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こちらのカテか迷いますが。アンケートなのかもしれませんが、前に近い質問もしてるのですが再度。
話はまず、この世界を大きく分けるとすると、主観世界と客観世界に分けられると思います。
逆に主観世界と客観世界を足したものの存在を考えると、それはこの世のすべてを含む、まさにこの世のすべてのすべて、と言うべき存在です。
そういう話を前提として、主観性と客観性の関係について(主観客観それぞれの性質とその関係について)考えることは、この世のありとあらゆるものを含む体系の法則ルールを見つけることにつながるだろうと直感的に思い、ずっと昔考え始めました。今では一応の結論もでています。
が、あまり他の人の話を聞いたことがないのです。また同じ意見の人も探しましたが今のところ見つかりません。自分では主観論理学などと勝手に名づけてます。
なので、上記のような考えのはじめ方、考え方の方向進め方について、他の人はどう思われるでしょうか?意見が聞いてみたいです。

主要な結論として、主観世界では、存在=関係、と言うものがあります。存在と関係は等価で、この関係は直感的に人の脳には把握できないものであると言うものです。四次元立方体を直感できる人がいないように。物質とエネルギーが等価で、それが直感には響かないように。
もちろん、存在も関係も、その言葉の定義を厳密にしないと意味のない話ですし、実際厳密に定義できます。(最近ミラー細胞なるものが発見されたらしく興味もってます)

こんな感じの(流れの)、話なんですが、なんといいますか、そもそもあまり関心をもってくれる人も周りにいない感じで、皆さんはこういう話を聞いてどう思われるのでしょうか?
あるいは同じようなあるいは逆の考えなど持ったかたおられましたら聞かせてほしいのですが。
よろしくお願いします。

A 回答 (23件中11~20件)

tenntennsevengooさんのNO7の回答で、ニューロンの所の意味が分かりません(泣


人の手の映像を見て自分の手が動いてしまう錯覚にとらわれる時、どこに客観が混じっているのですか?錯覚もまた主観ではないのですか?簡単でいいので教えて下さい。。。
回答じゃなくてすみません
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人間の場合、目から脳の送られる神経インパルスは複雑なルートを辿る。

信号はまず、脳の深奥部に位置する視床という構造に達し、そこから大脳皮質の視覚野へと送られる。インパルスの到達する第一次視覚野には、一億個の神経細胞がある。目の視細胞が数百万個しかないことを考えると、これは相当な数だ。1960年代に、アメリカのデーヴィッド?ヒューベルと、アメリカで研究していたスウェーデン人のトーステン?ウィーゼルは、視覚皮質の細胞に特殊な役割があることを示した。これらの細胞は、辺、線、コントラスト、方向など、視野の特定の属性を検出できるのだ。ヒューベルとウィーゼルの研究により、人間の視覚の仕組みは解明できるという強い確信が生まれた。二人の業績は、バーロー等による蛙研究の流れを明確に受け継ぐものだった。
見た物の解釈に視覚野のあらゆる細胞が関与しうるという発見は、当初、熱狂的に迎えられた。しかし、科学者達は次第に失望の色を濃くしていった。そして、1970年代になると、肝心なものが何か欠けていることがハッキリした。例えばバーローは1990年に、視覚野の一億個の神経細胞がそれぞれ視野の特定の属性を解釈していることについて、次のように述べた。「これは、イメージの表象方法としては興味深い。それに、個々の神経細胞が重要な情報を伝達していると考えると、イメージが『消化』される仕組みの解明に向けて少し前進したような気になる。しかし、どうにも釈然としない点もある。ずらりと並んだ一億個の細胞が一つ一つが、視野の小部分のいささか限定的な特徴に反応したとして、それがいったい何の役に立つのか?我々が頭の中で見慣れているイメージは、まとまりを持っており、有用性がある。だが、ジグソーパズルのように無数の小ピースに細分化されて表象には、その両方が欠けているように思える。何故このようにして表象されるのか?ジグソーパズルに描かれた絵はどうやって検知されるのか?より正確に言えば、どのような神経メカニズムに
よってイメージ分析が先のステップに進むのか?そして、そのステップは最終的にどこへ向かうのか?思うに、最大の障害は、我々が真の問題を把握していないことではないだろうか?」
ことによると真の問題は、ジグソーパズルのみがあって全体イメージなど存在しないことかもしれない。まずイメージがあって、それからそれが一億個の神経細胞によって分割され、再び統合されて視覚経験される。──バーローは暗にそう想定している。
私達には世界が見えていないから、イメージはあるはずだ、という声も出るだろう。目は、外界の様相を一つの像に組み立てる。だが、ジグソーパズルの一億個のピースを通さずに世界を見た者がいるだろうか?つまるところ、私達が見るのは「我々にとっての物」にすぎず、「物自体」は見たことがないのだ。
人は目を通さなければ見えず、そうするには第一次視覚野の一億個の神経細胞を経由するしかない。私達は色や辺や形や蝿や蛙を見る。しかし、見えている物はあくまでも計算とシミュレーションの結果だ。
目に映る物が対象物の真の姿に似ている保証など微塵もない。
だが、何が見えているかという点に関しては見ている者全員が一致するのではないか、という反論が聞こえるかもしれない。同じ木、同じバス、同じ消防車を見ているではないか、と。確かにそうだ。会話を通じて意見がまとまる次元においては。しかし、私達の会話は、ごく狭い帯域幅で進行する。その帯域幅は毎秒数ビット、つまり、意識の容量しかない。この程度では、赤を経験するという行為の属性を全て伝えることはできない。ただ対象を指し、それが確かに消防車やバスだと話を合わせるのが関の山だ。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
初めて聞く話でとても興味深かったです。だいぶ難しい話で全部はわからないのですが。自分の質問とどこか関係のあるところもあるなーと思いながら読んでいました。
長文の投稿をわざわざありがとうございます。

お礼日時:2007/06/06 08:37

実験心理学者リチャード?グレゴリーは、経験は仮説であるという、実験研究に基づいた持論を見い出した。

経験を解釈と捉える立場から、私達が経験する現実全体は解釈であって現実の再現ではないとする立場に至るには、それほど大きな飛躍は必要ない。本書を執筆するため、グレゴリーに現実とは何だと思うかと尋ねると、ニッコリしてこう答えた。「現実とは一つの仮説だ。私はそう呼んでいる、仮説と」実験心理学における彼の貢献の大半は、この言葉に集約される。これ以上の仮説は得られそうもないという話でひとしきり笑った後、今度はこう尋ねた。「現実をシミュレーションと捉えるのはどうでしょうか?」
「その言い方のほうがよさそうだ」とグレゴリーは言下に答えた。
シミュレーションは、あるものの再構築、複製、模倣だ。あるプロセスのシミュレーションができるというのは、その重要な側面を再現することによって、必ずしもプロセスの終点を割り出せるという意味だ。シミュレーションは動的な解釈であり、仮説であり、従って一つの予測でもある。私達が現実を経験するときは、外界で起きていることを自分でシミュレートし、それを経験しているとも言える。
錯覚を通して鮮烈に実感されるように、私達は決して物事を直に経験したりしない。解釈として見る。〈ネッカー?キューブ〉はどうしても立体に見えてしまい、努力しないかぎり、ページに描かれた数本の線と捉えるのは無理だ。まず私達は解釈、つまりシミュレーションを経験する。感知したままではなく、感知したことのシミュレーションを経験する。
感知、経験、シミュレーション、解釈?評価?推量の順ではない。感知、シミュレーション、経験だ。いや、そうとも言いきれない。ときには経験をさし狭む時間的余裕がなく、感知、シミュレーション、行動となる場合もある。
これが錯覚の教訓だ。感知し、シミュレートし、そしてようやく経験する。実に過激な教えである。

「蛙の目はその脳に何を伝えるのか?」というのが、『電波技術者研究会報』誌に掲載された注目すべき科学論文の題名だ。この研究プロジェクトの資金提供者として、アメリカの陸?海?空軍が揃って名を連ねているのだが、論文のテーマは、蛙がどのように世界を見ているかであり、それ以上の何物でもない。「この研究は蛙を対象にしたものであり、我々の解釈も蛙にのみ適用される」論文の執筆者で、いずれもMIT所属のジェローム?レトヴィン、ウンベルト?マトゥラーナ、ウォーレン?マカロック、ウォルター?ピッツの四人はそう書いている。
しかしその結果は、蛙ではなく人間の世界観を揺さぶることとなった。それは国防総省が資金源だったからではなく、この研究が認識論上の視点を提供したためだ。四人は、遺伝的に蛙に組み込まれた〈先験的観念による総合判断〉の存在を照明したのだった。
〈先験的観念による総合判断〉とはイマヌエル?カントの用語で、取り除くことのできない知識の前提を指す。カントは1700年代、哲学に革命をもたらす指摘を行なった。人間の知識には、時間、空間、因果関係などのように、経験に先立つ幾つかの前提、すなわち〈先験的観念〉が必ず備わっているというものだ。こうした前提がなければ何物をも知りえない。しかし、それがあるために、あるがままの世界を認識することはない。私達は知る世界は〈先験的観念〉という眼鏡を通して見たものにすぎない。ありのままの世界は知りえず、ただ、私達にとっての世界を知るのみだ。そこでカントは「物自体」と「我々にとっての物」を区別した。
そして今、国防総省の資金提供を得た四人の科学者が、蛙にとっての物を見つけたのだった。
蛙の目が外界について脳に伝えることは、たった四つしかない。すなわち、(一)コントラストの明瞭な境界──これで水平線などの位置を知る、(二)照度の急激な変化──これで天敵のコウノトリの接近などを知る、(三)動くものの輪郭──これでコウノトリの動きなどを知る、そして最も重要なのだが、(四)小さく黒っぽい物体の輪郭の曲線で、この四つが視野のどこに見られるかが脳に伝わる。執筆者達はこの四番目について、「虫検出器」と呼びたくなる、と書いている。
蛙の脳は景色に関する情報は受け取らない。いや、受け取りはするが、興味の対象となる景色の一部、つまり、敵、味方、そして水面についての情報に限られる。蛙の脳は、周囲の「リアル」なイメージを組み立てることには関心がない。興味があるのは、自らが食べ物とならずに食べ物を捕えることに尽きる。
外界を見るうえでのこうした特性は、蛙の解剖学的構造に組み込まれている。目と脳を結ぶ視神経は、一本一本が多数の視細胞と接続している。従って、特定の視細胞が光を検知したかどうかだけではなく、一つのパターンも伝える。脳が受け取るのは計算の結果だ。四人の執筆者は以下のように述べている。「本研究の結論として、基本的に次のことが言える。目は、既に高度に体系化されて解釈のなされた言語のよって脳に語りかけるのであり、受容器が検知した光の分布をほぼ正確にコピーして伝えるのではない」
だから蛙は、キスされるまで相手がお姫様だと気付かない。
蛙の視覚を研究したのは、この四人が最初ではない。1953年にはイギリスの科学者ホレス?バーローが、蛙の視覚に関する研究結果を発表している。その20年後、彼はこう記した。「この結果からにわかに思い知らされるのだが、蛙の摂食反応に関与する感覚機構の大部分は、実際には網膜に存在するのであって、生理学的手法では解明し難い神秘的な『中枢』にあるのではないかもしれない」彼は、更にこうも言っている。「個々の神経細胞は、これまで想像されていたより遥かに複雑かつ微妙な課題を遂行できる。……網膜の神経細胞活動こそが、思考プロセスそのものと言える」蛙の無意識は、その目に宿っているというわけだ。
以後、これに類する、目での情報処分が、蛙より高度な摂食習性を持つ動物でも確認された。猫、猿、人、そのほか様々な動物も、蛙と同様、環境からの情報を分割して検出していることがわかっている。
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「私達は創り出した世界はもうない。

そして、私達は新しい世界を創り出した。だが、人間がそれを理解する能力は、いまだに未発達のままである」認知科学者ロバート?オーンスタインと生物学者パウル?エルリヒは共著の『新しい世界、新しい精神』に書いている。二人の科学者は、私達は世界の知覚の仕方を変えなくてはならないと説く。「文明は何年何十年という歳月をかけて起きる変化に脅かされているが、何年何十年をかけて起きる変化は、私達には余りに緩やかすぎて、にわかには感知できない」
二人は言う「私達は旧来の心を新しいもので置き換えねばならない」。世界が直面する問題に適した方法で人々が世界を理解できるように導かねばならない。視覚的な錯覚や無意識の経験、「変化に適応する」すべを教えなければならない。なぜなら、「生命に不変なものは“変化”に他ならない」からだ。
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情報は予測不能性、無秩序、混乱、混沌、驚嘆、記述不能性、意外性、他者性の尺度であり、秩序はその反対の尺度である。


意識はさほど多くの情報を含んではおらず、自らを秩序あるものを見なす。情報を捨て去ることによって、周りの無秩序や混迷のいっさいを、現象の起源を示す単純で予測可能な法則に還元できることを誇っている。
文明は、私達の生活から取り除く社会体系や技術体系から成る。文明は、進むにつれ、意識が世界から退くのを可能にしていった。
こうして、世界の有り様を解釈したものが世界そのものであるという世界観が生まれた。その中では、地図は地形と同一視され、〈私〉は〈自分〉の存在を否定する。神の摂理という形以外の他者性はいっさい排除される。人は、他者性もまた良いと信じないことには生きていけない。
しかし、意識も平静の時代を迎えた。人とその意識について意識的な研究がなされ、人は意識を遥かにしのぐ存在であることが明らかになった。人は意識が知っているより遥かに多くを知覚したり行なったりしついることがわかった。私達は周囲の世界のシミュレーションを行い、それが世界そのものであるかのように経験し、信じているが、そのシミュレーションは、錯覚と還元の産物だ。それは、私達の外側の世界に満ちている予測不可能な他者性の大半を捨て去ることで得られる。系統だった錯覚と還元によってのみ可能となる。
意識ある〈私〉は、自分の周りにある世界を説明できないことを悟らねばならない。世界について私達が与えることのできる形式的で紛れのない記述では、その世界を余すところなく予測することはおろか、記述することさえおぼつかない。人間の意識のように狭い帯域幅の意識に取り込みうる、単純化された形式的記述では、私達の外側にある異質なものの豊かさを記述するには、決して十分でないのだ。
私達の内側、言わば意識を持ち歩く人間の中で起こる認知プロセスや心的プロセスは、意識が知ったり記述したりできるよりも遥かに豊かなものだ。私達の肉体は、口から入って反対の端から出ていく周りの世界との協力関係を持っているが、それが意識に上がることはない。肉体は、強大な生命系の一部であり、その生命系が、生命を帯びた惑星地球を全面的に形成し管理している。
意識ある〈私〉は、外なる世界も内なる世界も説明できない。従って、これらの二つの世界の間のつながりを説明することもかなわない。

1930年、クルト?ゲーデルは、形式的体系には限界があり、完全かつ無矛盾たりえないことを記述した。有限の記述では無限の世界を絶対に記述できないというのだ。
意識は、自分の内側と外側、いずれの世界も記述することはできない。内側にいる人間も、外側にある世界も、意識が知りうる以上に豊かなのだ。どちらも図に描いたり記述したりはできるが、余すところなく知ることはできない深みだ。そして、両者の間には意識の知りえない繋がりがある。内側と外側の深みは、二つ合わせて「ゲーデルの深み」と呼べるし、意識はゲーデルの深みに浮かんでいる、と言える。
ゲーデルの定理は、嘘つきのパラドックスの現代版を踏襲している。嘘つきのパラドックスは、意識が産声を上げた古代ギリシアで発見された。
意識は人間に嘘をつく能力を与えた。真実ではないことを述べる能力、言ったことと意味したこととの間にずれをもたせる能力を与えたのだ。
このパラドックスの現代版とも言えるゲーデルの定理は、ポーランド哲学者アルフレッド?タルスキーの手にかかると、ある命題が自らについてその真偽を証明することはできないという知識、というふうに定式化される。
従って、「私は嘘つきだ」という命題の特徴は、このパラドックスに名を残している「私」という言葉であり、話し手が自分の話に言及しているという事実だ。
この自己言及のせいで問題が起きる。肉体は嘘をつけない。肉体は帯域幅が広すぎて嘘をつけない。だが、〈私〉にはそれができる。いや、〈私〉にはそれしかできない。〈私〉はあたかも〈自分〉であるかのような顔をする。だが、事実は違う。〈私〉は〈自分〉であること、〈自分〉を支配していることのシミュレーションをする。しかし、〈私〉は〈自分〉の地図にすぎない。地図は嘘をつくことができる。地形にはできない。「私は嘘つきだ」は嘘つきのパラドックスではない。意識についての真実だ。

意識は、地球上の生物の進化によってもたらされた、素晴らしい産物だ。不断の自覚、大胆な解釈、活気をみなぎらせる手段だ。しかし意識は、世界を支配してはいないと認めることによって、そしてまた、世界の単純な法則や予測不可能の原理を理解しても、世界が一体どういうものなのか推測できないと認めることによって、今まさに平静を保とうとしている。
意識はそれほど古いものではないが、人の生活を支配するようになってからの数千年間に、私達の世界を変えてきた。その変化が余りにも大きかったため、自らを生み出したメカニズムの餌食になりつつある。意識は、自らの経験している世界シミュレーションが世界の本当の感覚であり、人が意識の上で経験しているものこそが、実際に知覚されているものであり、人が知覚しているものこそが世界そのものである、というふりをしている。
従って、意識は、それ自身にとって危険な存在になってしまった。自身がただの意識であり、本当の世界の有り様ではないと意識していないからだ。人間は周りに起こる急速な変化を感知して、それに気づくことができる。そもそも意識は、私達が周りで起きる特定の変化に気づくために発達したものだ。意識は急速な変化、明滅する明かり、既知の危険を見出そうとする。
しかし、意識が生み出した文明は、今や完全に新しい形の変化をもたらしつつある。それは、緩やかな変化、潜行性の変化、地球規模の変化、すなわち、種の絶滅と地球環境の劣化。環境危機によって私達がさらされている危険や難題は、人間の注意が自動的に向くようなものではない。人間も一つの種として、周囲の様々な事柄に気づくことを学んだが、そうした要素はもはや真の脅威ではなくなった。
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すみません訂正です。


NO.7の>NO.3さんの答えを害しない程度に

>NO.4さんの答えを害しない程度に
でした。訂正します。
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とても面白い話なので回答させていただきます。


結論から言うとNO.4さんの回答ですが存在と関係の関係については
質問者さんが仰る存在=関係であり、存在⇔関係でもあると思います。
まず我々が存在している瞬間に存在と関係が現れます。
これは存在が関係と不可分であると同時に対等であるということがいえ
るでしょう。
そうですねミラーニューロンをご存知とはやりますね。
そのミラーニューロンが客観との関係の重要な役割であり主観的感覚の
重要な役割でもあります。
あの人の考えが判るとかはこのニューロンで意識化されています。
またこのニューロンは人の手の映像を見ると自分まで動く錯覚にとらわ
れます。ではここで考えて見ましょう。映像の手は自分の手では無いこ
とは意識的にはわかっています。しかしミラーニューロンはその意識が
働きません。ある種主体で在りながら客観である中途半端な感覚に襲わ
れます。
ではこの瞬間これは主観?客観?答えは簡単
NO.3さんの答えを害しない程度に
主観と客観が混ざり合った状態。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
存在と関係については全く同意見ですね。>存在が関係と不可分であると同時に対等である~本当にその通りですね。ならばこれをさらに広げて精神構造全体に押し広げて考えてみて欲しいです。幸い骨格と言うかコアになる部分については分析が終わってますし、論理的に筋道だてて、具体例を挙げて説明もできますので、問題はその先なのです。肉付け、つまり応用が難しくて苦労してます。そもそも自分自身の問題のためには核になる部分が理解できた地点で解決したもので安心してしまって、その後は興味と惰性で考えてるので、なかなか進みません。
主観と客観についてはちょっと意見が違います。たとえば覚せい剤や分裂症で幻覚で机を触ったとします。その人にとっては、実際の机を触るのも幻覚の机を触るのも全く区別がつきません。幻覚で机を見たときもミラーニューロンは反応するのではないでしょうか?(ちなみにミラー細胞の話をTVで聞いたときは主体客体の話の科学的裏づけができるかと興味しんしんだったのですがよく話を聞くと難しいですね。まだすべてがわかったわけでもないみたいですし)
ゆえに、相対論のエレベータ落下実験での等価原理と全く同じく、区別のつかない幻覚の机と現実の机は同じものとする、つまり主観と客観は同じものだという等価原理が働くと考えるのが妥当と思います。つまり主観=客観です。これはどういうことかと言うと、得体の知れない真実の存在があり、それが見方によって主観であったり客観に感じたりするものと思われます。主観と客観の両方の性質をもったものがあるわけです。それが脳のスイッチで主観客観に変化すると考えますがどうでしょうか?客観が五感の感覚とするならなおさらです。2義的には五感の感覚を客観と定義できますが(客観的物質は存在する)、1義的には主観客観の区別はないと考えます。なので主観と客観の混合は脳の作り出した感覚ではないかと。別に唯脳論者ではないのですが。これはあくまで私的な意見なので、気に障ったらごめんなさい。

お礼日時:2007/06/06 08:25

根本的に、話の発端からして、このテーマを考えることにどんな意味があるのか理解できません。

哲学のもっとも基本的な部分も勉強しているようには思えないのですが...

それよりも、あなたの解決したい現実の問題は何ですか?どのような問題意識でこのテーマを考え始めたのか、その点の方が興味があります。
それが、「この世のありとあらゆるものを含む体系の法則ルールを見つけることにつながるだろう」という直感であるとすれば、幻想に過ぎない、というよりも知的傲慢に過ぎる、と思います。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
僕は哲学は全く勉強していません。専門用語も知りません。なのでカテもここでいいのか迷ってると最初に書いています。
もともとの動機は人間関係でつまづいたので、それを解決したかったからです。そのためにぜひとも自分を包括する世界の仕組みを知らなければならないと強く思ったのです。非常に根が深い問題に感じられたので、生半可な心理の理解などではどうしようもないと思っていました。少なくともそのての専門家が役に立たなかったのは事実です。むしろ人生哲学の本とかの方がよっぽど参考になりまたねー、今もですが。

初期の僕の直感が幻想か、知的傲慢にすぎるといわれても、なんともいいようがありません。そう直感したのだから仕方ないです。幻想かどうかは言っても仕方のないことですし、知的な傲慢さがあったかといわれれば傲慢だったのかもしれません。自分では、この問題を解決する自信がある、と感じていたんですが。そこでこれなら僕でも解決できそうだなーと感じて、上記の問題の解決がてら、好奇心もあって考えた面もあるので、うーん、まー傲慢と言うか、純粋に問題を解決するだけなら、こういう遠回りになることは必要なかったかなー、ちょっとわからないです。ベストのルートをだどってきてこれたのかどうかといわれれば今となってはわかりません。

お礼日時:2007/06/06 05:16

素人ですが、


存在=関係と言うものがあります。>ってどういうことですか?関係と存在がイコールって、等価ってどういう意味ですか?私の頭が悪いのかな?ゆえに、それ以降の、貴方が説明する主観世界や、直感的に把握できないものとかの意味もわかりません。
主観と客観を足した世界というのは哲学的に意味があるのかは素人の私には分かりませんが、興味を覚えます。もっと他人にも理解できるように、その、「主観論理学」というのを定義を厳密にして再投稿して、哲学に詳しそうな方にもう一度見てもらって、「主観論理学」認定証を授けてもらったらどうでしょう。面白そうです。
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この回答へのお礼

お返事ありがとうございます。遅くなりすみません。
関係と存在がイコールと言うのは一番抽象的で簡単にまとめてるので、具体例を言うと、それはもう多くの人が言葉を尽くしてこれの大事さを言っています。人は一人では生きていけない、などもそうですし、今日カンヌの賞を取った人がTVで「心に支えがあるから、人は一人でもいきいける」「子供を産んで自分が始めて一人じゃないと気づいた、自分は命を過去から未来につなぐ役目を担っているんだ』とおっしゃってましたが、これらはいい具体例だと思います。でもちょっとくだけすぎて繋がりがわからなかったらすみません。
僕の思う例で言うと、感情の性質と、絵画のたとえがあります。
感情の性質とは、たとえば誰かが好き、と思うとき、それは私があなたを好きだ、と言う関係でもありますが、その好きな感情はどこにあるかと言うと、この自分の胸のうちにあります。関係を示すはずの感情のありかは、その存在は、自己の内なるものとして存在してます。
絵画の例は、キャンバスに絵の具で描かれた花瓶を考えます。花瓶はそこに描かれて存在しますが、その花瓶の存在は、同時に、キャンバスに一定の規則で配置された絵の具であり、つまりキャンバスと絵の具のあいだに一定の規則だった関係があるからこそ、キャンバス上に花瓶が出現するわけです。絵としての花瓶の存在は、同時に絵の具とキャンバスとの関係性でもあります。こんな例えでどうでしょうか?

主観論理学に関しては、なんとなく言葉を決めただけで確かに定義が甘い、甘すぎます。全然です。今現在は、何年か前にその骨格、あるいはコア(核)になる部分の全体像をつかめて、それから今までは骨格の肉付けといいますか、コアの周りを囲む部分の分析と言うのか、基本的な存在心の仕組みが外界に反応する時にどのように応用されているのかを考えている最中です。とにかくすごーく今はまだ道のりの途中で中途半端です。ある程度まとまれば(ここまでアバウトに直感を優先して考えてきたので)厳密さを出す作業を、言われるようにやれたらいいなと思います。
主観論理学認定証ーほんと面白そうですね、そんなのもらえるんでしょうかねー。僕は完全に独学なので、他の哲学をちゃんと勉強した方のアドバイスは大事ですよねー、と言うかすごく欲しいです。一人ではやっぱり限界が・・・。長いこと考えててちょっと疲れちゃってますし。

お礼日時:2007/06/06 04:58

質問者の方の問題意識とは少しずれるのかもしれませんが、主観世界と客観世界について、私は以下のように考えます。



1.私が実体として直接確認できる世界は私の主観世界だけである。
2.Aさんが実体として直接確認できる世界はAさんの主観世界だけである。
3.Bさんが実体として直接確認できる世界はBさんの主観世界だけである。
4.同様に世界の60億の人間が実体として直接確認できる世界は各人の主観世界だけである。
5.従って、客観世界というのは、60臆の人間の主観世界の知識を元に推論で創り上げた抽象的概念であって、具体的実体ではない。

この、主観と客観の関係は、目の前に見える三角定規(具体的実体)と三角形(抽象的概念)の関係と同じだと思います。
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この回答へのお礼

お返事ありがとうございます。
僕もほぼ同意見です。
同意見で似てるのですが微妙に違うところをいいますと
主観客観を、唯心論唯物論に置き換えるとします。
とするなら、僕は唯存在心論者です。存在心とは勝手な造語ですが、認識したり考えたり感じたりする心とは別の、それらの気持ちの土台になっている自己の存在をつかさどる心のことです。心理学だと普遍的無意識?に近いんですかねー。脳だと、脳幹とか辺縁系あたりでしょうか? 詳しくないので知らないですが。
存在をつかさどる心がしっかりしていて始めてその上で、普通にいうところの心が自由に機能することができます。このレベルの心は、唯心論も唯物論も自由に創造することができます。それはそれだけの自由度が心に与えられてるからです。そしてそれは、その心のレベルでは唯心論も唯物論もどちらも間違いではないことになります。その人のシュミ趣向、気持ち1つで唯心論になったり唯物論になったりするのですが、それはその人の自由な世界観です。問題は生きるうえでそれがどれだけ重要か,と言う問題に切り替わります。人の性格がさまざまなように世界観もさまざまです、当たり前ですが。ただそれだけのことです。
ステージが変ると視点も見方も変ります。より高次元の視点から統一的見解を見出したいと思ってましたし、今も思ってます。


お礼日時:2007/06/06 04:33

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