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愚問で恐縮です。

時代劇の描写が全て歴史的に正確なんて思っていないのですが、よく剣の達人が登場しますよね。

その時の説明で、たとえば北辰一刀流とか示現流、あるいは新陰流とかの使い手とされる場合があります。

調べてみると、たしかに明治以前の剣術には多くの流派があったようで、それぞれ稽古の方法や戦い方が違っていたようです。

剣術や剣道にはまるで素人なんですが、ここで疑問を感じる時があります。

例えば相手が同じ流派の場合でしたら、その流派の作法に則って切り込んだり太刀を受けたりする事が可能と思いますが、たとえば実際の斬り合いの現場では、作法も何も関係無いのではないでしょうか?

現実には、稽古のとおりの作法や戦法なんて何の意味もなさず、子供の喧嘩のように砂をつかんで相手の顔に向かって投げたり、その辺の石を投げつけたり、あるいは噛み付いたり、とにかく相手を傷つけて優位に立ち、最後にグサッと ・・ これが本当の1対1の斬り合いの姿だったのではと思います。

というわけで、いくら○○流の使い手と言っても所詮は形ばかりで、上のような無茶苦茶な戦い方をしてくる相手には意味が無いように思うのですが、実際どうなんでしょうか?

それと、よく実際の斬り合いのシーンで見物人の中に達人がいて 「うーむ、これは○○流だな ・・」 と、一人合点する老人がいたりしますが、上に挙げたような喧嘩のような戦いでも分かるものなんでしょうか?

あと、すみません、剣の達人になると道を歩いても 「殺気を感じる」 とかで、家の陰に隠れている敵の存在が分かるとかありますが、本当に可能だったんでしょうか?

時代劇には嘘が多いので ・・・

A 回答 (10件)

?2のかたが述べていますが流派には戦術思想という物があり、ドクトリンという言葉は良い表現だと思います。


例えば、防御主体か攻撃主体かで思想そのものがかわってきます。
思想が変われば武器にデザイン変化がおきます。
西洋ではそれまでの切りと突きが主体の重い剣からレピアという細身の剣にかわったのは時代の変化と共に、ドクトリンが変わったからです。
西洋では道具を変化させ日本では扱う技術を適応させていく感があります。
型は反復し体で覚えることで脊髄反射てきにその動きがでることがのぞましい。しかしそれは剣術としての動きであって、周囲の物をうまく使うというのは個人の頭の回転性に既存しているともいえます。
とは、いうものの、西洋剣術ではマントを防御に使うテクニックなどが残っており私もレピアの試合のために最近マントを新調しました。
あるいは剣の鞘は帽子でガードする方法もあります。接近すれば護拳でなぐります(これは試合では認められない)
つまり、自分が生き残るためならば何をしても良いのですが、それと流派の思想とは違います。

相手の構えをみて○○流と有る程度見当つけることはできます。構えはその流派の思想がでるものです。防御主体の思想を持つ流派で有れば(西洋の場合)間合いを開けるためにロングポイントというガードを使うかもしれません。攻撃主体で有れば八双やオクスという突きの構えをするかもしれません。

殺気、わかりません。人の気配、あるいは勘の鋭さというのはあるかもしれません。
ガンダムのニュータイプのようなものでしょうか。しかし、これだと設置式のトラップには気が付かないでしょう。なぜならばトラップは物であってそれ自体が殺気をだすはずはないでしょうから。
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この回答へのお礼

有難うございました。
色々と勉強になります。 西洋剣術では、接近した時に拳骨で殴る時があるんですねえ。 これなどは、流派とか型とか、全然関係ない素朴な戦い方ですよね。

お礼日時:2007/11/09 15:40

ウズラの卵ではなく鳩の卵でした。

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この回答へのお礼

了解しました。

お礼日時:2007/11/12 11:02

拳骨ではなく護拳です。

サーベルなどの手の甲をガードする部分です。日本刀の鍔に相当するものです。この部分で殴ります。メリケンサックのようなものです。またポンメル(柄頭)でもなぐります。ウズラの卵ほどの鉄の塊ですからかなづちで殴るほどに等しい衝撃を与えます
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この回答へのお礼

有難うございます。
拳骨ではなかったんですね。失礼しました。
刀で言えば鰐にあたる部分で攻撃するわけですねえ。

お礼日時:2007/11/12 11:02

集団での戦いの方法ですが、普通は弓矢を放ったり、石礫などを投げたりから始まります。

その後、相手の体勢が崩れると槍などが活躍します。
この段階で混戦になりますので、戦国時代に刀が活躍するのは最後の首を落とすあたりだけになります。
石礫等が役に立つのはこのような集団戦か、不意打ちでしょう。

江戸時代になって1対1の戦いを語られるのが多くなったのは儒教の影響で武士道精神が尊ばれたからでしょう。卑怯千万みなされた場合、その武芸者は決して仕官することはできなかったでしょうから・・・(^^ゞ
ただ、実際に1対1の戦いをしたのがどのくらいあったかとなるとほとんどなかったと思います。まず、立会人などから行動を非難されるとその人物の将来に影響します。そのような立場にならないように慎重に対応することこそ求められたのです。
中には勝ってもそのときの対応が悪かったといって切腹するハメになったものもいたようです。
また、不意に後ろから切りつけられて背中を切られたため御家断絶とか、不意に切られたため、刀を抜けなかったことを責められたりということもあったようです。

最後になりますが、走り回って逃げても、徹底的に石礫を投げてもいつかは相手に近寄り切りつけないと相手は傷つきません。
軽く傷つく程度ならば一気に相手に刀が届くところまで近寄ればよいです。もし負担になるだけの傷を負う心配があるのならば、相手の動きが止まるまで、物影に隠れて時期を待てばよいだけです。いつかは誰か駆けつけるか、業を煮やして相手が出てくるのですから、気にする必要はありません。
刀は接近戦に強いのであって、自分の有利な条件を整えるのが戦術です。それを突き詰めれば剣術というものが見えてこないでしょうか。

ここから蛇足です。

同等の戦略、戦術の能力があれば、遠くにいるものをより大量に同時に殺戮する兵器を使用すればより確実に目標に勝つことができます。そのようにして、人類は刀、石礫、弓矢、鉄砲、大砲、ミサイル、・・・と兵器を開発していっています。
ここまでくれば、剣術の範疇は超えてしまい、どんな名人でも対策を練ることはできないかも・・・。
塚原卜伝と試合するために大陸間弾道ミサイルを使用する。まさか、勝てないよな~(^_^;)
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この回答へのお礼

有難うございました。
江戸時代には、たとえ勝負に勝ったとしても、実際には、卑怯千万と見なされた場合は逆に立場が難しくなるケースがあったんですねえ。

となると、例えば公認の一騎打ちの場面で、離れたところから鉄砲を使ってズドンと一発で相手を倒した場合なんて、「飛び道具とは卑怯な ・・」 と批判されたんでしょうか? やはり刀とか槍なんかを使わないといけなかったのでしょうか ・・

お礼日時:2007/11/09 15:48

他の武道を数十年やっていました、其の時の剣道をやっている友人が「一等流は一刀の元に命を絶つきり方」「新陰流は傷を負わせて戦闘能力を奪うきり方」と言っていたのを思い出しました、空手や剣術、柔術すべての流派は元の流派の暖簾分けや権力争いで分派した物がほとんどだったそうです、有名では有りませんが針ヶ谷某と江戸時代の剣士などは左利きで、最初学んでいた流派は左利きの型が無かったので、止めて後自分で自己流で剣を磨き一流を立てたそうです、当然既存の流派からのバッシングが強く、周りからつぶされて、「針が谷流」は現在残っていないそうです、殺し合いの道具だったのを「活人剣」などといって平和な時代に合うように姿を変えていったのは事実ですが、どんな汚い手を使っても、最後に勝ったものが勝利者なのですから、型や作法などは実際上はクソ喰らえが真実のようです。

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この回答へのお礼

有難うございました。
なるほど、型や作法など実際上はクソ食らえが真実 ・・ やっぱりですね。 あの型にはまったような太刀の使い方なんかでは、どんな攻撃をしてくるか見当もつかない相手と、どうやって戦うのか不思議に思っていました。

お礼日時:2007/11/09 15:37

> 子供の喧嘩のように砂をつかんで相手の顔に向かって投げたり、その辺の石を投げつけたり、あるいは噛み付いたり、とにかく相手を傷つけて優位に立ち、最後にグサッと 



 これが剣術の奥伝ですが…ほとんどの流派の奥伝は刀なんか使いませんよ。金玉を蹴飛ばす、足に砂をのせて相手にかける、鞘や小柄や手裏剣を投げつけるなどです。

 剣術の修行とは、相手に自分のリーチ(刀の長さや攻撃可能距離)を読み取られないようにする、斬りかかられたら如何に受け流して反撃する、如何に冷静に無鉄砲攻撃を行うかを学ぶのです。

 明治になってフランス式剣術(剣道のご先祖様)が導入され、騎士道を日本式に置き換えた似非武士道が勃興する中で卑怯もへったくれもあるかという古来の剣術が息を潜めてしまったのです。

剣術で一番恥ずかしいのは免許皆伝した奴がやられて死体が残ることです。
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この回答へのお礼

有難うございました。
いやー、初めて知りました。
昔の剣術では、どんな卑怯な方法でも、とにかく戦闘に勝って生き残るのが名誉というか最終の目標だったんですね。
武士道というのは明治に入ってから西洋の影響で出来た思想なんですか。
私が質問文で挙げたような目茶苦茶なやり方が剣術の奥伝だったとは意外でした。
歴史に登場する実在の剣の達人と言われる人たちも、実際には卑怯かつ不細工と言われても仕方ないような戦い方をしていたかも知れませんね。
たしか宮本武蔵の戦い方は実際には卑怯千万の連続だったと、どこかで聞いたような気がしています。
それでも生き残った者が勝者になるわけですから、仕方なかったのでしょうね。

お礼日時:2007/11/08 10:26

作法ですが、実際には熟練した名人がいくつかの実例を想定し、その弟子が名人が想定した攻めと受けを何度も繰り返し覚えていくものではないでしょうか。


今残っている剣道の「形(かた)」は実例を想定し、攻めと受けで相対し剣道の基本をまとめたようなものです。
まったく、素人が何もしないで動くのと作法をよく訓練されたものが動くのでは急になればなるほど開きが出てくると思います。無駄な動きが多くなると実践になればなるほど役に立たなくなると思います。

今私たちも、消火訓練、避難訓練を何度も実施するのは万一の時にあわてないで動けるように訓練しているわけです。
剣術の稽古もそういうものなのではないでしょうか。そういうものだからこそ、達人が使い手の動きを見て剣術の何流の動きが見て取れるというのだと思います。
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この回答へのお礼

有難うございました。
たしかに過去の実戦からの教訓を基に色々な流派が誕生したのでしょうね。
ただ疑問に感じて質問に挙げたのですが、たとえば素人やくざを相手に真剣で斬り合う事を前提にすれば結果は自明の理だと思うのですが、もし相手が奇襲戦法なんかで走り回って斬り合いを避け、徹底的に石を投げつける作戦に出た場合、その内に額に命中して脳震盪を起こし、そのスキに短刀でグサッ ・・ こんな戦いもあったのではないかと思うのですが、そんな場合、流派も剣の達人も関係ないように感じました。

お礼日時:2007/11/08 10:17

 大体において、剣術の流派は自分が以前学んだ流派や、その当時に流行っている剣術流派に対抗するためにつくられます。


 たとえば天真正伝香取神道流を越えるために新陰流が、新陰流を倒すために一刀流や示現流が生まれます。もちろんこれらの流派がそれを謳っているわけではないですが技法の比較においてそういった傾向があるようです。
 剣術同士で斬りあったというのはほとんど江戸時代、それも末期に集中していたようで、江戸時代後半に剣術流派に竹刀防具稽古が普及したときに、竹刀を扱うための流派も誕生しました。そういう意味ではその当時の剣術は実際の斬り合いとはかけ離れた部分が多くあったように思います。
 幕末の実戦で名を馳せた剣術が示現流や一刀流系であったのは細かい技よりただシンプルな技、トンボの構えからの切り下ろしや切り落とし、をするだけだったからと言うのも道場で行う細かい技は関係なさそうです。
 ○○流の使い手というのは、その流派の代表的な構えというものがあり、実際に稽古を積んだ人間が見ると出来る出来ないは解ることがあります。それなのですべてが解るとはいえませんが、ある程度は予想が出来たのではと考えます。
 最後に殺気を感じるということですが、よく解りませんがそういうことを敏感に感じとる人はいます。たとえばそれが剣術の達人ではなくとも女の人で視線に
敏感な人はちょっとそっちを見ただけで、はっと振り返ったりします。そういう人はその人の死角から見てみても振り返ったりします。


 
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この回答へのお礼

有難うございました。
江戸時代後期の剣術は実戦とはかけ離れていた可能性があるんですね。 道場での稽古のための流派というのもあったかも知れませんね。
でも、ちょっと調べただけでも多くの流派の名前がありましたので、たとえば各々の流派の超達人たちが真剣で戦った場合、一体どの流派が実戦に強かったのか、興味がありますね。

お礼日時:2007/11/08 10:10

剣道は知りませんし、千葉周作の現物も見たことがないので、一般的な軍事知識として。



軍隊が勝つためには
○ 基本的な戦闘ドクトリンの開発
○ 戦闘ドクトリンの熟練
○ 戦闘ドクトリンを最大限に活用できる状況への導入(これが戦術)
だそうです。元自衛隊の人の本に書いてありました。(松村劭『戦争学)

剣道における 流派・型というのは、戦闘ドクトリンにあたると考えられます。

現場の戦闘において、指揮官の重要な業務は、相手の戦闘ドクトリンを理解し、最適な展開(戦術)を取ることであるとされています。
つまり、戦闘ドクトリンは分かるものだという前提です。
ここから推測すると、剣による斬り合いでも、戦闘ドクトリンは見えて、それによって○○流派というのが分かるのかもしれません。
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この回答へのお礼

有難うございました。
なるほど、流派にも特徴があるので、達人には一目でそれが分かるという事なんでしょうね。

お礼日時:2007/11/08 10:03

刀と言う道具を効率よく使う為の原理、原則が「剣術」であり、砂による目潰し等のトリッキーな技を使うにしても、実戦でこの「基本原則」を学んだ者とそうでない者では有利、不利に決定的な差が付くでしょう。

トリックは素人だけが用いるとは限りません。兵法者(武芸者の事をこう呼ぶ)は理に適った挙動+トリックですので、滅茶苦茶なだけの素人より確実に有利です。「武士は物打ちで斬り、やくざは鍔元で斬る」などと言われており、心得のある武士は、斬撃の運動エネルギーが最も効率良く発揮される刀身半ばよりやや前方で斬りつけるべく間合いを計り、素人のやくざは間合いを開けて斬りつけられる事を恐れ、遮二無二突進して鍔迫り合いを行おうとします(力任せに相手を押し倒して滅多突きにしようとする)。両者が戦った場合、遠い間合いから斬りつけられる武士が圧倒的に有利となるのは自明でしょう。
剣術の流派が増えたのは、桃山時代後半から江戸の戦争が減ってきた時代です。それ以前にも古流の剣術がありましたが、これ等の古流剣術は鎧を着た状態での戦いを想定しており、「介者剣術」と呼ばれ、深く腰を落とした姿勢から相手の鎧の隙間を一撃で突く刺突攻撃のスタイルが主流で、刀を切る道具としてだけではなく、撲殺を狙った打撃武器としても使用するなど、質問者が考えるような「何でも有り」な技があったようです。江戸時代以降の鎧を着ない剣術は、禅などの精神修養も取り入れて、平時の心得として発達した側面も強いのですが、広い屋外での戦いを想定した介者剣術と違い、狭い室内での不意の戦闘に備えるための護身術としての技術が発達して来ます。居合い抜刀術などはその典型でしょう。一撃で敵を殺す事を目的にする戦場の剣術ではなく、必ずしも敵を殺す必要の無い護身術ですので、相手が武器を持つ篭手に斬撃を加える技などが発達して来ます。
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この回答へのお礼

詳しい解説、有難うございました。
なるほど、剣術の達人は効率良く戦えるよう訓練されていたと考えていいようですね。 武士と素人やくざの喧嘩の例え、分かりやすかったです。

お礼日時:2007/11/08 10:01

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