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 大きな区分けはあるんでしょうか?藩主は国主でってのが分かるんですけど・・ 合ってるのかも分かんないですけど。城主は??陣屋は??

 藩主と城主と陣屋のしくみを教えてもらえませんか?詳しくお願いします!

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A 回答 (5件)

#1です。



#1で末尾に書いた内容について分かりにくいので補足しますと、国主クラスの大藩(仙台藩・熊本藩・広島藩など)は一国一城の例外として支城を構えることを許された大名家もありました。そういう大名家の最上位の家臣(一門・家老)の中には代々「城主」として城を預かっている者がいました。熊本藩の八代城主・松井氏、広島藩の三原城主・浅野氏、仙台藩の白石城主・片倉氏などが陪臣の城主(支城の城主)です。彼らは、陪臣ながら二万石・三万石の知行を得ていて、並みの大名クラスの所領を与えられていました。
 陪臣の「城主」は、大名の格式としての国主・「城主」・陣屋とは違う一城の主という意味での「城主」なので、前者と後者を”ダブルミーニング”で書いたことを補足します。

ちなみに、城主ではありませんが、大名家によっては「城代」が置かれた支城もありました。(鳥取藩の米子城代、津藩の伊賀上野城代、徳島藩の洲本城代など)

徳川御三家の附家老(尾張藩犬山城主・安藤氏など)は陪臣の「城主」ながら大名格の待遇を受けていて、江戸屋敷を拝領したりしています。
長州藩(毛利家)の岩国領主吉川氏も、表高6万石の領地を有する最大の陪臣でした。幕府は吉川を大名として扱おうとしましたが、毛利本家が関ヶ原以来の因縁もあって吉川家が大名として遇されることを認めなかった為、江戸に屋敷(赤坂)を持ったり、白無垢の着用が許されていたりと大名並みの扱いを受けているにも関わらず、その身分は陪臣でした。
吉川氏を除くと、加賀藩(前田家)の本多氏(加賀八家)が5万石と純然たる陪臣としては一番多く家禄を与えられていました。
徳川御三家や加賀前田家の家老(年寄)は、陪臣ながら大名や幕府要職にある旗本並みに「従五位下」に叙任されました。

幕府も大坂・駿府・甲府などに支城を持っていたので、それぞれ大坂城代、駿府城代、甲府勤番支配といった役人を派遣して、その配下に番士(大坂は大番・駿府は書院番・甲府は甲府勤番)を派遣して守らせていました。
大坂城代は譜代大名が就任するエリートコースで、後に老中に就任する人も多かったようです。駿府城代は旗本の役職としてはトップレベルの役職でした。甲府勤番支配は悪い役職ではありませんでしたが、そのしたの甲府勤番士は典型的な左遷ポストで俗に「山流し」と言われたようせす。

「陣屋」という言葉も、建物としての「陣屋」そのものは、大名に限ったものではなく、旗本の在所の屋敷や幕府代官の代官所も陣屋でした。
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現実に天災、火災などで、焼失してしまった城もあるわけですから、城を建て直すまでの空白期間は、正確には、藩主であって、城主では、ないのでしょうね。

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江戸時代城主は藩主でした。


藩主が参勤交代で江戸在府で留守のとき、城代(筆頭家老)が代わりをつとめました。  (城代家老 大石内蔵助など)
大阪城、甲府城の城主は将軍ですから、常時城代が務めました。
藩主には城主(城持ち大名)と領主(陣屋持ち大名)がありました。
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藩主というのは、江戸時代における所謂大名の殿様です。


城主というのは、命令を受け、或いは許可を受け、要地の確保のため、又は住居として、城に住み、管理を任された武将を言います。
陣屋はその名の通り陣地内の建屋であり、転じて城のように強固な防御力は持たないが、領主等が住み、又は役所として使用する建物です。
江戸時代、一国一城と定められ、それ以外の城は破壊されました。
しかし、藩の中で分家をしたり、大名の家臣でも、功績等により城を持つことを許されたりと、例外はありました。
また、甲府勤番のように、旗本等が命じられて、任務として城主を務めることもありました。
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国主(国持)・城主(城持)・陣屋というのは大名の格式の違いのことです。


藩主というのは大名を指すと思うので、国主も城主も陣屋も皆、大名(藩主)には違いありません。

国持大名(国主)は、だいたいが20万石以上の領地を持つ外様大名です。長州毛利家の様に複数の国全域(長門国と周防国)を領地としている国持ち大名もいれば、仙台伊達家のように一国一円(1つの国を丸ごと)治めていない国持ちも多いです。国主の伺候席(江戸城内での控え室)は「大広間」という格の高い部屋でした。(御三家や加賀百万石の前田家はさらに別格で「大廊下」という部屋でした。)
一般の大名は従五位下(朝散太夫)どまりですが、国持ち大名は官位も高くて、従四位下侍従以上でした。
国主に准ずる格式の大名として、准国主もありました。宇和島伊達家・二本松丹羽家・柳川立花家など10万石クラスの外様大名の一部が准国主でした。

城持ち(城主)は領地に城を持つ事を許されていました。
陣屋の大名は城を持つことは許されておらず、城の代わりに陣屋を構えていました。
1万石の城主もいれば、7万石でも陣屋の大名もいました。
官位も、城主は当主と世子(世継ぎ)が従五位下○○守などに叙任されていましたが、陣屋の大名は当主だけしか叙任されていなかったと思います。
城はなく実質的には陣屋だけど、格式として城主の格式とされていた城主格の大名もいました。

また大大名には、城を任された家老もいますが、これらは陪臣(家来の家来)なのでいくら城の主でも城持ち大名とは言いません。長州藩の岩国吉川家、熊本藩の八代松井家、仙台藩の白石片倉家などが大名ではない陪臣の城主です。

参考にならなくてすみません。
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Q国主、国持大名と城主、無城の違い

江戸時代の大名についてお教えください

1.国主=国持大名ということでよろしいのでしょうか?

2.国主と城主、無城とはなにがちがうのでしょうか?
伺候席との関連など、家格の違いがあるというのは分かる(?)ような気がするのですが、それ以外に具体的にどのような違いがあったのでしょうか?

3.wikipediaの大名のところを見ると「大名は国持ち大名レベルはともかく、10万石単位の大名は封土の一円領有が殆ど許されず、大抵は城下周辺とまだらに領土を持った。」とあるのですが、とすると城の周りでさえも、他藩や幕府・幕臣の領土が有った例も多々存在するというようにも読めます。

城の周辺でさえ他領が存在するなどしたら、実際の支配などに不便は無かったのでしょうか?
例えば、自分の城のすぐ近くで犯罪があった場合でさえ、関八州取り締まりや、その領主の手の者が来ないと取り締まりも出来なかったのでしょうか?

Aベストアンサー

稲垣史生氏によると、国主は一国以上を領している者で、国持二十家と称されている。  国主大名は殿様でなく太守様と呼ばれた。   この国主ほどの領地をもたないが、城郭を持つ者を城主と言い、持たない者を領主と言う。  しかしこれは原則で実際は室町時代からの家格にもとづいて多くの例外があるそうです。
家格にはこのほか、御三家、御三卿、御一門(以上は親藩)譜代、外様大名があるのは、ご存知と思います。
飛び地などの話ですが、例として大中藩(10~20万石をいう)の15万石の姫路藩は領内に8箇所のちいさい天領があります。  相続できない二、三男を旗本に取り立ててもらう為、知行の分与をしたためと思います。  天領ですが管理は姫路藩が代行したでしょう。
他方10万石の淀藩は領地が8箇所にわかれ、どれも広く飛び地の感覚とはづれがあります。  淀城は他領と余り離れていません。
治安はよくは判りませんが、中公新書「目明し金十郎の生涯」に参考になる話があります。   陣屋の小藩の守山藩で隣の藩に逃げた犯人の逮捕に、ばくち打ちの目明し金十郎を使いました。  金十郎は隣藩の知り合いのばくち打ちの親分に頼んで逮捕して貰い、こっそり出向いて引き取ってつれ帰りました。  正式には隣の藩に依頼して追放してもらい藩境で逮捕しなければなりませんが、手間と時間がかかり逃げられる可能性が高かつたからです。   隣藩は黙認していたと思います。  このような裏取引が結構あったのでしょう。

稲垣史生氏によると、国主は一国以上を領している者で、国持二十家と称されている。  国主大名は殿様でなく太守様と呼ばれた。   この国主ほどの領地をもたないが、城郭を持つ者を城主と言い、持たない者を領主と言う。  しかしこれは原則で実際は室町時代からの家格にもとづいて多くの例外があるそうです。
家格にはこのほか、御三家、御三卿、御一門(以上は親藩)譜代、外様大名があるのは、ご存知と思います。
飛び地などの話ですが、例として大中藩(10~20万石をいう)の15万石の姫路藩は領...続きを読む

Q藩主と大名は同じ人物か?

江戸時代1万石以上の領地(藩)を与えられた武士を大名と言い,その領地と政治組織を藩といいます。となるといわゆる藩主というのは大名と同一人物になるのでしょうか?1つの藩に藩主は1人でしょうが,大名と藩主が同一人物でないとすれば,藩に大名は複数いたのでしょうか?

Aベストアンサー

江戸時代の藩は300とも500とも言われますが、幅がおおきのは藩、大名の規定が複雑だった事を物語っています。大名という言葉は鎌倉時代からあり、徳川幕府が一万石以上を大名と定めた事から、大名とは一万石以上の領主となりますが、例外もたくさんあったようです。先ず大大名の家来には一万石以上の者がいるわけですが徳川幕府が認めなければ家来の家来(陪臣)は大名扱いを受けていません。

大名として認知されていない領主も藩を治めていれば藩主なので、大名と藩主がイクオールでないケースも出てきます。米の取れなかった松前藩は禄高ゼロでも北海道特産物を瀑布に物納して一万石の大名扱いを受けていたそうです。

参考URL:http://www.nifty.ne.jp/forum/fsiro/hp/fsiro_db/han/01-01.htm

Q江戸時代、藩がどう分布していたかがわかりやすい日本地図を探しています。

たとえば、
今の山口県のあたりには長州藩があり、藩主は毛利家
ということが見てわかりやすい日本地図を探しています。
そのような地図がおいてあるサイトをご存知の方はいらっしゃいますか?

Aベストアンサー

江戸時代初期は大名の取り潰しが多かったので、いつの時代が必要なのか難しいですが、一応300藩と言うことで参考URLをご覧ください。
地方ごとに分かれています。

参考URL:http://www.asahi-net.or.jp/~me4k-skri/han/hantop.html

Q大名の家臣数

大名家の家臣数を知りたいので教えて下さい。
家々によって違うと思いますが、一万石・五万石・十万石・三十万石クラスの大名の大まかな家臣数・陪臣数を知りたいです。宜しくお願い致します。

Aベストアンサー

大名家の家臣数は時代によりかなり異なります。
戦国期、江戸初期、末期で実態が変わっています。
戦国末期で軍制が定まってきたときは大体一万石につき200名以上の人数、に武器、乗馬、旗などの数が決められていました。
しかし実態は戦闘時、戦闘員の数がものをいうので軍制以上の人数を動員するのが常でしたし陣場借りといってアルバイトのような人員も抱え込みふくらんでいました。

江戸初期にはこの名残で大体一万石につき200名位に落ち着きましたがそれ以上の家臣をかかえる藩もありました。
米沢藩上杉家は謙信以来の家風があり大幅な減封を受けたのですが家臣団のリストラはせず、一律減封で対処したので有名です。
この為米沢藩士の窮乏はひどく、藩財政の建て直しを図った上杉鷹山の事績は有名で、内職が特産になった位です。

太平が続いた江戸中期では経済の発達、実収入の変動も影響しリストラ、給与の削減(借り上げ)などが常態となり軍制は形ばかりで多くは渡り中間など臨時の人数で揃えることが多くなり馬を備える事もままなりませんでした。
従って実数は半分以下位に下がっていたでしょう。
幕末長州攻めなどに動員された時武器鎧も質にいれていたので請け出すのに借金して間に合わせたといいます。
勿論内実の裕福な藩や尚武の念の厚い藩などはこの限りではありません。
それぞれの藩の古文書などに頼るしかないと思います。

大名家の家臣数は時代によりかなり異なります。
戦国期、江戸初期、末期で実態が変わっています。
戦国末期で軍制が定まってきたときは大体一万石につき200名以上の人数、に武器、乗馬、旗などの数が決められていました。
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Q江戸時代に大名の数が増えたのはどうしてですか?

江戸時代の幕府成立期に183だった大名が、
元禄には243、幕末には266に増えています。
家光、綱吉のときには取り潰しなどが多かったはずですが、
どうして増えたのでしょうか?

よろしくお願いします。

Aベストアンサー

>家光、綱吉のときには取り潰しなどが多かったはずですが、どうして増えたのでしょうか?

幕府創業期は、まだ戦国の考え方が残っていて、各藩は次男坊・三男坊を部屋住みとして「長男の予備」として考えていました。
当時は、次男坊・三男坊は「冷や飯食い」と揶揄されていました。

幕府が安定期に入ると、各藩は次男坊・三男坊を他家へ養子にする事に苦心します。3歳までの死亡率が(一般人に比べ)高かったので、そこそこ養子縁組先は多かったようです。

ところが、元禄期になると・・・。
養子縁組先も無くなります。
そこで、自分の米高から最低1万石を割いて「分藩」を行います。
幕府としても、藩の規模を小さくする事になり奨励した節があります。
分藩すれば、本家に嫡男(世継)が居ない場合、分家から養子を迎える事が可能です。もともと一族ですから、安心ですよね。

それと、将軍家に仕えていた小姓が元服。かれらは、将軍家世継が「将軍」になった時点で「立藩」しています。

Q「幕府」と「朝廷」の違いを教えて

中学校1年生の子供からの質問なのですが、

・「幕府」と「朝廷」の違いが分からない。
・そもそも「幕府」って何?「朝廷」って何?

と言われました。
お恥ずかしながら的確に説明できません。
教科書には説明が載ってないし、「先生に聞いてみたら?」と言うと
「先生は授業が終わるとすぐに職員室に戻ってしまうし、あまり質問しやすい先生じゃないもん!o(;△;)o 」
とのこと・・・(´_`;)

どなたか教えていただけますか?
私も勉強したいです。よろしくお願いします。<(_ _;)>

Aベストアンサー

朝廷というのは天皇を頂点とした政府のことですが、ここが日本全国を完全に支配していたのはせいぜい平安時代までで、その後紆余曲折はありますが、鎌倉時代、室町時代、戦国時代(この時代は全国を支配した政権はありません)、安土桃山時代から江戸時代まで、ほとんどは武士が支配することになります。
ただ、ややこしいのは武士が支配していた時代でも一貫して朝廷は存在していたことです。幕府の長は征夷大将軍ですが、これは形式的には天皇の部下なんですね。ただ、現実には天皇が将軍を自由に選べるということはほとんどなく、武士に言われるがままに任命していたわけですから、実権は武士の側にあったということになります。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%81%E5%A4%B7%E5%A4%A7%E5%B0%86%E8%BB%8D
これを端的にお子さんに説明するのは難しいかもしれません。
ただ、今の天皇陛下も政治的な実権はまったくなくて象徴として存在しているわけなので、それとちょっと似ているというような説明は、できるかもしれませんね。(今でも首相を任命するのは天皇と決まっています。ただし天皇が首相を選ぶことはできず、国会が選んだ人を形式的に任命するだけです)

朝廷というのは天皇を頂点とした政府のことですが、ここが日本全国を完全に支配していたのはせいぜい平安時代までで、その後紆余曲折はありますが、鎌倉時代、室町時代、戦国時代(この時代は全国を支配した政権はありません)、安土桃山時代から江戸時代まで、ほとんどは武士が支配することになります。
ただ、ややこしいのは武士が支配していた時代でも一貫して朝廷は存在していたことです。幕府の長は征夷大将軍ですが、これは形式的には天皇の部下なんですね。ただ、現実には天皇が将軍を自由に選べるという...続きを読む


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