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本格的には明治時代だと思いますが、日本に西洋のクラシック音楽が初めて入ってきたのはいつ頃なのでしょうか?

オランダ商館などを通じて江戸時代にも少しは入ってきていたのでしょうか。ウィキペディアを見ると、ルイス・フロイスの「日本史」には16世紀中ごろにはすでにポルトガルの宣教師がミサでの演奏用として子ども達にヴァイオリンの原型?のようなものを教えていたとの記述があるみたいです。
オランダ商館を通じて、長崎などには西洋音楽のようなものも伝来していたのでしょうか。

初めてクラシック、特にオーケストラでの演奏を聴いた日本人はあまりに日本の音楽とは違うその世界観に度胆をぬかれたのではないかと想像しますが、何か記録は残っていますでしょうか。

A 回答 (3件)

 西洋音楽の伝来について、質問者さんのカンは当たっているようです。


http://www.msj-chubu.org/reikai074.html
>オランダ商館を通じて、長崎などには西洋音楽のようなものも伝来していたのでしょうか。
・・・下のURLによれば、長崎の出島のオランダ公使邸ではよく音楽会が開かれ、日本人大名も招かれている、黒い顔の楽士(バタビアから連れてきた)も居たとのことです。
 それは本物のオーケストラとはいかないでしょうが、何種類かの楽器のアンサンブルだったように思います。
 井上靖の小説で有名になった大黒屋光太夫も、いろいろ言い残しているようですが、詳細はわかりません。
 出島で西洋音楽を聴いた大名はビックリしたでしょうね。楽器の音の大きさも違いますし、メロディーもまるで違います。
 以下は小生の想像ですが、今のクラシックの演奏会場の雰囲気とはまるで違ったんじゃないかと思います。
 マーチ風の曲が演奏されたりすると、チョンマゲの大名が身を乗り出してリズムを取ったりして、ホントカナ(笑)。 
http://d.hatena.ne.jp/tamakihiroki/20070227
 蛇足ですが、『君が代』制定のいきさつも面白いです。大山巌が出てきたり、メロディーが三つもあったり。
 旧来の旋律に、西洋の和声法によって無理やり伴奏を付けているようですが、これもおもしろいです。
 (他国の好戦的な感じのする国歌と違い、この曲私は大好きです)
http://web.kyoto-inet.or.jp/people/tpnoma/kimi/k …
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この回答へのお礼

出島では音楽界がよく開かれていたのですね。
大名が招かれているというのは意外でした。これは長崎警固の任にあった鍋島氏や黒田氏のことなのでしょうか。一般の大名が出島に出入りは出来なかったと思っていました。長崎奉行も役高一千石の旗本ですし…
大名もリズムとっていたかもしれないですね。江戸時代の大名は能楽とか芸事が大好きなのであり得ることかもしれません。

大黒屋光太夫はエカチェリーナ2世にも拝謁していますし、宮廷音楽などに親しむ機会はあったのかもしれませんね。
漂流から帰国までに9年半もかかっているようですね。いにしえの阿部仲麻呂になったような心境だったのでしょうか…

君が代の紆余曲折、面白いですね。
西洋の和声法のはちょっと・・・(苦笑)
こういった話はほとんど知られてないですよね。
ラ・マルセイエーズとかはすごい歌詞ですよね。日本の民主主義は所詮は借り物から始まりまっていますが、フランスは国歌1つとってもさすがは市民革命を成し遂げた国の国歌だなという感じはします。
ただ、和を大事にする日本人には革命を歌った国歌よりも君が代のような歌詞の方が滋味深くて良いのかもしれません。反面、フランスがこういう自らの手による市民革命の歴史が刻まれた国歌を持っているのが羨ましくもあります。
かたや日の丸はフランスの方が500万円で売ってくれと言ってきたみたいですね。単純なようで洗練されたデザインだと思います。

ありがとうございました!

お礼日時:2007/03/25 20:01

余談ぽくなりますが


明治10年の西南戦争のおり、西郷軍の本拠鹿児島を制圧し、その補給を断つべく、政府軍の艦隊が出港する際、軍楽隊によりクラシックが演奏されたとか。荘厳で厳粛な音楽に、将兵は奮い立ったそうです。
後でお雇い外国人が、演奏された譜面を見て愕然。
曲名はハイドンの「葬送行進曲」・・・おいおいw
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この回答へのお礼

明治10年の段階でもう、軍楽隊があったのですね。
あの時代はある意味で昭和後期よりも激動の時代だったのでしょうね。
農村部の人の生活はさほど変わらなかったのかもしれませんが、東京に住んでいた人は町並み一つとっても大名屋敷が解体されたりと、時代の転換を日々実感できたのでしょうね。

>葬送行進曲
曲名を知らずに演奏してたんでしょうか・・・

ありがとうございました!

お礼日時:2007/03/26 09:18

 


 最初の聴衆
 
 下記の書物が(前後の記述をふくめて)もっともよく伝えています。
── 堀内 敬三《明治音楽百年史 19680930 音楽之友社》目次

015(二)最初の吹奏楽伝習 025(七)雅楽家の洋楽研究
027(八)キリスト教讃美歌の移植 030(九)唱歌教育の開拓
 
 つぎの記述が、ずばり核心をついています(八 P29)。
── 明治初年の宣教師は『日本人は歌うことが出来ない』と信じた。
 
 初めてオーケストラ演奏を聴いた日本人、という点があいまいですが、
日本人による最初の管弦楽演奏は、明治十四年五月に東京女子師範学校
に行啓された皇后陛下の前で、演奏者も曲目も分からないそうです。
 
 正規の管弦楽団による交響曲となれば、大正十二年四月十二日の東京
シンフォニー・オーケストラ第一回演奏会、ゲルスコウィチ指揮による
ベートーヴェン《交響曲第五番》まで、42年後(1881~1923)です。
 
 私見ですが、クラシック(西欧古典音楽)の楽理論が、古代ギリシャ
哲学を経て、キリスト教会で育ったのに対し、東洋音楽は“傾国の遊芸”
として継承されたので、そもそも融合しないのです。
 
 わたしがインタビューした、ゲーテ協会幹部の意見も、日本人の演奏
はとても上手だがドイツ音楽ではない。目をつぶって聴けば、ときどき
区別できないこともあるが……、という辛辣なものでした。
 
 彼らは、東洋民族が未熟だから差別しているつもりはなく、西洋人に
よる歌舞伎がつまらないのと同じだと考えているようです。その上で、
たがいの文化を研究する態度こそが重要なのだ、と主張するのです。
 
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この回答へのお礼

日本人による最初の管弦楽演奏は明治14年だったのですね。
はじめは東京女子師範学校などの学校でお雇い外国人が教えていたといった感じなのでしょうか。
正規の管弦楽団による交響曲が披露されたのはそれから42年後だったのですね。
結構、時がかかっている気がしなくもないですが、おっしゃるようにそもそも融合しないものを一から組み立てて形にするとなれば、それくらいの歳月がかかるものなのかもしれません。

>明治初年の宣教師は『日本人は歌うことが出来ない』と信じた。
この一言は西洋と東洋の音楽の異質さをよく表してますね。

勉強になりました。
ありがとうございました!

お礼日時:2007/03/25 13:29

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