【大喜利】【投稿~11/1】 存在しそうで存在しないモノマネ芸人の名前を教えてください

幕末における輸入小銃などは日本で修理したくても部品がなかったのではないかと思います。ほかの同種の小銃の部品を使ったかもしれませんが、当時の状況はどうだったのでしょうか。弾丸などは鋳型に鉛を流し込んで供給していたのかと想像します。火薬などは自分で製造したものを使っていたのでしょうか。

A 回答 (11件中1~10件)

こんにちは。

ご質問は幕末のころ(1853~1868年)ということでいいですか?明治の日本陸軍については詳しくないんで。

幕末だと先込め式ライフルのエンフィールド銃の全盛期です。
元込め式のスナイドル銃は1866年に出ていますがまだ数がなく、一度の戦いで数百丁程度しか使われてないです。
エンフィールド銃はスナイドル銃に簡単に改造できますが、本格的に取り組んだのは明治になってからの話になります。

戊辰戦争までならせいぜい数千人同士の戦いですし、エンフィールド銃は故障が少ないので、スペアを数十丁準備しておく程度で戦いは乗り切れたんじゃないでしょうか。
エンフィールド銃は20秒で1発撃て、それを数千丁一度に使うので、大量に弾薬を使います。
鳥羽伏見の戦いだけで小松原調練所の弾薬庫が空になったそうなので、戦場でちまちま弾を作ってもたぶん焼け石に水じゃないかと…。
幕末じゃないですけど西南戦争では、政府軍は蒸気船を何隻も使って九州に弾薬を送ってます。

一方、戊辰戦争までの状況ですが…。
幕末の軍備増強って幕府よりも外国の侵略を恐れて行ってるので、技術投資の優先順位は大砲>蒸気船>銃。つまり上陸阻止>物資補給>上陸後迎撃でした。
大砲は戊辰戦争のころまでに外国製と遜色ない程度のものを作れるようになっていますが、そこで力を使い果たして、蒸気船と銃はもっぱら輸入頼みでした。
それに銃に関しては、当時は英米でも過渡期で毎年のように新製品が発表されていましたから、技術投資してもすぐに設備が旧式になって使えなくなってしまうので、お金がもったいないという判断だったようです。

幕末の薩摩藩では集成館で村田勇右衛門に銃の国産化の研究をさせていましたが、輸入した方が安いと方針を切り替えています。もし官軍で銃の修理をするとしたら村田以上の適任者はいませんが、彼も戊辰戦争では部隊を率いて戦っていますので修理やってる暇はなかったと思います。

ところで、なぜ先込め式のエンフィールド銃主体で薩長側が幕府側に圧勝したかというと…この銃の特色はライフリング(銃身内のラセン状の溝)です。
溝のないゲベール銃と比べると、90m→900mと飛躍的に射程が伸びました。命中精度も高い。
幕軍の敗北の最大の理由は、この圧倒的な射程距離の差です。
幕軍は90m近づかないと敵を攻撃できないのに、薩長の弾は数百m先から次々と敵を倒す。幕末ドラマを見ていてもわかると思いますが、当初は身を隠しながら敵に近づくという発想がなく、密集隊形のまま突進して行ったので、簡単に狙撃兵の餌食になりました。
これは日本に限った話でなく、南北戦争でも同じことが起き、たくさんの死傷者が出ました。

ただし、このようなライフルの性能を発揮するには、ちゃんと溝と噛み合う弾を使う必要があります。合わない弾を作っても撃てますが、性能は旧式のゲベール銃とそう変わらなくなるし、さっと装填できずに時間かかります。(猟をするにはそれでも問題ないですけど)
なにしろ20秒に1発しか撃てないので、その間に刀持った敵に走って近づかれると、やられます。実際、鳥羽伏見の戦いでは、射程の長さを活かせないような地形的に不利な場所や夜間の戦闘で、新選組にけっこう斬られてます。
ですから、性能の落ちる粗悪品を使うと、ものすごく不利になります。

米国では南北戦争初期、南軍が地域内で旧式銃を改造して粗悪品を作って対処しようとして悲惨なことになったらしくて、上層部が直接英国に交換部品の買い付け契約交渉に行ってます。
西南戦争の時も薩軍側は補給絶たれて、敵の弾を拾って再利用したらしいですが、負けてますね。
戦は補給で勝敗が決まるといっても過言ではないですから、そもそも前線で銃の修理や弾の鋳造なんかしなくていいように、上層部は開戦前に作戦を立てるべきでしょう。
戊辰戦争では大村益次郎がぎりぎり勝てるだけの弾薬や武器を計算して送る人だったので、戦は勝っても前線からは恨み買ってますが。

まとめると、技術的には前線で銃の修理や弾の鋳造をするのは可能だったが、そんなことやるまで追い詰められた側は負けた、という結論になります。

以上、長々と駄文書いちゃいましたが、ちょっとでもお知りになりたいことに近かったら嬉しいです。

この回答への補足

薩英戦争の際、薩摩藩の砲台は英軍の砲撃で戦闘不能になるほどに破壊されたと聞いたことがあります。薩軍も果敢に砲撃して英軍にも相当の被害を与えたようですが、大砲の性能に大きな差があったのではないでしょうか。

補足日時:2012/10/17 19:26
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この回答へのお礼

外交辞令でなく最後まで興味深く読ませていただきました。一つ一つイメージを浮かべながら何遍も読んでみたいと思います。たくさん新たな質問が出てくる予感がしますが、一つだけ補足欄に書かせていただきます。

お礼日時:2012/10/17 19:23

まあ、漫談です。



カニバリングという考え方があります。日本語に開くと「食い合い」になるのですが、AとBがこわれたら、各々の使える部分だけをとりはずして、Cにしてしまうという手段です。

基本的に輸入した兵器は、この考え方で対応するのがマルでして、下手に自前で修理をこころみると全部無駄にする可能性が高いからです。いまでも、先進国ではない国、地域では、珍しくありません。戦車などではよくある話です(地球上の戦車の内、8割がソ連--ロシアにあらず--の戦車なので、部品はとり放題、という事実を思ってみてください)。

弾丸は、鉛を溶かして型にいれれば、簡単に作れます。これは同時期のアメリカにおける、西部開拓移民も同様でした。ペンチの先に弾丸の形をしたくぼみがあるものを想像してください。流し込んで冷えたら開くと、コロンとできあがり、です。

漁師が仕掛けにつかう鉛の錘でもゲットすれば、あとはナベで溶かして型に流し込む。できた弾丸はプラモでいう、バリの部分もキチンとけずって取って置けば、余すところなく使えますね。

火薬は、当時は黒色火薬でしたが、日本の夏の風物詩に、花火があります。日本では手に入ります。
それと、火薬は時間があれば畳とオシッコでつくれますし(大塩平八郎がこれで火薬を調達しました)、厠の周辺にある土とかでもまかなえます。というか、兵器商人が売るとおもいます。

薬莢が基本的にいらないので、これで大丈夫です。むしろヘンに進歩したリボルバーなんかのほうが、キャップ,つまり雷管を手に入れるのがタイヘンだったのではないかとおもいます。
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この回答へのお礼

成程と思いました。相当数の同種兵器があれば部品の調達がなくても直せるということですね。互換性という概念がよくわかりました。電卓は電池が切れればおしまいですが、そろばんは大丈夫なようなものですね。身の丈でやるという意味もわかったように思います。大変勉強になりました。

お礼日時:2012/10/17 02:49

薩摩藩が弾薬生産設備を導入し、鹿児島属廠にて生産されていたらしいです。


スナイドル銃などの後装式ライフリング銃用の弾丸です。
後装式銃のポイントは弾丸と火薬がひとつになった薬莢を使うわけですが、そのための真鍮のプレス加工設備が大事らしいです。
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この回答へのお礼

西南戦争というのも単純なものではなかったのですね。勉強になりました。ありがとうございました。西郷さんも本気で新政府を倒そうとしていなかったのではないかと思いました。技術的にも当時一応生産が軌道に乗るだけの素地はあったのですね。ちょっと感激しました。

お礼日時:2012/10/16 11:39

明治維新の頃、実はヨーロッパでは大量の旧式兵器がダブついていました。

ちょうどアメリカで南北戦争があり(南北戦争があったため、黒船以降の幕末史でアメリカが登場することがなくなったのです)、終結と共に余り兵器が大量に出たのです。
ところがちょうどタイミングよく日本で大量の武器の需要が出てきました。ダブついた武器はヨーロッパでは旧式になっていたのも幸いでした。最新兵器は売れないけど、旧式兵器ならいくら売っても列強の脅威にはなりません。しかもおいしいことに、その旧式兵器も日本では「最新兵器」ということで言い値の高値で飛ぶように売れたのです。
つまり日本の各藩は、ヨーロッパ人から見たらボッタクリ価格で喜んで買っていたのですな。もちろん日本人はそれがボッタクリ価格とは知りません。

で、あまり自信がないですが、本当に当時は官軍も幕府軍も大量に武器を買い付けたので、それこそ簡単に修理できるような小さな破損なら自分たちで直したと思いますが、中程度の破損以上なら修理しないで捨ててたんじゃないかなと思います。
というのは、そもそも小銃のような武器というのは消耗品なんです。特に負けた側というのは装備そのものを失います。だいたい逃げるときに鉄砲なんて担いでいられないでしょ。みんな身ひとつで逃げるのです。例えばあのガダルカナルなんかでも日本軍はもう装備のほとんどすべてを捨てて撤退したのです。

戊辰戦争はある意味ローカルな戦争だったので、相手側をやっつけたときに相手が捨てていった装備でいいやつがあれば拾って使ったかもしれないですね。もちろんそんなに大量に武器を鹵獲できたわけではないでしょうけどね。
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この回答へのお礼

興味深いご考察を伺いました、経済的には欧米に利用されたような結果であっても日本の人たちは何かそれに勝る経験を積んでいたように思えます。物作りの精神があったからではないかと思います。欧米では金を儲けるほうが尊重されていたように思います。当時銃の水準は高かったとしても、モノづくりの精神は日本のほうがたかったのかもしれないと思いました。自分のイメージでは現在のEUの苦境に重なりました。一方現在の日本では当時の銃の使い捨てに重なる現象もあるように思いました。拙い想像しか浮かびませんでしたが、随分勉強させていただいた感じがします。どうもありがとうございました。

お礼日時:2012/10/16 01:19

ちなみに、西南戦争勃発寸前、


 明治政府は後装式新型銃の弾薬製造設備を薩摩から大阪に移すということを行っています。
 これで、反乱軍の力が大きくそがれました。

この回答への補足

薩摩にあった断薬製造設備の対象になった後装式新型銃というのは、どこかの銃のデッドコピーだったのでしょうか。またこの設備は薩摩藩の独自の判断で作られたのでしょうか。また撮影戦争での苦い経験も関係していたのでしょうか。

補足日時:2012/10/16 01:06
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弾は元込銃に関しては完全輸入、先込銃は火縄銃と変わらないので国産できます。


部品としては、火打石の部分は輸入に頼らないとしょうがないのですが、基本的に部品は外国商人が取り扱ってくれないのでその部分が壊れると使い捨てです。
やっかいなのは部品どころか弾まで外国商人は抱き合わせ販売していたため、弾が切れると銃そのものが使い捨て状態になりがちです。
それ以外の部品は火縄銃と同レベルなので、修理しようと思えばできたでしょう。
旋盤はできませんが、銃身そのものが壊れるともはや修理ではなく部品取りですしね。
まあ基本的に戊辰戦争は短期ですので、修理との需要じたいがそれほどなかったでしょう。


火薬は輸入・国産両方ありました。
火薬も火縄銃の技術がありますので、生産は可能です。
基本的にどこの藩も火薬は一定量の備蓄があったでしょうからそれを使い、不足分は買うでしょうが当然輸入したものもあったでしょう。
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この回答へのお礼

明治維新後、大きな努力で兵器の国産化が行われたということですね。ご教示感謝いたします。

お礼日時:2012/10/15 18:04

>幕末における輸入小銃などは日本で修理したくても部品がなかったのではないかと思います。

ほかの同種の小銃の部品を使ったかもしれませんが、当時の状況はどうだったのでしょうか。

輸入小銃は言われるほど大量流通していないので、その改造・メンテなどの技術は確立する必然性がなかった
もっと言えば、改造・メンテなどを専門的に行える技術者などが養成されていないので、せいぜい互換性のある部品の換装程度しか出来なかった模様
 厳密には、ほぼ使い捨てに近く、護身用レベルの小銃は国産品の方が信用性が高かった模様
まぁ、輸入ものよりも、実戦利用実績のある国産品の方が護身向けには愛用されているのが現実らしい
もっとも、近代兵装を意識した陸軍などでは、輸入小銃の利用・訓練などが行われたようだが、技官などが随員する事例が少ない模様


>弾丸などは鋳型に鉛を流し込んで供給していたのかと想像します。火薬などは自分で製造したものを使っていたのでしょうか。

規格が多様なのだが、戦国時代”末期の末期”には火薬などの基本技術は国産向けで確立しえる状況だった模様

修理という意識が当時の連中にあったのか?というのが気になるが、当人が修理したとも思えない
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この回答へのお礼

深いご考察をお聞かせいただきました。ピストルなどは国産のほうが信頼性があったとは驚きでした。ご教示感謝いたします。

お礼日時:2012/10/15 18:00

火薬に関しては幾らでも製造ができます。

銃は修理するより買った方が安いですし、当時の銃は壊れづらく(稼働部分がハンマー位しかないので)さしたる問題はありませんでした。但し、スナイドルやチュントナーデルなどの元込銃は弾薬が特殊であったためにいずれの藩も弾薬の製造が出来ず輸入に頼りました。会津藩はバウムガルテン銃を300挺も保有しながら弾丸が無かったために死蔵しました(これを買わずエンピール銃を買っていれば状況は多少良かったでしょうね…後の祭りですがwww)。

幕末でミニエー銃を生産したのは会津藩です。
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この回答へのお礼

製造ができれば修理も可能ですね。先込銃と元込め銃はプロペラ戦闘機とジェット戦闘機ほどの違いがあったのかと想像いたしました。ご教示感謝いたします。

お礼日時:2012/10/15 17:57

 幕末期は西洋でも銃の進歩が盛んだった時期で、ゲベール銃あたりまでだと日本でも火縄銃に変わって生産もされていたようです。

その後の記述を見ても前装式ミニエー銃を後装式に改造して使用したとありますから、改造が出来るぐらいなら修理も出来たのだろうという想像は出来ます。

http://www10.plala.or.jp/yageki/syojyu.html
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この回答へのお礼

藩によって修理能力に大きな差があったかもしれないと思いました。強い藩では優秀な修理係が同行していたというようなことはなかったかと想像しました。ご教示ありがとうございました。

お礼日時:2012/10/15 17:52

昔から日本人は、既存のモノを加工するのは得意だが、オリジナルの創作は苦手です。


銃に関しても同様で火薬ならばどうにかなるかもしれないが、修理となると設備投資が
必要です。仮に工場を作る事を考えてみましょう。それだけの設備投資をきっちり
できる状態ならば、幕末から明治維新の内乱は、もっとあっさり片がつきますし、
最悪、その他国の勢力に日本が制圧されていたかもしれません。メンテするよりは
大量生産する方が効率的だったかもしれませんね。

結局は、当時の文書を探すしかないでしょうが、火薬と言ってもたくさん種類が
あります。結局、その材料を持ち込めたかが鍵になるでしょう。それに、日本は
資源の乏しい国ですから。

質問者が想定するようなガンスミスは、幕末の日本では無理だったと思います。
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この回答へのお礼

故障などしたらそのままにしていたのでは経済的負担がかかり過ぎたと思います。基本的には輸入に頼っていたということでしょうか。ご教示感謝いたします。

お礼日時:2012/10/15 17:50

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