ネットが遅くてイライラしてない!?

江戸時代、伊達藩は表高は62万石ですが実高は約100万石、
長州藩は表高36万石に対して実高75万石ともいわれています。
石高は年々増加傾向になるのは当然なので、
表高もそれに追随して変化すべきではないですか?
そうしないと年貢の取立てや、幕府の支配管理体制にも支障をきたすのではとおもいます。

各藩は自藩の石高を秘密にしていたのでしょうか?
それでなんのメリットがありましたか?
また幕府が積極的に実高を把握しようとしなかったのは
現在の社保庁なみに怠慢だったからでしょうか?

よろしくお願いします。
よろしくお願いします。

このQ&Aに関連する最新のQ&A

A 回答 (5件)

表高とは


それぞれの大名家の「格式」を表すものです。
なので、「格式」を上げたい大名家は、幕府に「高直し」を申請しています。
有名なところでは、上州沼田藩、真田家。上田の本家に対して、分家であったのですが、本家より上位に立つために、表高3万石、実高6万石を14万4千石にして申請しています。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9C%9F%E7%94%B0% …
表高が変わると、城を持つことができます。この増税により、農民一揆が起こり、改易されました。

津軽家も同様なことをしております
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%98%E5%89%8D% …
4万7千石から10万石へ。
この理由は、南部家との確執です。戦国末のどさくさに南部家から独立した関係があり、南部家からは家来視されました。そこで、無理矢理南部家と同じ10万石にしたわけです。


表高が格式を表す例として、秋田の佐竹家があげられます。
水戸から秋田へ転封となったのですが、正式に表高を指定されませんでした。羽後の○○郡を与えるとされただけで、○○万石領有とされませんでした、いじめです。なので、佐竹家は江戸初期に於いて、自分の武家社会における位置づけがわからず苦労したとのこと。
    • good
    • 2

徳川幕府では太閤見地以降全国規模の本格的検地は行っていません。


この為その後の新田開発、農業技術の進歩、肥料の改良などにより収穫の増加や耕筰品種の多様化による収入の変化については到底把握が不能の状態でした。

これらの把握を強行しようとすれば全国規模の反乱が起こる可能性があります。
幕府にはそれを防止する実力はありません。
また実高と表高との差は各藩の努力や事情によりまちまちでそれを調査する基準も設定困難です。
しかも幕府の収入とは無関係でむしろ各藩の恨むを買うだけです。

幕府の収入も年貢から次第に金納制度に移行しており、その難しさは良く判っていました。
従って公然の秘密として放置せざるを得なかったのです。
怠慢といえば言えるでしょうがその必要性を認めなかっただけです。
    • good
    • 2

・それでなんのメリットがありましたか?


  参勤交代は諸大名の大きな負担になっていましたが、石高によっても供の人数がある程度決められていました。経費を節減するメリットはあったと思われます。
  
・幕府が積極的に実高を把握しようとしなかったのは現在の社保庁なみに怠慢だったからでしょうか?
 石高を把握するには検地(それも幕府が直接監督して行なうこと)が必要ですが、強力な権力を有した豊臣秀吉が実施命令を行なった太閤検地でさえ大名の自己申告を受け入れたと言われる地域が存在するくらい、実施は困難なことです。
 
 また、実高が判明したからと言って、そのことを理由とした領地の増減は行なえなかったでしょう。参勤交代費用では表高に係る費用だけでも諸藩は経済的に苦しんでいる(江戸時代中期頃から各藩は特産品の生産奨励等様々な経済政策をとったりしていますが、動機はまさにこのことです)のに、それ以上苦しめてどんなメリットがあったか疑問です。それこそ、史実より早い 諸藩の反乱=幕府崩壊 を招いた可能性が高いです。 

 ちなみに、江戸時代は各地で農民一揆がおきていますが、その大半は年貢に関するトラブルが原因です。検地は大名の他に農民の利益にも直接関わります。
    • good
    • 1

> また幕府が積極的に実高を把握しようとしなかったのは


> 現在の社保庁なみに怠慢だったからでしょうか?

遠山の金さんのお仕事っていまで言う何かご存知ですか?
韮山代官(静岡県東にある代官所)の徴税範囲ってご存知ですか?

遠山の金さんが務める奉行は、現在でいう都知事兼警視総監兼消防本部長兼東京高裁判事長兼最高裁判事です。幕府の役人は異様に忙しいのです。ちなみに北町&南町奉行で無事退官出来たのは一握りで半分以上は過労死しました。

韮山代官は静岡・神奈川・東京・埼玉・群馬・栃木・茨城・千葉の直轄地税務署になります。数人でこれだけの土地から年貢を集めねばなりません。

幕府直轄地に住む百姓は天国だったそうで、田舎に行けばいくほど年貢の取り立ては行われませんでした。慢性的な人材不足でなんともならなかったそうです。有名なのは南庄内で、庄内藩加増により酒井家に譲渡された時、年貢が取られるからと一揆が起きています。
    • good
    • 3

幕府は各藩からの収益で成立するのではないので、特に各藩の石高を正確に把握することに意味は無かったからではないでしょうか。



あえて実高で管理すると、影響が出るのは、参勤交代の規模を大きくしなければならない。江戸での普請などの負担金が大きくなるなどでしょうが、これでは単に各藩の負担を大きくするだけで、幕府への不満を高める作用しかありません。

同様なことは幕府直轄地にも当てはまりますから、幕府自体の収入も増えていたはずです。

徳川家はあくまで武家の棟梁ではあっても、正確な意味での主君ではないからでしょうね。
    • good
    • 1

このQ&Aに関連する人気のQ&A

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!

このQ&Aを見た人が検索しているワード

このQ&Aと関連する良く見られている質問

Q徳川家は八百万石なのに、どうして江戸の面積は狭いのでしょうか。

こんにちは。

私の手元に、「江戸(嘉永)時代大名紋章及び城郭図」という地図があり、それを見ていて疑問に思ったのですが・・・。
徳川家は八百万石という力を持っていたにも拘わらず、江戸と呼ばれる範囲はあまりにも小さいと気が付きました。
他の裕福な藩は(加賀など)広々とした領土なのに、どうして徳川家の領土(城下町?)はこんなに狭いのでしょうか。
江戸以外にも、直の領土があったのでしょうか。
それとも、広い城下町を持つ必要がなかったのでしょうか。

教えていただけたら、ありがたいです。

Aベストアンサー

徳川家は八百万石なのに、どうして江戸の面積は狭いのでしょうか。

日本全国の総石高が3000万石といわれている中、幕府直轄領の石高が400万石(13%)~450万石(15%)、旗本領が約400万石、合わせて800万石(27%)を上回り、全国の30%近くを占めます。面積について乱暴な言い方をすれば、同じ様な比率で直轄領及び旗本領を持っていたものと考えられます。ですから、全国の1/4近くの支配地を持っていたことになります(直轄領だけでいえば1/7程度)。
直轄領は、江戸時代には御料、御領、御料所などと呼ばれ、明治以降は天領と呼ばれますが、天領と呼ぶのが一般的です。全国に散在し、直轄地がなかったのは蝦夷地くらいのものでした。ただ、蝦夷地も、寛政11年1799に東蝦夷地を直轄領とし、文化4年1807には西蝦夷地も直轄領にします。この処置は、文政4年1821に東西共に松前氏に返却しています。
大きな直轄領としては、九州の日田地方、石見東部、愛媛東部、備中西部、播磨西部、但馬西部、大坂・堺・京都周辺、近江南部、大和南部、飛騨一国、中期以降の甲斐一国、三河・遠江・駿河・伊豆の過半、武蔵・安房・下総・上総の過半、常陸南部、会津西部、山形北部、秋田南部など全国に及んでいます。
一般に10万石以上の地域を支配する場合は郡代を、それ以下は代官を派遣して支配をしています。また、一部では譜代大名などに預けている場合もあります。
この他に全国の主要都市を、江戸・京都・大坂以外に、伊勢神宮門前町の山田、貿易港長崎、金山の佐渡、旧貿易港堺、他に奈良、伏見を直轄地として、遠国奉行を派遣しています(幕末には神奈川、下田、兵庫、新潟、函館などの開港地も直轄領化し、奉行を派遣)。
佐渡、伊豆、生野、大森などの主要鉱山も直轄地ですから、全国展開していました。

以上、参考までに。

徳川家は八百万石なのに、どうして江戸の面積は狭いのでしょうか。

日本全国の総石高が3000万石といわれている中、幕府直轄領の石高が400万石(13%)~450万石(15%)、旗本領が約400万石、合わせて800万石(27%)を上回り、全国の30%近くを占めます。面積について乱暴な言い方をすれば、同じ様な比率で直轄領及び旗本領を持っていたものと考えられます。ですから、全国の1/4近くの支配地を持っていたことになります(直轄領だけでいえば1/7程度)。
直轄領は、江戸時代に...続きを読む

Q江戸時代、藩がどう分布していたかがわかりやすい日本地図を探しています。

たとえば、
今の山口県のあたりには長州藩があり、藩主は毛利家
ということが見てわかりやすい日本地図を探しています。
そのような地図がおいてあるサイトをご存知の方はいらっしゃいますか?

Aベストアンサー

江戸時代初期は大名の取り潰しが多かったので、いつの時代が必要なのか難しいですが、一応300藩と言うことで参考URLをご覧ください。
地方ごとに分かれています。

参考URL:http://www.asahi-net.or.jp/~me4k-skri/han/hantop.html

Q戦国大名の最大版図

タイトル通りなのですが、戦国大名の最大版図の石高がどれくらいになったのかが大変興味があります。

関ヶ原後の石高はかなり有名なのですが、その前に最大版図を迎えた武将も多いと思います。

人数が多いですが下に書いてある武将の石高を教えて頂けると幸いです。


・伊達政宗
・北条氏直
・上杉謙信
・上杉景勝
・武田信玄
・徳川家康
・豊臣秀吉
・織田信長
・柴田勝家
・明智光秀
・長宗我部元親
・毛利元就
・毛利輝元
・島津義久


人数が多くて申し訳ありません。

よろしくお願い致します。

Aベストアンサー

No1です
まだ出ていないところを書かせていただきますね。

柴田勝家(清洲会議後)
基本的には越前一国の領主でしかありませんから約50万石だろうと思います。清洲会議で北近江も柴田側の領地になっています。
ここで問題なのが、
佐々成政(越中)佐久間盛政(加賀)前田利家(能登)
この人達は信長亡き後、勝家の家臣と言い切れないところなんだと思います。単に「味方陣営」なのでしょう。その「味方陣営」まで含めるならば180万石くらいあります。

明智光秀
近江国滋賀郡と丹波一国をあわせると30万石を越える程度はあったようです。

上杉謙信
越後の半分程度が直接的に支配できているところなんだとは思います。
揚北衆と呼ばれる(本庄、色部、新発田)勢力は北越後の広大な範囲を領地にしていましたが、家臣という感じではなく「協力者」というイメージが近いです。勝手に外交したり人事権も及ばない状態でしたから。
そういう独立勢力を束ねて越後、北関東、越中、能登まで支配している感じです。最大版図は私もどこまで含めて良いのかさっぱりわかりません。
味方と言い切れない独立勢力が大勢いるということです。

信長、秀吉、家康のそれぞれの時代によって最大版図のとらえ方も様々に違っているようには思いますね。

No1です
まだ出ていないところを書かせていただきますね。

柴田勝家(清洲会議後)
基本的には越前一国の領主でしかありませんから約50万石だろうと思います。清洲会議で北近江も柴田側の領地になっています。
ここで問題なのが、
佐々成政(越中)佐久間盛政(加賀)前田利家(能登)
この人達は信長亡き後、勝家の家臣と言い切れないところなんだと思います。単に「味方陣営」なのでしょう。その「味方陣営」まで含めるならば180万石くらいあります。

明智光秀
近江国滋賀郡と丹波一国をあわせ...続きを読む

Q戦国大名の国力(石高)について

江戸時代の大名については、例えば加賀百万石というふうに石高(表高・実高)によって国力の目安がわかりますよね。ですが、これが太閤検地以前の戦国大名のとなると、全然わかりません。
戦国大名について、あえてその国力を石高で示した資料なりWebサイトをご存知の方がおりましたら、どうかお教え下さい。m(_ _)m

Aベストアンサー

太閤検地以前に、一定の基準で検地が行われてその記録が現代に残っているものはありません。ですので、「太閤検地以前については正確なことは資料がなく不明」と考えるのが妥当です。今後も、正確なことを知ることは不可能でしょう。

ですので、戦国大名の国力を推定しようとすれば、太閤検地のデータを使って判断するのが一番実情に近いであろうことになります。他の方法がない以上、仕方ありません。ただし、太閤検地であっても毛利領や徳川領では、太閤検地で採用された統一基準ではなく、それぞれの大名家のやり方で検地が行われ、そのデータがそのまま豊臣政権に受容されていることに気をつけてください。よって、実際より少なく申告されているはずです。

「戦国大名について、あえてその国力を石高で示した資料なりWebサイト」
とすれば、太閤検地のデータが掲載されている
http://homepage3.nifty.com/ksatake/fkunu1.html
か、その元になった本を見るしかありません。

なお、戦国大名の財力を見る場合に、

「越後の上杉家は、当時の主力繊維である越後青苧の利益、佐渡を抑えたことによる産金の利益を得ていた。その反面、越後でまともに米が取れる地域は今よりかなり狭く、春日山城がある上越地域が中心で、今の新潟市のあたりは氾濫原でしかなかった」

「甲斐と駿河は当時の日本では金がたくさん出る所であり、これらを領した武田家と今川家はその利益を得ていた。北条家が箱根を越えてしょっちゅう駿河に兵を出していたこと、甲斐の南部の金山地帯を領する武田一族の穴山氏の勢力が大きかったのは、産金の影響があると思われる」

「商業が盛んな琵琶湖周辺と淀川流域、京と堺を手中に収めた織田信長は、他の大名とは段違いの経済力を手に入れたはず。尾張の小大名であった時から、商業の盛んな津島を勢力下に置いていた」

「毛利家は、石見銀山を支配下に置いていた。この存在はかなり大きかったらしく、『毛利は日本一の銀持ち』と外人が評した言葉がある」

「九州等で行われた南蛮貿易の輸出品は、主に奴隷が用いられたらしい。人狩りで集めた男女(特に女)の奴隷を輸出して南蛮の高価な品物を輸入すれば、それだけで商売になる」

など、戦国大名の資金源がコメ(農作物)だけではなかったことはさまざまな事実があります。

また、
「研の『図説・戦国地図帳 歴史群像シリーズ』に確か戦国大名の石高がついていました。第1位は陸奥国167万石 第2位武蔵国67万石 第3位尾張国 57万石などでした」
などと言うのは、上記の雑多なデータを寄せ集めただけの可能性が高いですから、眉にツバをつけて読むことです。「江戸時代より前の日本の経済状態は深い霧の中」、これが事実です。

太閤検地以前に、一定の基準で検地が行われてその記録が現代に残っているものはありません。ですので、「太閤検地以前については正確なことは資料がなく不明」と考えるのが妥当です。今後も、正確なことを知ることは不可能でしょう。

ですので、戦国大名の国力を推定しようとすれば、太閤検地のデータを使って判断するのが一番実情に近いであろうことになります。他の方法がない以上、仕方ありません。ただし、太閤検地であっても毛利領や徳川領では、太閤検地で採用された統一基準ではなく、それぞれの大名家...続きを読む

Q石高について

石高が具体的に想像できません。時代ごとで石盛がことなることは理解できるのですが、例えば加賀百万石や慶長年間の30万石とは、玄米にして何表にあたるのか、米にしたら何表になるのか、金額にしてどれくらいなのか、などの具体的なものを教えていただけませんか。時代ごと、地方ごとでその意味は異なるとは思うのですが、概略だけでも掴みたいと思います。

Aベストアンサー

 
江戸時代と現代では、ものの価値がまったく違うのだということを理解しなければなりません。現代は物品・商品が驚くほど豊富で、食品にしても種類などは無数にあり、その料理法も多数あります。

江戸時代は、初期の頃から後期へと、段段と商品・物品の種類は増え、食品やその調理形態も,時代と共に豊富になって行きましたが、とても現代の比ではありません。

間接的に呼んだ話では、例えば、うなぎの蒲焼などは江戸時代にはなかったと考えてよいのです。江戸後期には出てきますが、中期に、丸焼きのうなぎを食べていたというのが実情で、しかも、精力がつくというので、人足などの肉体労働従事者が食べていたもので、一般的ではありません。

食品としては、海から取れるものは、各種の魚、貝、たこやいか、海草などで、池や川や田などでは、魚や貝が取れました。これらを調理して料理にしたのです。また陸では、米、麦、豆、粟・稗などの雑穀、大根、芋などを含む各種野菜、そして兎やかもの肉などがあり、例外的に、猪の肉などもありました。

しかし副食はそんなに多くなく、庶民だと、米に雑穀、豆から作った味噌や豆腐、それに野菜、魚、貝などが食物でした。やはり、米と雑穀、麦が多く、それに味噌、野菜を少し加えて、これで大体食事です。宮沢賢治の「雨にも負けず」にあるようなのが、江戸時代の食事です。

生活費は大体、食べるのに使ったのだと考えるのがよいでしょう。衣類や調度、その他、多少の道具も必要だったでしょうが、やはり食べることが主で、食べられることが、生活の条件だということになります。

だから、食べるための米の量で計算するのが、江戸時代の価値観では合理性があるのです。

一日に米五合というのは、そんなに食べないと思えますが、昔は、副食がないので結構食べたのです。米だけ食べたのでないので、雑穀も米に勘定して、副食もこれに入れます。すると、大まかに、1石は、200日分の米だと出てきます。

1石=10斗=100升=1000合 でした。それゆえ、1石半で、一人の食料一年はまかなえたことになります。5人家族で7石か8石です。もう少し多く必要だとして、庶民は、一年間に一家で10石あればよかったということになります。

最下級の武士で、禄高30石とかがありますが、30石でも、食べるだけなら、十分余裕があったということになります。

米10石が庶民の年間の収入だったと考えると、現代の庶民の年間収入を仮に300万円とすると、1石は30万円になります。米1升は、1.5kgほどで、1石は150kgだとすると、現代の安い米だと、1kgは500円かそれ以下です。1石は7万5千円になり、10石は75万円になって、先の300万円と合いませんが、江戸時代の方が米の価値は高かったのだと云えます。

中級武士は、禄高100石ぐらいありました。これは3000万円になり、非常に高給のように思えます。しかし、江戸時代は、人件費が無茶苦茶に安かったという事情があります。商家の手代や丁稚が一年、働きに働いても、大した給金はなかったのです。食べさせてもらうことが、給金の主たる部分だったとも云えます。

また武士は、人口の一割にも満たない、エリート階層だったのだということも重要です。中級武士だと、少なくとも4,5人の下男・下女などを専属で使っていたのであり、現代の日本で、4,5人の成人を丸抱えで雇うとなると、年間1000万円の収入では無理でしょう。一人300万円出すとしても、1200万円とか1500万円必要になり、これを考えると、100石の中級武士が年収3000万円というのは、それほど多い金額ではなくなります。

1000石の旗本というと、殿様であって、裕福ということになりますが、これは年収3億円ということになります。

1万石の大名は、石高30億円です。しかし、1万石の大名になると、相応の数の武士の家来を持たねばならず、小者や使用人など、抱える家来や使用人は100人は軽く超えたはずです(また収入は、以下の前田家と同様、15億円と半分になります)。

加賀100万石の前田家は、石高3000億円ということになりますが、これは大土地所有者でもあるのであり、日本の面積の50分1ぐらいを所有する大金持ちだとも云えます。(また、これは、加賀の総生産高で、課税がその半分とすると、1500億円が収入です。領地を持つ大名などは、領地からの税収が収入であったのです)。

徳川の直轄領を仮に1000万石とすると、徳川宗家は年収1.5兆円だとなりますが、これはむしろ、少ないのではないかという気がします。

1石30万円というのは、江戸初期の米の価値で、米の価値は段段落ちてきます。江戸末期には、1石10万円に、もしなっていたとすると、幕府収入は3750億円になります。

これでも多いように見えますが、幕府が何人の人間を養っていたのか、行政手順など、どれぐらい費用をかけていたか、こういうことを考えると、3750億円などでは、とても足りないということになります。

幕府1000万石1.5兆円は、純利益ではなく、粗利益で、ここから人件費その他諸費用を出さねばならないのです。それは大名家も同様で、武士の家も似たようなことになります。

なお、1石は2.5俵です。40石が100俵です。また玄米と白米は、昔は食用の米はほとんど精米していません。だから、そんなに差はないことになります。清酒用の米はかなり精米したようですが、分量的には、それほどではないでしょう(ただ、糠が出る程度には精米したはずです。糠も貴重な食料原料だったのです)。

(農家の次男・三男などが商家に丁稚などで働きに出ると、食事に、たくあん一切れ二切れとか、梅干が出たそうですが、これが何とも美味しく、魅力的であったという話があります)。

なお、参考2では、1石=5万円としていますが、これは話がおかしいのです。現代の米の価格をそのまま戦国時代や江戸時代に当てはめるというのが無理があるのです。一日5合が、一人の庶民の生活費で、1石=5万円だと、1合=50円で、一日5合は、一日250円となりますが、そんなはずはないのです。

1日250円なら、1年で9万円ですが、5人家族で45万円とは、現代日本では生活できません。米の価値が、江戸時代では、現代よりも遥かに高かったということを失念しているのです。

>参考1:石高とは
>http://homepage2.nifty.com/shinkei/yamashiro/kokudaka.htm
 
>参考2:関ヶ原
>http://www.ryusaku-kuroya.net/sekigahara.htm
 
>参考3:上田藩の支配組織
>http://www.odc.ueda.nagano.jp/hansei.htm
 

参考URL:http://homepage2.nifty.com/shinkei/yamashiro/kokudaka.htm,http://www.odc.ueda.nagano.jp/hansei.htm

 
江戸時代と現代では、ものの価値がまったく違うのだということを理解しなければなりません。現代は物品・商品が驚くほど豊富で、食品にしても種類などは無数にあり、その料理法も多数あります。

江戸時代は、初期の頃から後期へと、段段と商品・物品の種類は増え、食品やその調理形態も,時代と共に豊富になって行きましたが、とても現代の比ではありません。

間接的に呼んだ話では、例えば、うなぎの蒲焼などは江戸時代にはなかったと考えてよいのです。江戸後期には出てきますが、中期に、丸焼きのう...続きを読む

Q上屋敷、中屋敷、下屋敷

それぞれどんな位置づけなのでしょうか。

よろしくお願い申し上げます。

Aベストアンサー

江戸時代参勤交代で江戸にやってきた各藩が逗留する為、それぞれ江戸屋敷の敷地を幕府から与えられ、造営したのが江戸屋敷上屋敷です。
敷地は譜代、外様の区別、石高に応じて場所、広さなどが区別されました。
上屋敷はいわば本宅にあたるもので、公式な行事や登城の場合の主発点として使用されます。

徳川御三家、譜代外様の大藩などは重要度や家臣も多いので上屋敷だけで収容するのが難しいなど理由が認められた場合、別宅の造営を認められました。
それが中屋敷、下屋敷のはじまりです。

下屋敷は別荘の役目にあたり、藩主の休息所や側室の住居、など内々の用途にあてられる事が多くいわば隠れた屋敷に相当します。 このため藩主の好みで庭園など上屋敷以上に凝った工事もあったようです。
詰める家臣も下級のものが当てられますが、上級の家臣は都度上屋敷から出勤する形が多かったようです。

中屋敷はそれを持てるのは限られていて江戸に常駐するなど幕府要職につくものに許されていました。
それぞれ用務が多いなど必要があったからです。
事務所のようなものと考えれられます。
側室の住居などが置かれる事もあったようです。

江戸時代参勤交代で江戸にやってきた各藩が逗留する為、それぞれ江戸屋敷の敷地を幕府から与えられ、造営したのが江戸屋敷上屋敷です。
敷地は譜代、外様の区別、石高に応じて場所、広さなどが区別されました。
上屋敷はいわば本宅にあたるもので、公式な行事や登城の場合の主発点として使用されます。

徳川御三家、譜代外様の大藩などは重要度や家臣も多いので上屋敷だけで収容するのが難しいなど理由が認められた場合、別宅の造営を認められました。
それが中屋敷、下屋敷のはじまりです。

下屋敷は別...続きを読む

Q鎌倉幕府、室町幕府の直轄領

江戸幕府の直轄領(天領)は400万石くらいあって、いかなる雄藩もはるかに上回るものでした。
それでは鎌倉幕府や室町幕府の直轄領はどのくらいあって、それは有力な御家人や守護大名
と比べてどれだけの規模だったのでしょうか?
どの範囲までを直轄領とみなすかにもよりますし、江戸時代と鎌倉時代や室町時代では土地の制度も
政治制度も違うから、一概に比較は難しいかもしれませんが。

Aベストアンサー

鎌倉 室町 江戸
三つの幕府ともでき方が違うので、一概には言えませんが。

鎌倉幕府では、関東御料が将軍直轄領になりますがこれの中核になったのが、平家没官領500余所になります。
500というのがどんな感じかというと
東大寺の荘園数が80
大覚寺統の基盤になった八条院領が152
持明院統の基盤となった長講堂領が180
これを見ると、ああ平家はすごかったんだな、頼朝もねとなりますが、関東御料の各荘園も御家人に分配されたので、直轄なのかというとあやふや。特に摂家将軍や宮将軍になると将軍直轄領はなかったようです。
直轄領に裏付けられた直轄軍がありませんでしたから。

室町将軍家は、直轄軍としては奉公衆がおり、最大で一万程度と言われています。逆算すると江戸時代の換算では、35万石くらいになります。
室町期の人口が1000万≒1000万石(全国)だったはずなので、江戸期の3000万人≒3000万石 に換算すると江戸時代における100万石くらいではないでしょうか。

結構、鎌倉将軍も室町将軍も、直轄軍を持っていません。
結果として鎌倉将軍も、室町将軍も江戸期の将軍よりも専制的でなかった、鎌倉期も室町期も内乱だらけですが、江戸期は内乱がほぼありませんでした。
逆の見方をすると、鎌倉将軍は主敵である平家を滅ぼして、建前上は、武士の統領(=つまり、みんな部下)であり、室町将軍も主敵である南朝を滅ぼして、建前上はすべての守護大名の上司でありました。比較の仕様ありません。立ち位置が違うので。
ところが、江戸将軍は関ヶ原の後も江戸=大坂二重公儀制を保ち、豊臣家を滅ぼしても、完全には仮想敵を滅ぼしきっていません。全部が部下になりきらなかったから、徳川家直轄領が残ったのかもしれません。
最後の二重公儀制にかんしては、戦争の日本史 17 (17) 笠谷 和比古よりです。

鎌倉 室町 江戸
三つの幕府ともでき方が違うので、一概には言えませんが。

鎌倉幕府では、関東御料が将軍直轄領になりますがこれの中核になったのが、平家没官領500余所になります。
500というのがどんな感じかというと
東大寺の荘園数が80
大覚寺統の基盤になった八条院領が152
持明院統の基盤となった長講堂領が180
これを見ると、ああ平家はすごかったんだな、頼朝もねとなりますが、関東御料の各荘園も御家人に分配されたので、直轄なのかというとあやふや。特に摂家将軍や宮将軍になると将軍直轄...続きを読む

Q大名の家臣数

大名家の家臣数を知りたいので教えて下さい。
家々によって違うと思いますが、一万石・五万石・十万石・三十万石クラスの大名の大まかな家臣数・陪臣数を知りたいです。宜しくお願い致します。

Aベストアンサー

大名家の家臣数は時代によりかなり異なります。
戦国期、江戸初期、末期で実態が変わっています。
戦国末期で軍制が定まってきたときは大体一万石につき200名以上の人数、に武器、乗馬、旗などの数が決められていました。
しかし実態は戦闘時、戦闘員の数がものをいうので軍制以上の人数を動員するのが常でしたし陣場借りといってアルバイトのような人員も抱え込みふくらんでいました。

江戸初期にはこの名残で大体一万石につき200名位に落ち着きましたがそれ以上の家臣をかかえる藩もありました。
米沢藩上杉家は謙信以来の家風があり大幅な減封を受けたのですが家臣団のリストラはせず、一律減封で対処したので有名です。
この為米沢藩士の窮乏はひどく、藩財政の建て直しを図った上杉鷹山の事績は有名で、内職が特産になった位です。

太平が続いた江戸中期では経済の発達、実収入の変動も影響しリストラ、給与の削減(借り上げ)などが常態となり軍制は形ばかりで多くは渡り中間など臨時の人数で揃えることが多くなり馬を備える事もままなりませんでした。
従って実数は半分以下位に下がっていたでしょう。
幕末長州攻めなどに動員された時武器鎧も質にいれていたので請け出すのに借金して間に合わせたといいます。
勿論内実の裕福な藩や尚武の念の厚い藩などはこの限りではありません。
それぞれの藩の古文書などに頼るしかないと思います。

大名家の家臣数は時代によりかなり異なります。
戦国期、江戸初期、末期で実態が変わっています。
戦国末期で軍制が定まってきたときは大体一万石につき200名以上の人数、に武器、乗馬、旗などの数が決められていました。
しかし実態は戦闘時、戦闘員の数がものをいうので軍制以上の人数を動員するのが常でしたし陣場借りといってアルバイトのような人員も抱え込みふくらんでいました。

江戸初期にはこの名残で大体一万石につき200名位に落ち着きましたがそれ以上の家臣をかかえる藩もありました。
...続きを読む

Q江戸時代、百姓に優しかった藩、厳しかった藩は?

天領は年貢の取り立てなどが厳しくなかったので百姓は助かったという話を聞いたことがあります。
他に百姓が生活しやすかった藩はどうこでしょうか?
逆にここに生まれたら不幸というような厳しい藩がありましたか。
よろしくお願いします。

Aベストアンサー

>逆にここに生まれたら不幸というような厳しい藩
 南部藩は、江戸時代に138回の一揆が発生したそうです。(次点の久保田藩(秋田藩)は87回)

 原因は
  * 水稲北限地域外で無理に水稲生産を強制したため、連年凶作に見舞われ、代換品による食事を奨励したが、代換品すらも備蓄が無かったこと。
  * 寛政5年(1793年)の松前(蝦夷地)出兵が原因の財政負担増。
  * 目安箱の設置が、罪人を糾明する証拠集めのために用いられたこと。
  * 負債を次から次へと作る新税・重税で解消しようとしたこと。
  * 海産業を主とする三閉伊地方(三陸海岸沿岸部)に、水稲の基準で重課税。
  * 三閉伊地方の産業(海産、材木、製鉄)に御用金制度を用い、無理な課税を行ったこと。
  * 「軒別税」(人頭税)を実施したこと。
  * 藩札の大量発行によるインフレーション。
  * 幕府の手伝い普請(公共工事手伝い命令)による臨時課税。
  * 財政難から藩士の禄を長期にわたって借上したこと。
  * 戦国時代以来のライバルである弘前藩、仙台藩に対抗するために恒常的に高直しや官位の叙任工作を幕府有力者に働きかけていたための出費。

 島原藩は島原の乱を起してしまった過酷な藩政の責任を問われて、藩主の松倉勝家は、改易処分となり、後に斬首となった。
 (藩の藩主が切腹すら許されず斬首された事例は、この1件のみ)

 水戸藩は、御三家の中でも唯一江戸常勤を定められた為、膨大な支出がある上に徳川光圀(水戸黄門)の時より行われた水戸学(大日本史の編纂)の費用で、税は8公2民(4公6民~5公5民ぐらいが一般的)でした。

 御三家である為、一揆が多発してもお取り潰し等の責任をとらされる事も無いうえに、徴税の手違いで村民皆殺しを行った「生瀬一揆」も有ります…。
 後の天狗党の乱の時も、関係者の家族まで処刑し、大勢が変ると報復に相手の家族を皆殺しにするなど、血生臭い行為に走りやすい傾向が有るのかも知れません…。

 ちなみに徳川光圀は、若い頃に辻斬りを行ったり、舶来物の贅沢品を好み、自身の趣味でもある大日本史の編纂に関係する資料の献上を推奨(賄賂)し、水戸学は幕末の倒幕のイデオロギーにも成ります…。
 (水戸黄門漫遊記の悪役を1人で包括出来そうな方だったり…。)

>逆にここに生まれたら不幸というような厳しい藩
 南部藩は、江戸時代に138回の一揆が発生したそうです。(次点の久保田藩(秋田藩)は87回)

 原因は
  * 水稲北限地域外で無理に水稲生産を強制したため、連年凶作に見舞われ、代換品による食事を奨励したが、代換品すらも備蓄が無かったこと。
  * 寛政5年(1793年)の松前(蝦夷地)出兵が原因の財政負担増。
  * 目安箱の設置が、罪人を糾明する証拠集めのために用いられたこと。
  * 負債を次から次へと作る新税・重税で解消しようとしたこと。
  ...続きを読む

Q旗本と大名

昔の日本で、旗本と大名どっちが偉かっんですか?
例えば、道ですれ違ったときに道をゆずるのはどっちとか

Aベストアンサー

それぞれが『殿様』と呼ばれていた階級です。大名は石高1万石以上で、格の高さは大名が上です。旗本から出世して大名になった者として吉宗時代の町奉行・大岡忠相です。綱吉時代に柳沢吉保も下級藩士から側用人を経て大名になりました。
江戸初期では旗本にはなるには直参であることが必要でした。しかし、幕末になると旗本株をお金で売買するようになりました。江戸城の無血開城談判で有名な幕格の勝海舟は祖父の代に旗本株を買った家系です。
旗本の中では書院番や幕格の旗本は格が高いのです。将軍のお側近くにはべるので特別なのです。外様大名は将軍に近づくことも出来ませんでした。江戸城松の廊下で『殿様』同士が出会うと格式の差でいろいろとあったでしょうね。
格から言うと徳川御三家、徳川御三卿家、松平家、親藩大名、外様雄藩大名、幕格旗本、外様小藩大名、旗本の順です。


人気Q&Aランキング