ルソーが言った一般意思っていうのはなんですか?
全体意思との違いなども簡単に教えていただけるとうれしいです。
ウィキペディアなどで見たのですが、どうも私には難しすぎてさっぱりわかりませんでした。
なんか高校の政経の授業で一般意思は代表しない、とか
なんかそんなようなことを先生が言っていたような言わなかったような、、、でもうろ覚えなので意味はわかっていません。
素人なのですがわかりやすくおしえていただけないでしょうか?
よろしくお願いします。

A 回答 (2件)

なるべく簡単に書きます。


簡単すぎて、不十分な点はあると思いますので、ここらへんをもっとくわしく知りたい、という問題意識がおありでしたら、補足要求してください。

国家というものはどうつくられるべきか、ということをルソーは考えます。
単独で、孤立した個人が集まって作る国家はどういうものが望ましいか。
それは、ひとりひとりが自己の利益を脇に置いて、共同体全体の利益を考えるような、そういう意識をよりどころに結びついたような共同体である。

ひとりひとりの利益を追求するのが「特殊意志」
「特殊意志」を単純に加算していったのが「全体意志」
「一般意志」というのは、社会契約のもとに集まった、共同体の意志です。

そこでは、各個人の意志は「一般意志」にすっぽりと呑みこまれていきます。
ルソーは『社会契約論』でこう言っています。(引用は.「社会契約論」 『世界の名著 36 ルソー』所収)

-----
この社会契約のあらゆる条項は、よく理解されるならば、ただ一つの条項に帰着する。すなわち、各構成員は、自己をそのあらゆる権利とともに共同体全体に譲り渡すということである。それはなぜかというと、まず第一に各人はいっさいを譲り渡すので、万人にとって条件は平等となるからであり、条件が万人に平等であるなら、だれも他人の条件の負担を重くすることに関心をいだかないからである。
-----

重要なのは、「自己をそのあらゆる権利とともに共同体全体に譲り渡す」という点。
個人は社会契約を結ぶ時点で「特殊意志」を捨て、「一般意志」に委ねるのです。

つまり、個人は個人の自由を手放し、共同体の一員となることによって初めて真に自由になれる、とルソーは考えたんです。「特殊意志」を捨てて「一般意志」のもとにみずからを従属させることで。そうすることで、人間は自己のもつ最高の可能性が発揮され、最高の自由を手に入れることができる、と。
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この回答へのお礼

ほんとうにありがとうございます。困っていました。

お礼日時:2007/07/15 11:59

>全体意思との違いなども簡単に教えていただけるとうれしいです。



全体意思とは個人の特殊意思の加算の結果(国民全員による投票結果など)

>なんか高校の政経の授業で一般意思は代表しない、とか
投票結果が全体意思であるため、代表が一般意思であるとは限らない

各個人が具体的に表明する意思にはそれぞれの立場などが反映してしまっているので、それを集計して「全体意思」にしても人民全体の利害を正しく実現できるとは限らない。全体意思と一般意思のあいだには「時にはかなり相違があるものである」

1億二千万人の投票結果はもっとも多かった特殊意思に過ぎない。
だからある程度の人数にたいしてその結果は利にならない。
しかし一般意思とは全員において利である。
全員にとって利って難しいですねえ。
そしてルソーさんはこうも言ってます。
たとえ全国民に反対されたとしても、一般意思を理解(発見)できるものならば、独裁者であってもそれで良い。
なぜなら個人は自分の利をいつも正確に理解(発見)できるとは限らないから。

つまり一般意思(全国民の共通に利害)を見極めることができる人間が納めるなら、国民の意見を一切聞かない独裁者でも良い国になるってことですね。
私も全くもってそうやと思いますが、それと同時にそんな人間がいるとは思えないし、いたとしても一般意思が理解できず特殊意思を優先したいエゴイストにクーデターかまされそうです。一般意思であるならばそのエゴイストにとっても利であるはずなんですけどね。本人にとって良いことを本人が良いと感じるかどうかは別問題。親と子の関係に似てますね。
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似たような言葉である ”自由意思” と ”自由意志” とは、(本来)どのような使い分けがあるのですか?

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意思は、自分の考えや思いのことです。例えば次のように使います。

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これを簡単に言い換えてみると、彼は大学に行く考えがないらしい。

意志とは、ある行動を「する!」とを決意して、その気持ちをキープしようとする積極的な心の持ち方を意味します。個人の中ではっきりと決定された意向、意図をあらわすものですね。例えば次のように使います。

・彼はなんとしてでも大学に行くという意志を持っている。

これを簡単に言い換えてみると、彼はなんとしてでも大学に行きたいらしい。


例文で見たように、意思は「考え」という言葉で置き換えられるのに対して、意志には「~したい」という強い感情がはいっているのがわかるはずです。

http://manapedia.jp/text/1453

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倫理学の勉強をしていて疑問に思ったので質問します。
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ルソーは個別意志と一般意志を区別しました。
個別意志は個人的なもの、私的なもの、それに対して一般意志は集団的なもの、公的なもの。

ルソーはスイスという直接民主制の国に生まれたので、村々で村人が全員集まり、みんなで物事を協議し、討論して、その意見を集約して、物事を決定するのを幼い時から見て知っていました。

スイスでは、この間テレビで見ましたが、村人が全員集まって村の方針を討議し、それで決定しています。
村議会で、村会議員が村人から選出されて間接的に物事を決定している日本などとは大違いでした。
今でも、直接民主制が生きているんですね。

だからルソーのいう道徳的自由というのは個別意志、それに対して市民的自由というのは一般意志のこと。
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ヘーゲルは「法の哲学」で、近代社会というものを「家族・市民社会・国家」の三層からなる社会と言い、ルソー・ホッブス・ロックの近代自然法国家論、社会契約説を批判した。
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そしてその自然状態では互いに闘争の関係になるから、それを避けたかったら、自然権を一時的に棚上げして国王などの統治者に統治権を委任し、統治してもらうほかはないと言った。
この社会契約説は当時の絶対主義の「王権神授説」、すなわち国王は神から統治権を委任された代理人で、人民を統治する権利を委任されたのだから、統治する正当性がある、と言った、その「王権神授説」を打倒するために持ち出されたイデオロギーであって、実際に社会成立以前に自然状態があり、自然人がいたという歴史的証拠なんてなかった。
現代でも、歴史をさかのぼって、見出されるは氏族制の社会であって、マルクスのいうような原始共同体なんて存在しない。
マルクスの原始共同体が、ユートピアであったのと同じように、ルソーなどの社会契約論者のいう自然状態だとか、自然人というのも単なるフィクション。
事実、後年、ルソーは自分の言った、自然状態とか自然人がフィクションであることを認めていた。
ヘーゲルは社会成立以前に自然人がいる、個人が存在するというのを否定して、人間は社会の中で個人を形成するので、社会・国家がなければ個人もまた存在しないのだと言った。
だいいち、私たちは社会の成員になるのに、いちいち社会と契約なんてしていない。
せいぜい、会社員になるときに会社と締結する雇用契約がある程度。
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だから社会契約論者のいう契約というのは「擬制」、フィクション。

ルソーは家族と国家の間に、市民社会が存在するのを無視した。
というよりも、スイスという狭い国家を念頭に国家というものを考えたので、社会と国家の区別がつかなかった。
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市民はいちいち全員が集まって、物事を決定していられない。
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だから、市民の意向に反することを決定して市民に押し付け、強制することもある。
だから近代国家では、家族と国家が相反する、個人の道徳的自由と国家の市民的自由が対立することがある。
国家には国家の行動原理があり、国家は他の国家と対立しているのだから、市民的自由を犠牲にしなければならないこともある。

今の政治家はポピュリズムと言って、市民の意見に迎合して政治を私的なものに間違えているけど、政治は公的なもの、私的なものじゃないのだから、市民的自由を守るためには市民の、個人の道徳的自由を犠牲にすることもいとわない覚悟が必要。

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Q釈迦の言う中庸と一般市民である私の中庸について

私は犯罪者に成らざるをえない気がします。
王子であった釈迦が妻子を捨てて最後は物乞いになったということは、
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こういった話を母にすると意味のわからない話をしないで欲しい、
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中庸を目指すのはいいとして、誰もが納得できるような世界を作ることは不可能なのでしょうか。

Aベストアンサー

儒教の中庸と仏教の中道を調べてみました。

どちらも重要視していますから、同じモノを指している可能性はありますね。

仏教のある中道の説明をや背景にある紹介などを読んで見ますと、

「自分が他人に対して益をもたらせる精神状態があり、

 これを得るためには、

 何かに囚われて一つの方向を目指してはいけない」

と言うことらしいです。

例えば、「中庸を目指せば良い」としてこれを追い求めれば、

「何も考えずにそれだけに夢中」になりますから、

こういうときは他人に対して益になるアイデアも思いつかないということです。

確かに、他人に益をもたらそうと言う気持ちにもなれません。

つまりそう思っただけで、中庸とは逆になってしまうわけです。

「押しても駄目なら引いてみな」

という言葉があります。

しかし本当の答えは、

実は押しても引いても関係なく、さらにその中間でも意味がないかもしれません。

鍵が掛かっているので、適した鍵を指してまわす事だったりするかもしれません。

また動かないのは壊れているからかもしれません。

そもそも動かす必要がないかもしれません。



しかし、押して駄目なとき、(たまたま偶然)引いて成功したらどうでしょう?

成功体験ですよね。

この人はずっとこれを活用して囚われてしまいます。

意地になって使おうとしますね。


鍵で成功した場合も同じです。

本当は、押すだけで良い場合でも、鍵を探そうとするでしょう。

そして鍵がないときは、鍵がないので無理だというはずです。


「才能がないので、真面目に働けません」

「やる気が起きないので、取り組めません」

「この世の中は、自分には生き辛いです」


才能が効果があるときもあれば、やる気が必要なときもあれば、

それらは関係ないときもあります。

また、世の中は誰にとっても生き辛いものかもしれません。

これらには合理性がありませんから、

得意になって誰かに話すものじゃないでしょう。


これらの例では、いまそこにある事象を観察せずに、

過去の経験や他の人の成功談から、手段だけを尊ぶ衝動に支配されています。

例えば、他人に優しく接しなさいと言われた人が、

「他人に優しくすることで何もかもが上手く行くのか!

 よし試してみよう」

と思ったとき、そういう考えの人に対して心配になりますよね。

「優しく接しても上手く行かないときもありますので、

 それでも辞めないでくださいね。

 私はそういう方が好きですから」

と付け加えておきたくなります。

ところが、

「優しく接して損をした。よしその逆をやってみよう。

 上から馬鹿にするように言ってみよう。

 脅すように言ってみよう。

 傷つけてみよう。

 何か変わるかもしれない」

と言う思いつきは、やめたおいがほうが良いでしょう。

そして、

「逆をやっても駄目だった。

 その中間がいいのかもしれない。

 そうか、それこそ中庸、中道と言う事か!」

と考えられたら、この人は苦労しそうだなと思います。

その人が願っている成功に対して、

優しさは関係ないかもしれませんよね。

万能の鍵にしようと言う考え方が安易に思えます。



しかしこういう発想の人は多いのではないでしょうか?

「良いことを聴いた。試してみよう」

これはこれで良いのです。

しかし試すとは、そこにある物事を観察し、その仕組みを理解して、

解決のアイデアを得た後に、

実際に想像通りになるかを試すものです。

こうしている方は、自分のイメージの中に按配と言うものを持っております。

「こうなればいいのだから、これは強すぎる。

 このくらいだとちょうど良いかもしれない」

などと思いつつ、結果を確認しながら微調整します。



ところが、仕組みを理解していない人でも、

(納得しないまま)何かを期待して試すことは多いわけです。

そういうときは、ワクワクしていますね。

次にガッカリします。

こうなって上手く行かないときは、量が足りないと思い込んでしまいます。

適量などと言う発想は生まれません。

これでは、さきほど挙げた滑稽な例にはまりこんでしまいますよね。



仏教で言う中道は、

お釈迦様が修行した経験から、

悟りを得るためにちょうど良いストレスレベルがあったということらしいです。

ストイックすぎても駄目だし、享楽的過ぎてもだめだったということみたいです。

仏教の場合は、脳の中に眠る未知の力を探る指向が強いです。

彼らが主張することは、大概において発見の性質が強く、

道徳系の主張とは大きく違います。

道徳はノウハウの発表であり、仏教は発見の発表です。

ですので、儒教の中庸と違って、

ストレスレベルを微調整することで、頭脳が活発になり、思考力が増し、

智慧を得られる、程よい状態があり、ここに調整を持っていくと、

驚くほど頭が働くと言う発見を述べているようです。


儒教で言う中庸とは、

万全である状態を目指すため、最初に立つべき位置について述べているようです。

例えばスポーツで言うディフェンスを考えて見ます。

目の前の攻撃者が左右どちらに移動するかを考えれば、

相手の動きに対してどちらにも等価に対応できる位置があるはずです。

勿論相手は動きますから、中庸もそれにあわせて移動します。

更に、その攻撃者にのみ集中すれば、他の攻撃者がフリーになりそこが弱点になります。

そのため視野を広くとり、これらも想定すると、中庸である場所がかわります。

そして、こういった概念を政治や商売に適用することが思いつきます。

人が対応できる手段と言うのは無限ではありませんから、

少ない手段を活かしたいものです。

勿体無いことをしないためにも、

中庸にまず配置し、そこから概況を見つつ、中庸が移動していることを把握し、

他の手段も重ねていき、全体で中庸になるように考えていく。

そういう感覚について述べているように思えます。


儒教が述べる中庸を実践するには、安定した精神状態を維持する必要があります。

これを為しえるための精神状態を仏教は中道と呼んでいるようです。


最初に挙げた事例では、

実践する人が焦り過ぎています。

早く結果が欲しい。そのため目の前の物事を観察し、考えることを嫌がっています。

これではあらゆる可能性を考慮できません。

もし色んな可能性に思いを馳せることが出来たら、

二度手間にならないようにと、さらに智慧がまわります。

幾つかの手段を個別に用意する人もいるでしょう。

しかし、それも勿体無いとして、可能性が分岐するあたりまでは同じ手段を使い、

それ以降は事態の進展にあわせて、対応手段を準備しておくことも出来るはずです。

こういう思考ができる状態にする方法を中道とよび、

実践において目指すべき初期目標や維持すべき全体バランスが中庸となります。

押しても駄目なら引いてみるし、まわして見るし、鍵も用意しておく。

この場合、どの順番で試していくと、損をしないのでしょう?

これを考えて納得して進めれば、中庸であるわけです。



ですので質問者さんは、

中庸にロマンを求めた理由を自分なりに再認識しないといけません。

その中庸のメカニズムが、自分の願いに合致しているか、

検証し納得して調整する必要があります。

自分で按配を測りながら、一歩一歩試せば良いかと思います。


どうして中庸が効果があるのか分からないまま、

闇雲に良いものだと決めてしまい、

その上でお釈迦も失敗したと決めてしまい、

その上で、一般市民がお釈迦に勝てないとしてしまい、

その上で、全ての国の人が中庸に達していないと決めてしまい、

だからこそ戦争をすると決めてしまい、

戦争が起これば誰もが悩むとしてしまい、

それが故に誰もが納得しないと決めてしまうのは、

中庸でないと思えます。


これらは大人達のうちの誰かが個人的に吐いた主張ですから、

これらを活用して論理を構築しても、

そこで得られた結論が中庸にならないのです。


「え、何故そうなる?」

と思う人のほうが多いはずです。


私としては、

中庸よりも強い力はあると思っていますし、

お釈迦はお釈迦で満足に生きたと思っていますし、

一般市民の殆どはお釈迦に達していないと思っていますし、

私自身がお釈迦に負けるとは思っていませんし、

質問者さんが追剥になったら、教えて欲しいと思いますし、

一般市民が中庸を知らず、それで国同士の戦いになることは

あるだろうと思っていますし、

そうなったら嫌だなと思います。


お母さんが買い物に行くなら、

お手伝いをしてあげたら喜ぶんじゃないかと思いました。


もし質問者さんが、

「・・・とお母さんに言われたので。まずはお買い物を手伝いました」

と書いてくれたら、

誰もが納得したんじゃないでしょうか。

つまりそういう道があり、そういう可能性があるのですから、

そういう選択を誰もが選び実践できていたら、

誰もが納得する世界になると思いますよ。


以上、ご参考に成れば。

儒教の中庸と仏教の中道を調べてみました。

どちらも重要視していますから、同じモノを指している可能性はありますね。

仏教のある中道の説明をや背景にある紹介などを読んで見ますと、

「自分が他人に対して益をもたらせる精神状態があり、

 これを得るためには、

 何かに囚われて一つの方向を目指してはいけない」

と言うことらしいです。

例えば、「中庸を目指せば良い」としてこれを追い求めれば、

「何も考えずにそれだけに夢中」になりますから、

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