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香港の歴史は世界史で習いましたが、ほぼ同時期にポルトガル領になったマカオにはどのような経緯がありますか?

A 回答 (3件)

1553年 ポルトガル人がマカオに上陸


1557年 ポルトガル人が定住を開始
1572年 明朝が毎年500両の地代を支払うことを条件に、ポルトガル人のマカオ半島南部での居留を公認
1583年 マカオ在住のポルトガル人が市議会を設立
1623年 ポルトガルがマカオに総督を派遣
1849年 中国への地代支払いを停止。マカオ駐在の中国側役人を追放
1851年 ポルトガルがタイパ島を占領
1863年 ポルトガルがマカオ半島の全域を占領。翌年コロアネ島を占領
1887年 中葡条約によりポルトガルがマカオの統治権を獲得
1966年 中国系住民の暴動でマカオ総督が全面降伏。これ以降、マカオは中国政府の影響下に入る
1987年 中葡両国が1999年のマカオ返還に合意
1999年12月20日 ポルトガルがマカオを中国へ返還.


マカオはいつからポルトガル領になったのか?というのは、実はかなり難しい問題だ。「16世紀から」という人がいれば「19世紀末」という人もいるし、「ポルトガル領になったことはない」という人までいる。

1499年にバスコ・ダ・ガマがインドへ到達して以来、ポルトガルはインド沿岸やマラッカ、香料諸島(インドネシア東部)などに次々と砦を築き、貿易を独占して莫大な利益を上げていたが、中国へも貿易拠点を確保しようとやって来る。ポルトガル人が最初に占領したのは広東省の屯門(現在の香港西部)で、1514年から7年間にわたってここを貿易拠点としたが、明の皇帝はポルトガル人が中国に朝貢していたマラッカを占領したことに激怒し、ポルトガル人を追放。以後、ポルトガル人は広東省や福建省、寧波の沿岸などで何度も上陸を試みるが明朝によってそのつど追い払われてしまう。

そんなポルトガルにチャンスが訪れたのが1553年。汪柏という広東省の役人に賄賂を贈り、「積荷が濡れたので陸で乾かしたい」という口実でマカオ滞在を認めさせたのだ。そして1557年以降、ポルトガル人は毎年役人に賄賂を渡しながら本格的にマカオに居座り続けるようになり、明朝は72年から毎年500両の地代を納めることを条件にポルトガル人のマカオ居留を正式に認めるようになった。

明朝が居留を認めたいきさつは、ポルトガル人が毎年恒例の賄賂として500両を広東省の役人のもとへ届けたところ、その場にたまたま中央から来た役人が居合わせたので、不正が発覚するのを恐れた広東省の役人が「これは南蛮人が払った地代でして・・・」と言い訳して、受け取った500両をやむなく国庫に納入したためらしい。そういえば「マカオは明の皇帝が海賊退治の功績を称えてポルトガル人の居住を許した」なんて説もあるけど、これは18世紀にポルトガル人が創作した作り話。でも、日本でもこれを本気にしちゃってる本が多いですね。

かくしてポルトガル人の居留を公認した明朝だが、その居留地はマカオ半島の南端に限定し、関税・船舶停泊税の徴収や中国系住民の管理は中国側が行うとして役人を常駐させた。マカオ在住のポルトガル人には自治が認められ、ポルトガル人同士の訴訟や犯罪については中国側は干渉せず、ポルトガル人のコミュニティ経費として独自に取引税などを徴収することを認めた。マカオ半島の入口には1574年に門が設置されたが、これは国境のゲートというよりポルトガル人の中国本土立ち入りを防ぐためで、門は毎月6回定期的に開かれ、ポルトガル人が必要とする食糧や日用品などが供給された。一方でポルトガル人は自治組織として、83年に市議会を設置した。この時点でのポルトガル居留地は、1時間あれば歩いてひと周りできるくらいの狭さしかなかった。

16世紀末から17世紀にかけてのマカオは、ポルトガル本国やインド、マラッカと、長崎や広州、マニラ、ティモールなどとの交易の中継地として最盛期を迎えたが、新たに交易のライバルとして出現したオランダによって、1601年から27年にかけて5回の波状攻撃を受ける。このため市議会ではマカオ防衛のための軍司令官の派遣を要求し、1623年から総督が派遣されるようになった。当初のマカオ総督はあくまで軍事面での権力しか持たず、18世紀になると総督と市議会がたびたび対立し、内乱が発生するようになった。このためポルトガル国王は1783年に裁定を下して市議会を非難、軍事・行政での全権限を総督に与えた。

総督と市議会の対立の背景には、マカオと中国との関係に対する見解の相違があったといえる。何代にもわたって暮らしているポルトガル人はマカオを「中国政府から認められた居留地」と見なし、マカオに常駐している中国側役人との協調を重視したが、派遣されてきた総督はマカオを「中国における植民地」と見なし、中国側役人とは対決姿勢を採った。つまり総督への権力の集中は、ポルトガルがマカオの植民地化へ足を踏み出したものだったのだ。

しかしポルトガルがマカオの植民地化を本格的に進めるのは19世紀に入ってから。アヘン戦争で香港がイギリスの植民地となり、関税を徴収しない自由港を宣言すると、マカオの貿易拠点としての座は奪われて、経済的に大打撃を受ける。このため1845年にマカオも対抗して自由港を宣言し、マカオで関税を徴収していた中国側の役人を追放し、かわって中国系住民から税金を徴収し始めた。49年からは中国政府への地代支払いを停止し、それまでの居留地を越えてマカオ半島全域やタイパ島、コロアネ島などを次々と占領。中国側役人の追放によって、中国系住民に対する司法・行政もマカオ総督の管轄下に入った。

そして1887年、ポルトガルは中国に圧力をかけ「マカオはポルトガルが管理する」という条約を結んだのだが、香港の場合と違って「領土の割譲」ではなかった。ポルトガルが得たのは管理権つまり統治権だけで、マカオの主権はあくまで中国。だから「マカオはポルトガル領になったことはない」とも言えることになる。


  

こうして清朝の弱体化に乗じてマカオの植民地化を進めたポルトガルだったが、戦後、中国に強力な共産党政権ができるとたちまち立場が逆転してしまう。

ケチの付き始めは1952年に国境で起きた銃撃戦で、中国政府に食糧輸出を止めると脅されてポルトガル側は国境線を7m後退。続いて55年に「マカオ開港400年祭り」を盛大に開催しようとしたが、『人民日報』に「マカオは中国の領土であり、中国人民は決してマカオを忘れない」という記事が出ると、ビビって中止。そして66年、小学校の建設をめぐって中国系住民と対立し、最初は徹底的な武力弾圧に乗り出したが、犠牲者が出たことに怒った中国系住民が暴動を起こし、『人民日報』に「マカオのポルトガル当局に厳重に警告する」という記事が出ると、マカオの総督は9日後にあえなく降伏声明を発表した。

その後のマカオ政庁は中国政府のいいなりとなってしまい、ポルトガルは中華民国台湾と国交があったのにマカオ単独で台湾と断交。74年にポルトガル本国でクーデターが起き、新政権は全ての植民地の放棄を決定したが、マカオについては中国政府に返還のお伺いを立てたところ、中国から「いま植民地を返されたら香港人が動揺するので、しばらくそのまま預かってろ」と言われてやむなく植民地統治を継続。そして香港返還が決定した後の87年、マカオについても「じゃ、そろそろ返してもらおうか」ということで、99年の返還が決まったのだ。
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この回答へのお礼

そんなに長い歴史があったのですね。勉強になりました。

お礼日時:2015/01/07 19:25

大航海時代(15世紀半~16世紀)、ポルトガルは、中南米よりも


インド・アジア大陸に関心が高く、アメリカ大陸への進出が一足
遅くなったそうです。
トリデリシャス条約によって、ブラジルが植民地になりましたが・・・
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この回答へのお礼

ありがとうございます。なんでこんなところがポルトガル領だろうと思いました。

お礼日時:2015/01/07 19:24

ポルトガルの植民地に[編集]



大英帝国がアヘン戦争に勝利して、1842年に香港島を獲得すると、ポルトガルも1845年に「マカオ自由港」の成立を宣言して清の税関官吏を追い出し、ポルトガル軍がタイパ島とコロアネ島を占領し、最終的に1887年にはポルトガルが統治権を獲得し正式に同国の植民地とした。

しかし、天然の良港に恵まれアジアにおける要衝として発展した香港とは対照的に、マカオの貿易港としての機能は低下し、その地位は全く凋落してしまった。マカオは珠江の土砂が堆積しやすい位置にあり、大型の船舶が入港しにくくなっていたこと、当時ポルトガルの国力は凋落していたことも衰退の原因に挙げられよう。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%82%AB% …
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この回答へのお礼

ありがとうございます。白人は勝手に取って行ったのですね。

お礼日時:2015/01/07 19:23

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