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組織が内向きになるとなぜ内紛がおこるようになるのですか?(例、連合赤軍、新撰組など)

A 回答 (5件)

組織が崩壊する原因ということですと、また違った内容になってきましょうが、ここでは、内向きになった組織で内紛が起こるようになる理由ということで、まず簡単に言ってしまいますと外に向いていた視線が有限の内部に向くことで、より細かいところが目につく(鼻につく)ようになるということでしょう。


他回答者様への補足ではございますが
>夫婦もひとつの組織
とみた場合にも「子はかすがい」ですとか「亭主元気で留守がいい」などと言われますように、真っ向から相対する状態になれば当然、何かと細かいところが目についてきます。目につく部分が多くなるということは、気に入らない、争いにつながってくる部分が増えてくるということで、これは或る程度どうしても自然な成り行きと言えるでしょう。
派閥等が、たくさん枝分かれしていくのも、細かい差異が目につく鼻につくからこそでしょう。
数の面で考えましても、大勢のなかの誰かよりは自分の間近にいる、たった一人の誰かのほうが断然、良くも悪くも存在感が増しますね。また
>内紛すなわち内部矛盾に目先が行かないように強制的に目を外に向けさせること

これは外部に対して戦わなければならない或いは高い緊張感を保たなければならないはずが、その対象を内部側に転換してしまうことで内部での争いや緊張が高まるということが起きてくるのを無理にでも防ぐため強制的措置をとるわけですから或る意味、内部においての「スケープゴート」的存在と同じような役割を担います。

御質問者様自ら仰っておられますように、そもそも、それぞれ個性が違う者どうしが何かしら共通の目的や趣旨のもとに集まった、しかし、その目的なり趣旨なりが意味の希薄なものになった或いは「脅かすものがいなくなった」りして、そのことを遂げる意志や遂げなければならないというモチベーションが低下した場合に、それまでそれほど気にならなかった細かい差異や利害の食い違いが俄然、気になりだすわけですね。
仰るとおり自分が居心地の良い環境を守るために、今度は内部での戦いが始まります。
このへん、住まいや衣食が満たされると今度は内面的精神的充実を求め始めるという心理パターンと共通したところがあるようにみえます。

そして究極の安定とは自分が頂点に座ることですから有限の内部においては殊更その頂点の椅子を目指した争いが繰り広げられることになります。
しかしそれでも頂点に座った瞬間から、今度は座り続けるための戦いが始まるのですね。
頂点に座るための争いにおいては、もちろん対戦相手、ライバルが少なければ少ないほど消耗が軽度でよいわけですし、少数の相手が退いて自分が頂点に座ったのちは、より少なくなった内部の人数は少数であるほどにコントロールし易いですから、組織体内部の腐敗、崩壊に繋がる要件として、頂点に位置した者の器量や動向が大きく作用してくるようです。
そして組織が脆弱になった隙を、今度は、警戒を怠っていた外部から狙われることにもなってきます。
淀んだ水は腐る、大量の水、流れる水は腐らないという喩えが組織体に対しても言われる所以です。

それらを避けるためには外部においての戦いの標的を設定し続けなければなりません。しかし人間、常に万全の安定を求めてやまないものですし、だからこその戦いでもあるわけですが、ところが戦いとは即ち不安定状態であるということと同時に安定すれば戦わない、しかし戦わないということは安定を求めないということ…ジレンマ状態になってしまいます。
ですからヒトは常に安定を飽くことなく求め続けながら、また戦うことをやめられないのでしょう。つまりは仰るとおり
>平和を保つためには常に緊張状態を作らなければならないという矛盾

ですね。自分の健康を保ち続ける努力と似たようなことかもしれません。

>人間にとって本当の安寧というものはあり得ないのでしょうか?

「本当の安寧」とは何か?ということも、なかなか難しいところではないかと思うのですが敢えて言ってしまえば、安寧を求めて<戦うべき戦い>を戦い続けることができていることに安寧する、ということになりましょうか。
この<戦うべき戦い>の見極めが難しく、且つ肝腎なところかと思います。

この回答への補足

ほとんど満足のいく(私の痒かったところに手が届く)ご回答をありがとうございます。

あとは、この内紛は本然的なものなのか、それとも人間が煩悩を持った故なのかということになります。

これについてはchokmah様は「イエスや釈迦など、悟りを得た者、内面の至福にたどり着いた者」ということで少し触れておられますが、「そうなれば内紛はおこらない」というご意見と拝察します。
これに比べnoname002様は「自分の健康を保ち続ける努力」として本然的に捉えられているような気がします。

本然的なもの、つまり人間の本性(本来持っている性質)であればこれは不可避となり、本然的なものでなければ「イエスや釈迦など、悟りを得た者、内面の至福にたどり着いた者」となれば回避できるということになります。

どちらなのでしょうか?

ともあれ、参院選の大敗により、自民党内部で内紛がおこりかけています。(すでにおこっているかも)
どちらでも良いのですが、国家と国民のことを考えて、より良い結果を出してほしいものです。

補足日時:2007/08/20 10:05
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たびたびすみません。


No.2,N.3です。

死後の世界がある特殊な能力を持つ人以外には見ることもできず、証明することもできないように、私がこれから述べることも誰も証明できないことです。
ただ、私の体験と考えをあらためて述べます。

私は人の原初の姿とは至福そのものであったと思います。
イエスも釈迦も「誰しもが私のようになれるのだよ、私は皆と同じだ」と言っていました。
それは謙遜ではなく真実を述べていたと思います。

私は昔、非常に苦しんだことがあります。
その苦しみについて一生懸命考えました。
その苦しみは思考の次元を超え、神秘的な体験をしました。
それは言葉で語れる感覚ではありません。
しかし、そのとき人類という意識体の目的を感じとったと思います。
これは誰も証明できるものでなく、私の作り話ととられてもまったく仕方の無いことです。
それでいいと思います。
立派だといわれる誰か他人の言葉を妄信的に信じそれを頼って生きるよりも、自分の目で見た世界を自分の足でこの地上を踏みしめ懸命に生きることこそが一番すばらしいと思うからです。
以下は、その断片です。

人類は初期の頃、至福そのものの存在であったと思います。
何らかの理由で本当の自己(至福である自己)を忘れたため、
本当の自分、忘れてしまった自分、半身を切ないくらい欲したいという欲望に駆られた。
このようにして人類は苦悩の道を歩むこととなった。
しかし、結果としてその苦悩は、己自身を見つけようとし続ける成長の旅となった。                         
その何らかの理由こそ、人類という意識体の計画を達成するためのものであったと思います。      

自分で文章で書いていて、なんだかエデンを追放されたアダムとイヴの話を思い出しました。

だから、私は人は原初ではイエスや釈迦と変わらない至福の存在であったと思います。
遠い未来に人が至福の状態を得られるか、一生得られないままか、それはわかりませんが、人類闘争の歴史も、意味あることなのだと思います。

この回答への補足

組織の話から人間の本質の話になっていったような気がしますが、これは組織は所詮、人間ひとりひとりの集まりに過ぎないからなのでしょう。

chokmah様が言われるように人類歴史初期の頃、人類は至福そのものの存在であったとするなら、世界に様々な戦争や闘争があったとしてもやがては終焉を迎えるときが来ることを信じたいと思います。

ありがとうございました。

補足日時:2007/08/21 16:49
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No.2です



イエスや釈迦など、悟りを得た者、内面の至福にたどり着いた者ならば、伴侶を得たいという気持ちさえ抱かないでしょう。

なんだろう、心の欠損というのか、寂しさというか、自分の一部を失ってしまった渇き、というか、、、そういう、人が人たる故、完全でないからこそ誰かを何かを欲する。
でも、自分ではない他人であるからこそ、やはり理解できない部分がある。
・・・いや、本当は相手を理解できないのではなく、自分を理解してほしい。
本当に守りたいものは他ならぬ自分自身。
ささいな喧嘩も、相手に対する疑いも、、、そもそも人の攻撃性とは自己防衛以外の何ものでもない。

しかし、自己を見つめる者なら気づくはずです。
自分が外の世界に牙をむいてまで、守ろうとしているもの。
それは本当の自分ではなく、虚像、エゴにすぎないんです。

一方で、ペットを溺愛する昨今は、どういうことなのかというと、
おそらくは、ペットは決して裏切ることはない、いえ、裏切ることはできない、、そういう安心(慢心か?)が飼い主たる人間に無意識にあるのでしょう。
だから疑うことも、ましてや喧嘩になることなどありえない。
攻撃性という自己防衛が働かない。


内輪だけになったとき、いさかいが起きるのは、結局人が人であるという所以でしょうか。

この回答への補足

結局は人間とは何かということに行き着きそうですが。
そこでchokmah様の回答などを参考に自分なりに考えてみました。

人はそれぞれ個性が違う、性格も人生観も特長もみんな違う。そして利害も違う。それでも似た考え方の人もいれば、利害がほとんど一致する人がいる。そういうひとが集まって派閥を作ったり党を作ったりする。そして自分が居心地の良い環境を作ろうとする。その良い環境を破壊しようとするものがあれば一致して戦う。そして結束を強めるために規律を作り、目標を掲げる。
しかし、脅かすものがいなくなった時、こんどは個人個人の違いが浮き彫りになる。微妙に利害も違う。そうして、今度は自分を守るために内紛が生じる。
であるので、組織はなるべく個人個人の違いや利害に目を向けないように、仮想敵を作り、目標を設定する。

こういうように考えてくると、平和を保つためには常に緊張状態を作らなければならないという矛盾が生じる。

人間にとって本当の安寧というものはあり得ないのでしょうか?

補足日時:2007/08/17 08:33
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集団は1つの目的、思想のよって組織をつくりあげます。


その組織をなりたたせる意識が強ければ強いほど当然結束は堅固なものになります。

どうやって、組織の意識がさらに強くなるきっかけは何なのか。
その1つは外敵が存在することです。
外敵が存在することで、身内の意識を高めターゲットに向かうエネルギーとする。
いじめにしてもターゲットを決めることでいじめる側の人間は仲間意識が生まれます。
戦争でも戦略として用いることがあります。
真珠湾攻撃がわかりやすい例かもしれません。

戦争をしないという公約で当選したルーズベルト大統領。だから戦争を始めるとしたら、それなりの理由が必要。自衛戦争ならば公約に反しはしない。
奇襲とされる真珠湾攻撃(日本の外務省の不手際により後にこうなってしまいました)ですが、本当はアメリカは攻撃されることをしっていました。
そして敢えて攻撃させたのです。
真珠湾攻撃は軍事に詳しくない人間が見れば日本にとって成功。アメリカにとっては大打撃です。
(軍事に詳しい者であれば、いつも停泊しているはずの空母がいなかったこと、そのため空母を撃沈できなかったことは大きな失敗であることは簡単にわかります。)
結果「リメンバー・パールハーバー」という言葉にあるように米国民の民意は一気に高まり、アメリカは予定通り戦争へと突入していきました。
日本という敵をつくることによって国家の意識を高めたのです。


組織を解体に向かわせるのは、統一意識を崩壊させることです。

組織の意識が内向きになったとき、自らの存在理由について考え始めます。
誠実であればあるほど熱くなる。
しかし、そもそも本来、完全に正義であるものなど存在しえない。
正義とは人が勝手に名づけた価値判断の産物にすぎないのですから。
だから、内部で紛争が起きはじめる。
こうやって、キリスト教しても13派にも及ぶ派閥ができあがったのでしょう。

数が力のこの世界で、数を力としたのは惑う人々の心の集合体であり、、しかし、真理とは一人一人の心の奥底に住まうものだから、集合しても再び離散する。

私は以上のように考えています。

この回答への補足

夫婦もひとつの組織と考えれば、働いているうち、つまり外に向かっている時にはさほど目につかないものも、定年で夫婦がずーっと一緒にいるようになるといろいろと軋轢が起こるようです(自分はまだまだ若いので、テレビドラマとか世間話で見聞したところによればですが)。

これなども含めて、心理学的にもう少し深いところというか内面的なところを知りたいのです。

ANo.1様を含めてとても参考になるご回答なのですが、まだかゆいところが残っているので、そのあたり(心理面、内面的なこと)をもう少し詳しく教えていただけないでしょうか?

補足日時:2007/08/16 12:26
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どんな組織にも存在している目的というものがあります。

その目的は外へ向いているはずです。ところが何かの理由で外に対する目標がはっきりしなくなることがあります。普通はこのようになると組織は解体するはずですがいわゆる官僚的な組織(民間でもかまいませんが)はしばらく余命を保ちます。企業などでは伝統とか寡占的な安定さに恵まれても同じことが起きます。内紛というのはそのひとつで企業の良心を失ったようなことがよく行われるようになります。生物では環境を失って絶滅するまでの悪あがきに相当する現象ではないでしょうか。

この回答への補足

内紛すなわち内部矛盾に目先が行かないように強制的に目を外に向けさせることがあります。(例、秀吉の朝鮮出兵、中国の反日運動)これなども含めてもう少し詳しくお願いできないでしょうか?

補足日時:2007/08/15 18:42
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