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なぜ、フィリピンにのみ強制させて他の国には強制させなかったのでしょうか?

かつて、植民地だったということが分かったのですが、あとは良く分かりません。

キリスト教には3種類ぐらいあって、それぞれやり方が違う?
というようなことを言われたのですが、どのようにやり方が違うのでしょうか?

あと、3種類のうち2つは、カトリックとプロテスタントでよいのでしょうか?

調べてみたのですが、難しくてよく分かりませんでした。

できれば、簡単に教えていただけませんか?

回答よろしくお願いいたします。

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A 回答 (4件)

キリスト教は布教することが大事な仕事で、アジアへの宣教がいわゆる帝国主義の植民地政策と重なったと思います。


前の方々の書かれたとおり、キリスト教のことをウィキペディアでも好いから、勉強しましょうね。高校の世界史の教科書でも
大雑把なことを知ることができます。
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キリスト教の歴史を最初からおさらいしましょう。

キリスト教は古代ローマ帝国で生まれました。当初はローマ皇帝から弾圧されましたが、逆にキリスト教を保護することがローマ皇帝の権威付けに利用できると気づいたコンスタンティヌス1世によって国教に公認されました。キリスト教の力を借りて古代ローマ帝国を再興しようと考えたわけです。それでも時代の流れには逆らえず古代ローマ帝国は東西に分裂し、西ローマ帝国はゲルマン民族に侵入され滅亡してしまいます。旧西ローマ帝国領内に取り残されたキリスト教会を西方教会と呼び、その後も1000年近く続いた東ローマ帝国領内のキリスト教会を東方教会と呼びます。西方教会はサバイバルの為に蛮族であるゲルマン民族に布教して生き残りを図り、それがローマ教会またはローマ・カトリックと呼ばれる流れになるのです。一方、東方教会は東ローマ皇帝の庇護を受けて安泰であり、それがギリシャ正教と呼ばれる流れになります。ローマ教会は当初は東ローマ皇帝に税金を払って軍事的に庇護してもらっていたのですが、東ローマ皇帝レオーン3世の聖像禁止令が原因になって東方教会と分かれて独立した歩みを始めるのです。もう東ローマ皇帝の世話にはならないよ、こっちにもローマ皇帝がいるからね!ってわけです。それが神聖ローマ帝国につながる流れですが、ここでは詳しくは説明しません。ローマ教皇は蛮族であるゲルマン民族に対して、キリスト教の信者になれば、もれなく異教徒討伐権が手に入りますと宣伝して布教に励みました。とにかく蛮族をキリスト教信者にしないと自分の身が危ないからです。異教徒は奴隷にしても殺しても全然OKですよ。そういう風に蛮族の行動を正当化するのがローマ教皇の役割だった。そんな訳で布教戦略は大成功で、ローマ・カトリックはヨーロッパ全域に広まったのです。元が異教徒だった人たちも奴隷にされたり殺されたりしてはたまらないので、進んでローマ・カトリックに改宗していったのです。ローマ・カトリックに改宗しなかったのはユダヤ人とイスラム教徒だけでありました。

一方、東ローマ帝国は斜陽でイスラム勢力に侵食されるばかりでした。それはギリシャ正教会が東ローマ帝国の庇護に安住して、布教の努力を怠ったからかもしれません。ついには聖地エルサレムまでイスラム勢力に奪われてしまう。困った東ローマ皇帝はローマ教皇に泣き付きます。かつて喧嘩別れしたのも忘れて恥も外聞もなく、聖地エルサレムを取り戻して欲しいと要請したわけです。これがギリシア人第一の泣き付き芸でありました。ちなみに第二がギリシャ独立戦争で、第三がユーロ債務危機問題です。中世の頃から、ギリシャ人は困った時のドイツ・フランス頼みが伝統芸能だったわけです。ともかく第一が十字軍です。ローマ教皇は、東ローマ皇帝の申し出をローマ教会の勢力拡大に利用できると判断したのです。そこで声をかけて生まれたのが十字軍でした。異教徒は奴隷にしても殺しても全然OKですよ。待ってましたとばかりに腹を空かせた窮民が集まった。実は十字軍は窮民救済の公共事業だったわけです。結局、聖地エルサレムは奪回できなかったけれど、公共事業としては一定の成果を収めたわけです。

東が十字軍なら西はレコンキスタです。イスラム勢力に奪われたイベリア半島を奪回せよ。異教徒は奴隷にしても殺しても全然OKですよ。そのお墨付きを与えたのがローマ教皇でありました。15世紀十字軍の甲斐もなく東ローマ帝国をオスマン帝国に滅ぼされてしまいます。それを絶好のチャンスと捉えたのが、モスクワ大公国のイヴァン3世でありました。今度は俺様が新しい東ローマ皇帝だ。皆こっち来いよというのです。それを受けて、イスラムの支配を嫌ったギリシャ正教会の聖職者や文化人や技術者がモスクワ大公国に政治亡命というか宗教亡命というか大勢移住しました。イヴァン3世の戦略は大成功で、これがロシア正教会、ロシア帝国の領土拡大の歴史につながったのです。かつて蛮族だったスラブ民族はイスラム勢力の奴隷にされ、モンゴルの支配も受けた。それが一転して、大帝国を築く強大な民族に生まれ変わったということです。結局、ギリシャに残ったのは商人と農民だけだった。商人と農民は商売と土地を捨ててロシアに移住する意味が無かったわけです。同じ15世紀、西のレコンキスタは完了し、イベリア半島を奪回します。そうした生まれたのがスペインとポルトガルなのです。

レコンキスタの成功で調子にのったポルトガルとスペインは相次いで未知の大海に乗り出していった。その背景にはイスラムを通して伝わった羅針盤などの技術もありました。ポルトガルとスペインが新大陸の奪い合いで戦争にならない為にローマ教皇の裁定で分担範囲を予め決めました。トルデシリャス条約です。両国が戦争になって共倒れになって、その隙に獲物を第三国に奪われたら馬鹿らしい。大航海時代のお墨付きを与えたのがローマ教皇の役割でした。異教徒は奴隷にしても殺しても全然OKですよ。

ローマ教会は調子にのって贖宥状を無知蒙昧なドイツ農民に売りさばきすぎて、ルターから批判されました。それが宗教改革の始まりです。いつのまにかローマ教会は悪徳商会みたいになっていたのです。阿漕な商売をやりすぎた。ルターは聖書に返れと叫んだ。聖書のどこに贖宥状で罪が許されるなどと書いてあるのか。宗教改革はドイツ以外にイギリスやフランスやオランダなど飛び火しました。宗教改革を受けてローマ教会から離脱したのがプロテスタントと呼ばれ、宗教改革後もローマ教会に留まったのがカトリック、またはローマ・カトリックというのです。ポルトガルとスペインはカトリックに留まりました。ローマ教皇のおかげでレコンキスタに成功した、ローマ教皇のおかげで植民地を手に入れた。そういう成功体験があったのでローマ教会から離脱する理由が無かったからです。宗教改革を受けてローマ教会の内部で生まれたのがイエズス会です。悪徳商法で信者を食い物にする古いビジネスモデルでは生き残れないと考えたイエズス会は、新しいビジネスモデル構築でローマ・カトリックの建て直し、生き残りを考えました。異教徒は奴隷にしても殺しても全然OKですよ。異教徒は新大陸や日本にいくらでもいるだろう。異教徒を食い物にしようという戦略でした。

こうしてポルトガルとスペインの冒険者・商人とイエズス会の聖職者の悪の二人三脚が始まるのです。一方、大航海時代に乗り遅れたイギリスとオランダは、先発するポルトガルとスペインに挑戦状を叩きつけるためにプロテスタントに乗り換えました。ローマ教皇の権威を認めてしまうと、トルデシリャス条約に従うしかなくなってしまいます。トルデシリャス条約を踏みにじって、新大陸に進出を図るためにはローマ教皇の権威を否定するしかないのです。それがイギリスとオランダが新教国、プロテスタントに乗り換えた理由なのです。ルターの起こした宗教改革は純粋に宗教的な動機から生まれたものだったけど、信者の方は至って世俗的な動機でカトリックとプロテスタントを選択した。どちらが自分にとって有利なのだろうかということだけです。

というわけでフィリピン。フイリピンにはイスラムが先に到達していたが、16世紀にスペインとイエズス会の悪の二人三脚がイスラム商人を追い払って、植民地化を始めます。奴隷にされたり、殺されたりしてはたまらない。フイリピン人は先を争うようにイスラム教を捨てて、カトリックに改宗したのです。カトリックに改宗したからといってスペイン人と同格に扱われることはない。植民地支配されることには何も変わりは無い。それでも異教徒のままでいるよりは、はるかに人間らしい扱いを受けました。それがカトリックに改宗した理由です。教義の是非は全然関係ない。これも世俗的な理由です。こうしてフイリピンでは19世紀末にアメリカが乗り込んでくるまで、スペインによる植民地支配が続きました。異教徒は奴隷にしても殺しても全然OKですよ。

文字数制限もあるので、かなりはしょって記述しましたが、キリスト教が果たした役割を理解しないと世界史は理解できないことを、まず認識して欲しいのです。
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>フィリピンにのみ強制させて他の国には強制させなかったのでしょうか?


なぜそう思われているのでしょうか?少なくと中南米など、キリスト教を強く布教した国はたくさんあると思います。

>キリスト教には3種類ぐらいあって、それぞれやり方が違う?
>というようなことを言われたのですが、どのようにやり方が違うのでしょうか?
それは誰に言われたんですか?あまりにも説明がおおざっぱですね。
キリスト教は、細かい話をし出すと、無数に枝分かれしています。その中で、特にヨーロッパでの主流がギリシャ正教会、カトリック教会、プロテスタントに大別されるということだろうとは思います。

この中でギリシャ正教会は、東ローマ帝国滅亡後、ロシアへと受け継がれ、今はロシア正教会と言われています。ロシアから海を渡る形での移民などがあまりなかったせいか、ロシア正教会が海外に布教した例は多くないと思います。でも、日本にはロシア正教会は到達していて、特に地理的に近い北海道にはロシア正教の教会がいくつかあります。

プロテスタントは、フィリピンが植民地化された頃ようやく産声を上げています。しかもプロテスタントの教義では、商業を是と面があるので、オランダやイギリスなど海外貿易の盛んだった国に定着します。一部は合理的な商人の宗教と言える側面があるので、布教のせいで自分たちの商売がうまくいかないことを嫌がる傾向があり、あまり海外への布教が盛んにならなかった面があるかと思います。

逆にカトリックは、プロテスタントが台頭し始める前後に、主にイエズス会が積極的な海外への布教に乗り出します。日本にたどり着いた、ザビエルが有名です。
イエズス会とは別に、カトリック信仰の強かったスペインやポルトガルでは、大航海時代にアジアや中南米などを新たに領土に加え、そこでキリスト教の布教を進めました。
詳しくは知りませんが、スペインは先に中南米を植民地化・布教した後、フィリピンにたどり着いていると思います。
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スペインの植民地だった所ってみんなキリスト教が布教されてると思いますけど、「フィリピンにのみ」というのは、そうじゃない地域もあったと言うことですか?



イギリスやフランスなどの植民地が、かならずしもキリスト教になっていないという別の国の話ですか?
そうだとすると、

>カトリックとプロテスタントでよいのでしょうか?
の違いと言って良いかと思います。
他に、イギリスもフランスも、国内で宗教対立から内戦のようになってそれを乗り越えてますので、スペイン・ポルトガルなどに比べると、政治が宗教から遠くなっているというのもあります。
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Q韓国にキリスト教徒が多いのはなぜ?

アジアで西欧の宣教師の大変な努力(歴史の本に数々出ていますが)にもかかわらず、キリスト教が根ずいたのは、フィリピンと韓国だけです、
フィリピンは土着宗教に大きな物が無く、またスペインの統治の影響
かと思いますが、韓国は儒教、仏教、と大きな宗教があり、また
西洋列強に統治されなかったのに、なぜキリスト教徒が多いのでしょうか?
いつごろから、なんにより、どうして現在のようになったのでしょうか、
韓国のキリスト教の歴史に詳しい方、よろしくお願いします、

Aベストアンサー

4番です。

>アメリカの長老派系の協会、はカソリックですね

長老派教会は、カルビン派の流れを組むプロテスタント教会です。
教会運営を長老(信徒代表)が行うために、長老派と呼ばれます。

>ペンテコス派はどこの国の派でカソリックですか

ペンテコステ派は、アメリカで1920年代に生まれたプロテスタント教会です。
キリスト教の奇跡を体験する事に主眼がおかれ、アメリカでの聖書絶対主義者の中でも最も強硬派を形成しています。
牧師個々の力が強く、実質的に牧師ごとに異なる教派のように行動します。
そのため、しばしばおかしな牧師が現れて、問題になったりします。
(ペンテコステ派は、教会内の牧師の力が強いため、カルト的行動を行う教会が多い事も特徴です。)
牧師個人個人が信者を集める必要が有り、その事が牧師間の競争となり、信者獲得に積極的になっています。
現在ペンテコステ派の中心となっているのは、アッセンブリ・オブ・ゴット教団ですが、教団とは名ばかりで、実質は各参加教会の連絡会のようになっています。

Qイスラム教の聖地はエルサレム、メッカ?

イスラム教の聖地とはエルサレム、メッカ、どちらなのでしょうか?
よろしくお願いします。

Aベストアンサー

どっちもです。

メッカ、メディナ、エルサレムの3つの都市が、イスラム教の三大聖地とされているようです。

メッカには、「神の館」であるカーバ神殿があり、また、預言者モハメッドの生誕地でもあります。

メディナには、モハメッドの墓所に建てられたモスクがあるらしいです。

エルサレムは、モハメッドが天に登った場所だそうです。

Qキリスト教と植民地支配

過去の歴史をみるとアジアやアフリカにヨーロッパのキリスト教の宣教師が最初やってきてその後に植民地支配がはじまるとありますがわからないのはどうしてキリスト教の布教をしてから植民地支配がはじまるのでしょうか?別にキリスト教を布教をしなくてもいきなり侵略できるのにしなかったのでしょうか?

Aベストアンサー

質問者の方は、「ヨーロッパ諸国は、キリスト教の布教の後に軍隊を送り、植民地にした」と言われていますが、宣教師などを送り込んだのは、カトリック諸国(スペイン、ポルトガル)であって、ブロテスタント諸国は行っておりません。

これは、当時のカトリックとプロテスタントとの宗教のおかれた状況の違いです。

当時のユーロッパでは、宗教改革の真っ只中で、カトリックは、ヨーロッパにおいて、その勢力を大幅に失いました。
それに対し、カトリック側は、イエズス会を中心として、反宗教改革を行います。
その一巻が、海外への布教活動でした。

ポルトガルの場合、まず交易船が現地に行き、現地の確認をすると、イエズス会の宣教師が向かいます。
その場所が、ポルトガルにとって有益な地と判断された場合、そこに拠点を造ります。
この場合、武力によるか、平和的に行うかは、相手しだいです。
ポルトガルの場合は、人口も100万人程度と少ないため、むやみに植民地を拡大せず、あくまで拠点支配にとどまります。
イントではゴア、中国ではマカオ、アフリカのモザンビークなど。

スペインの場合、コンキスタドールなどが、自分たちで勝手に金銀を奪い取るため軍隊を送り、その地を征服してしまいます。
スペイン王室は、その内の一定割合を王室に収める事を条件に、侵略を容認します。
そのため、スペインの植民地は、鉱産資源の豊かな場所がほとんどで、鉱産資源の無い場所や、交易に利点となる場所で無い限り、積極的に殖民を行っていません。
フィリピンの場合、フィリピンは、当時スペインの植民地だったメキシコの植民地で、中国とメキシコの航路確保のために占領しました。
スペイン軍にしても、軍勢は、コンキスタドールの私兵ですから、数百人が限度で、相手がチョットした勢力であれば、占領は不可能でした。

スペインが滅ぼした大きな勢力として、アスティカとインカがありますが、アスティカの場合、スペイン軍というよりも、反アスティカ部族(トルティカ族など)をスペイン軍が結集させ、アスティカを包囲し攻略しています。

インカにしても、当時インカ帝国では、アタワルパとルスカルが、皇位をめぐって戦争中で、ピサロとアタワルパが結び、ルスカルを倒して、インカ帝国に取り入ります。
その後アタワルパを捉え、インカを乗っ取ります。
インカでは、皇帝に権力が集中していたため、皇帝の名代として命令するピサロに反抗できず、のっとられてしまいます。

スペインにしろポルトガルにしろ、まともな国家を占領するだけの力は、当時ありませんでした。
それらを行うのは、イギリス・フランス、オランダといった諸国で、これら諸国は、キリスト教の布教には熱心ではなかったため、質問者のご質問のような事き有りませんでした。
(フランスの場合、カトリックが優位にたっているため、イエズス会などの布教が有りますが、これは占領されてからの話しです。

質問者の方は、「ヨーロッパ諸国は、キリスト教の布教の後に軍隊を送り、植民地にした」と言われていますが、宣教師などを送り込んだのは、カトリック諸国(スペイン、ポルトガル)であって、ブロテスタント諸国は行っておりません。

これは、当時のカトリックとプロテスタントとの宗教のおかれた状況の違いです。

当時のユーロッパでは、宗教改革の真っ只中で、カトリックは、ヨーロッパにおいて、その勢力を大幅に失いました。
それに対し、カトリック側は、イエズス会を中心として、反宗教改革を行いま...続きを読む

Qマレーシアには何故イスラム教徒が多いのでしょうか?

歴史を勉強しているのですが、マレーシアや
インドネシアにはイスラム教徒が多いようです。
アラブの諸国からは、少々離れているし、
間に幾つか、他宗教の教徒が多い国があります。

そのような状況の中で、イスラム教徒が多く
なった理由を教えてください。
海から渡ってきたのでしょうか?

参考文献のURLでも構いません。

宜しくお願いいたします。

Aベストアンサー

No.2のURLを読めば判ると思いますが、若干補足します。
マラッカ王国は最近の研究では、1402年より前に成立したと見られています。
イスラム教はもっと前にアラブ人が伝えたものですが、そのアラブ人はすでに商業拠点を確保していたインドから渡って来ました。  当時インドではイスラム教とヒンズー教が共存しておりましたが、結局イスラム教が伸びる事は出来ませんでした。
マラッカ王国ではスルタンがイスラムを国教としたので、急速に広まりました。
国民は海洋部族で交易を主とし、アラブ人との接触に有利であるからでした。
スルタンの法律に海洋法とイスラム法の二つがありました。
アラブ人の学者もマラッカに来て、イスラム神学の中心地になりました。
マラッカ王国は後に版図を拡大し、マレー半島からスマトラ島の半ばを領有するようになり、インドネシアにもイスラム教が伸びる事になりました。

Qタイはどうして植民地にならなかった

タイはどうして植民地にならなかったのでしょうか?
また、第二次世界大戦ではタイは戦ったのでしょうか?
ぜひお教え下さいませ。

Aベストアンサー

基本的には、「英仏の緩衝地帯」という見方でよいと思います。

当時、イギリスはビルマとマレー半島を植民地化していました。フランスは仏領インドシナと呼ばれる、現在のベトナムを含めたインドシナ半島の東側を領有していました。
この間に挟まっているのがタイで、双方どちらかがタイを植民地化してしまうと、国境を接してしまうことになるのでよろしくない・・ということです。
ただ、もうひとつ見方があり、それはタイ自身で独立を勝ち取ったという見方です。タイ自身も、あの時代外国人誘致による近代化を進めており、自身の力での独立維持という見方も、わずかながらあります。

さて、第2次世界大戦についてですが、あまり知られていませんがタイは枢軸国として参戦していた日本の数少ない味方国です。(以降は以前の回答から持ってきたものですが、そのまま回答になっています)。
イギリスの爆撃や、B-29の空襲も経験しています。関係としては、日本が仏印(今のベトナムを含めたインドシナ半島の東、つまりフランス領です)に進駐したころから、歩調を合わせ始めています。その前は第2次大戦について中立宣言をしていました。その後、日本が参戦するとほぼ同時に、宣戦布告を行っています。
しかし、最後には完全にそれを翻し(というか日本との同盟など、参戦した理由をうまく自国からそらしたのです)、ついには敵国条項(第2次大戦における連合軍の「敵」リストとでも考えてください)にすら名を連ねていません。これはタイの外交手腕の勝利といえます(今でもそうですが、タイという国は非常に外交が上手です。第2次大戦の前後におけるタイの外交は非常に巧妙で、見事といえます)。
なお、現在の日本との関係は友好的ですね。

基本的には、「英仏の緩衝地帯」という見方でよいと思います。

当時、イギリスはビルマとマレー半島を植民地化していました。フランスは仏領インドシナと呼ばれる、現在のベトナムを含めたインドシナ半島の東側を領有していました。
この間に挟まっているのがタイで、双方どちらかがタイを植民地化してしまうと、国境を接してしまうことになるのでよろしくない・・ということです。
ただ、もうひとつ見方があり、それはタイ自身で独立を勝ち取ったという見方です。タイ自身も、あの時代外国人誘致による近代...続きを読む


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