プロが教えるわが家の防犯対策術!

最近、うつ病等の精神的な病気に苦しむ人が多くなってきていますが、
それらの病気にかかる人の共通点は「いい人」だ、と医学の専門家は言っています。

そこでお聞きしたいのですが、
どうして「いい人」が苦しむような世の中を神(世界の創造主)は造ったのでしょうか?

あなたの信じている宗教ではこのことをどのように教えていますか?

お願いしますm(*- -*)m

A 回答 (9件)

 自分は、キリスト教やユダヤ教の信者では無いので、ご質問の趣旨から外れるかも知れませんが、正しい人が不幸のどん底に突き落とされて苦しむものとして有名なものに、「ヨブ記」というのがあります。

参考URLや図書館等で実物を読んでみてください。
 無宗教者の一個人としての感想ですが、やっぱり宗教って言うのは大変だなと思うと思うと同時に、信仰の力というのは大きいなとちょっと羨ましくも思いました。

参考URL:http://www2.plala.or.jp/Arakawa/job_index.htm

この回答への補足

貴重なURLありがとうございます。
まだ、全部は読んでませんが、興味深い内容です。

しかし、一方で「結局は『運命』だから神のせいではない」
「よい行いをしても悪い行いをしても『結局は運命できまる』」
「だから神は悪くない」
という考え方なんですか~。う~ん。

もう少し読んでみます。回答ありがとうございました。

補足日時:2007/07/04 23:41
    • good
    • 1

舌足らずでお答えします。

故意に舌足らずです。それ以外に いまは 表現しづらいと思っています。

人びとの共同自治 これが まだ実現していません。未完成な分だけ 衝突や争いが起こります。これが どこかにしわ寄せされます。

神には関係ないという一つの見方です。宗教がどうおしえているかではなく申し訳ないですが 信仰の徒として述べました。

余計なひとことです。――悪に対しては赤児のようでいなさい。考え方においては大人になりなさい。とか。

この回答への補足

共同自治が未完成→衝突・争いが起こる
っていう考え方は、戦争とか事件とかの話では?

私の質問は、なぜうつ病になりやすい人は「いい人」が多いのか?
でした。

私の理解力が足りなければ、補足お願いしますm(*- -*)m

補足日時:2007/07/04 23:51
    • good
    • 0

私は仏教徒ですんで、世界を誰が作ったかということは論じません。

いろいろなもの(神も含まれるかもしれませんが)のかかわりの中で生じたものであって、誰か一人が作ったということは説かれていません。

質問には
>>最近、うつ病等の精神的な病気に苦しむ人が多くなってきていますが、それらの病気にかかる人の共通点は「いい人」だ、と医学の専門家は言っています。
とありますが、何をもって「いい人」かということです。表面的には「人のために一生懸命になっている」「誰にでも好かれるようないい人」ということではないでしょうか?これは裏返せば、「人のために何かしなくてはいけない」「誰にでも好かれなくてはいけない」というような、思いにとらわれている人ではないでしょうか?それは仏教で言えば「我執」であると説きます。そして我執によって生まれた善を行う人は、仏教的ないい人とは呼べません。そして我執は「苦しみ」を生みます。
 この仏教で言う苦しみとは日本語に意訳すると、「思い通りにならないこと」と訳されます。我々人間はその思い通りにならないことを、どうにか思い通りにしようとします。けれども思い通りにならないことなのですから、思い通りになるはずもありません。だから苦しむのです。それによって鬱病にかかる方もいるでしょう。
 仏教的な本当にいい人(仏)であれば、欝にはならないと思います。なぜなら、「人のために何かしなくてはいけない」「誰にでも好かれなくてはいけない」という思いに捕らわれることなく、自然にいいことができちゃう人になるからです。「いいことをする」のではなく「いいことを思わずしちゃう」というのには大きな差があると思います。そういう意味では筆者のいう「いい人」が本当にいい人なのかは難しいところだと思います。
 
 しかし、そのような完璧な仏教的いい人(仏)には誰もがなれる訳ではありません。そういった完璧な仏教的いい人にはなれないという自己反省をスタートラインに、成立してのが浄土教と呼ばれる仏教です。この浄土教においては、完璧ないい人になれない自分がどのように生きていくかということが説かれます。ですから、まず自分がいい人になりきれない愚かな存在(凡夫・悪人)という自覚をもつ必要があると説かれます。そのことによって、苦しみ(思い通りにならないこと)がおそってきたところで「俺は馬鹿なんだから思い通りにならないことだらけジャー」なんてなことを言いながら、ちょっとの苦しみでああだこうだ言わなくなります。
 こちらの場合は、あなたがいう「いい人」は自分の愚かしさに気がついていない。もしくは気づきたくない人なのではないでしょうか。完璧な理想の自分だけを見て、現実の愚かな自分とのギャップに悩む。だからこそ欝になったりするのかもしれません。仏教をお開きになったお釈迦様も、『法句経』のなかで、
自身の愚かさを推し量る愚者は、それ故にまた賢者である。自身が賢者であると慢心を抱く愚者は、それこそが愚者といわれます。
このように、完璧でないことを自覚したときの晴れやかさを説いておられます。「できない」というスタートラインにたてば、、「人のために何かしなくてはいけない」「誰にでも好かれなくてはいけない」ということにはやはり捕らわれません。けれども、自分の愚かしさを知っているからこそ、完璧にできないながらもやらせていただくという心が生まれるのだと思います。

ちょっと時間がなかったので、急ぎ足の文章になってしまって申し訳ありません。支離滅裂な文章ではありますが文意を読み取っていただきたく思います。最後に「その時歴史が動いた」で紹介されていた柳生宗矩の言葉を紹介します。
「こうしようと一筋に思う心こそ人が誰しも抱える病である この病を必ず治そうというこだわりもまた病である 自然体でいること それが剣の道にかなう本当にこの病を治すということなのである」
わたしはこの柳生宗矩が言う病こそ、あなたのいう「いい人」の持っている病なのではないでしょうか。
参考になるかわからない駄文長々失礼いたしました。
合掌 南無阿弥陀佛
    • good
    • 0

以下をご覧になってください。

加藤諦三ホームページhttp://www.kato-lab.net/→人を育てる

「良い子」は自分がありません。常に他人の顔を伺っています。


「悩む」とは未来に怒りうる有害な出来事に対する予告であり警告であり、恐れとほぼ同じである。

「悩む」能力とは、自己の過去と現在の痛みを未来に投射する能力のことである。
    • good
    • 0

No.2です。



家庭も職場も 共同自治です。個人も自治・自己経営です。

意見の対立 利害関係の衝突が起こります。

そこで しわ寄せが起こるというとき たいていは 《いい人》がゆづります。上の人間の意向が――折れる人もいるでしょうが――支配します。

ここまでは それでも いいとして 問題は おそらく その有力な思潮のもとに ことが推移するとき そこでは 心理も共同化されており この共同心理に流されるかどうかです。

ゆづる精神と この人びとの支配的な気分に最後までついていくのとは ちがうように思います。たいていの人は うわべで従っていますが。
    • good
    • 0

心が明るく前向きに考える人は心の病になりません。

これが仏神の法則です。
医者の言う「いい人」が何を意味するかが問題ということだけですね。
自らを愛しすぎると病になります。確かに他人を害せずいい人です、また自らを振り返らず社会に迎合だけしていててもいい人のように見えます。しかしながら、仏神の「いい人」の法則には乗ってません。
しかし、自らに厳しく他にやさしく、明るく前向きである人が仏神の愛する「いい人」です。このようないい人に心の病はないということです。これは法則ですから、誰でもそのような心に向かって努力すれば心の病は必ず治ります。環境や肉体に関係するものではないですから、そこに気がつけばいいだけですね。
    • good
    • 0

私はちゃんと理由があって宗教には一切入らないんですね。


特に奇麗事、えらく現実離れした理想だけは大いに語る宗教は、「うさんくさい  JAROに訴えてやる」くらいに思っています。 笑

ですが、現実に添った先人の悟りは素直に「いい」と認める態度ではいます。


鬱の人は「真面目な人がなりやすい」とはよく聞きます。


今回理不尽について疑問を持っているようですので、私が理不尽と聞いて思い出す宗教から出た哲学的な思想の一つを紹介します。


旧約聖書の中のヨブ記。

みんなからいい人だと評価されていたにもかかわらず、突然その人にとてつもない不幸が訪れます。

神様がヨブの信仰心を試した。
ヨブは今までいい人だと他人からいい評価を得るため信仰をしていたのか。財産が増えて幸福だから信仰していたのか。
お得だから信仰していたとすれば、彼は逆に財産を失い、病気になったら信仰はしなくなるのか。

とサタンと賭けをしたんですね。
(ヘレニズム文化の影響をもろに受けた作品)


彼は「何も悪いことは一切していないのに、どうしてその私を不幸にするのですか!!! 理由なき虐待」と神に強く抗議したんですね。

http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0487.html



キリスト教で「義により迫害されたものは幸いなり、天の国は彼らのものなり。 心の貧しい人は幸いなり 彼らは天を見る」みたいなことを教えていますが、実は別の言語に変わってしまったため、正しく翻訳されていないらしいんですね。


ヘブライ語に添ったこの内容は「救いを追い求めるものは幸いなり。天の国は彼らによりなりたっている。」「絶望し心が打ち砕かれたものは幸いなり。その時、彼は真の信仰を得る」みたいな意味らしです。

イエスよりずっと前にそういう思想があったんですね。

キリスト教がローマに公認されるやいなや、キリスト教はユダヤ教を迫害し、その迫害思想は20世紀に、とうとうユダヤ人を絶滅の危機にさらすまでになったんですね。


この歴史を人々は見て「神はどうしてこうなる前に彼らを救ってやらなかったのか」と考えるのは信仰の役割を理解していないからだと思えます。


>どうして「いい人」が苦しむような世の中を神(世界の創造主)は造ったのでしょうか?

ヨブ記で作者は答えています。
<これは何者か。知識もないのに、言葉を重ねて、神の経験を暗くするとは。 わたしはおまえに尋ねる。わたしに答えてみよ 。わたしが大地を据えたとき、おまえはどこにいたのか。>



もう一つ 参考になるのは やはり旧約聖書より

http://www.asahi-net.or.jp/~zm4m-ootk/28kohereto …

長いですので、ピンクの文字のところだけでも読んでみてください。

この書は、逆境に陥った時にこそ輝く思想だと思います。

「やれば天国に行ける可能性が増しますよ」など絵空事は一切出てこない。

現実の世界をそのままもってきて、現実あるがままを分析し、結論を導きだしている。
(仏陀も現実人間が知覚可能な感覚のみをもって説いたと思います。)



ですが、私の回答はいつも長いですが(笑)、この書はもっともっと長い。(そのサイトに書いてあるのはほんの一部)

うつ病の人はとてもじゃないけど読んで慰め(救い)を得られない。

ですので、思考が停滞してはいない状態の人向けだと思います。


真面目に働いてきたのに、うまく立ち回った人が横から盗んで自分の業績として報告し、昇格していったり、働いても考えてもちっとも自分のものにならず、手から零れ落ちるような体験を常にしていたり。

そのような不足感に見舞われた時、あるいはこの世に絶望したとき、有効に作用する思想だと思います。

そして、なにより私がこの書を好きなのは、

  現 実 が 書 か れ て い る か ら。


コツコツ真地面にやれば、いつか願いがかなう なんて 理想は書かれていない。
それすら 幻だと言い切っている。


その作者は至った境地。
あれ? サイトに書かれていないような・・・
私を納得させた言葉、このサイトに載ってないですね。


興味があったら図書館で探してみてください。
    • good
    • 0

今 その病気で苦しんでおられる方々にとっては、たぶんものすごい切実な問題だと思います。


そこを医学(たぶん神経科とか心身医学の臨床医さんたちの事だと思いますが)の専門家が、それらの病気にかかる人の共通点を「いい人」だというのは、要約して説明するなら、おそらく「どこか無理をして道徳的であろうとしている人」という事なのでしょうから、テレビで言われたのかどうかは解りませんが、表現としては公においてはあまり適切な言い方ではなかったのではないかと思います。
人間心理として、どのようなふうにそのへん無理をしてしまう時があるのかどんなふうにすればもっと気楽に良心的であれるのかという事の解説とともに、具体的にそれぞれの方が長い因果の中でその状況にいたったのでしょうからそれぞれのケースにもつっこんで専門家の見解を公にすべきなのが理想でしょう。 
でも、テレビなどで時間の無い編集の中ではそんなふうに表現するのもしかたのないところだったりするのでしょうね。

 そこで質問者様にお聞きしたいのですが(笑)
「精神的に無理をしている・いい人・」がもっと気楽ないい人になれるための方法、あるいは自分の欲望を他の人のために殺しすぎてしまってバランスを失ってる人のバランスをどう回復したらいいのか、とかいう問題を、
なんでいきなり 「宗教を信じている方におききします。」という質問になってしまったの? という質問です。

「いい人」が苦しむのは、何もこの人生で最近のうつ病患者の方々だけではないですよね。自分の利益よりも他の人の利益を大事にする心が故に、何もそれが無理ではなく自然の人情であっても、長い間に苦境の深みへと落ちてく人だっているでしょうし、 
一言で言えば 「なんでずるい人がけっこううまい汁をすってるような世の中」がなんで変革できないでいるのかということは、誰にとってもおおきな疑問であり、人生への不信にもつながったりしますよね。

うつ病の方への想いもそれなりのものを感じていられながらも、それ以前に世の不条理についての迷いを、おくそくですが質問者様の中により強く感じしまう者です。

私自身は、いわゆる宗教組織にはどこにも属していませんが、最近「神は存在している」というほうが自然と感じてますので、これが宗教を信じてることにあたるかどうかはわかりませんが、私自身の答えはこんなふうになります。

神というのは :世界の創造主というよりも、物質という存在も最初から存在したという認識の方が自然ですから、世界の創造に「意味」という知覚とともに関わった存在 : というふううに思ってるのですが、 む
む  むずかしかったですか。
ともかく そういう存在(神)は、サルが自己やまわり自分たちを「見つめる」能力を持ちえるまで進化した時、ま その時に人間を生んだようなものです。
 ふざけて言ってるのではなくて、意味という事を知ることの出来るだけの五感、海の音を聞いても川のせせらぎの音を聞いても、その川もの光の反射を見、やがて夜になるとそこに星が映るのを見ても、新鮮な素朴な子供たちのような心や それをさらに深めたりひろげたりしてくれるほんものの芸術家の感性の可能性をもった五感もそのとすでに育っていたと考えられるからです。

 ほんとうの幸せを自分の手で頭でつかみとっていける可能性を宿して人間て最初からなにはともあれこの地球の大地に「できちゃった(笑)」のです。 ま 
それがこの歳になってわたしにとって神の存在が自然のことに思えるということなんですが、神というのは であればいっさい人間を助けたりなどしないということ、これ解りますか? まして御自分を信じる人だけを助けるとかいうような人間よりも狭い心の存在だなんて    そ そんな
神なら信じたところでどうせ信用なんてできいという事はわかりますよね。
自分を信じていいんです。私たち人間は おおらかな明るい心で自分たちを信じていいんです。
そう思えたとき、自分の心は 楽になりました。
よし 生きてやる、人間として生きてやる。どんなに苦しくても、希望はすてない。自分や周りを「見つめて」、ほんの少しでもよりよく生き抜いてやろう 言葉にすればそんな感じです。
宗教も本来は その新鮮な心から最初はその心が僕みたいな平凡な形ではなくそれこそ偉大な心として誕生したのでしょうけど、でもわたしの場合は宗教自体には苦しみがすこしでもなくなる世の中につながるような力はもはや期待してません。
平凡でも この大地に根をはって生きた経験からの知恵のひとつとしての存在や歴史の哲学(むずかしい言葉のお遊びの世界のことではないです。)には期待してますけどね。
 
仏教の 唯識論というそれこそえらくむずかしい、いやしっちゃかめっちゃかな感じさへある論文が結論は9つの識(意識)に整理されて書かれてるのがあるんですけど、現代の解釈では6感以後の7識とか8識とかは無意識の世界を論じてるとも解説されたりしています。
でもここに現代心理学をあてはめるとさらにことは「むずかしく」なるだけです。でもこれはあたりまえに「ただ深く考えてみればですが」簡単な論文なんです。
歴史的に8識論にまとめられたりしたりしていますが、論者たちが言いたいことは同じです。
7識までは自我(自分だけの欲望と関わる認識の世界)で8と9は、ともあれそれを超えた世界です。
私流に言えば、感じる心がみがかれ豊かになった世界が8と9の識の世界です。 幸せって自分だけのものにはできなくなる というあたりまえの
でも大事な大事な確かに希望に満ちたメッセージはあり、かつ壮大なふかい哲学でもあるんです。そのメッセージ自体はね。

ところが、このこの7識を超えた8か9のあたりに 歴史的に突然、その識にまでいたると心は宇宙エネルギーのようなものと一体になるといった幻想的な説明が加わったりしてるんですよ。もともとの作者はもっともっと
人間としてふつうのことを言いたかったのにね。

 宗教はまず そこに大事なメッセージを知った人の方便として存続されようとしたとも言えいます。 でもその多くは それが「むずかしい」ことを利用して権力を握る形になってしまったんです。

 私自身が いろいろな宗教組織の中に、他宗の人が苦しんで死ぬのを喜んでいる文脈の掲載文に信者の誰一人気がつかずに、慈悲を語るえらい人にありがたいことだ   と感謝してる姿をずいぶん見かけてきました。
そのえらい人たちもなんと全員がその矛盾に気がついてない姿を実際に見てしまったんです。いろんなところでね。

すみませんつい 長くなってしまいました。 書いてたらつい 怒りのようなものとか涙とかがこみあげてきてしまって、


 たぶん、どんなに苦しくても すこしでも明日に前向きに進んでける
生きている尊さには感謝できるのが人間なんです。 その自分自身の足の
存在に なんで こんな存在が 今ここに生きてるんだろうというのが本との宗教の原点なんだと思います。
神あるいは存在に文句をいうのが ほんとの「いい人」の本性では無いと思います。
    • good
    • 0

仏教においては創造主という意味での神はなく、その意味において無神論に近いと理解しています。

創造主はおらず、世の中の移り変わりは何か特定の意思による働きによるということではないことになります。

私たちは経験上、生き物は必ず死ぬとか、物体は下へ落ちるとかなんらかの法則性があり、その法則性に基づいて変化し続けていると信じています。もちろん私たちは無知であり、また物事の在りようをあるがまま観察しているわけでもなく、私たちの信じている経験は眼をつぶって象の皮膚を撫ぜて、象というものを知ろうとしている状態です。つまり宇宙や自然の法則はあるだろうけれども私たちはその中のほんの一部しか知らないし、間違ったり誤解しているかもしれないと思われます。

私たちの眼は器が変わっただけでジュースの量の多少でさえ分からなくなります。ここに損得とか、好き嫌いとか恐れとかいろいろな人間の持つ傾向性を通せば私たちの判断力は皆目でたらめとなります。お釈迦様は人間の判断力を惑わす各種の要素を分類分析してその各種の要素から離れ苦しみから離れる方法を示されたと信じています。ただ凡人の私はその崇高な道に憧れは持っても煩悩を滅却することがとても困難だと感じています。

無学ですので定説は知りませんが、お釈迦様が苦行をされ疲労困憊の状態にあったとき、うつ病ないしうつ状態にあったかと思われます。体力は限界に近いまで消耗し、修行を完璧にまで極めようとする姿は美しいですが、一方凡夫の私たちが、体の悲鳴に耳を貸さず酷使し、責任を自分に背負い込み結果に完璧を求めるというようなことは美しいだけではすまされません。お釈迦様はそのような修行の方法が真に悟りを開く道ではないことを悟られ放棄されました。

私はお釈迦様が善いことでも悪いことでもほどほどにしなさいと説いておられると信じています。体に必要な塩もとり過ぎれば病気になります。働き過ぎたから仕事を忘れて当分休むのでよいのです。
    • good
    • 0

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!

関連するカテゴリからQ&Aを探す