モンゴル帝国では、モンゴル第一主義をとっていて、第一にモンゴル人、第二に色目人、第三に漢人、第四に南人 らしいですが、中国とヨーロッパの間にいる色目人を味方につけるとどのような利点がモンゴルにはあったのでしょうか? そのことについて先生が言っていたのですが、肝心なトコを忘れてしまいました。 お力貸してください。

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A 回答 (3件)

モンゴル帝国にとって色目人は経済的に有用でしたし、各地を往来するため情報をもたらす役に立ちました。



遊牧民が主体であったモンゴル人にとって外部の情報(地理、民度、思想、政治など)は貴重でしたし、貨幣経済や科学技術をもたらした色目人の協力なくしてはあの偉業は無理でした。
鉄の使用は製鉄、原料の供給確保、武器への加工の一切は色目人の知識によるものでした。
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単純に言うと、支配下に入った順番です。


長い間支配下にある≒忠誠心が高い
ということです。

中国人主体の解説というか、理解では、色目人は商人として有用であったということになります。

最近の世界史の見直しでは
モンゴル人も色目人も漢人(旧金国人つまり、遊牧系)は、すべて騎馬遊牧民であり、騎馬遊牧民は商業の民であり、軍事の民である。ということになっております。
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中間点に居る色目人は東西貿易の商人だったから。


それとモンゴル帝国の経済面の覇者。

統一王朝の利点:
割拠していては各勢力がこぞって重税をかけ、治安も悪くなる。
とくに、大航海時代手前でもあり東西交易が開拓されていた時期。
こんな時に割拠して乱れていては商人は困ったわけです。
英雄に投資して統一王朝を築き、統一王朝の経済力を手にすれば!!
というわけですね。
彼らの経済力が無ければ、これほど長い補給線で軍事行動なんか出来ませんからね。

それほどまでに商人たちはモンゴル帝国を支援していたのです。
あれほどの大軍行動と軍事行動の多さ。
よほどの経済援助が無ければ出来ず、さらには敵地に対して商人たちは援助を停止して経済封鎖まで行っています。
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Qモンゴル帝国を築いたチンギスハンがいたのに何でモンゴル後進国?

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 しかし、今となっては遊牧民中心の後進国です。
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Aベストアンサー

モンゴルですが、チンギスハンの時代に世界帝国になりますが、その死後、オゴタイハン国・中央アジアのチャガタイハン国・ロシアのキプチャクハン国そしてイラン方面のイルハン国の4国に事実上分裂し、彼の息子や孫たちも徐々に分かれていきます。
モンゴルのリーダーを決めるのをクリルタイと言い、伝統的には末の息子が継ぐことになっています。
ただチンギスの長男ジュチは妻が略奪された時に身ごもった子なので血筋に疑問があって、次男のチャガタイと不仲という理由もあり、両者を巧く調停できる3男のオゴタイが継ぎます。
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やがて1368年明により首都が落ち、元は滅亡します。
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尚ハンというのはモンゴル族の王の称号であり、一族の名前ではありません。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%BC%E3%83%B3

モンゴルですが、チンギスハンの時代に世界帝国になりますが、その死後、オゴタイハン国・中央アジアのチャガタイハン国・ロシアのキプチャクハン国そしてイラン方面のイルハン国の4国に事実上分裂し、彼の息子や孫たちも徐々に分かれていきます。
モンゴルのリーダーを決めるのをクリルタイと言い、伝統的には末の息子が継ぐことになっています。
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Qモンゴル帝国と元について教えて下さい

鎌倉時代について勉強しています。
そこで元冦についてあったのですが、モンゴル帝国と元が意味分かりません。
日本史の教科書しかないので教えてください。

1.モンゴル帝国をいくつかにわけて、それぞれを孫が支配した。その一つが元である。
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3.なので、モンゴル帝国の頃に服属を要求→王朝にわかれて元ができる→元冦がおこる

この3つはあっていますか?

Aベストアンサー

1→正しいとは言えません。
 チンギス=ハーンによって創始された帝国(モンゴル帝国)は,もともと遊牧民の国なので土地を分け与えるという感覚はあまりなく,チンギス=ハーンの一族や配下には,土地というより「何千戸」といった単位で人間が割り振られた,というのが実情に近いところです。
 それら一族のすべてを束ねる「大ハーン」の地位は,チンギス=ハーンの死後,2代オゴタイ(チンギスの三男),3代グユクの順に継承されましたが,3代グユクの即位には一族からの反対が強く,結局グユクは暗殺され,代わってトゥルイ(チンギスの四男)の長男モンケが4代の大ハーンに即位し,このときオゴタイの一族は大半が粛清されました。
 そして4代モンケの死後,その弟であるフビライとアリク=ブカが大ハーンの地位をめぐって争い(アリク=ブカの乱),この争いは結局フビライが勝つのですが,オゴタイ一族の生き残りであるハイドゥがフビライに反旗を翻し(ハイドゥの乱),この反乱は数十年にわたって続いたことから,この間にモンゴル帝国の分裂は決定的になってしまったのです。
 したがって,モンゴル帝国はチンギス=ハーンがその孫達に分けたということではなく,チンギス=ハーンの死後に一族間の争いが起こり,いつの間にか分裂してしまったということです。

2→時系列的には正しいですが,モンゴル帝国と元が別の国という訳ではありません。
 1271年,フビライは自らの帝国に「大元」という国号を定めましたが,これは「大モンゴル帝国」(モンゴル語では「イェケ・モンゴル・ウルス」)という国名を「大元大モンゴル帝国」(ダイオン・イェケ・モンゴル・ウルス)に改めただけのことであり,全く別の国に変わったというわけではありません。
 フビライの実質的な支配領域は,主に現在の中国を中心とする帝国の東方地域に限られていましたが,例えばフビライの弟・フラグが建国したイル=ハン国(現在のイラン,イラクなどを支配)はフビライに服属しており,元という国号を付けた後もモンゴル帝国という建前を捨てたわけではありません。

3→正しいとは言えません。
 フビライは,1261年にモンゴル帝国の第5代ハーンを名乗りましたが,ハイドゥを始め帝国西方の一族の多くはフビライの権威に服しておらず,1268年の段階では,既にモンゴル帝国は実質的な分裂状態に陥っていました。
 そして,1271年に元が成立したというのは,前述のとおり国名がちょっと変わったというだけですから,フビライによる服属要求の時期と元朝成立の前後関係は,歴史的には何の意味もありません。
 したがって,モンゴル帝国の第5代大ハーンを名乗るフビライが日本に対し服属を要求→フビライが自らの国名に「大元」を付ける→元寇が起こるという順番の出来事だったというのが歴史的実態です。

1→正しいとは言えません。
 チンギス=ハーンによって創始された帝国(モンゴル帝国)は,もともと遊牧民の国なので土地を分け与えるという感覚はあまりなく,チンギス=ハーンの一族や配下には,土地というより「何千戸」といった単位で人間が割り振られた,というのが実情に近いところです。
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Qモンゴル帝国の滅亡について

チンギスハンが興したモンゴル帝国はなぜあんな大きな帝国ができたのですか。その当時の国はどうして対抗できず滅んだのですか。また、これは教科書にもなかったのですが、なぜあんな巨大帝国が後に滅んだのですか。滅んだ過程がわかる方ぜひともお願いしますむ。中学や高校の教科書で断片的な知識しかなく、ぜひともお願いします。

Aベストアンサー

それは、やはりモンゴルが遊牧騎馬民族であることが大きいです。

歴史的に見ていくと、古代~中世世界において遊牧騎馬民族というのは反則的に強いのです。フン族に襲われ大混乱になったヨーロッパしかり、万里の長城を作って必至に防ごうとしたにもかかわらず北方を幾度となく奪われた中国など、敗北例は山ほどあります。

基本的に兵は全部騎馬(普通、農耕民の軍隊でこれはまずありえません)で、しかもほかの民族には難しい騎射(馬の上で弓を撃つ)という戦法をすべての騎馬が可能(他の国はこれができるのは精鋭くらいなもので、精鋭であっても錬度の面で馬上で生まれ馬上で死ぬ遊牧騎馬民族にはとてもかなわない)です。
また、都市という概念がないので食料とかもすべて(生きた状態で)持って移動していますから、「補給」という軍隊において最も重要で最も面倒くさく最も維持しにくいものを維持する必要がないため、桁外れの機動力を持ち合わせていました。
また、その機動力を余すことなく使用する戦術(代表的なものは偽装撤退。城攻めの必勝戦術でもありまして、相手に撤退すると見せかけて追い討ちさせ、それを迎え撃つという戦法です)を保有していました。
そのため、どんな強国でも優秀な指揮のもとで統制された遊牧騎馬民族にはかなわず、ホラズム(この国はモンゴル帝国の侵攻直前まで領土を拡張し続けており、決して弱い国ではないのです)や金も、敗北しています。ちなみに、この強弱関係がひっくり返るのは火器が積極的に導入されてからです。

しかし、滅びたのもまた遊牧騎馬民族である面が大きい、ともいえます。
遊牧騎馬民族というのは、都市の概念がないですから、そもそも「国」という概念が希薄です。
それをかなり変えたのはやはりチンギスなのですが、それでもモンゴルの伝統である末子相続(つまり末っ子が遺産を引き継ぐ)、そして後継はクリルタイという族長会議で決定(ただ、このクリルタイ、モンゴル帝国では2年くらいかかるんです・・・なにせ、あの広い領地から集まってくる上、このクリルタイも半分宴会みたいなものでして・・)というのがありました。
そのため、チンギスは生前に嫡子4人に領地を分配します。長男であるジュチ家(後のキプチャクハン国)、次男であるチャガタイ家、三男であるオゴタイ家、そして四男であり、モンゴル高原を直接的に保有するトゥルイ家です
そして、三男のオゴタイが継ぎました。しかし、その次が問題でして、グユクというのは酒癖も悪く評判が悪かったのですが、母親の根回しもありハーンとなりました。しかし、これを一番嫌ったのが長男家の当主で一族の長老であったバトゥ(また、四男家も、譲歩したとはいえ面白くはなかったようです。逆にグユクの側にいたのが次男家)。グユクは彼に暗殺されたとも言われています。
その後、トゥルイ家のモンケが継ぐのですが、これが面白くなかったのがチャガタイ家とオゴタイ家。このあたりから兄弟家の間での不和が表面化します。
そして、日本でも有名なフビライの代で分裂は決定的になります。彼は、いままでの方針を破って、全族を集めないで(支持者だけを集めて)クリルタイを行った上で即位、また即位を宣言した弟を倒して、ハーンとなりました。これが気に食わなかったのが長男、次男、三男の家。とくに三男の家当主であるハイドゥとは軍事衝突に発展しています。
そうなると、もうあとは各地の地方政権ですから、ほかの歴史上の国と同様、隣国、兄弟家同士でたたきあったり(オゴタイハン国はチャガタイハン国に叩かれて消滅)、支配民族が反乱を起こしたり、ほかの異民族に倒されたりで、消滅していきました。

また、モンゴルの政権といってもほとんどその妻は現地人のため、代を重ねるにつれどんどんモンゴル人から離れていって、しまいにはハーンがイスラム教徒になってハーン位を捨てたり、はてまたキリスト教に染まったり・・
そういう具合に、自然とその地に溶け込んで、消滅していったのです。

それは、やはりモンゴルが遊牧騎馬民族であることが大きいです。

歴史的に見ていくと、古代~中世世界において遊牧騎馬民族というのは反則的に強いのです。フン族に襲われ大混乱になったヨーロッパしかり、万里の長城を作って必至に防ごうとしたにもかかわらず北方を幾度となく奪われた中国など、敗北例は山ほどあります。

基本的に兵は全部騎馬(普通、農耕民の軍隊でこれはまずありえません)で、しかもほかの民族には難しい騎射(馬の上で弓を撃つ)という戦法をすべての騎馬が可能(他の国はこれができ...続きを読む

Qモンゴル帝国の成立から元の成立まで・・・

最初に、、
幼名テムジンのチンギス・ハンが出てくるところまでは
わかるのですが・・・
そこから何があってクリルタイが起きたりしたのでしょうか?
どこからがモンゴル帝国成立ですかね?
そして元の成立まで単語単語はわかるのですが
どのようにつなげていけばよいのかさっぱりで・・・

ほんとに馬鹿な質問ですみません

Aベストアンサー

簡単に。

テムジンは、モンゴルの豪族、乃至は有力者の息子として生まれますが、早くして父を亡くし、苦境に陥ります。
その後、がんばって勢力を拡大し、モンゴルを武力統一します。日本でいうところの徳川家康か豊臣秀吉みたいなものです。
そして、クリルタイでモンゴルの王位(ハン)につきます。日本でいうと、征夷大将軍になったり関白になったりするようなものです。
このハン位についたときがモンゴル帝国成立となります。

チンギスハンの死後に、孫のフビライが中国へ侵入し(このときは大元蒙古帝国)、中国の宋(南宋)を滅ぼして中国を統一します。そして(蒙古帝国は分裂していたので)自分の領土である中国の領土を、中国風に元と名付けました。これが1271年のことで、丁度元寇の頃です。

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モンゴル帝国は現在の中国、ロシア、イスラム諸国等にまたがる巨大な帝国でしたが、それにしては現代に残る遺産が少ないように思います。
ギリシャ、ローマに匹敵する建築や書物が現代に残っていないのは何故でしょうか?

Aベストアンサー

 騎馬隊で遊牧しながら幕舎で暮らす生活様式のモンゴル帝国は、確かに建築書物は少ないですが、
現代文明に「モンゴルは帝国内において、(中央政府の利益に反する場合を除き、地域ごとの法の多様性を許す形での)法の支配を確立し、信教の自由を保障し、拷問を廃止し、自由貿易をもたらし、外交特権の考え方を樹立し、メリトクラシーを実現しました。そして、このようなモンゴル帝国で、史上初めて紙幣が発行され、郵便制度が生まれ、印刷、火薬、羅針盤、算盤といった革命的技術が帝国内外にあまねく普及し、レモン、人参、お茶、トランプ、ズボンといった帝国内の一地方の産物が世界に広まりました。まさに、近代はモンゴルに始まる、と言っても過言ではありません。」というような影響を与えています。
また、モンゴルには民主主義の萌芽形態が見られた、すなわち、重要な国事について、チンギス=ハーンの一族やモンゴルの有力者が参加して聞かれたクリルタイ(Kuriltai=大会)です。重要な国事は、対外遠征、法令頌布、そして新ハーン(汗)の選定・即位でした。モンゴルに完全に支配された期間が(南宋滅亡の1279年から元滅亡の1368年までの)90年弱と比較的短かった中国が、長期にわたってモンゴルの支配を受けたけれども間接統治にとどまったロシアが、十分、寛容で民主的なモンゴル「文明」を身につけることができなかったのは、残念なことでした。

もちろん、古都カラコルムのような世界遺産もありますよ\(^^;)...

http://www.tabitamago.jp/mongolia/tour-topics/02.html

 騎馬隊で遊牧しながら幕舎で暮らす生活様式のモンゴル帝国は、確かに建築書物は少ないですが、
現代文明に「モンゴルは帝国内において、(中央政府の利益に反する場合を除き、地域ごとの法の多様性を許す形での)法の支配を確立し、信教の自由を保障し、拷問を廃止し、自由貿易をもたらし、外交特権の考え方を樹立し、メリトクラシーを実現しました。そして、このようなモンゴル帝国で、史上初めて紙幣が発行され、郵便制度が生まれ、印刷、火薬、羅針盤、算盤といった革命的技術が帝国内外にあまねく普及し、レ...続きを読む


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