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江戸時代に長崎の出島でオランダと貿易をしていましたが、オランダからの輸入品や日本の輸出品と言うのはお互い「これが欲しいから送ってくれ」みたいなリストがあったんでしょうか?
それとも、これはオランダや江戸幕府が勝手に何を送るか決めていたのでしょうか?

わかりにくい文で申し訳ありませんが、よろしくお願いします。

A 回答 (1件)

長崎貿易は、時期により取引の仕方が異なっていたようです。

松井洋子「長崎出島と唐人屋敷」によると以下のように時期区分されます。
(1)糸割符制度(1641-54)・・・糸割符年寄が売手方と話し合って生糸の等級ごとの統一価格を決め、一括で買い取る。
(2)相対貿易 (1655-71)・・・売り手と買い手の間で価格を決定する。1668年には輸出入の品目を制限し、オランダへの銀輸出を禁じる。
(3)市法商法 (1672-84)・・・奉行が全輸入品の買取り価格を決定し一括購入する。
(4)定高制  (1685-  )・・・1年の貿易額を中国船は銀6,000貫、オランダ船は金50,000両、私貿易品(脇荷)は銀400貫に制限する。
(5)正徳新例 (1715-  )・・・A.銅の輸出額を450斤と定め、中国船へは不足分として俵物等を渡す。B.オランダ船は2艘、中国船は30艘とし、積荷の銀高を決める。C.中国船には信牌の所持を義務付ける。D.輸入商品は日本側で価格を決定する。

基本的には、日本側は生糸が欲しく、オランダ側は金銀が欲しかった。しかし、貿易をすると日本の金銀がどんどん海外へ流出してしまうので、これに歯止めをかけるために、何度も取引方法の改革をしたようです。回答になっていないかもしれませんが、参考になれば幸いです。
正徳新例については、以下のサイトを参考にしてください。

参考URL:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%B7%E8%88%B6% …
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この回答へのお礼

そうだったんですか。ありがとうございます。教えていただいた本とサイト見てみたいと思います。

お礼日時:2009/10/06 00:24

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