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この世において、一般人が仏教で悟るのは可能なのでしょうか?

A 回答 (18件中11~18件)

私のホームページの本分の中に原理世界という項目があるのですが、物質が発生する根本的な原理のようなものと考えています。

なにぶん科学も哲学も専門的には学んでおらず、一般人の素朴な疑問と自分なりの考え方であります。正しいのかも間違っているのかもわかりません。私なりに考える想いとは、結果があるのはその前に原因がある。そして結果を求めるものがなければ原因も無いと考えています。私たちの宇宙には最小単位という物質発生のプログラムがあり、同じものの無数の相互に関連を有する集積体と考えています。大きな宇宙に小さな物質があるのではなく小さな物質を作り出す原理世界の集積体で大きな空間となっていると考えます。つまり同じことの積み重ねの世界です(映画のフィルムのようなもの)。仮に物質を作り出すプログラムがあるとすれば、物質を必要とする存在がいるはずです。それは物質世界の前にある物質を作ろうとする、想い=目的=目的の量=加算の量=加算=距離=空間、なのだと考えます。物質というプログラム(根源的な物質という概念)があり私たちの認識できる物質となるまでに質量の加算を加え、その加算の量とは距離です。根源的な物質というプログラムが物質として認識されるまでに必要な演算(物量=質量=距離)と結果という認識される物質という概念で一対と考えます。想い(概念)=必要=目的=物量という計算世界の加算の量=物量の行動結果=生まれ出た結果という物質という概念の認識(想い)です。これが私の考える物質発生という原理世界であり、すべての事柄は同じ原理で稼動すると考えます。ではその想いとは、すべては相反するもので一対とするならば、無が存在するから有が存在するというようなもので、いくら考えてもわからないことなのだと思います。しかし現実に自分という存在を認識できるなら、そしてそのしくみを仮に設定するなら想いという根源的な存在を設定しなくてはならないだろうと考えます。では何もわからないではないかといわれれば、人間が存在している間に自分を存在させているシステムを知ることはできないのだと思います。荒っぽい言い方をすれば主人公がある目的を与えられて、あらゆる状況にあらゆる判断ができる究極のシュミレーション上の存在は自身を存在させている原因を知ることはできないのだと思います。そして私に想いがあるならば想いの無い存在から想いを有する存在を作り出すことはできないと思います。しかし、どこまで考えても、私にもわかりません。
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この回答へのお礼

再びアドバイスと詳しい説明どうもありがとうございました!

お礼日時:2006/12/02 20:24

私たちの宇宙はたったひとつの原理により稼動している、だからすべての出来事には矛盾がないのだと考えます。

人間の作りだした文明社会がうまく回らないのは物質欲で得たプラスの利益と相反する物質の行動結果という同じ量のマイナスの利益を得たものだと考えています。便利な物を作り出し同時に不便なものも手に入れる。相反するもので一対の世界と考えます。たった一つの原理世界に生まれ出て、そして自身を存在させる原理を知ろうとする。私たちはその原理世界の中に物質として生まれ出て、相反する原理の世界という概念の世界に向かう途中の内訳のようなものなのでしょう。ピラミッドの底辺という面積が頂点という集約された一点に向かう途中の存在とも言えます。あらゆる学問もあらゆる行動結果もすべては一つの原理上から生まれ出て、たったひとつの原理に向かうのだと考えます。すべてが同じ一点に到達しようとするのならば、その一点に到達したものはすべて同じものだと考えているのです。向かうとか到達するとか言うのは。必要とする想いが相反する物量の世界に生まれ出て、物量の行動結果が概念の世界で認識(想い)される。過去の想いが答えとして生まれ出る。それが物質発生という原理世界であり、私たちの宇宙は相互に関連を有する原理世界の集積体と考えます。それが存在するもののすべてが向かうところなんだと考えます。なんだかうまく説明ができないし、正しいか間違っているかもわかりません。イメージとしてはそのように考えています。

この回答への補足

>過去の想いが答えとして生まれ出る。

過去の想いが答えというのは、どういう意味でしょうか?
なにぶん哲学に興味はあるのですが、読解力がなくて申し訳ありません。できたら、もう一度補足して頂けたら幸いです。
よろしくお願い致します!

補足日時:2006/11/29 20:14
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この回答へのお礼

二度目のアドバイスと詳しい説明どうもありがとうございました!

お礼日時:2006/11/29 20:28

私は無宗教であり仏教も他の宗教についてもほとんど知らないのですが、日ごろ素朴な疑問として考え続けていることがあります。

私たちの世界はたった一つの原理により稼動している。それは多くの方もそう考えているのだと思います。たったひとつの原理があるならばそれは究極の真実(真理)なんだと思います。現代社会では科学、哲学、宗教学、生物学等あらゆる学問がありますが、それは真理を知るための途中の存在だからであり、知れば知るほど学問の差はなくなり、すべての学問の到達点は真理という一点に集約されるのだと思います。でも、この世のすべての存在は真理に到達することはないと思います。到達すればそこですべてを有し次の世界も無くなるからだと考えるからです。私がいつも考えていることは物質が発生する原理。すべては想いという概念と物量という質量の相反する存在で一対として存在するのだと思います。それを日常の出来事に当てはめていくと仏教思想に近づいて行くように思えてきます。日常の生活の中で多くの体験をして多くを自分の答えに積み重ねれば、多くの世界を見ることができる。学校に行かなくても宗教を学ばなくても真理がひとつであればすべては同じものなのだと考えます。

この回答への補足

>真理がひとつであればすべては同じもの

意味が今一よく分かりません。
できるなら、補足をお願い致します。

補足日時:2006/11/29 17:41
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この回答へのお礼

アドバイスどうもありがとうございました!

お礼日時:2006/11/29 17:50

釈尊は、苦楽の中道の中に悟りがあると言い切っています。


王宮の華やかな生活の中にも、出家して行った難行苦行の中にも悟りはなかったということです。これを素直にとれば普通の生活の中にこそ悟りは見出せるということですね。仏教は仏に対して素直であることが重要ですね。これを三法帰依というのです。仏の教えを信じる、信じて実践するということですね。
だから、心が穏やかになる時間や環境が適度に用意できれば誰でも悟りへの道はあるということですね。
世の中には、何故か釈尊が悟りはないという難行苦行に走る人がいますが、体は鍛えられるが悟りにはほど遠いですね。仏教の悟りは、天狗・仙人に代表される超能力ではないんですね。心が穏やかになればその先にあるものなんですね。普通の生活の中で心の針を仏に向けるよう努力すればいいだけですね。心のなかに悟りがあるのですね。だから、一般人が普通の生活をしながら悟りの階梯を上ることは可能ということですね。

この回答への補足

>一般人が普通の生活をしながら悟りの階梯を上ることは可能

上りきる所(悟りの境地)まで行けるのでしょうか?

補足日時:2006/11/29 08:52
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この回答へのお礼

ご回答どうもありがとうございました!

お礼日時:2006/11/29 08:58

なるほど・・・



哲学で述べましょう。

小乗では“この世において、一般人が仏教で悟るのは限りなく不可能に近い(本当は絶対に無理)”と、いうことになっており、
大乗では“我々は実はもう既に悟っている、しかしそれに気づいていないだけ”と、いうことになっています。

しかし“悟り”は生きる目標にすぎず、その目標に向かって生きることが目的であり、何人も決して悟ることは出来ない。いえ、あくまでも目標である以上“決して悟ってはならない(悟れない)”という解釈があります。

合 掌
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この回答へのお礼

>あくまでも目標である以上“決して悟ってはならない(悟れない)”という解釈

それで幸せになれるんでしょうかね?

ご回答どうもありがとうございました!

お礼日時:2006/11/29 00:56

仏教といっても、専門的にいうと、いろんな種類があります。

そして、悟りというのも、いろんな種類があるのが実情です。また、一般の人にもいろんな人がいて、「悟る」のに適した人がいるのも事実です。
「悟ること」自体の説明は困難ですが、これは悟りではないですよというのは、比較的簡単なため、禅の公案では、「いかなるかこれほとけ?」とか言う質問をする人に対して、「あさのみさんぎん」と答えることで、「まだ、君は、悟ってないなあ」と気づかせたりします。
こういうやり方が、宗派によって、システム化されております。たとえば、天台宗だと「止観」というのが、禅宗での「禅」に相当するもので、この大まかなやり方は、「天台摩可止観」という本にまとめれています。
また、チベット仏教だと、中沢新一などが紹介しているようなシステムがありますし、いろんなやり方はあるので、一般の人でも悟れるようになっています。
ただ、他にも回答があるように、困難なのは困難です。
永平寺でも、参禅会などには参加しやすいですが、禅宗では、入門したいと寺を訪ねると、必ず断られます。これは、一般の人がすぐやめてしまうという実利的な面もあるのですが、本来は、これも禅のシステムなのです。これらの詳細については、ポピュラーなところでは、鈴木大拙などの本にはよく書かれています。
でも、「悟り」は、すぐ、そばにあるので、ひとつの仕事に一生懸命打ち込んでいるだけでも、自然に悟れてしまうこともあります。

この回答への補足

>禅の公案では、「いかなるかこれほとけ?」とか言う質問をする人に対して、「あさのみさんぎん」と答えることで、「まだ、君は、悟ってないなあ」と気づかせたりします。

意味がよく分からないので、ご説明して頂けませんか?
本当に無知で申し訳ありません。

補足日時:2006/11/28 22:49
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この回答へのお礼

ご回答と詳しい説明どうもありがとうございました!

お礼日時:2006/11/28 22:54

永平寺で体験修行があります。

体験といっても結構厳しいみたいなので生半可な気分でやらないほうがいいかも・・・・悟りの道は厳しそうですよ。
参考まで↓
http://www.mitene.or.jp/~katumin/eiheiji/sonota/ …
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この回答へのお礼

参考URLを拝見した結果、私みたいな貧弱者には無理そうな気がします。とても悟れる段階までいけそうにないです。考えが甘かったようです。
アドバイスどうもありがとうございました!

お礼日時:2006/11/28 21:58

「仏教で」というのが、「仏教システム」というのであれば、悟れますが、いわゆる修行をしないといけません。

しかも、在家で修行するとなると、指導者を見つけるのが難しく、ちゃんとした指導者さえ見つけられて、指導を受ければ悟れます。
ただ、悟るまでに、何年もかかるので、本当に、しかも、はやく悟りたいのなら、永平寺をはじめとする修行の場に入門するのが早いです。
ただ、素質のある人だと、今すぐにでも悟れます。悟った人と同じような行動をしていけば、それで、悟ったことになるからです。しかし、日常底において悟っておられる方は見つけにくいのが実情です。

この回答への補足

>永平寺をはじめとする修行の場に入門するのが早い

簡単に入門できるものなのでしょうか?

補足日時:2006/11/28 21:40
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この回答へのお礼

ご回答どうもありがとうございました!

あと、仏教と仏教システムは違うんですか?

お礼日時:2006/11/28 21:46

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