ワシントンDCはどうして『コロンビア特別区』と呼ばれているのか教えてください。

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A 回答 (3件)

補足です。

新大陸をアメリカという名称にしたのは、1507年ドイツの地理学者ミュラーという人だそうです。
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 marubouzuさんの補足ですが、コロンビアは、コロンブスの大陸到達に由来します。

今では日本ではアメリカ大陸と読んでいますが、コロンビア大陸ともいうのです。
 アメリカはアメリゴ・ヴェスプッチに由来します。コロンブスは、金や胡椒目当てのインド到達が目標で、自分の到達先をインドと信じていました。
 アメリゴのほうは、行った先をインドではない未知の「新大陸」と判断しました(1500年)。それで「新大陸発見」ということでアメリカ。コロンブスは行ったけれど「発見」ではないわけです。
 というわけで英語圏ではアメリカには「新大陸」というニュアンスがあって、コロンビアは「植民地」というニュアンスがあるのではないでしょうか。
 スペイン語圏では、コロンブスがスペインのイザベラの後ろ盾で探検に赴いたためか、コロンビアと呼ぶことが多いようです。
 しかしD.C.のCがなぜコロンビアでアメリカではないのかは、残念ですがお答えできません。私も、なぜなのか知りたいところです。
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独立戦争が終わった後、「んじゃ首都を決めよー」という事になったが、「我が州の○○に...」と立候補が相次ぎ決まらなかったそうです。


らちがあかないので、どこの州にも属さない特別区を作って、そこを首都にしようということになりました。ある意味妥協の産物ですね。

んでコロンビアは、あのコロンブスにちなんでの名称と聞いています。
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 そこで教えていただきたいのですが、『いつ頃から、どういう理由で、誰の主導で』みんな『戦争』という呼び方になったのでしょうか。

Aベストアンサー

ま、基本的には古い呼び方という一言で片付く問題なのですが、
事変に関しては、宣戦布告無き戦争という定義があります。
しかし現在は、事変ではなく紛争という呼び方が多いです。
それと事変は、正規の戦争ではないのでハーグ陸戦協定の規定外だという
屁理屈にも利用されたので、現在ではダイレクトな国際法違反という
認識があるのは一般的です。
だから印象がとても悪い。
ちなみにハーグ陸戦協定には捕虜の人道的取り扱いなどが定められているのですが
戦争じゃなくて事変なら捕虜の虐待も拷問、処刑も合法・・ということなんです。
ま、戦争を裁く法はないというのが実情なんで、この協定も
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朝鮮動乱については、その表現は新聞の見出しなどですよね。
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コンゴ動乱とか、動乱はまだ使いますが、朝鮮の場合は朝鮮戦争が一般的。
ま、呼び方というのは、徐々に共通認識ができてきまってくるところがありますから、
それはしょうがないでしょう。

ま、基本的には古い呼び方という一言で片付く問題なのですが、
事変に関しては、宣戦布告無き戦争という定義があります。
しかし現在は、事変ではなく紛争という呼び方が多いです。
それと事変は、正規の戦争ではないのでハーグ陸戦協定の規定外だという
屁理屈にも利用されたので、現在ではダイレクトな国際法違反という
認識があるのは一般的です。
だから印象がとても悪い。
ちなみにハーグ陸戦協定には捕虜の人道的取り扱いなどが定められているのですが
戦争じゃなくて事変なら捕虜の虐待も拷問、処...続きを読む

Q「現代」と呼ばれる時代は、200年後は何と呼ばれる?

歴史においては、一般的に明治以降を「現代」と呼んでいます。
しかし、200年ぐらい経つと環境が変化するため、その歴史区分も
だんだん無理が出てきるような気がします。

歴史区分は、その時代の「首都」と基準に呼ばれる事が多いです。
(例:奈良・平安・鎌倉・室町・江戸)
多分、平成の次の時代にて遷都または首都機能移転が行なわれると思います。

したがって、私の予測では明治から「平成の次」までを「東京時代」と
呼ぶようになると思います。
皆さんは、いかが思われますか?
予測でも構いませんのでご意見をよろしくお願いします。

Aベストアンサー

歴史区分は、その時代の「首都」を基準に呼ばれることが多い。
(×)→平安時代以降、明治維新まで都(首都)は、ずっと平安京(京都)でした。政治の中心という意味ならば、まあ半分正解。奈良時代に都は何度か移転していますし、室町の「花の御所」ができたのは三代目の足利義満の時代から。安土桃山時代などは政治の中心も二転三転しています(時代の区分もかなり不明瞭です)。

またこの間の政治の中心の移転は、大きな政権交代が元になっていることが多いですから、単に首都機能が移転しただけでは時代の区分になるとは考え難いです。

・奈良~平安:天武系から天智系へ
・平安~鎌倉:貴族から武士へ
・鎌倉~室町:武士から貴族、そして再び武士へ
・室町~江戸:武士(貴種)から下級武士へ
・江戸~明治以降:武士から庶民へ

明治以降については、第二次世界大戦を境として「大日本帝国」から「日本国」に変わったことから、首都は東京で移転していませんが、今後ここをひとくくりとした時代が設定される可能性が高いと思います。「帝都時代」か「日帝時代」といわれるのでは。

もし平成の次の時代に首都が移転し、民主党の政権が続いていたならば、先の総選挙を境として、昭和戦後から平成21年夏までを「自民時代」、それ以降を「民主時代」と呼称されるかもしれません(笑)。

歴史区分は、その時代の「首都」を基準に呼ばれることが多い。
(×)→平安時代以降、明治維新まで都(首都)は、ずっと平安京(京都)でした。政治の中心という意味ならば、まあ半分正解。奈良時代に都は何度か移転していますし、室町の「花の御所」ができたのは三代目の足利義満の時代から。安土桃山時代などは政治の中心も二転三転しています(時代の区分もかなり不明瞭です)。

またこの間の政治の中心の移転は、大きな政権交代が元になっていることが多いですから、単に首都機能が移転しただけでは時代の...続きを読む

Q『荘園』『名田』『治田』の違いは?

今年、高校を受験する中3です。

今、歴史の勉強をしているのですが、
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どれも新しく開墾した土地(墾田?)ですよね?

本格的に歴史の勉強をはじめたところなので、あまり難しい言葉は使わないで
教えてもらえると幸いです。

それでは、わかる方いましたらお願いします。

Aベストアンサー

こんにちは。
>早速、参考URLを見てみたのですが、それぞれのはっきりした”違い”が解りません・・・。
ではもう少し整理を試みてみましょう。
「荘園」というのは貴族や有力寺社がその財力を用いて開墾した「自分達の田圃」です。
「公地公民」ということで土地は全部基本的に国のものだったのですが、それがどんどん緩くなって「国の用水」を使う場合には「公田」といって国の田圃だけれども、そうじゃない場合は私有の田圃として認められるようなことになりました。
ですが用水を自前で作るにはとてもお金が必要なので「荘園」の開発は貴族や有力寺社のみが行うことが出来た訳です。
さて、その後九世紀くらいになってくると更に国の統制力は衰えてしまって、本当は「口分田」という「国から借りている田圃」を「代々自分達が耕してきた」ことを理由に勝手に自分のものにしてしまう農民が出てきました(勝手をされても取り締まれないくらい国としての統制力が衰えていた訳です)。
これに加えて勝手に土地を開墾するものもあり、そうした人達が「ここは自分のものだ」という具合に名前をつけて呼んだりしたもので「名田」と呼ばれる訳です。
「荘園」はお金持ちしか持てなかったけれど、「名田」はそれほどでなくても「自分のもの」と宣言してしまえば良い訳ですから、力をつけた農民でも持つことが出来たということです。
その後中央で藤原氏などが大きな勢いを持つことになると、その圧迫を受けて自分の荘園を維持出来なくなる貴族や寺社が増えてきました。
そうした「元荘園」の土地を名田の時と同じように自分達の力で再開発して「自分の田圃」とする農民も現れ、こうして開墾された農地を「治田」と呼ぶ訳です。
同じように国の力の衰えなどを背景に農民達が自分達で開発して自分達のものとしていった訳ですが、元「口分田」であると「名田」、元「荘園」であると「治田」などと呼ばれたということです。
基本はすべて「元々国のものであった土地を私有化した」ということなのですが、当事者や対象が異なる為に違った呼び方をしているという訳ですね。
大雑把ですが多少はおわかり頂けたでしょうか。

こんにちは。
>早速、参考URLを見てみたのですが、それぞれのはっきりした”違い”が解りません・・・。
ではもう少し整理を試みてみましょう。
「荘園」というのは貴族や有力寺社がその財力を用いて開墾した「自分達の田圃」です。
「公地公民」ということで土地は全部基本的に国のものだったのですが、それがどんどん緩くなって「国の用水」を使う場合には「公田」といって国の田圃だけれども、そうじゃない場合は私有の田圃として認められるようなことになりました。
ですが用水を自前で作るにはとてもお...続きを読む

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豊臣政権末期で、徳川家康が「内府」と呼ばれています。どうして内府と呼ばれていたのでしょうか? 国内の政府の代表だからですか? 家康以前にこの様に呼ばれていた人はいたのでしょうか?

呼び方(読み方)も「ないふ」と「だいふ」とあるようですが、どちらが正しいのでしょうか?

「内府」があるならば、「外府」「小府?」等と呼ばれたりした人がいたのでしょうか?

宜しくお願いします。

Aベストアンサー

「内府」とは朝廷の官名「内大臣」の漢名です。
徳川家康は「内大臣」の命を受けていたので、「内府」と呼ばれました。
豊臣秀吉のことを「太閤」と呼ぶのも、
「太政大臣」の官名が「太閤」だから。
ということだったかと。
中納言のことを「黄門」と呼ぶとか。
(水戸黄門ですね)

尊称として呼ぶときに、中国由来の呼び方をしたと思われます。
たしか、総理大臣のことを「首相」とよぶのもそういう意味合いですね。

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Q石田さんは 『三成』? 『光成』? 

つい最近このOKWaveを知ったので、歴史カテゴリー(特に日本史戦国期もの)の皆様の質問や回答を興味深く読ませていただいていたのですが、あの関ヶ原の石田さんの名前が『光成』との表記がいくつも目に付きました。
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それとも、このサイトでのお約束ごとなのでしょうか?
初歩的なことで申し訳ありませんが、気になったものですから…。
よろしくお願いいたします。

Aベストアンサー

みなさんのおっしゃる通り、正しくは「三成」ですが、
浮世絵や歌舞伎などで「光成」「岸田淀少光成」「石田光成」
とされていることがあります。
http://enpaku.waseda.ac.jp/db/enpakunishik/results-1.php?Max=10&haiyakukensaku=%B8%F7%C0%AE

これは、ここ
http://www.dict-keyword.com/38/18141.html
などに書かれているように(以下抜粋)
『三成死後すぐには三成の評価はそれなりに高く、
徳川光圀 などが敵ながら天晴れと言う評価を残している。
しかし江戸時代 中期以降になると小人・奸臣・小才子
などと言われた。また、三成の名前をそのまま出すことも憚られ、
絵本や絵巻物では「岸田光成」などと書かれることとなった。』
という経緯で、呼称としての「光成」はあったということです。
それで、ちょっと混乱する事もあるのかなと思います。


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