上げる」というのもありますが、「鯨波」は「鬨の声」のことだとも説明されています。元々「鬨」は「闘い」のことですから、「鬨の声」とは「闘いの声」の意味です。
 
  しかし、慣用的な言い方である「鬨の声」は、儀式的な叫びであるので、「戦の咆吼」とは違うということになります。
 
  「喊声(かんせい)」というのがあります。これは「鬨の声・鯨波」と同じだと辞書で出ていますが、突撃の時に出すわめき声で、儀式的な鬨の声とは少し違います。これは、多分「一斉に上げる叫び声」ということで、戦場で、一斉に、鬨の声とは別に咆吼することでしょう。突撃(吶喊)の時の叫びだとも云えます。「吶喊(とっかん)」は、「鬨の声を上げる」でもあるし、「大声を上げる」ともなります。(「鬨の声」より、「喊声」が広く、それより、「戦の咆吼」はもっと広いということでしょう)。
  
  戦国時代の戦争の「やりかた」というか、「戦闘のやりかた」は、戦略や戦術がある訳で、戦術には、戦列の構成や、戦闘手順などがありました。無闇に突撃していたのではありません。歩兵は、槍組や長槍組、弓組や、また後には鉄砲組も加わり、士官に当たる兵が騎乗で、これらの戦列の組の指揮を取り、これはという時に、一斉攻撃命令を出し、騎乗の兵が率先して前に出て相手の歩兵(足軽)を蹴散らし、敵の戦列を崩すと、また陣形を立て直し、守りを固めて、相手を追いつめるという戦術です。

  (歩兵は槍や長槍、弓を持っていた訳で、刀は、実戦向きではなく、折れにくく、刃のあまりない、棍棒のような刀で、突いたり、殴ったりするのに使ったのです。武将の場合、刀の予備をたくさん持っていて、切れなくなったり折れると棄てて、予備の刀を使ったのです。または槍を主に使い、刀はいざという時の武器ということになります。騎乗から長い槍で、歩兵や敵の騎馬武者を刺し殺したのであり、歩兵は、馬の脚を切って騎馬武者を落馬させたと云えます)。
 
  別の質問の回答で応えたのですが、乱戦に持ち込むというのは、敗北しかけているか、戦術の失敗の時です。
 
  以下のURLのわたしの回答参照:
  >No.227493 質問:西洋や中国の兵士は、どうやって敵を見分けていた?
  >http://oshiete1.goo.ne.jp/search.php3
  

参考URL:http://oshiete1.goo.ne.jp/search.php3
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三省堂 新明解国語辞典には


鬨(とき):
昔、戦闘開始・突撃・勝利などの時に、兵隊が一緒にあげた叫び声。[『鯨波』とも書いた]
とあります。余談ですが、英語だとwarcryとかbattlecryという表現になるそうです。このほうがしっくりきますね。

戦国時代の合戦には詳しくありませんので、
時代劇を見ていて気になるところを思いつくまま。。。

当時の雑兵(ぞうひょう)たちはほとんどが徴用された農民です。
武士とはいっても、与えられた禄だけでは食べていけませんから、普段は耕作や織物等の労働をしながら生活の糧を得ていました。
当時の最大の産業は農業でしたから、合戦は農閑期に行われるのが普通でした。
揃いの装束もなく、武器も刀があればいい方で、
まさかり、斧、ナタ等の生活道具を用いる場合が多かったようです。
独自に専属の戦闘集団としての武士団を抱えるようになったのは、織田信長が最初だといわれています。戦術家としてよりも、行政官としての革新性と手腕があったといえますね。

馬も日本原種(?)の農耕馬が中心ですから、
TVや映画で見るようなさっそうとしたものではありません。
この時代に蹄に鉄製の馬蹄を用いることは極めて稀で、ワラで編んだ草鞋を履かせるのが常でした。
蹄の音は、パカパカと高い音ではなく、ボコボコと低い音だったわけです。

以上、とりとめがなくなってしまってすいません。
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 かつての武将は、名を名乗り合ってから、一対一で戦うことを原則として、誉れとしていました。


 それが、合戦では遅れを取るという事で旗印、合言葉で敵味方を判じるようにしたようです。
 しかし、これは目立ち、動き難く、鉄砲による合戦には不向きなのです。
 掛け声は、不意打ちは卑怯ということであり、せめてもの情けでしょう。
 エキストラの足軽役で声を張り上げ、山野を駆け巡りますが、驚かし、相手の戦意を消失させることだと思っておりました。それに、迫力が違うでしょ。
 如何でしょうか?
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小説等では、「鬨(とき)の声」といいますよ。


勝利を収めた時の歓声を「勝鬨をあげる」とも言います。
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【歴史・戦国時代の日本人口の矛盾】戦国時代の歴史教科書の総人口がおかしいことに気付いた。

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少なく見積もっても800万人。

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そのときに3番目に多くの土地を貰っていたのは九州の大名で86万石。

天皇の朝廷
その時の天下人
でこの3番目の九州の大名

3番目の九州の大名で86万石。

日本で3番目に多くの領地を貰っている大名で最大で86万人しか食べられない。

ということは最低でも800万人国民いたとしたら、大名の数が当時の数と合わない。

本当はもっと総人口は少なかったのでは?

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つまり、氏綱が本拠を小田原に移したとき、武蔵の大半は敵領土だったのです。
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また、武蔵でも要所である川越にはいまだ扇谷上杉氏が居座っており、これを排除するのは結局、三代目である北条氏康の代になります。名高い川越夜戦で上杉氏勢力を完全排除、ついで足利氏を排除しました。この時点でようやく1551年。
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明治時代の歴史家が、「現代に繋がっているのは、いつからだろう?」という疑問設定から『うーん 信長や 東山文化あたりからだと、なんか つながっているっぽ』というので、現代史の切れ目をどこでするのか?というのが、室町と戦国を分ける切れ目となりました。

ということで、モノの考えが、現代人(ただし、明治の人)と、あい通じるモノがあるかないかで、決められています。

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