【最大10000ポイント】当たる!!質問投稿キャンペーン!

第二次世界大戦の年表を見てみると、
1939年 9/1 ドイツ軍、ポーランド侵攻
    9/3 イギリスとフランス、ドイツに宣戦布告
1940年 5/10 ドイツ軍、フランスに進撃開始
    5/26-6/4 英仏軍、ダンケルクから撤退
    6/14 パリ陥落
    6/22 フランス降伏

1.フランスが宣戦布告してから、ドイツがフランス進撃するまでの間の戦闘はどのようなものでしたか?
  フランスがドイツに攻め入っていたのでしょうか?
2.ドイツが攻め入ってからごく短期間で降伏してますが、どうしてですか?
 軍事力に差があったのでしょうか?
3.フランスは戦勝国のような顔をしていますが、実際は敗戦国と考えてよいでしょうか?
 フランス軍は弱かったのでしょうか?
 それとも政治的判断で、表面上降伏していたのでしょうか。
4.降伏中は、ドイツ軍として出兵していたのでしょうか?

よろしくお願いします。

このQ&Aに関連する最新のQ&A

A 回答 (6件)

すいません。

長文になってしまいました。
こんなに長いと読む気失せますね・・・。

1.地上戦はほとんど行われませんでした。
ライン川を挟んで「我々は平和を望む」というプラカードを
ドイツ兵が対岸のフランス兵に見せたり、川遊びする相手国の
兵士を黙認したり。
しかし、ノルウェーを巡る戦いでは英独は熾烈な海上戦を行って
いましたが、フランス海軍は積極的に参加していません。
もともと英仏海軍は歴史的に見ても仲が悪いこともありますが、
フランスの対独姿勢が定まっていないことが要因でした。
空でも、両国の偵察機などが何度か領空侵犯をしています。
イギリスは、積極的にドイツ領内に侵入しておりフランスは、対して
消極的でした。
戦闘が始まったら、戦場になる国ならない国の立場があり、前大戦の
記憶がフランスには残っていたのです。

2.独仏の軍事力バランスは当時、ほぼ拮抗。
兵器の性能面でも大局的には大きな差はありません。
戦車の運営方法の違いや電撃戦戦法、マジノ線の固守、アルデンヌ突破
を予見できなかったなどフランス敗因はいくつかあげられてますが
「今度こそ勝ってやる!」と思っている国の軍隊と「もう戦争なんか
したくないのに・・・」と思っている国の軍隊の差が根本的にあった
ため、それが細かい部分にまで影響したのでしょう。
このような「勝てる要素は十分にあった国が負ける」例として
ベトナム戦争の米軍、ギリシャ侵攻のイタリア軍、フィンランド侵攻
のソ連軍など多く事例があります。

3.事実上の敗戦国ですね。
ドイツが英米軍に降伏を申し入れた際、席上にフランス代表もいた
ことに驚いたという記録があります。
英米ソの戦後対立を利用し、敗戦国から戦勝国にすり替わった
ド=ゴールの活躍に負う点が大きいです。
フランスが戦勝国ツラをすることに、ドイツ以上に驚いたのは
チャーチルでしたから。
フランス軍が弱かった。というよりもフランス人は戦う気が無かったと
いった方が正解かも。
「表面上」「軍事的」「全面」どれであろうと降伏は降伏です。

4.ドイツに併合されたアルザス地方の住人は、徴兵されてますが
フランス人の中には、義勇兵としてドイツ軍に参加した兵士も
少なからずいます。
ドイツ占領中、フランス国内ではドイツを尊敬すべきではないか?
という考えも芽生えてました。
ユダヤ人狩りも、積極的か黙認という形で協力しています。
対独抵抗運動にフランス人は参加・協力したような印象を戦後フランス
はアピールしたところがありますが、レジスタンス活動の主は
共産主義者です。フランス民間人が対独戦に参加するようになったのは
ノルマンディ上陸の後からで、中には英米の(鉄道や輸送路、民間人
への誤爆等)空爆に抗議して英米軍に報復する人間もいたようです。
植民地にいた主にフランス海軍は、イギリス軍と交戦しています。
(ダカール港等)
米軍のアルジェリア上陸の際も抵抗したフランス軍もいます。

フランスは、1918年から現在まで(対外戦略は)未だ混乱しています。
アングロサクソンにもゲルマン人にも勝てない。
かといってイタリアやスペインみたいに落ちこぼれたくない。
日本や中国になめられたくない。
中東石油などの利権には関わっていたい。
そんなことへのあせりが、数年前の(シラク政権時)南太平洋での
水爆実験を強行した理由です。
そして、国内イスラムテロという新しい敵が生まれても未だに
フランスの仮想敵国No1、No2は
ライン川を超えてくる連中(ドイツ人)、海峡を超えてくる連中
(イギリス人)でもあるのです。
    • good
    • 2

マジノ線は、フランスが難攻不落の要塞と豪語していたようですが、


ドイツの電撃戦法で簡単に撃破されてしまいます。

ここが大きな誤算であったようです。
日本のノモンハン事変では、ほぼ全滅するまで抵抗し続けたので撃破はされていません。
つまり、準備する時間を奪われてしまったのです。

>フランス軍は弱かったのでしょうか?
歩兵の時代では無く、機甲、機動力の時代でした。
考えがかなり古く、甘かったようです。

戦国時代の兵が準備バンタン、動けるようになるまでには数日程度の準備期間が必要だったようです。
3日かけて歩いてきた農兵がようやく集まります。^_^;

つまり、歩兵の運用思想や有事の対処手段、防衛線の張り方や、
当時のドイツへの読みにに大きな問題があったようです。

フランスが降伏した後、
ド-ゴールが自由フランス政府の樹立を宣言します。
ロンドンから対ドイツ抗戦を呼びかけてレジスタンスを指導しました。

ですから、一応は、フランスは降伏していない事になります。
    • good
    • 0

 1~3についてはNo.1・2の方の回答と大差ありませんから、4項についてのみお答えします。

 
 
> 4.降伏中は、ドイツ軍として出兵していたのでしょうか?

 占領下のフランスは、正規軍としてドイツ側に立って参戦しませんでしたが、「義勇軍」としてドイツ国防軍・武装親衛隊に加わっています。(陸軍および海軍)

 国防軍には「フランス義勇歩兵連隊」の名で数個部隊が東部戦線で戦い、武装親衛隊に所属した「擲弾兵フランス第1師団(シャルマーニュ)」(元SS義勇突撃旅団シャルマーニュ)は、他国の義勇兵達とともにベルリン首都防衛戦でソ連軍に最後まで抵抗しました。

 
 『世界戦争犯罪事典』(文藝春秋社)のなかに次のような逸話があります。

 1945年5月、南独カールシュタイン、クーゲルバッハ川にて仏第2戦車師団長ルクレール将軍は、武装SS[シャルマーニュ」師団のフランス兵12名の捕虜を尋問したさい「お前たちは外国の制服を着て恥ずかしくはないのか」と怒鳴りつけた。いちばん階級の高いブリフォー少尉が「あなたも外国の制服を着ているではありませんか。将軍閣下!」と答えた。ルクレール将軍はその時米軍の軍服を着ていた。これに怒った将軍は4人ずつに分けて銃殺した。SS隊員は全員「フランス万歳」と叫んで倒れた。

 
    • good
    • 1

開戦後かなり善戦すると期待されたポーランド軍が短期間で壊滅してしまい、フランス、イギリス共立ち後れてしまい、守勢に陥りました。


従ってドイツへの進攻はありません。

2戦車の集中使用、機械化部隊の共同作戦、空軍力の活用という電撃戦構想において仏英軍は遅れていました。 落下傘部隊の活用と後方攪乱も予想外で、オランダ、ベルギーへの侵攻はシュリーフェン計画に従うと英仏軍に誤解させた為、英仏軍はベルギー方面に主力を展開したのです。 ここを当時大兵力の展開不能と考えていたアルデンヌの森を突派してドイツ軍が急突進して逆シュリーフェン計画で英仏軍の主力の背後を包囲したので混乱の末英軍は撤退しました。
以後北仏を短時間に占領され兵力の大部分を失い降伏するに至りました。  作戦と用兵の失敗でした。
3短期的には敗戦国、長期的には戦勝国にかろうじて仲間入り。
4フランスは敗戦後、ドイツに強力を強いられましたが実戦に兵士を派遣することはありませんでした。
    • good
    • 1

1宣戦布告はしたものの、実際上英仏は何も行動しません。

この弱気を付かれましたね。半年後痛い目にあいます。ドイツがオランダベルギー経由でフランスに侵攻します。
2実際上の戦闘能力を奪われたので。軍事力は拮抗しています。作戦がまずかったのです。
3実際上戦闘不能になりました。イタリアと同様、実質敗戦国です。戦後のおこぼれという感じの戦勝国です。
4捕虜として送られました。
    • good
    • 0

1:奇妙な戦争といわれました。


英仏は、イギリス軍を大陸に移動しつつ、防御を固め、ドイツがソ連に攻め込むのではと思っていた。

2:電撃戦を理解していなかった。
ポーランドがドイツの電撃戦に敗れたことを正確に理解せず、ポーランドより防御陣地がちゃんとしている、(マジノライン)と、思っていたら、ドイツは、中立国のオランダ・ベルギーを侵して、防御ラインを迂回しつつ、電撃戦で撃破された。

3:建前上の戦勝国
パリ解放は、政治的な背景もあり、自由フランス軍(ドゴール配下)がしたことになっている。ドイツがパリを放棄したあとですので、ほとんど実戦はなし。ただ、占領下でのフランスレジスタンスの功績は、ある程度評価できる。

4:出兵せず

補足、軍事力と言うときには、正面兵器と、その運用という二側面があります。正面兵器として考えると、開戦時において、戦車の台数や機能ではフランス>ドイツでした。戦前において、戦車の運用に関しては、ドイツのグーデリアンと並んで、イギリスのフラーやフランスのドゴールも機動的に使うべきと主張しておりましたが、実際に運用したのは、ドイツのみで、フランスの戦車は、各部隊に散在するという状況でした。この差が、実際の戦場では効きました。
戦車が一対一で対決したら、性能と台数でフランスが勝ったでしょうが、運用で負けたわけです。
    • good
    • 0

このQ&Aに関連する人気のQ&A

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!

このQ&Aを見た人が検索しているワード

このQ&Aと関連する良く見られている質問

Q第二次世界大戦で日本は絶対勝てなかったのでしょうか

第二次世界大戦で日本は絶対勝てなかったのでしょうか
もし日本がミッドウェーで勝利しアメリカ空母艦隊が崩壊したうちに
ハワイ・パナマを占領しアメリカ西海岸を爆撃、細菌兵器をアメリカ本土にばら撒き、
結果アメリカ国民の世論を反戦に動かし、日本が有利な形で講和できなかったのでしょうか。

Aベストアンサー

当時の帝国海軍及び陸軍の致命的な欠点の一つとしてあげられるのが「補給の軽視」です。
そもそも海軍の対米戦略は「艦隊決戦による早期講和」でそのために艦隊の整備を行って来ました。

長大な航続距離と偵察機を装備した「イ号潜水艦」はその典型で「艦隊決戦を行う前に敵艦隊の戦力をすり減らすため」といった通商破壊を主とするWW2での各国の潜水艦戦略とは大きく異なった運用法からも見てわかるとおり、「潜水艦はあくまで補助戦力」といった考え方から抜け出せず、米軍の魚雷の劣悪な性能も相まって「輸送・補給船団が潜水艦に攻撃されたとしても大した損害はないだろう」、「護衛は旧式駆逐艦でもつけとけばいいだろう」と考えた結果もともと少ない輸送船及び護衛艦は大損害を出し、次第に作戦遂行に影響を与え始めます。

昭和18年11月になってようやく「海上護衛総司令部」を設置し12月には護衛空母4隻を編入するなど、それなりの体裁を整えますが、主力となるはずの駆逐艦は「峯風型」や「神風型」といった旧式艦ばかりでした。

帝国海軍の駆逐艦は対潜戦闘よりも上記の艦隊決戦構想のため対艦戦闘と主眼とした装備で対潜性能が低く、狩るはずの潜水艦に逆に沈められるケースも多く、もっとも米潜水艦による駆逐艦の損害が多かった昭和19年だけでも30隻の駆逐艦が撃沈されています。

長々と書いてまいりましたが、
(1)日本海軍は開戦初頭に占領したウェーク島の補給が限界地点だといわれており、ウェークよりもさらに遠いハワイやパナマを占領し維持し続けるための輸送能力及び護衛戦力があるのか?

(2)ガトー級だけでも200隻あまりを計画し大戦中にほとんどを整備した米国の造船能力・潜水艦戦力に対抗できるのか?

(3)北方(ソ連)を重視し、泥沼の中国戦線を抱え、南方に戦力を割かなければならない状況を苦々しく思っていた陸軍からハワイ・パナマを占領し維持するために必要な戦力を抽出することが可能か?

等々、ハワイ・パナマを占領し維持するだけでも「日本軍には不可能」と言わざるを得ません。


西海岸の爆撃ともなると防弾性能の貧弱な日本軍機が、管制された雲霞のような米軍迎撃機群、対空砲火網を突破し、爆撃し、帰還出来る機体が何パーセントあるのか、など考えるだけでも恐ろしい損害を出すことが予想されます。

細菌兵器の使用に関しては昭和19年から実行された米本土爆撃作戦(ふ号作戦)で計画されたものの作戦内容を知った天皇陛下によって細菌兵器の使用が禁止されたことがあるため、今回のケースでも実行されることはないと思います。

長文失礼しました。

当時の帝国海軍及び陸軍の致命的な欠点の一つとしてあげられるのが「補給の軽視」です。
そもそも海軍の対米戦略は「艦隊決戦による早期講和」でそのために艦隊の整備を行って来ました。

長大な航続距離と偵察機を装備した「イ号潜水艦」はその典型で「艦隊決戦を行う前に敵艦隊の戦力をすり減らすため」といった通商破壊を主とするWW2での各国の潜水艦戦略とは大きく異なった運用法からも見てわかるとおり、「潜水艦はあくまで補助戦力」といった考え方から抜け出せず、米軍の魚雷の劣悪な性能も相まって「輸送...続きを読む

Q小学生でもわかる第二次世界大戦の流れ

小学生と、知的障害がある中学生に第二次世界大戦のことについて
説明してほしいと頼まれましたが、しゃべった内容が難しかったのか
ぽかーんとされてしまいました。自分が完ぺきに理解しているというわけでもないので
説明しながら自分でもわからなくなってしまいました。

そこで、子どもにも簡単に説明できるような第二次世界大戦の
開戦きのっかけ、流れ、終戦、状況などをとても簡単に教えてください。
お願いします。
一時間以内で話せたらいいかなあと思っています。

Aベストアンサー

 こういうのでどうでしょうか?

(1) 世界は3つのグループがあった。
 A)アメリカやイギリスなどお金持ちの強い国。
  Cグループの弱い国を支配していた。

 B)日本・ドイツなど貧しくて強くなりたかった国。
  AグループからCの国を奪おうとして戦争を起こした。

 C)AグループやBグループに支配されていじめられて
  いたので支配から逃れようと運動をおこしていた。

(2) 開戦

 ・日本は朝鮮や台湾・中国の北部を支配していた。
  中国全部を支配しようと戦争を始めていたが、アメリカ
  やイギリスが邪魔をしたのでそれら強国との大戦争に
  なった。
 ・ドイツも同じく周りの国々を軍隊の力で支配し、
  アメリカやイギリスと大戦争になった。
 ・強国に支配されていた国々は日本やドイツのやりかた
  が酷かったので日本やドイツと戦いを始めた。

(3) 流れ

 ・日本とドイツの戦争のしかたは奇襲といって相手が
  油断しているときに突然襲う戦い。だから初めは
  勝つけれど、より強いAグループが本気を出すと
  日本・ドイツは負けていく。そして支配の仕方が
  酷いので支配された国の人から恨みをかい日本と
  ドイツは大敗する。

(4) 終戦
 ・負けることがわかっても日本だけ戦いつづけた。
  理由は天皇を守るためということだった。
  戦いが続く中、アメリカは原爆という大きな爆弾を
  日本の広島と長崎に落として日本は降参した。

(5) 状況

 ・この大戦争は初めは強国どうしのよその国を奪い合う
  喧嘩だった。けれど日本やドイツが少人数の偉い人の
  命令をみんなは文句を言わず聞け、一人一人の事より
  国=偉い人のほうが大事なんだという考え方と、一人
  一人の事を大切にする考え方に賛成する国々との戦い
  となり、最後は日本と80の国々との戦いとなった。

 ごめんなさい。やはり難しいですね。でもこれを下敷きに

もっとお話し的に変えたらどうでしょう?

 

 こういうのでどうでしょうか?

(1) 世界は3つのグループがあった。
 A)アメリカやイギリスなどお金持ちの強い国。
  Cグループの弱い国を支配していた。

 B)日本・ドイツなど貧しくて強くなりたかった国。
  AグループからCの国を奪おうとして戦争を起こした。

 C)AグループやBグループに支配されていじめられて
  いたので支配から逃れようと運動をおこしていた。

(2) 開戦

 ・日本は朝鮮や台湾・中国の北部を支配していた。
  中国全部を支配しようと戦争を始めていたが、アメ...続きを読む

Qなぜ中国は人口が多いのですか?

数千年前に急激に増えたのでしょうか?
SEXの好きな民族だったのでしょうか?

Aベストアンサー

 
  基本的に幾つかの理由が輻輳しています。
 
  1)まず、中国は、黄河・揚子江を擁し、肥沃な大平野があり、古来より、麦・米の栽培による灌漑農耕があり、「四大文明」の一つだともされています。二千年乃至三千年以前から、肥沃な土地にあって農業を営み、養える人口が、他の地域よりも多く、結果的に、古代から人口過剰になっており、農耕地をどんどん拡大し、揚子江南岸の三国志時代の呉などの地域は、あまり農業生産性が高くなかったのですが、ここも農耕地に変え、食料生産能力を高度に上昇させました。そのため、古代、二千年とか辺りからすでに人口問題があり、周期的な大戦争や天災で、死んだり、餓死したりで、人口調整がなされていたとも云えます。つまり、昔から、中国は人口が多かったのです。人口密度も高かったのです。
 
  2)上の周期的な人口減少があるということは、それを回復するための努力や、また自然に回復する理由があったとも云えます。その理由の一つは、中国の社会が、農業文明であって、農業文明では、人口調整は自分たちでは行わないのです。つまり、生まれる数だけの子どもを育成しようという文化慣習があります。この結果、戦争・天災などで、減った人口はすぐに回復するということが繰り返され、また、このような経験を蓄積した文化として、「子どもはできるだけ多数造る」というのが、歴史を越えて、文化の基底習慣にもなってしまいました。
 
  3)もう一つの理由として、中国の社会の構造があります。中国は、大家族制社会で、もう一つ大結社的社会でもあるのですが、中国の歴史上の争い、戦争や政争などは、大家族・大結社の規模や、どれだけ、それらを糾合できるかで決まりました。従って、大家族は、人数が多いほどよいというので、農業文化の基本である、子どもは造れるだけ造るという原理以外にも、社会的競争の結果、大家族集団では、育てることのできない子どもは、力ある、大家族の別の家族が引き取り養うという形で、単に、農民家族が多くの子どもを育てるというだけではなく(これだと、個人家族の限界が出てきます)、大家族共同体が、そのなかで、多数の子どもを再生産するという、大共同体レベルで、多産多育成を可能とする社会機構があったので、そういう機構がない農業社会に較べ、多数の子どもが、成長し得たということで、人口増大がすぐ起こったのです。
 
  4)あまり説明が長くなるのも困りますから、もう少し簡単にしますが、次に、社会の「近代化」という問題があります。農業生産を基盤とする社会は、可能な上限まで人口を増やします。国連が食料を援助すると、その援助分だけ、人口が増えて行ったりします。しかし、先進近代国家は、人口減少へと現実的に向かっています。この理由は、高度文化社会となると、餓死の心配などはなくなり、国家の国民支援も、制度的に保証され、子どもをたくさん造って、家族や自分たちの「保険=保証」にしようという必要がなくなることがあります。また、高度文化においえ、義務教育他高等教育も普通となり、生活費用も高くなり、一人の子ども成人させるのにかかる費用が大きくなって行き、多くの子ども育てるということが、合理的でなくなってきます。不可能になるとも云えます。国民全体が、餓死などない、相応に豊かな生活水準になり、義務教育の普及が90%を越えて来ると、こういうことになり、人口増加は逆転して人口減少になります。これが先進国の実状です。
 
  5)現在の先進国も、1世紀前には、実は、人口増大していました。先進国はどこもかも、産業化の時点から較べて、数倍から十倍ぐらいの人口に増え、その後、増加は停止し、減少へと転じます。このパターンからすると、現在世界の後発国は、産業化をすすめ、教育の普及などを進めていますが、この結果としての人口増大があります。衛生思想や技術の普及で乳児死亡率が低下し、人口増大へと転化した国も多数あります。中国もそうであり、1世紀前に較べ、第二次世界大戦などを経過したにも拘わらず、産業化・先進化の歩みの途上の人口増加を経験していると云えます。
 
  インドやバングラデシュや、アフリカなどの人口増加はどうなるのかは、主に第五の理由が共通しています。その他には、インドには、また固有の事情があります。とまれ、中国は、先進国化してしまえば、人口増加は停止するはずですが、「先進国化」というのは、文明の展開で、最初に突破した少数の国々・地域だけに可能で、後発諸国は、そういう可能性はないのではないかという可能性もあります。つまり、中国が近代化・先進化する見込みはないという可能性が高いです。先進化への開始から、実現までのあいだに、日本・欧米で、数倍から十倍ぐらいの人口増加と言いましたが、その数字からすると、中国が近代化を進めて行く過程で、いまから、農業国であった理由での人口増大とは別の要因の人口増大が加わって、まだまだ、増えて行くと考えられます。
 

 
  基本的に幾つかの理由が輻輳しています。
 
  1)まず、中国は、黄河・揚子江を擁し、肥沃な大平野があり、古来より、麦・米の栽培による灌漑農耕があり、「四大文明」の一つだともされています。二千年乃至三千年以前から、肥沃な土地にあって農業を営み、養える人口が、他の地域よりも多く、結果的に、古代から人口過剰になっており、農耕地をどんどん拡大し、揚子江南岸の三国志時代の呉などの地域は、あまり農業生産性が高くなかったのですが、ここも農耕地に変え、食料生産能力を高度に上昇さ...続きを読む

Q第2次世界大戦前後の日中関係

第2次世界大戦中、日本は米国に、国際法にのっとり、宣戦布告し(連絡ミスがあったようですが)、南方で戦ったことは知っています。

ところで、日本は、韓国・中国とは当時の国際法上、戦争していないはずだと思うのですが、中韓両国は、日本軍によって甚大な被害を被ったという話をよく聞きます。

韓国は、一時期の植民地支配(日韓併合)に対して、被害を被ったと主張していることは(善し悪しは別にして)だいたい理解できました。

ですが、中国については、日本との関係がいまひとつ理解できません。被害者と主張している側が、なぜか戦勝国になっていることも含めて。

中国に対して、日本は一方的に(100%)、侵略行為をしたのでしょうか? 中国にも若干非があったのでしょうか。
当時の、国際世論も含め、日中の客観的な、歴史を時系列で教えてください。

どうぞ宜しくお願い致します。

Aベストアンサー

1904~05年の日露戦争で、日本は旅順・大連の租借権(事実上の領有権)と、後の南満州鉄道を手にしました。このとき、イギリスは同盟国でしたし、アメリカも日本に好意的でした。旅順・大連に駐留した日本軍が「関東軍」と言われます。
1914年に第1次世界大戦が始まると、日本は対独宣戦をして、ドイツの租借地青島を陥落させ、ドイツが持っていた山東半島での利権を接収し、翌1915年にいわゆる対華21か条の要求を中国に行い、この利権の継承のほか、満州、内蒙古での権益を要求して認めさせます。このときはアメリカも支持を与えていますが、第1次大戦の戦況を気にしてのことです。1919年に結ばれたベルサイユ条約では、米英仏も同意して、ドイツ利権の日本への引渡しが中国の反対を押し切って盛り込まれます。5・4運動と呼ばれる反日デモが中国全土で起こったのは、これに抗議してのことです。
1921~22年に、アメリカの主導でワシントン会議が開かれますが、中国に関しては「主権尊重・領土保全」を定めた9カ国条約を結び、米英の圧力で日本は21か条要求で手にした利権のほとんど(旧ドイツ利権を含む)を返還します。このときに日英同盟が廃棄されますが、このときから米英は日本の対中進出を警戒するようになり、特に対米関係は緊張に向かいます。1928年に、軍閥の割拠状態にあった中国は国民党によって統一されますが、これに対し日本は山東出兵、張作霖の爆殺で介入しようとしますが、米英を恐れて政府が事態拡大を抑えています。同じく1928年には不戦条約が結ばれ、日本も参加します。
そして、1931年に満州事変を関東軍が起こし、満州を占領、32年には「満州国」を成立させます。形式上は独立国ですが、政府の要職には必ず日本人の副官をつけ、日本が実権を握りました。中国の要求で、国際連盟はリットン調査団を派遣し、その報告では満州国は日本の傀儡だと認定し、日本の撤退を勧告する一方、日本に満蒙での特殊権益を認めるべきだ、とする妥協案も示します。日本はこれを拒否し、国際連盟が報告にもとづく勧告を採択すると、日本は国際連盟を脱退し、国際社会での孤立を選択します。しかし、米英が介入を避けたので、1933年に日中軍事停戦協定が結ばれ、中国は事実上、満州をあきらめることを余儀なくされます。
1935年以降、関東軍は華北分離政策を進めて、華北への介入を強めますが、これに中国はイギリスの支援で経済改革で対抗しようとします。中国で国共合作が成立し、抗日統一戦線が作られるのはこうした状況の下でのことです。
そして、1937年に日中全面戦争が始まります。盧溝橋での日中の衝突は多分に偶発的なもので、現地では停戦協定が成立していたのにもかかわらず、日本は軍を増派して戦争を開始しました。アメリカはこれを激しく非難し、国民政府への援助を強めます。太平洋戦争の前段の日米関係の悪化は、日中戦争の開始に端を発していました。首都南京を陥落させれば、国民政府は屈服する、と日本は考えていたのですが、南京陥落に際して、国民政府は武漢、その後重慶に遷って抗戦します。日本軍の支援で成立した汪兆銘政権は、日本軍占領地域の政府で、日本軍に対する拒否権は持てず、実質は日本軍の傀儡でした。日本軍は占領地域は増やしていきますが、住民の抵抗や、八路軍(中国共産党軍が国民政府軍に編入されたときの名称)などのゲリラ戦に悩まされ、戦争は泥沼化します。このとき、日本軍による住民虐殺が起こったのも、住民と区別のつかないゲリラを掃討するためということでした。このころの中国共産党は「抗日」で民衆と深く結びついて勢力を伸ばしました。中国共産党政権が、抗日戦争を教育に使うのは、中国共産党が中国民衆の味方であることを強調したいためです。
1939年、日独提携に対抗して、アメリカが軍需物資の対日禁輸策をとったため、中国戦線を維持するには物資が不足したことが、日本の南進の動機となります。また、東南アジアからインドにかけて占領する、という作戦の動機のひとつはアメリカによる「援蒋ルート」(アメリカが国民政府に対して支援の兵器や物資を輸送した道)をさえぎる、ということでした。1941年のハル・ノートを日本陸軍がどうしても飲めなかったのは、「中国からの撤退」というところです。このように、太平洋戦争は日中戦争抜きには考えられなかったので、日米が開戦すると、当然のように米中は同盟関係となったのです。
軍事的には、日本敗北の主力をなしたのはアメリカで、日本の降伏時も中国には広大な占領地域が存在しました。しかし、中国撤退を拒否したために、開戦したのですから、中国戦線の泥沼化はその日米戦争の前提条件でした。中国が抗戦し続けたのも同様に前提条件と言えます。したがって、日本の降伏にともない、中国が戦勝国になったのは自然な流れでした。
韓国・北朝鮮はこの戦争においては、植民地として日本の一部だったため、戦勝国として認められず、サンフランシスコ講和会議にも招かれませんでした。朝鮮戦争中ですから、南北いずれにもそれを打開する政治力・外交力はなかったのでしょう。

この過程では、中国が日本固有の領土に侵攻したことは1度もありませんでした。日清戦争も、朝鮮が主戦場です。その後、日本は軍事力をてこに、中国固有の領土上での支配地・占領地を増やしていきました。中国の領土に駐兵し、ついには戦争をしかけて占領地域を拡大していきました。これが侵略でなければ、どういうことを侵略と呼ぶのか、と問いたいと思います。欧米列強の植民地拡大とどこが違うのでしょうか。他の人たちが悪いことをしていることは、自分がしている悪いことを免罪するものではありません。子どものときに悪いことをして叱られたとき、「xxちゃんもやってるよ」と言ったら、「お前が悪いことをしたのには変わりがないだろ!」とさらに叱られたことを思い出します。

中国に非があるとすれば、清朝が近代化に遅れをとり、その一因としては、自由化・民主化をつぶし、民衆の生活を省みなかったこと。1911~12年の辛亥革命で、清朝が倒れ、建前としては民主共和国である中華民国が成立しても、実質的には軍事独裁が続き、その状況をドラスティックに変えることができなかったこと。三民主義を掲げて政権を握った国民党も、政権掌握後は、現在の共産党政府と同じように、独裁と腐敗に沈む状況には、変わりがなかったこと。といったことでしょうか。いずれも国内的要因で、外国の侵略を正当化するのは、「いじめられた方にも原因がある」というようなものです。いじめられた方にどんな原因があったとしても、それはいじめることが悪いことだということを変えることにはならないと思います。

書くのに熱中していたら、とんでもなく長くなってしまいました。ここまで読んでいただいて、ありがとうございます。

1904~05年の日露戦争で、日本は旅順・大連の租借権(事実上の領有権)と、後の南満州鉄道を手にしました。このとき、イギリスは同盟国でしたし、アメリカも日本に好意的でした。旅順・大連に駐留した日本軍が「関東軍」と言われます。
1914年に第1次世界大戦が始まると、日本は対独宣戦をして、ドイツの租借地青島を陥落させ、ドイツが持っていた山東半島での利権を接収し、翌1915年にいわゆる対華21か条の要求を中国に行い、この利権の継承のほか、満州、内蒙古での権益を要求して認めさせます。このときはアメ...続きを読む

Q中華人民共和国と中華民国は全く違う国ですか?

1.台湾は国の名前ではなく中華民国の県みたいなものですか?
2.中華人民共和国と中華民国は全く違う国ですか?
3.台湾と今の中国(中華人民共和国)は全く別の国ですか?

Aベストアンサー

>「中華民国を国として認めている国にとっては違う国になりますし、国と認めていない国にとっては、同じ国の1地域になります」ということはいまでもはっきりせずもめている状態ということですか?

 そのとおりです。先日も、元中華民国(台湾)の総統の来日を認めるかどうかで、日本と中華人民共和国でひと悶着在りましたね。

>そして世界の多くの国(日本を含め)は台湾は中国の一部だと認識しているということでしょうか?

 そのとおりです。ですから、国際的なスポーツ大会では中華民国ではなく「チャイニーズ・タイペイ」という折衷案みたいな国名で参加しています。

>パスポートは中国とは違うものになるのですよね?

 はい、違います。

Q朝鮮戦争の原因は何ですか?

映画「BROTHERHOOD」を観ました。
突然に北側から攻撃が始まるのですが、この戦争の原因は何でしょうか?
主義が違うからといっていきなり同じ民族同士で戦争を始めるというのが理解できません。
また韓国にはアメリカ軍もついているわけですから、勝てる見込みもありません。

よろしくお願いします。

Aベストアンサー

朝鮮戦争はソ連アメリカの代理戦争で、日本の敗戦により北朝鮮を支配したソ連よりの北朝鮮人民共和国が朝鮮半島を統一支配する為に起こしたものです。
背後にはソ連、中国がいたのです。

アメリカは韓国を緩衝地帯としていましたからその防衛は韓国軍にまかせる方針でした。

朝鮮は確かに同一民族といえますが古くは高麗、百済、任那時代から敵対関係の時代もあり、気候風土、気質もかなり異なります。
アフリカで民族よりも氏族単位で内戦が絶えないのと同様です。

北朝鮮はソ連の余剰戦車が多数あり、補給も中国を経由して確保できますから短期決戦で勝利出来る計画でした。
開戦当初は計画とうり戦車部隊を先頭にした北朝鮮が優勢でしたがアメリカ軍がその背後の仁川に逆上陸し、補給路を切断したので補給を絶たれた北朝鮮軍は敗北後退し、アメリカ軍の優勢な空軍力により中国国境近くまで追いつめられました。

緩衝地帯の消滅を恐れた中国が義勇軍を送り中朝連合軍と国連韓国連合の戦争になり持久戦となりました。

この時点で中国とアメリカの戦争になったのです。

戦争に残虐な行為はつきもので、双方の兵士、民間人を問わず戦場になった所は悲惨な運命にあいます。

朝鮮戦争はソ連アメリカの代理戦争で、日本の敗戦により北朝鮮を支配したソ連よりの北朝鮮人民共和国が朝鮮半島を統一支配する為に起こしたものです。
背後にはソ連、中国がいたのです。

アメリカは韓国を緩衝地帯としていましたからその防衛は韓国軍にまかせる方針でした。

朝鮮は確かに同一民族といえますが古くは高麗、百済、任那時代から敵対関係の時代もあり、気候風土、気質もかなり異なります。
アフリカで民族よりも氏族単位で内戦が絶えないのと同様です。

北朝鮮はソ連の余剰戦車が多数あり...続きを読む

Qドイツがソ連に参戦しなければ戦争に勝っていましたか?

第二次世界大戦でドイツ軍が敗北したのは、ソ連に参戦をしかけ戦域を広げたためだと思います。
もしそれがなければ戦争に勝利する確率はどれくらいありましたか?
あるいはアメリカが参戦した時点で勝てる見込みがなくなっていましたか?

よろしくお願いします。

Aベストアンサー

そもそもナチスドイツの目的は、ソ連を倒し、東方に勢力圏を広げる事でした。
フランスとの戦いは、ソ連と戦っている時に、後ろから攻撃されないようにする事が目的でした。

(ベルサイユ条約への反感も有りましたが。)

そのため、ドイツとソ連が戦わないという事は、想定しにくいのですが、ヒトラーが、ソ連との戦いを延期し、イギリスを無力化る事を、最優先に考えたのなら、勝つ事は、可能だったと思います。

そのためには、スペインを何としても同盟に引き込み、最悪スベインに攻め込む位の気構えが必要でした。

スペインから、ジブラルタルを攻撃し、占領。
その後モロッコに軍を派遣し、モロッコの防備を固めます。
一方、リビアのアフリカ軍団を増強し、スエズ運河占領。
さらに、インド洋にUボートを派遣して、通商破壊を行えば、イギリスの占領はできなくても、ほとんどイギリスの無力化ができます。

多分、ジブラルタルかスエズが占領された時点で、チャーチルは、辞任に追い込まれるでしょう。
この時点で、アメリカが参戦していなければ、イギリスとの講和が可能です。

ただ、実際の赤軍は、この時ほとんどスターリンにより無能化されていましたが、この作戦中、ソ連軍がドイツに攻め込む可能性が予想された場合、ドイツがこの作戦を行う事には、危険がともなったでしょう。

ドイツが勝つか負けるかは、スペインを同盟に引き込めるかどうかにかかっていたと思います。
スペインで、足を取られたら、ソ連に漬け込まれる可能性が有りました。

そもそもナチスドイツの目的は、ソ連を倒し、東方に勢力圏を広げる事でした。
フランスとの戦いは、ソ連と戦っている時に、後ろから攻撃されないようにする事が目的でした。

(ベルサイユ条約への反感も有りましたが。)

そのため、ドイツとソ連が戦わないという事は、想定しにくいのですが、ヒトラーが、ソ連との戦いを延期し、イギリスを無力化る事を、最優先に考えたのなら、勝つ事は、可能だったと思います。

そのためには、スペインを何としても同盟に引き込み、最悪スベインに攻め込む位の気構え...続きを読む

Q太平洋戦争中に戦争に反対した人はいますか?

質問内容はタイトルの通りなんですが。
最近、終戦60周年ということもありテレビなどで戦中のことを報道する番組を多く見かけます。
そして少年兵の出征や特攻隊の隊員の手記(遺書)戦地での過酷な状況などを紹介し感動的なエピソードとして放送しているものもあります。
しかし・・・。
どうも私は納得がいかないのです。
確かに特攻隊員の書いた家族への手紙など胸のつまる思いに駆られますし、召集令状により二十歳に満たない青年が出征の朝、朝食に使った食器を自ら洗い身を清め「行って参ります」といって両親に向かって敬礼をする・・・切なくも凛とした、ある種清々しさえ感じる光景であります。
でも例えばこの青年は「行って参ります」といってどこへ行くのですか?あえて感情を排して言えば、戦場へ人殺しをしに行くわけでしょう?
彼らの姿を「偉い」「立派だ」「男らしい」として評価するのは非常にシンプルでまた共感を得られやすいですが、しかしもしあの時代においてなお戦争反対を主張した人がいたとすれば、本当に立派だったのはそういう人ではなかったか、私はそう思うのです。あの時代に戦争に反対するのは大げさではなくリアルに命がけだったでしょうから。

そこで皆さんに教えて頂きたいのは、そういう人がいたとして

1.それはどんな立場の人で何人くらいいたのか?
2.具体的にどんな活動をしたのか?
3.その結果どうなったのか?

ということです。勿論「そういう人はいなかった」と言う回答もあるのかもしれませんが、よろしくお願いします。

質問内容はタイトルの通りなんですが。
最近、終戦60周年ということもありテレビなどで戦中のことを報道する番組を多く見かけます。
そして少年兵の出征や特攻隊の隊員の手記(遺書)戦地での過酷な状況などを紹介し感動的なエピソードとして放送しているものもあります。
しかし・・・。
どうも私は納得がいかないのです。
確かに特攻隊員の書いた家族への手紙など胸のつまる思いに駆られますし、召集令状により二十歳に満たない青年が出征の朝、朝食に使った食器を自ら洗い身を清め「行って参ります」とい...続きを読む

Aベストアンサー

私は、石橋湛山が最初に思い浮かびました。
詳細は、下記を参照していただければ判りますが、戦争中、戦争反対を言ってのけ、しかも言論封鎖を絶妙に避けた手腕と先見性は、勇気ある良識としか言いようがありません。

参考URL:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E6%A9%8B%E6%B9%9B%E5%B1%B1

Q熊を安易に射殺するのは許せない・・

今日も山菜採りのおじさんが襲われて死亡したと
ニュースでやってました。
その現場に熊がいたらしく射殺したそうです。
子熊と一緒だった母熊で気が立ってたのだろうと
思います。

そもそも、山は熊のテリトリーです。
そこへ、のこのこと山菜採りに行ってしまい
襲われたあなたが悪いのでは??と
思わずにはいられません・・。
その山は以前から熊の出没があったらしいです。
以前から山菜採り→襲われるという報道多いです。

熊さんは唯一の住処、山にもいちゃいけないのか?!
動物軽視の日本猟友会に怒り心頭です。
麻酔銃で眠らせて解放することもできただろうに。

子熊は母を失い彷徨ってるはずです。
かわいそうで仕方ありません。

環境破壊で山は削られ食料も少なくなる
一方、、

もっと動物に優しい国になれないのでしょうか??

皆さんはこの件どう思いますか?

Aベストアンサー

こんにちは☆

>皆さんはこの件どう思いますか?
まったく同感です。人間も自然の一部だという認識がないのでしょうか。
なんか勘違いしてると思います。
熊が人里に下りてきて、人命が脅かされたなら、百歩譲って仕方ないと
言えるかもしれませんが、山の中まで入っていって熊に出会って、自分が
怖い目に遭ったからといって…身勝手すぎます。

以前、人里に下りてきた熊を、山に返そうと格闘する人たちの映像を
ニュースで見ましたが、なんとまだほんの小熊でした。それを大人が
5~6人で寄ってたかって棒で叩きながら追いまわしていました。
涙が出ました。

余談が長くなってしまいましたが…「相手も生きてるんだから放っといて
やりなよ」と思います。今回は子育て中の母熊のテリトリーにズカズカ
立ち入った人間に非があると言わざるを得ません。

Qスターリングラードの戦いについて

第二次世界大戦の独ソ戦で、スターリングラードの戦いは
非常に大規模な市街戦だと聞いています。

が、高校のときの先生から、この大規模な市街戦の中、
住民の一万人ほどは市街戦の最中であるにも関わらず、
スターリングラードで生活をしていたらしいと聞きました。

ウィキペディアで見ても非常に激しい戦いであったようです。
そんな中、住民が生活することなどできたのでしょうか?

Aベストアンサー

当時、スターリングラードには60万人の市民がいたと言われています。
スターリングラードから避難するにはヴォルガ河を渡らねばならなかった訳ですが、船は全て軍が徴発して使っており自由にはなりませんでした。
また、スターリンは、市民がいれば、スターリングラードで義勇兵として軍に参加した兵士は家族を守る為によく戦うだろうと考え、なかなか避難の許可を出さなかったとも言われます。
この結果、ドイツ軍が攻撃を開始した最初の一週間で砲撃・爆撃により4万人の市民が亡くなったと言われます。
後には、避難の許可がおりますが、対岸に渡れたのは30万人だったと言われています。全員を避難させる事はできませんでした。多くの船がドイツ軍の攻撃により沈められ、前線で戦っている部隊ですら補給は不足し、負傷者を撤退させられないほどの戦況になったからです。

こうして多くの市民が残された訳ですが、ドイツ側では、ヒトラーが占領地域の市民を街から退去させるよう命令を出しています。
これにより多くの市民がドイツの後方占領地区に移動させられたと言われます。一説によると6万人の市民がドイツ本国で強制労働させられるために運ばれたとも言われています。

避難もできず、ドイツ側にまだ捕われていない市民が市内に残っていた訳ですが、その殆どは子供と女性と老人でした。男は兵士として戦っていたからです。その残された市民の生活は悲惨を極めました。
廃墟の地下室や下水道、切り立った川岸に掘った横穴に隠れました。
夜になると郊外で木の根っこや野生の果実を探したり、ソ連・ドイツ、両方の前線に行って一切れのパンを分けてもらったりしたそうです。
女性は生きる為に、子供達の為に、そのやせ衰えた体をドイツ軍の兵士にすら提供し、食料を貰ったそうです。
ドイツ軍の食料を盗もうとして射殺された子供もたくさんいたそうです。戦火で焼けた穀物倉庫があった場所で、焼けた小麦を拾っていた子供もいたそうです。

また、子供達は食料を得る為にドイツ軍に利用されています。
ドイツ兵は子供達に水筒を渡し、ヴォルガ河の水を汲んでこさせ、それと引き換えに、パンを一かけら渡しました。ソ連の狙撃兵が狙っていて危なかったからです。ソ連兵は子供達がドイツ兵士の為に水を汲んでいる事を知り、その子供達を射殺しています。
また、ドイツ軍は市民に食料と引き換えに、戦場で死んでいるドイツ兵を自軍の陣地まで運ぶ事もさせました。この事についてもソ連軍は、死体を運んでいる市民に容赦なく発砲し射殺しています。

スターリングラードが解放された時、9796人の民間人が生き残っていた事が確認されました。その殆どの人は、汚染された水と粗末な食物しか取れなかった結果、やせ衰え、病気になっている者も多かったそうです。
生き残った子供にしても、精神的に参ってしまい、怖がって大人と話をする事ができず、相手の顔をまともに見る事もできない子が沢山いたそうです。

スターリングラードでは大勢の市民が死にました。生き残った9796人の人達は、悲惨を極める中で、やっとの思いで、どうにか生き延びたという事でしょう。

当時、スターリングラードには60万人の市民がいたと言われています。
スターリングラードから避難するにはヴォルガ河を渡らねばならなかった訳ですが、船は全て軍が徴発して使っており自由にはなりませんでした。
また、スターリンは、市民がいれば、スターリングラードで義勇兵として軍に参加した兵士は家族を守る為によく戦うだろうと考え、なかなか避難の許可を出さなかったとも言われます。
この結果、ドイツ軍が攻撃を開始した最初の一週間で砲撃・爆撃により4万人の市民が亡くなったと言われます。
後に...続きを読む


人気Q&Aランキング