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最近急速に日本全体が(中・韓を馬鹿に出来ないほど)劣化してきてるような気がするんだけど、どうなってんの?

テレビで四六時中あほな番組を放送してるせい??


クレーマー&未払いのあほな親。
死ぬほどわがままで生意気なガキ。
ゆとり中高生。
中学の学力もない、ばかな大学生。
すぐやめるし、常識もない新入社員。
ニート、フリーター。
バブルを忘れられないあほ女。
ランチ三昧。日本経済をある意味引っ張るあほな主婦。
犯罪率が高い中年おやじ。
人の金は俺のものっていう官僚・政治家。
ハレンチ先生。
winny大好き警察&自衛隊。
いわずもがなの在日。
日本の将来より、自分の年金&医療費が大事なご年配。


まともな人間像が思いつかない。

日本人は自虐的って言うけど、考えるといい所少なくなってきてませんか?
昔は違ったような気がするけど、この30年位で価値観が変わってきてるみたいだけど、
なんでだろ?

A 回答 (25件中1~10件)

質問者さんの感じている日本人の劣化は、私ももの凄く感じていて、このままいけば、とても住みにくい国になると、悲観的に見ています。



質問者さんは、教育に思想や宗教観を持ち込むのを否定されてますが、私は、真理と言える宗教の思想であれば、それを基軸にしていく事は好ましいとの立場を取っています。

今の時点で、世の中の風潮がおかしい、もっとマシな教育や啓蒙をしなければならない、といった場合、誰がその教育や啓蒙のベースを作れるのか、となると、今の日本の大人世代で、それができうる人間は、限りなくゼロなのではないか、と思います。現状からすれば、政府高官の人間や、有識者と呼ばれる人間、政治家を中心に、継ぎ接ぎだらけの、玉虫色の代物を作るのが精一杯であり、客観的に見ても、外国の真似事に終始する可能性が高い、と思われます。

私は、一時期、浄土真宗系の仏教を学んだ、という経験から、その視点でのコメントになります。ご了承下さい。

>なぜ「人に迷惑をかけない」という基本が出来なくなったのか、価値観が劣化しているのかが疑問に思っているだけです。

まず、日本人はなぜ劣化してきたのか、ですが、私は、最近において、劣化の程度がますます悪くなってきた、との表現で捉えています。昔から、人というのは、ご立派な状況であったわけでなく、劣化していた、と言えば劣化はしていたわけです。ただ、今問題視されるのは、その程度が、目に余るくらいになってきていて、このままでは末恐ろしいであろう、と思われているからだと思います。

「人に迷惑をかけても構わない」、という風潮が常態化し、ある種、蔓延してしまっているのは、”物事に対しての善悪が分からない”、が原因になっていると判断します。ゴミをゴミ箱に捨てるのではなく、そこらへんに投げ捨ててしまう、という行為も、自分にとっては都合がよく、自分にとって都合がよければ、それは正しい行為だ、というニュアンスで捉えていることで、ゴミポイ捨てが行われてしまいます。決定的に悪い行為だ、との認識が希薄であり、また、それを注意できる人間もいなくなった事で、人に迷惑をかける迷惑人間が横行しているのだと思います。

善悪を判断できなくなった、のは、なぜか?と言えば、それは、「反省」しなくなった、あるいは、「反省」の機会を失った、事で、善悪を学ぶ機会が激減してしまった事が原因と言えます。

原因と結果の法則、という本がありますが、因果律に従って、物事を洞察、推察していくと、以上のような原因や背景が見えてきます。因果律とは、釈迦が発見した法則です。

人は、煩悩として、名誉欲、財産欲、色欲、食欲、睡眠欲がありますが、この欲望を満たすためだけに生きる人間が増えてきてしまっている事にも、日本人の価値観の劣化の原因が潜んでいます。名誉を得るために、財産を形成したいために、おいしいものを食べるために、等々、欲望の限りを尽くすためだけに、動物以下の行動を恥ずかしげもなく、日常生活を送っているのが、今の現代人です。

欲望は満たすものではなく、逆に制限するものです。際限なく、人間の欲望を追求していけば、必ずや人間は自らの首を絞め、早々に滅亡してしまう事でしょう。欲望を制限し、動物や地球との共生を選択しなければ、人間は、己の欲望の奴隷に成り下がって、それに気づかずに歴史を閉じる、という最悪の結果をもたらす、に違いありません。

ちょっと話が、大きくなりましたが、日本人の劣化が起きている原因は、大人世代の腐敗にあると考えています。戦後の社会で、娯楽施設の過剰供給や、テレビの低俗化、おもしろ至上主義、多様性の容認、等々、我々大人世代は、既存の社会に対して、概ね容認してきた、あるいは、看過してきた、わけで、今の世の中の腐敗ぶりの元凶は、大人世代が不甲斐なかった、という事だと考えます。

さきほど、述べたように、これを正すためには、大人世代は、欲まみれの活動自体を反省し、しっかり反省していく事で、善悪をつけ、善悪について、子供世代に注意・指摘等で、教えていく、これが大切であると考えます。

多様性という思想は、グローバリゼーションや規制緩和等により、なんでもあり、という負の側面を助長しました。代表的な例は、ライブドア事件や村上ファンド事件。

「多様な考えがあるから、それぞれの考えを丁重に取り扱おうではないか。」

という思想が、上記の事件を引き起こし、そして、子供に注意や指摘をする事を躊躇させてしまった、事は、言うまでもありません。ただし、画一的な思想にしよう、という発想ではありませんので、ご了承下さい。

欲望とどうつき合うのか、うまくつき合う為にはどうすればいいのか、が解決できれば、世の中の大半の問題は解決するのではないか、と思います。まずは、欲望そのものを知り、なるほど人間というのは、愚かにもこんな汚らしい欲望を持っているものなのだな、との認識を得ることが大切です。その欲望を知るには、まずは己を知る事であり、己を知るには、日々の生活の中で、しっかりと反省する習慣を持ち、反省心を醸成していく事です。反省する日常になれば、当然、己の汚い心を知る事になり、その汚い心に支配されないように、注意して行動することが、日々の鍛錬によって少しずつできるようになります。

反省心ある人間は、周囲への配慮、利他的な考えを持つようになるので、今現在の殺伐とした人間関係も緩和していく、と考えます。

反省心ある人間で、自己中心的で、利己的な人間、というのは想像しにくいのではないでしょうか?自己中心的で、利己的な人間を上から抑圧するのではなく、内面的にアプローチして、結果として、利他的な人間を増やすことが賢明であると思います。

かなり、雑ぱくに述べたので、支離滅裂な点があるかと思いますが、ご了承の上、参考にして下さい。
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この回答へのお礼

true-1さん ご回答ありがとうございました。

>劣化の程度がますます悪くなってきた
まさしくその通りですね。
他の方もおっしゃってましたが、過去常に日本人の倫理観が高かったわけではありません。
それでも、昭和の方が日本人に余裕があり、他人に寛容だったような気がします。

>質問者さんは、教育に思想や宗教観を持ち込むのを否定されてますが~~

宗教は「社会がこれ以上荒廃しないために、人の欲望を抑える」ことを目的にしているので、社会規範として、国を治めるときにはありだと、ありだったと思います。

ただ、今現在の宗教は基軸にするに足る信用がない、とも思っています。
宗教の名を借りて、金集めを目的とする機関が多すぎる。
また、現在は宗教の自由もあり、国が宗教によって統治するのは不可能です。

ただし、宗教に基づく考え方が広まるのは本当にいいことだと思います。
かつての日本でも、儒教や仏教などの宗教観が一般の間で残っていて、それが人々の道徳的規範となっていました。
「悪いことしたら地獄へ落ちるよ!」なんて今は言わなくなってしまいました。
(TVではインチキ占いババァが言ってますが・・・)

>欲望とどうつき合うのか、うまくつき合う為にはどうすればいいのか、が解決できれば、世の中の大半の問題は解決するのではないか、と思います。

その通りですよね。
でも、それが非常に困難なことも想像に難くありません。
資本主義と、自由主義が正義とされている現代では、個人の欲望を抑制するのは非常に難しいです。
「自由」は20世紀に勝ち取った偉大な権利ですが、今やそれがおかしな方向へ向かっていると思います。

「価値観の自由」
一見よさそうな言葉ですが、拡大解釈すれば、個々人が社会的ルール(社会的価値観・法律)より個人のルール(個人の価値観)を重視していい。とも言い換えられます。
つまり最終的には殺人の自由という考えにまで至ってしまう。

本来、「ルールの中の自由」であるべきものが、「自由」という権利が一人歩きしてしまって(自由>>>>ルール)になってしまって、欲望の抑制が出来なくなってしまっている。

何でも「自由」な世界って、原始的な、野性の世界ということを理解し、もっと「自由」の制限を受け入れないと世の中は変わらないと思います。

お礼日時:2007/05/21 13:33

>>昔は違ったような気がするけど、この30年位で価値観が変わってきてるみたいだけど


今の価値観が世界平均ですね 窮屈な人間上下関係、義理人情、約束を守る、自分を犠牲にしても上のために動く・・・などを権力者の利益のために教えられてきたのが日本人です さりとて人間って性悪なものですから、それなりの法律を用意するべきなのに、まだ遅れているだけです 
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この回答へのお礼

plokijさんご回答ありがとうございました。

>今の価値観が世界平均
私は、アメリカの文化戦略によって、アメリカの価値観が世界のスタンダードになってきている。と見ています。
アメリカは世界中すべてを自分中心にしようと思っているらしく、文化、言語、通貨、経済、軍事、宗教、自由主義、資本主義なんでも自分が一番で、自分の考えを世界中に押し付けているように思います。
その殆んどが成功していますが、アメリカが理想的な社会かと言うと、そうは思えません。

>窮屈な人間上下関係、義理人情、約束を守る、自分を犠牲にしても上のために動く
義理人情や、約束を守る、などは必要な気がします。

>権力者の利益のために
資本主義ってことは、資本家は勝ち組で、労働者は負け組みの働く奴隷です。
しかし、労働者になる方法は教育しても、資本家になる方法は決して教えません。
早い時期に気づいて、自分で学び、チャレンジするしかないんです。
資本主義を守るためには必要なシステムかもしれませんし、現在の子供たちのやる気の無さを見ると、今後はアメリカや中国の資本家のために存在する、労働力としての日本。というシナリオが見えてきます。

外資が買収しやすくするなんて、どれだけ売国奴なんでしょうか?
どの口が「美しい国、日本」なんて言ってるのでしょうか?

>人間って性悪なものですから、それなりの法律を用意するべきなのに、まだ遅れている
性善説と性悪説がありますが、法治国家において性悪説が前提となるべきなのですが、この国の法律は性善説を前提としたものが多すぎる。
自己抑制ができないくせに、法律で縛られることも嫌い、結果国家が破綻する。
もう、寸前まできてるんじゃないでしょうか?

法律って便利なようで、0と1しかない、融通の利かないものです。
それで人間社会のコントロールをするって言うのは、世界一の天才が法律を作っても無理なんじゃないでしょうか?

法律+道徳で国は治めないといけないと思っています。

お礼日時:2007/05/26 14:55

#19です。


>true-1 のアカウント名は真実を追究するみたいな意味でしょうか?

実は、「真実の眼」というブログを書いているので、そういうアカウント名にしました。

>でも現状は資本主義なので、欲望の対象はどんどん増えます

私は、資本主義とか、民主主義とか、今正しいと思われている社会システムやスタンダードとされる思想であっても、欲望の対象を減らす為には、断腸の思いで、否定すべき、と考えてます。欲望の対象が増え続ける社会では、いじめは永遠に減ることはないですから。

>まぁ問題によるかなと思う。自分に責任のない事故、災害、病気はたくさんあるでしょう。

宇宙の大法則、というと突飛ですが、因果律(因果の道理)という根本法則があります。これは、自分の身に起きた事象は、全て自分が蒔いた種によって起きている、という法則です。良く聞き慣れた言葉で言えば、「自業自得」ですが、詳しく言えば、「自因自果」、「善因善果」、「悪因悪果」という事です。自分で行った行為は、自らが結果として刈り取らねばならぬ、善い行いをすれば、善い結果が得られる、悪い行為をすれば、悪い結果が得られる、という事です。

道理に沿った生き方、は正しく、道理に反した生き方、は正しくありません。道理に反するとは、分かりやすく言えば、人のせいにする事です。つまり、人のせいにして、相手を恨むという行為であり、これは、因果律に反する行為(他因自果)なので、人としてはいけない事になります。逆に、人のせいに帰するのではなく、自分のせいにする、事は、道理に沿っていて、因果律に準ずる事なので、人として適った生き方になります。

人のせいにしてばかりいると、その人は、一生恨みの人生になりますが、恨みの人生になるなどという事は、不条理なわけです。そんな不条理な人生を歩むために、人として生を受けているわけではないので、当然、恨みの人生になるような考え方自体が否定される訳です。反対に、自分のせいにする、という生き方は、周囲に対して感謝の心を持つ事ができ、感謝の人生を歩む事ができます。これは、条理な事であり、人として生まれてきた意味がそこにあり、道理に沿った生き方となるのです。(ややこしい話ですみません)

>しかし、人は、人と接する中で生きているので、やはり評価は気になります。

人というのは、頭の中にある心である意識と、腹底にある心の、2つの心があります。意識は、理性的な心、腹底の心は、本能的な心です。腹底の心は、煩悩に影響を受けた根強いものなので、容易に考えを曲げる事はできません。しかし、理性的な意識は、学習によっては、良い方向に変える事は可能であり、ここの部分が成長できると、欲まみれの生き方に制限をかけられる事になります。

腹底の心では、「他人の評価は気になる」と感じても、理性的な心では、「他人の評価など当てにできないので、その評価に振り回され一喜一憂する生き方など、愚かである」と、捉えておれば、生きていく上で、浮き足だった生き方にはなりませんよ、という意味が、「他人の評価はあてにならない」の本質です。

下記に、過去に書いた論文を載せます。ご参考にして下さい。
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◆人の本性は

人は、本音と建前を持って生活しております。本音だけ、建前だけ、では、当然人生はうまく渡ってはいけません。本音と建前をうまい具合に使い分けしないといけないのですが、相手次第で受け取り方が違う事情から、トラブルになる事も多いかと思います。さて、ここでスポットにあてたいことは、人間の本音とは一体どういったものなのか、という事です。

人の本音とは、本心、本当の心、腹底の心、と言えると思います。この本心というものは、普段気をつけて見ているものではありませんが、キレイなものなのでしょうか?それともキタナイものなのでしょうか?

例えば友人がいきなり、「彼氏ができたの!」、と喜び勇んで報告してきたとします。目の前では、私が世界中の幸せを独り占めしているかのように笑っている友人がいるわけです。「へぇ~、良かったね!」と、あたかも一緒になって喜んでいる表情を見せつつ、内心は、というと、「どんな奴がこんな娘を好きになったんだろう」という悪たらしい事を平気で考えていたりします。これが実は何を隠そう、人間の本心です。決して、キレイなものではなく、キタナイ心と断言しえる醜悪な心なのです。思ってはいけない、いけない、と思いつつも、悪い心が蠢動してしまい、言動や行動に時として露呈し、大失敗を犯したりします。

人を裏切ってしまう心、人に嘘をつく心、人を蹴落とす心、人を罵る心、人を妬む心、人を謗る心、人を卑下する心、人を軽んずる心、自分だけが得しようとする心、等々、数え上げたらキリがない位、人は、本心では悪い事を考えています。浄い心ではなく、真実は、汚い心なのです。自分の心くらいはキレイであって欲しい、という妄想で、汚い、という真実を拒否しがちですが、これが私の本心なのだ、というように、真摯に受け止め、受け入れ、認めることが肝心なことなのです。

ここで注意が必要なのは、本心が悪ならば、悪事を働いてもいいだろう、と短絡的に考えてしまう事です。これは、間違いです。本心が悪である事が認識できれば、その悪を発動させないように注意しながら、日々の生活をしていくのが必要です。もし、自分にとって悪い縁であると分かったならば、その悪縁を遠ざけ、自分の悪性を発動させないように行動する事が大切なのです。

人はよく妄念によって、何事に対しても美化したがります。自分の心は浄い、あの人の心は浄い、というように、心に対しても、間違った美化をしてしまいます。それでいて、自分の本心が汚いという事に気づくと、美化した本心とのギャップに苦しみ、最終的には汚いという事実を押し隠す事をしてしまいます。事実に背いて生きていくという事、これは自分に対して嘘をついて生きていく事になり、精神的なストレスを多く抱える結果となります。

人の本性とは何なのか、その真実をしっかり見極めて、認めていく事が大切です。自分の本性を知ると、少しずつですが、自信がつき、人生に対しての不安も軽減するので、悪性たる自分の心から逃げずに受け入れるよう努力して頂きたいと思います。

◆人は正しいのか

人は、様々な経験や情報をベースにして、物事を判断しますが、判断基準は自分の考えにあることが多いかと思います。そして、自分自身に自信がある人やプライドの高い人などは、得てして、自分の結論に対し、自信があり、正しい、と思っている場合が大半であると推察されます。

例えば、本音を言うと人を傷つけてしまうので、本音を言うのはいけない、と思っている人がいるとします。こういった人は、本音とは違った建前ばかりで人間関係を作ろうと思うので、日々相手のご機嫌を伺いながらの生活になります。当然、相手に気を使うので、精神的負担というストレスを受け、しかも本音を言えないおかげで、口数も減る傾向にあります。これは、正しいことなのか、と言われれば、当然、正しくありません。しかし、本人にしてみれば、生きていく術として、これは正しい、と信じ、執着しているので、他の人から仮りに指摘されても、なかなか自分の間違いに気づかなかったりする場合が多いのです。

自分の考えが正しい、と執着してしまう理由は、「浄」という妄念に縛られているからです。浄とは、浄い、という意味で、自分の考えは浄いもので、正しい、とする迷いの心なのです。この浄という妄念が働いている事に気づかないと、人は得てして、「正しい病」にかかり、他の人の意見を全く聴かない、自己中心的な状況に陥るのです。

人は完璧な存在ではありません。ですから、自分が正しい、と見るのではなく、自分は正しくない、と見るのが正しい見方になります。自分は正しくない、とは、「不浄」であるという事です。なかなか、人間は自分を不浄な存在、不浄である、と認め、受け入れることはできませんが、一旦不浄である、と認めると、謙虚な姿勢で物事を見たり、人と接することができるので、認める勇気が生きていく上で大切です。

人は、不浄な存在、それを欲目でついつい浄であると美化してしまいますが、それは妄念であると認識した上で、しっかり自分を見つめ注意していく事が、人間関係を築く上で大切なのです。

◆本音と建前

人は、俗に言う「建前」と「本音」があります。建前とは、頭の中で考える考えであり、本音とは腹底の心での考えであります。つまり、人というのは特殊な例を除き、二つの心を常に持ち合わせているわけなので、一つであるという勘違いをしないように注意したいところです。

さて、建前がやたら多いという人が世の中にいますが、一緒にいてどうでしょうか?何を言いたいのか分からない、何を考えているのか分からない、本心隠してええ格好しようとしている、キレイごとばかりでつまらない、と思われると思います。

逆に、本音がやたら多いという人も世の中にはいますが、一緒にいてどうでしょうか?ジコチューだな、とか、本能でのみしゃべってるな、とか、周りの事などおかまいなしだな、とか思われると思います。

建前の多い人、本音の多い人、両方とも困った人であると言えるのではないでしょうか。結論から言うと、相手や状況、話の流れ具合等をしっかり勘案した上で、「建前」と「本音」を自分で選別して、行動、発言していくことが大事であると考えます。当然、会話では、いちいち考えて選別して、では間に合いませんので、瞬間的な判断が要求されます。何を話すべきか、何を伝えるべきか、今伝えるべきなのか、等々を瞬間的に判断するのです。これは、少なからず、経験も必要です。経験も必要という事は、当然、失敗もある訳ですが、この失敗を怖れず、チャレンジすることが重要になります。本音を言うべきところを、建前を言って失敗すること、建前を言うべきところを、本音を言って失敗すること、これは、ある種、場の空気を読んでいかに適切に判断するかが問われてくるわけで、あとは場数という経験を積み重ねることで、こういった失敗を減らすことは可能になるかと思います。簡単ではありませんが、これを意識して行っていけば、建前と本音の使い分けというものが、淀みなく行えるようになっていけると思います。

建前と本音をうまく使い分ける為には、経験も、必要と述べました。それでは、他に何が要素として必要なのでしょうか。それは、まず、自分を知ること、そして、周囲に興味、関心を持ち観察すること、この2点が挙げられます。

自分をもし知らない人であれば、今自分が何を考え、何を思い、何を伝えたいのか、すら分からないので、仮に言葉として伝えたにしても、それが建前であったのか、本音であったのかさえ、怪しくなってしまい、結果として、うまく表現できなかった、失敗した、という結果に陥る可能性が大となります。また、自分を知らない、という人は、自分に対して自信もないので、周囲への興味、関心というよりは、自分が周囲にどう見られているか、どう評価されているのか、に執着してしまい、結局、場の空気を読めない、という結果になってしまうと想像され、周囲への観察は疎かになります。

自分を知るには、善いことをすること、と、失敗したらしっかり反省すること、が必要になります。

善いこととは、人に席を譲るとか、大きな声で挨拶をするとか、困っている人を助けるとか、であります。そして、どんどんやっていくうちに、あることに気がつくと思います。それは、人に対して善いことをすると必ずと言っていいほど、見返りを求めている自分がいることに気づくということです。何か親切をして、普通に御礼の挨拶を貰えればいいのですが、逆に挨拶なしで立ち去られると、怒りに似た感情が吹き上がり、さらには、相手を罵るまでになってしまう事があります。善いことをしておきながら、腹底の心で悪い感情を造り上げているとは、善をしているのか、悪を造っているのか、分からなくなってきます。人は、善いことをしますが、純粋な善はできない、というのが真実です。真実な善ができない中で、それでも善を続けていく事で、見返りを求めている、悪たらしい心が見え、自分の本性、つまりは自分を知ることができるようになります。この嫌らしいかもしれない本性を積極的に受け入れていく事で、自分を明確に知っていくことができます。

自分を知るには、もう一つ重要な要素として、失敗したらしっかり反省すること、というのがあります。人は、失敗する時に、得てして、利己的で悪たらしい心が作用する場合が多いものです。そういった醜い心で犯してしまったが為に、割と責任を認めたらず、結果としてしっかりした反省に至らないケースが多いのです。ですから、反省に至らない人というのは、自分の醜い心を見逃す場合が多く、自分を知るチャンスを逃すことになるのです。これは、非常に勿体ないことです。ここは、勇気を持って、積極的に失敗の責任を認め、失敗を受け入れることで、反省をし、自分の利己的で悪たらしい心を嫌というほど見つめて貰いたいものです。そうすれば、確実に、自分と向き合え、自分の本心、本性を知ることができるのです。

善いことをすること、反省をすること、は一日、二日程度で良いわけではありません。永遠に努力していく事が大事であるし、し続けなければ全く意味も、成果も得られません。日々、続け、自分の本性を知らされていく中で、当然自信もつき、人と接していても臆することなく渡り合えるようになっていくものと推察されます。そうなれば、あとは経験のみ。建前と本音をどういう雰囲気の時に、どういうタイミングで、どちらを出していくべきか、が感覚的に分かっていき、いつのまにか建前・本音を選別しきる達人になっていることでしょう。
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この回答へのお礼

>true-1さんご回答ありがとうございました。
時間が最も貴重な現代において、たくさんの時間を割いていただいたこと、感謝のしようもありません。

私からの回答は、もう少し時間があるときに、補足欄にてさせていただきます。

色々役に立つお話ありがとうございます。

お礼日時:2007/05/26 14:58

追伸:大臣辞職どころで無く議員辞職のレベルなのに、先取りし自ら示せず追求できない次期政権?党。


国民、子供の前で容認して見せる日本代表。
行動しない我々。
賢くないのです。
他国を低く考える人も同類です。
自虐的などと居直る人も同じです。
少なくても家族等、手の届く範囲であるべき姿等を論じしっかりしなければなりません。
それには自らの姿勢、行動が核になる様に思います。

この回答への補足

ANo.23への補足を なぜか
ANo.21にしてしまいました。

回答が増えると混乱しちゃいますね。
すいませんでした。

今週末で締め切ろうと思っております。
何かいい足りないこと、読んでみて思ったことがあれば何でも書き込んでください。

補足日時:2007/05/25 18:06
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この回答へのお礼

yamame17gouさん 追記ありがとうございました。

>大臣辞職どころで無く議員辞職のレベルなのに、先取りし自ら示せず追求できない次期政権?党。
松岡農水相と民主党ですね。

>国民、子供の前で容認して見せる日本代表。
日本代表って事はスポーツ、サッカーですか?ワールドカップ時の

>行動しない我々
そうですね。具体的な行動を起こす時期なんだけど、何をしていいのか分からない。
デモはもはや意味をなさないし、でも、それくらいしか出来ることがない。
あとは投票をするように呼びかけるくらいでしょうか。


>自らの姿勢、行動が核になる様に思います
結局は、なんにでもそうですが、まずは自分を戒める事から、自分で行動することからしかないでしょうね。
自分だけで終わっては効果は薄いですが、自分から行動を変え、規範となり、他の人にも波及すれば少しずつですが、確実に帰られますからね。

お礼日時:2007/05/25 16:20

私は、中・韓を馬鹿には元々、していませんし、


日本人が自虐的っていうのも、初めて聞きましたが・・・・。
日本人が劣化しているのは、確かだと思うので・・・。

確かTV放映が始まった時に「一億、総白痴化時代が来た」と言った人が居たと聞いた事ある気がします。
石原都知事が「日本人は平和ボケしてしまった」とお嘆きになる気持ち、よ~くわかります。

自己中心的な人間が増えたこと。
(無意識・無自覚ですが、団塊ジュニア層に顕著。でも50・60代でも存在するみたいだし)
世の中の為とか、社会的責任とかって言葉は、ほとんど死語みたい。
自由と自分勝手を履き違えている人間が増え、
モラルが低下したこと。
想像力が無くなったこと。
(例えば、今年に入っての数件のバラバラ殺人など、ほんのちょっと目線を変え、生活を変えれば済むだけの話で、親兄弟や親類が、その後、世間でどういう立場に置かれ、どういう生き方をしなければいけないかを考えれば、自分の感情だけで、親やダンナを殺したりできないハズだし、よしんば殺したとしても、蛙の解剖すら、気持ち悪い私には、全くもって理解不能だけど)

こんな質問をするakyno様は、マトモだと思います。
この今のおかしな日本の状況に、なんの疑問も持たず、日々、自分の仕事や生活に追われるのか、な~んも考えてないのか、慣れてしまったのか、私には、よくわかりませんが、猟奇的な事件すら、日常会話には昇りませんね。

日経PBのコメントとか見ると、働く女性への、すさまじいまでの悪態にびっくりしますよ。
私には、真摯に働き、男社会と戦いながら、きちんと税金も支払っている女性が、あんなに叩かれ、ダンナの稼ぎで昼間のちょっと高めのランチの店で、うさ晴らしのおしゃべりの声を反響させている主婦を、あんなに崇拝する男性が多いという事実に愕然としましたけどね。
日本で専業主婦の歴史って、それほど長くないと思うし、高齢社会なんだから、女性だって貴重な労働力だと思うんですけどね~。
もちろん主婦の仕事も、キチンとこなせば大変な仕事だと思ってます。
でも、おバカな男たちの思惑とおり、今のこの時代にダンナにおんぶに抱っこで生きていけると思ってる20代の女性も多いみたい・・・。
あとは、目の前の数字が第一の物質消費主義とか、拝金主義のせいなのかな?

私は、昨年、転職した先で出逢った大卒の20代後半の女性の、あまりの精神的な幼稚さ、社会的責任感の無さに驚愕(ビックリどころじゃないです)しました。結構、それまでも後輩の面倒や相談にも対応していたつもりですが、もう、ほんっとに「なんで、こんなオトナが育ってるの????え~っ???ナニ、コノ物体?」って感覚でした。
数年前までの私なら、すぐ見切ってましたが、若干、人間がこなれた(?)のか、「このまま、子供を育てさせちゃ~いかんだろう」と思い、様子を見ながら、お尻を叩いて来、すこ~しは成長しましたが、反面、私は「こりゃ、将来は海外移住も考えておかなくてはいけないな」と思いました。それまで海外に住みたいと思った事もないし、私は日本の古き良き文化に愛着も持っていますけどね。

「高等教育を受けた人間が、これじゃあ、日本はすぐに中国に追い抜かれるな」と思ってましたが、先日、ニュースで「ナニ」だったか忘れてしまったんですが、後進国だった中国が15位、日本が24位というニュースを聞き、予想より、はるかに早いです。
韓国だって、住宅デザインやファッションデザインなど、地域や客層など限られるのかもしれませんが、日本より安くて良い物を数年前に見ています。
中国の領土、人口、貪欲さなどから考えたら、ノホホンとしていられないハズなのに、今の20代の1部は、このまま、な~んの努力をしなくても、現状の生活は維持できるものだと麻痺しきっているみたいですよ。

後輩について、ず~っと私は、なんでこんなオトナが存在しているのか?という素朴な疑問がぬぐえず、いろいろ調べてみると、結構、こういうオトナが存在し、この延長線上にニートとかが存在するみたい。
モラトリアムとか、自我同一性拡散とか言うらしいと最近、知りましたが・・。
私は、どうにか出来る範囲で社会貢献に(大卒の20代後半の人間に、社会常識から教えなければいけない徒労感に度々、見舞われますし、こういう人も、それなりに生きて行くんだろうな~とも思うんですが)手を尽くしては、いるつもりですよ。
でも、もはや手に負えず、こっちの頭がおかしくならないうちに、適度に接触するようにした方がいいな、と思い始めているし、一度「ノアの箱舟」状態になった方がいいのかも・・・???などとも思ってしまいますね。

ただ、こういう人ばかりでなく、きちんと頑張っている20代後半も見てきたし、先輩たちも居ました。今は、日本が幕末・明治維新のように大きく変革する時期なのだと信じたいです。

この回答への補足

子供の環境って、生まれたときからあったものだから、ものが豊かな時代に生まれると、それが当たり前になっちゃうのはしょうがないのかもしれないですね。
何かを勝ち取らなくても、すでに与えられている状態なので、何もやる気が起きない。やる必要がない。
って所でしょうか。

>自己中心的な人間が増えたこと。~ ~想像力が無くなったこと。
その通りですよね。
それまでは、恥の文化で、かつある程度同じような価値観があったので、自分勝手な行動ってとる人少なかったんですが、(世間の目が怖くて)他人に関心を示す人も少なくなり、何しても恥を感じることがなくなってきている(どんどん悪化している)みたいです。

>日経PBのコメント~~
見たことないのでなんとも言えませんが、女性の二極化は顕著ですね。
働く女性と働かない女性。
働く女性が増えれば、少子化は加速化します。それはそうなのですが、
では専業主婦をしている人たちがたくさん子供を生んでいるかというとそうでもない、というのは社会的には困った問題です。
現在はどんどん分業化されているので、専業主婦だけど、子供は一人ってのはニートとあまり変わらないんじゃないかと思います。
「もっと産め」という意味ではなく、「もっと育ててほしい」という意味です。
たとえば、子供は一人だけど、隣の共稼ぎ夫婦の子供を預かって面倒見る。みたいな、家にいる人だけが出来る役割って物があるような気がします。
犬の世話する前に、子供を育ててほしいな、という勝手な願望があります。

>日本はすぐに中国に追い抜かれる
戦後わずかな時間でこれだけの経済成長を遂げたのだから、
同じ期間で失う可能性があるんだけど、その危機感はほとんどの人が持ってないみたいですね。
中国は構造的に一部の人がよければいい、というシステムなので、1億人勤勉で、意欲的な人がいれば日本をすぐに追い越せます。
かの国の人口を考えると、2020年には追い越されているでしょうね。

経済で中国にかなわなくなり、政治力も、資源もない日本は、誰からも相手にされなくなるでしょうね。
唯一の技術ですら、奪われ、伝承されず、消えていく運命です。

日本の未来はどう考えても暗いですね。

>将来は海外移住も考えておかなくてはいけないな
私も本気で悩んだことがあります。
そのときの結論はシンガポールにしようって事でした。
税制の面でも、治安、文化的にも安心です。
その代わり結構財産がないときついですが。
(村上ファンドの村上さんも行っていた様な・・・)

>自我同一性拡散~
知らない言葉だったので調べてみましたが、非常に分かりにくかった。
「自分という人間はこうだ」というアイデンティティ(自我同一)が確立していない状態(拡散している)で、
自分がどんな人物で、どんなことをしたいのか?どうしたらいいのかが分からない状態。 という解釈をしました。
(違う可能性が高いので、自分で考えてくださいね ↓参考HP)
http://www.2px.jp/psycho/b7.htm

>日本が幕末・明治維新のように大きく変革する時期なのだと信じたい
そうですね。ただ、そういった時期には偉大なリーダーが出てきたものですが、今それにあたる人は皆無ですね。

教育の格差も広がり、富めるものは自分の富だけを優先し、日本のことなんて誰も考えていない。
「美しい国」って誰かが言ってましたが、まったく逆行しているような気がしますが、そんなリーダーを間接的にでも選んだのは私たち日本人なんですよね・・・。

補足日時:2007/05/25 14:30
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この回答へのお礼

chacha7 様 ご回答ありがとうございました。
大変共感することが多く、ためになりました。

文字数制限があるため、補足欄に色々書かせていただきます。

お礼日時:2007/05/25 14:30

賢くないからです!

この回答への補足

火種になっても困るのですが、(本題じゃないので)自分なりの考えを書きます。


>他国を低く考える人も同類です。自虐的などと居直る人も同じです。

価値観の違いともいえますが、「他人を蹴落としてでも自分が利益を得る」という考え方は、歴史的に見ても劣っていると考えられます。19世紀以前の考え方じゃないかなと思います。
しかし、他の国ではそういった考え方が一般的であったり、現在の日本もそういう考え方、価値観がどんどん一般的になってきています。

さらに、日本は他者との対立を良しとしてこなかったので、国際社会でも対立を避け、相手の要求を出来る限り飲んできました。
また、相手の立場を思いやるあまり、自分たちを犠牲にすることが多々ありました。
それをもって自虐的だといったのですが、この考え方は一昔前なら一般的ではなかったのですが、現在では一般的だと思います。

イラクに支援しに行き、人質になった人たちを、「自己責任だ!」と考える人が多くなってしまったくらい、日本人の価値観は変わってしまっています。


戦争時において、虐殺、略奪、強姦などは起こるべくして起こります。
だから、この非人道的な「戦争自体が絶対悪」である、というのが現在の価値観です。
戦争時においての責任をとるのは当たり前ですが、
他の国が一切しない様なところまで、認め、謝罪し、賠償して責任を取る。
他国と比較すれば自虐的だといわざるを得ません。

また、日本では他人の家を訪れる際に「すいません」
と言います。
こちらの都合でお伺いして、迷惑かもしれないので、先に謝っているのです。
かなり自虐的ともいえる。しかし、自分としては、残してほしい文化です。

現代の価値観で、戦争時の出来事を犯罪化して責任を取るというのはやってはならない事だと思うのです。
その時の価値観で裁くべきだと思います。

色々、言いたいだけ、書きたいだけ書きまして申し訳ありませんでした。

補足日時:2007/05/25 16:20
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この回答へのお礼

yamame17gou さんありがとうございます。

確かに知的レベルが下がれば、風紀は乱れますもんね。
本来なら政治によって方向性をつけるべきなんですが、
当の政治家たちが自分たちの事しか考えてないので、
一般の人が自分の事しか考えないのは当たり前でしょう。

昔は頭がよく、指導力がある者が政治家を目指したんだけど、
今や、そのうまみによってくるハイエナ政治屋と2世、3世議員しか
いないですからね。

機能不全に陥ってるので、システム変えないといけないんだけど、
システム作るのはあいつらなので、期待できないし。

日本の未来って考えただけで暗くなります。
青少年にはもっとつらいことでしょう。

お礼日時:2007/05/25 13:43

#19です。



>資本主義と、自由主義が正義とされている現代では、個人の欲望を抑制するのは非常に難しいです。

欲望を抑えるには、欲望の対象を徹底的に減らす事、欲望をただただ満たす事がいかに恥ずかしい行為であるかを教える事、が挙げられると思います。パチンコ屋、カラオケボックス、アミューズメントパーク、飲み屋、高級ブランド品、等々、欲望の対象という対象を無くせば、人間は、ないという環境に、徐々に慣らされていきます。

欲望を満たす行為の恥ずかしさを学ぶには、まずは、反省心を醸成する事が先決です。自分が間違いをした、相手に迷惑をかけた、暴言を吐いた、嫌な思いをさせた、等々に対して、日々反省し、その相手に直接謝罪する、という行為の積み重ねが大切です。そうなってくれば、自ずと、自分という人間が理解できるようになり、欲望だけで動いている人間を見極める洞察力もついてきます。

「ああいう欲まみれの行動はいけないなあ。」

との思いを持つ事で、自分で自分を抑制する事もできるようになります。

己知らずで、人間というものを知らないがために、人は、欲望を際限なく追い求め、その恥ずかしさを最後まで知らずして、墓場に入っていってしまう、という愚かな人生を送ってしまうのです。

今の世の中で、劣化が酷くなっている原因の一つに真実を知らないで、己の抱いた妄想に振り回されている、という事があります。下記に真実というものを列挙します。
・他人の評価はあてにならない
・他人は思ったとおりの行動をしてくれない
・他人の問題は、本人しか解決できない
・縁があれば、人はとんでもない犯罪を犯してしまうもの
・自分の考えが正しい、とは言い切れない
・人は究極に追い込まれると、裏切るし、約束も破ってしまうもの
・自分に降り懸かった災難・問題は、自分の責任である
・人は、縁があれば浮気してしまうものである
・客観的に物事を見ることは不可能
・人間社会は差別があるものだ
・自由と平等は共存しない
・人間は不浄極まりない存在である

下記に、過去にテーマ立てして書いた文章を示します。参考にして下さい。
--------------------------------------------------------------
◆ 他人の評価は気になるものか?
自分は、周りにどう見られているのだろう?

人は、人と接する中で生活を送っています。ですから、人からどう見られているだろう、とか、どう評価されているだろう、とかが気になったります。時には、それが気になり過ぎて、人前でカチコチになったり、だんまりを決め込んだり、人が怖くなったりもします。こうなってしまうと、人間関係がどうだ、という問題以前に、自分をどうにかしなくては、になってしまいます。

さて、ここで問題にしたいのは、他人の評価をそれほどまでに気にする必要があるのか、他人の評価が当てになるものなのか、という点です。ある部下が、出世街道まっしぐらの上司に対して、「私は、あなたについていきます。」と賞賛したとします。ところが、その上司がある失態を犯し、降格させられました。その部下は、翌日から手のひらを返したように、その上司に対して冷たい態度をとるようになりました。これは、その上司が出世街道にある時は、部下にとって都合が良かったので賞賛、つまり良い評価をしていた訳です。しかし、その上司が降格となり出世街道から外されたと分かるや否や、冷遇、つまりは悪い評価を下した訳です。この部下の評価基準は、自分に利益があるか否かの「ご都合主義」で行われているわけで、彼の評価は全くと言ってよいほど、当てにはなりません。

お酒を飲んでいる時は褒めちぎるのに、普段は何かとけなす人もいます。人の評価というものは、気分一つ、状況一つでも変わるものなのです。逆に、自分が他人を評価する場合はどうでしょうか?自分の利益になるかどうか、損得勘定でどうか、自分がその人を好ましいと思っているか、というように、自分の都合で決めている場合が大半だと思います。欲目を入れないで、絶対的な評価をすることなど、人間にはできないのにもかかわらず、人は、他人の評価に戦々恐々となり、気にしてしまうものなのです。

他人の評価は当てにならない、という事をしっかり認識していないと、その評価に一喜一憂してしまい、振り回される結果に陥ります。これは、正直、愚かしい事です。当てにならないものを、当てにして、勝手に落ち込んでいるわけですから、まさに一人上手です。所詮、人の評価にしか過ぎない、当てにならないものだ、と分かっていれば、いちいちくだらない他人の評価など気にならず、堂々と自分の人生が歩めるはずなのです。(他人の評価は聞かなくてよい、という意味ではありません。人間関係を壊せ、という意味でもありません。他人の評価は当てにならないので、振り回されるのは馬鹿らしい、という真実、を知って欲しい、という意味です)

ここで、最後に注意したいのは、他人の評価の中に、良い指摘が入っている場合もあるので、そういった内容にはしっかり耳を傾けなければならない、という事です。他人の評価も、一参考意見としては、自分の為にはなるので、無下にするわけにはいかなく、自分の成長の為には、大切にするべきです。

ここで述べたかったことは、偏に、他人の評価に振り回され過ぎて、自分を見失い、相手に合わせる事でしか、自分の存在を認められない、という状況に陥るのは、愚かしい事ですよ、という事です。

この回答への補足

>欲望を抑えるには、
>1.欲望の対象を徹底的に減らす事、
>2.欲望をただただ満たす事がいかに恥ずかしい行為であるかを教える事

本当にそうなんですよね。でも現状は資本主義なので、欲望の対象はどんどん増えます。(欲望を満たす商売=儲かる)
さらに、どんなに人間的に恥ずかしい行動をしても、恥ずかしいと思わなくなって来ている。知人に見られたら恥ずかしいことでも、知らない他人にどう思われても気にしなくなってしまった。

>反省心を醸成
これが一番可能なのは、家庭と学校でしょうね。
家庭では少子化のため摩擦が減り、反省機会はどんどん少なくなっているでしょう。
学校では暴力は絶対禁止。なので、真の反省を促すことなどできるはずもなく、反省しない子供が育ち、大人になっていく。
なんとかしないと。

>自分で自分を抑制する事もできるようになります
個々人がそこまで出来るようになれば、社会は安定するでしょうね。
欲望を喚起する資本主義社会で、自己抑制は非常に難しい課題ですが。
それでも、教育しだいで可能なはずなんですが、学校には期待できない。

>己知らずで、人間というものを知らないがために、人は、欲望を際限なく追い求め、その恥ずかしさを最後まで知らずして、墓場に入っていってしまう、という愚かな人生を送ってしまうのです。
いい言葉ですね。
まったくその通りです。
中庸が一番ですよね。
自分を犠牲にして人に尽くしても、それもあまりよくないし、
他人のものをすべて奪って自分だけ豊かになっても良くない。
ほどほどが一番。
でもそんな事言ってると、負け組みになってしまう。

現在の10人に1人だけが勝ちぬけられるシステムをやめてほしいものです。

>・他人の評価はあてにならない
そうですね。他人の評価を気にするとろくなことになりません。

>・他人は思ったとおりの行動をしてくれない
それは間違いないですね。

>・他人の問題は、本人しか解決できない
本人とその周りと考えています。しかし本人次第でどうとでもなることが殆んどです。

>・縁があれば、人はとんでもない犯罪を犯してしまうもの
事故みたいなものでしょうか。

>・自分の考えが正しい、とは言い切れない
そりゃそうだ。でも、ある程度信念とか価値観というものは必要です。

>・人は究極に追い込まれると、裏切るし、約束も破ってしまうもの
自分>他人は当たり前。↑こういう心構えがないと、裏切られたときに堪える

>・自分に降り懸かった災難・問題は、自分の責任である
まぁ問題によるかなと思う。自分に責任のない事故、災害、病気はたくさんあるでしょう。

>・人は、縁があれば浮気してしまうものである
縁という考えが難しいですが、ここで言う浮気が性的なものなら、相手がいて状況次第ではあるでしょう。

>・客観的に物事を見ることは不可能
そりゃそうですわ。自分の目で見て、判断するしか無いですから。

>・人間社会は差別があるものだ
差別や区別や役割分担や色々あるでしょう。改善してますが。

>・自由と平等は共存しない
そうですね。自由を突き詰めると弱肉強食です。

>・人間は不浄極まりない存在である
それはあんまりだ。

色々書いていただいたので、それぞれに自分なりの考えを書きました。
true-1さんの考えを否定するものではありません。
私はこう考えてますよ的なものです。


>他人の評価に振り回され過ぎて、自分を見失い、相手に合わせる事でしか、自分の存在を認められない、という状況に陥るのは、愚かしい事ですよ
まったくその通りです。
しかし、人は、人と接する中で生きているので、やはり評価は気になります。
まったくの他人なら気にならないですが、自分をわかってくれていそうな付き合いの深い人間の評価ならなおさらです。

私も本当の自分というものは身近な者にしか見せられませんが、
これは「他人に見せる自分が悪い評価をされても、本当の自分じゃないから気が楽だ。」という思いがあるからでしょうね。
でも、自分の心をオープンにして、すべてをさらけ出し、かつ他の人の評価を聞くのは勇気が要りすぎて難しいですね。

その為には日々の行動や欲望を抑制して、誰に見られても恥ずかしくない、自信の持てる自分、にしないといけないですね。
いやはや、難問です。

補足日時:2007/05/25 15:15
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この回答へのお礼

true-1 さん、ご回答、お返事ありがとうございました。
true-1 のアカウント名は真実を追究するみたいな意味でしょうか?
なんかぴったりだなぁと思ったので。

私は、言葉での議論とかディベート的なものは苦手です。
じっくり考えていたら話す機会を失うからです。

その点、この掲示板形式は自分にあっていて、考える時間がるので本当に聞きたいこと、言いたいことを書けていいですね。


文字数制限があるので、補足のほうに色々書かせていただきます。

お礼日時:2007/05/25 14:39

「ゴードンスミスの日本仰天日記」という書籍を読んでみてはいかがでしょうか。

これは明治期に日本を旅したゴードンスミスという人の日記を和訳したものです。
これを読むと、自分を含め日本人が、明治の日本人よりも著者であるゴードンスミス氏の感覚に近い事に気づかされます。
日本に住み育った日本人なら、まだ近代化間もない当時の日本人の心情も共感できると思いますし、現代の西洋化が進んだ現代日本としてゴードンスミスの西洋的な発想にも理解ができ、とても面白い本です。
絶版となっているので本屋に行っても買えないですが、オークションやアマゾンで中古の物は手にはいると思います。
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この回答へのお礼

pluto003 さん ご回答ありがとうございました。

http://www.amazon.co.jp/gp/product/4093870489/
この本ですね。レビューでもpluto003 さんと同じように回答されている方がいました。(ご本人かな?)

図書館にないか探してみます。
人の視点で物事を見れると勉強になりますよね。

お礼日時:2007/05/19 19:24

こんばんは、面白い質疑応答になってますね!



いろんな方の言われている通り、敗戦による日本人の自国文化への誇りの喪失に加え(日本は開国以来無敗でしたからね)、アメリカによる洗脳が入り口ではないでしょうか?

日本には古来「恥の文化」と呼ばれるものがあり、(いわゆるみっともない事をしたら恥ずかしい、ご近所に顔向けできない、どんな教育受けてきたのと言われるよ、等。。)これが宗教的な規範が無い所をうまくカバーしてきたのだと思います。
しかし、それが地域社会や共同体の崩壊とやらで失われてしまったのではないでしょうか??

むしろ色んなしがらみから自由な方が先進的で、世間体を気にする事が悪のような風潮ですよね。
日本全体が生活・思想共にアメリカになろうとしていたのでしょう。

この「恥の文化」の喪失で、色んな事が説明できるような気がします。

加えて子供が、目上の人(いわゆる大人・教師・政治家)を尊敬できないように洗脳されていると思います。
私自身、20代後半ですが幼い時からテレビや流行歌により大人は汚い生き物だとかそんな事ばかり聞かされてきたので、10代あたりは本気で大人の言う事なんか聞くか!!とまんまと思わされたものです。子供って頭悪いですから尾崎豊の言う事本気にしてしまうんですよね。

10代なんて反抗して当たり前の年代ですから、社会から支持されてしまったら調子に乗ってそのままの精神構造の人間になってしまうのではないでしょうか?今、そういう風に育ってきた人たちが成人して、社会を構成しているんでしょうね。

貧しくても礼儀正しく、節度のある生活を重んじ、過剰な贅沢は下品とされたような昔の日本の文化を私は誇りに思います。
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この回答へのお礼

tamala53さん ご回答ありがとうございました。


>敗戦による日本人の自国文化への誇りの喪失に加え、アメリカによる洗脳

これは価値観の転換点と考えて間違いないでしょう。
今までの自己犠牲を美徳とする価値観を持ちなつつ、資本主義に身をおいたことで大きな経済発展を遂げ、結果、家庭は崩壊してしまった。
新しい世代が社会の主役になるにつれ、アメリカ的自由の文化を表面上輸入したため、個人主義がはびこる。
さらに、
>日本には古来「恥の文化」と呼ばれるものがあり、それが地域社会や共同体の崩壊とやらで失われてしまった

事により、生活環境から知り合いが減り、恥ずかしい行動を「恥」と思わなくなって拍車がかかる。
人の目を意識しなくなって、「自分がルール」になってしまった社会では、公衆マナーや道徳観が希薄になるのも当然ってことでしょうか。

法治国家において、法律+道徳によって国を統制してる間はいいんですが、法律のみの統制+資本主義なんてことになったら、
法律に書いてないことは何してもOK。になってしまう。(もうなってるけど)
結果「悪いことをしてでも金儲けしたもん勝ち」の世の中になってしまう。(もうなってるけど)
しまいにはアメリカのような、契約社会、法律絶対主義に進まないといけなくなる。
でもそれが日本人の価値観にあってるか、なんて考えられてない。

日本が経済的に弱くなり、これからもアメリカの年次要求は続き、アメリカの言いなりに政治・システムが動く以上、日本のアメリカ化はもっと進み伝統的価値観は崩壊する。

少しでも改善するためには、システムを変える(政治の役割・・・)か、教育を変えるしかない。

でも、子供には信じられる価値観を示さず、判断出来るほどの人格形成も出来てないにもかかわらず、過度に情報を与え、判断を迫る。
結果、子供達は成長過程で迷い、永遠の「自分探し」をし始める。
世代間格差も広がり、学校と社会との隔絶があるため、自己形成のヒントを得られる大人と知り合うことも出来ず、
親と教師と自分という非常に少ない単位で、大人を判断し、大人を恨み、否定し、成長する子供たちがどんな人間に育つのか。

というわけで、
>10代なんて反抗して当たり前の年代~~
というご意見も尤もだと思います(汗)

お礼日時:2007/05/15 15:01

ハングリー精神が無くなり、既得権にしがみつき、競争を恐れるようになった(オタク・ネット右翼・外人恐怖症)。


この爛熟は言わば歴史の必然で、豊かになった社会には必ずそういった胞子が発生します。
それをどう改善していくかと言う事も、民族としての能力の一部なのですが、日本人はその点が弱いかも知れません。
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この回答へのお礼

jigyakujiiさん、ご回答ありがとうございます。

子供のころから物が豊富だと、特に不便も感じず、ハングリー精神はなくなってしまいますよね。
人より豊かに!もっとたくさんほしい! という欲求がないので、競争意識が希薄なのもしょうがないかもしれません。
さらに、平等が正しくて、競争は悪。という考え方が未だあり、当然の結果とも言えます。

>どう改善していくかも、能力の一部
私の感覚では、昔の日本人は新しい事態に対する対応力が高かったと思います。
江戸時代から明治時代への変化を吸収し、植民地化されなかったのは、その能力が高かったからじゃないかなぁと思っています。
しかし、伝統的価値観が崩壊した今、芯を持たない日本人は、全体として非常にもろくなってしまったような気がします。

本を丸暗記するより、自分なりにでも解釈しながら読み解くほうが身につくように、
欧米文化を丸写しして、日本にあわせたり、発展させたりが出来なかった。(まぁ押し付けられたのでしょうが)
今から再度和洋折衷して日本文化を高めることは出来るでしょうか?

昔はよかった・・・とは言いません(口が裂けても)
でも、昔の日本人のほうが凛として良かった。とは言えるような気がします。


ともかく敗戦したのが原因のいったんなので、再度戦争して勝つしかないのかな?(笑)
でも、経済戦争では一回は勝ったんですけどね。(たぶん)

お礼日時:2007/05/14 11:43

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